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#29

「ご馳走さん!豪ちゃん、明日は迎えに来たらすぐに出れる準備をしといてよ!」 今朝、散々楽しんで…今夜は抜き放題の癖に、哲郎は困ったように眉を下げてそう言うと、豪ちゃんの顔を覗き込みながら、そっと背中を撫でた。 「落ち込まないで…。仕方のない事だ…」 「…うん。」 あの子は、そんな哲郎の言葉に、ぎこちなく微笑み返して、つるんで帰る4人組を笑顔で見送った… 仕方のない事…ね… 不慮の事故、自殺、病死…それは、仕方のない事。 だけど…俺を見上げて瞳を潤めるこの子は、それを仕方のない事なんて…認めないんだ。 情や主観に揺れる心なんて除外して、ただ…“死ぬはずだった親父が、自分と離れて暮らした10年の間、生きていた。”そんな、事実のみを見て、それを俺で実践しようとしてる。 …強引に、力ずくでも、俺を生かすんだ。 「…惺山…離れたくない…?」 そっと俺の腕を撫でた豪ちゃんは、まるで様子でも伺う異様に俺の目をじっと見つめた。 「離れたくないよ…でも、離れるんだ。」 …どうせ今更、この子が気持ちを変える事なんて…無い。超が付くほどの頑固者で、俺を失う事を…何よりも恐れているからね。 眉を下げて俺を見送る豪ちゃんをそのままにして、ひとり、ピアノの部屋へ向かった。そして、ドアの前に立ち尽くすと、後ろを振り返って言った。 「今日は…少し、根を詰めたいんだ…先に、寝てて良いよ。」 そんな俺を見つめたあの子は、悲しそうに眉を下げて言った。 「…分かったぁ…」 ピアノの部屋の中、ふと、テラスから強烈な視線を感じて、目をやった。そこには、卵を温め続けるパリスの姿が… 物憂げな表情で俺を見つめる彼女は…何も語らずに、目で物を言う…。 「…違う…そうじゃないんだ。納得してない訳じゃない…ただ、引っかかるんだ…」 言い訳する様にパリスにそう訴えて、開いたままの窓を閉めながら…言った。 「あの子の言う通りにする…それが、俺があの子にしてあげられる唯一の事なんだ…。」 「コケ…」 ふふ、あっそ…とでも、言ってる様じゃないか… そんなパリスから視線を外して、携帯電話をポケットから取り出した俺は、録音したあの子のバイオリンを聴きながら瞳を閉じた。 耳に聴こえる録音されたあの子の声は、普段聴いている声よりも、グッと落ち着いて聴こえる… 不思議だな。 美しいバイオリンの音色は、変わらず俺とあの子の情景を映して見えるのに… 豪ちゃんの声が…妙に、やたら、色っぽいんだ。 「僕には、あなたしか…見えない。」 そんなあの子の声にゾクゾクと背筋に鳥肌を立たせて、股間を熱くした俺は、おもむろに音声データを木原先生に送った。 ”豪ちゃんの即興のバイオリンです。保護者の兄は、先生の話を前向きに検討したいと言っています。“ …そんな、短いメッセージを一緒に添えた。 俺への愛の言葉が入っている音源を…わざわざ先生に送った事に、意味はないさ…。飛び切りの、オリジナルの、あの子の演奏だから…送っただけだ。 いいや… 嫌だったんだ。 木原先生の元に、あの子を行かせたくなかった… 健太は、自分の思いより、豪ちゃんのよりよい未来を願って、先生の元へ…遠くのフランスへ行く事に、理解を示したというのに… 俺は、あの子の未来よりも…自分の思いを優先させて、この話を有耶無耶で済まそうとしていた… 「はぁ…」 大きなため息を吐いて、携帯電話をピアノの上に置いた。 気持ちを切り替える様に首を横に振った俺は、いつもの様に鍵盤の上に両手を掲げた。そして、耳に聴こえてくる、録音したあの子の演奏を頭の中に流しながら、音色のひとつひとつを鍵盤に落として行った。 あぁ…凄い、豪ちゃんは、こんな旋律を思いついたのか。 いちいち感心しながら五線譜に書き写していると、ピアノの上に置いた携帯電話に先生からの着信を受けた。 早いな… 「…もしもし」 そう言った俺の言葉を打ち消す様に、先生は電話口で大絶叫して言った。 「豪ちゃん!豪ちゃぁ~~~~~ん!!」 分かってる…ちょっと、おかしい人みたいだ。 怖いし…正直キモイ… 「すみません…間違い電話の様です…」 そう言って、通話を切った。 すると、先生はすぐにかけ直して来た。 …そんな震える携帯電話を苦々しい顔で見つめて、覚悟を決めて意を決した俺は、恐る恐る耳に当てて言った。 「もしもし…」 「勝手に切らないで…!」 だって…常軌を逸してたんだ。切って当然だろう… 電話の向こうで息を切らす先生に、良からぬ妄想を抱きながら眉をひそめて言った。 「…さっき送った音源は、完全にあの子の即興です。豪ちゃんは聴いた曲を耳で覚えて、自分の物にする事が得意です。俺の弾いたピアノを聴いて雰囲気の出し方、音色の変化の付け方、強弱など…もろもろを耳と感覚で覚えたみたいです。」 俺の言葉を相槌を打ちながら聞いていた先生は、突如ゲラゲラと馬鹿笑いをしながら、楽しそうに声を弾ませて言った。 「あの子の利き耳は左だぁ!この前…左耳を傾けて聴いてた。良い耳だ!大好き!豪ちゃん!豪ちゃぁ~~~~~~ん!」 …俺は、こんな風に…自分の嫁の名前をただ叫ぶだけの芸人を知ってる… 「ええ…そうです。ぼんやり焦点の合わない目をしながら、どっぷりと聴き入るんです。そして、次の瞬間には、その曲を弾ける様になってる…。普通じゃない…」 「あ~はっはっは!そうか、そうかぁ!」 深いため息が出るのはどうしてだろう… 嬉しそうで、楽しそうな先生の弾む声が耳障りなのは…どうしてだろう… 普通とは違うこんな才能を持って生まれた…ギフテッドの豪ちゃんの未来を切り開くには…良い理解者が必要なんだ。だとしたら、この人は…適任なんだ。 なのに…どうして、こんなにも…悔しいのだろう… 開いたばかりのピアノの蓋を閉じて、ため息を吐きながら電話口の先生に聞いた。 「…先生。いつまで、日本にいらっしゃいますか…?」 「明日、豪ちゃんに会いに行こう。」 楽しそうだ…ただ、ひたすら楽しそうだ… 今まで聞いた事も無いくらい興奮した木原先生の様子を電話口から感じて、もう後戻り出来ない事を覚悟した。 あの子は、この人に連れて行かれる…俺の、手の届かない場所へ、連れて行かれる。 沸き起こる悔しさを堪える様に滲んでくる涙を頬に流しながら、口を硬く一文字に結んだ。 「しかしだ…!あんな、あんな、あんな…プライベートな音源を…はぁはぁ、くれて良いのかい?私にくれて良いのかい?はぁはぁ…豪ちゃん、もにょもにょ…はっ!いけない!はぁはぁ…あっ…でも、ん、だぁめだぁ!よし!もう一回、聴いてみよう!」 こんなに興奮した先生を見たのは初めてで、正直、何度も気持ち悪いと思ってる。 「先生…明日、ゆめとぴあに着いたら連絡を下さい…ちょっと、気持ち悪くて…これ以上、耳を電話に付けていたくないというか…電話を切りたい…」 俺がそう言うと、電話口の先生はピタリと押し黙ってしまった。 …あちゃ、さすがに失礼だったか… そう思って通話を切ると、すぐにまた電話が掛かって来た… もう、しつこいな… 眉間にしわを寄せながら、ピアノの上で震える携帯を忌々しそうに見つめた。すると、ガチャリとピアノの部屋の扉が開いて、豪ちゃんが顔を覗かせて言った。 「ねえ?惺山…?誰と話してるの?」 手にはグツグツと煮えたぎる味噌煮込みうどん… 豪ちゃんは鍋掴みでそれを持ったまま部屋に入って来た。そして、おもむろに、俺の腰かけるピアノの椅子の上に置こうとした。 「駄目だ…焼けちゃう!」 慌ててバッハの分厚い楽譜の本を敷いて、あの子を見上げて言った。 「ここに乗せなさい…こぼすなよ…?あぁ、怖い…!」 ニコニコ笑いながらバッハの楽譜の上に鍋を置いた豪ちゃんは、グラグラと未だに沸騰し続ける鍋を箸で掻き混ぜながら言った。 「熱いから…フゥフゥしてあげるね?」 えぇ…?! …どこから突っ込めば良いのか…分からないよ。豪ちゃん… こんなに煮えたぎったうどん…フゥフゥなんて域を、はるかに飛び越えてる! 「も…もしもし…」 目の前で、煮えたぎる味噌煮込みうどんを申し訳程度にフゥフゥするあの子に度肝を抜かれながら、震える携帯を手に持った俺は、常軌を逸したしつこい先生の電話に出た。 そして、あの子が笑顔で差し出す湯気の治まらないうどんを見つめて言った。 「豪ちゃん…後で、後で食べるから…!」 「ん、だぁめぇ!美味しく出来たの!名古屋の赤みそを使ってるんだよ?ね、食べて?せいざぁん…食べてよぉ…!」 「食べてあげなさい!」 大きな声を出した先生の声が俺の携帯から漏れ聞こえた。その瞬間、豪ちゃんは目を丸くして、クスクス笑いながら嬉しそうに言った。 「あぁ、先生だぁ…。先生、やっほぉ~!」 「むふぅ…あぁ…豪ちゃぁん…!」 そんな気持ちの悪い先生の声を耳に聴いて、顔を歪めた… 豪ちゃんはそんな事お構いなしに…俺の口に冷めたうどんをツンツンと突いて付けて、ムスくれる俺の顔を覗き込みながら言った。 「…はぁい、惺山…あ~んして?」 「あ~んしなさい!」 いちいち漏れて聴こえる木原先生の声にクスクス笑った豪ちゃんは、俺を見つめたまま瞳を細めた。 「…あ~ん。モグモグ…」 あぁ…本当だ。 赤味噌のよく効いた、コシのある美味しい…味噌煮込みうどんだ… 「美味しいよ…」 「良いなぁ…」 電話の向こうで、先生がため息を吐きながら、羨ましがった。 「ん、もう…惺山ったら、ここにお出汁が付いてる…ペロペロ…」 「…はっ!ぺ、ペロペロ…?!」 「豪ちゃん…今はちょっと…音が電話の向こうに聞こえるから…」 「なぁんで?だって、痒くなっちゃうもん…ペロペロ…ペロペロ…」 「痒くなっちゃう!か、か、痒くなっちゃう!」 最悪だ… イカれた木原先生とKYで無敵の豪ちゃんに挟まれた俺は、あちこちから聴こえてくる声に、耳も頭の中も混線状態だ… 「じゃあ…先生、そう言う事で…」 …切った。も、めんどくさいから、先生の電話を切った。 それでも鳴り続ける電話をポケットにしまって、豪ちゃんを見て言った。 「…明日、先生が、君に会いに来るって…」 そんな俺の言葉に目を点にした豪ちゃんは、何かを推し量った様に、頷いて答えた。 「…分かった。」 豪ちゃん、俺は君をあの人の元へ行かせたくなかったんだ… せっかく見つけた大事な宝物を、横取りされる気分だよ。 「…健太にも話さないと…向こうへ行くよ。」 豪ちゃんから鍋掴みを取って、グラグラと煮えたぎる鍋を掴んで持ち上げた。バッハの楽譜の表紙には、丸い形で茶色く焼けた跡が残って…生活感が生まれた。 「あぶねえぞ!動くなよっ!」 注意喚起をしながら凶器のような鍋を持って、ピアノの部屋の扉を開いて待つ豪ちゃんの脇を通り抜けた。 そして、行く先の居間でテレビを眺める健太を見て言った。 「お帰り…」 「ん~、今日の味噌煮込みうどんは最高に美味しかった…!100点満点だ…。俺は名古屋に行った事は無いし、本場の味噌煮込みうどんを食べた訳でもない。でも、美味しかったんだぁ…。俺の中では、もう、これが本場って言っても良いくらいの…そんな、旨さだった…。惺山も早く食っちゃえよ!」 健太は腹太鼓を叩きながら満足げに多くを語った…。 褒められて嬉しかったのか…キャッキャッと、猿の様にはしゃいだ豪ちゃんを捕まえた健太は、あの子の頭をグリグリと撫でて愛でて、言った。 「豪が、うどんから捏ねて作ったんだって!凄いだろ?」 凄いというか…もはや、職人の域だ。 「食べさせてあげる!」 煮えたぎる鍋のうどんを箸で掴んだ豪ちゃんは、楽しそうに俺を見上げて言った。 「惺山…あ~んして?」 隠れ…ドS。 はっ!望む所じゃないか…俺も、色々経験値を積んでんだ! 微笑みの下に隠した悪意を感じながら、豪ちゃんの目をガン開きの瞳で見つめ続けて、俺はあの子の差し出した熱々の味噌煮込みうどんを口の中に入れた。 「あ~ん…あっ!…あふい!あふい!!」 「あ~はっはっはっは!!…じゃあ、フゥフゥしてあげるね?」 満足げだ。 豪ちゃんは、ダメージを受けた俺を見つめて楽しそうに笑った。そして、再び鍋の中からうどんを引っ張り上げて、申し訳程度にフゥフゥした後、俺を見つめて言った。 「…あ~んして?」 「あ~ん…ぐふっ!…おいひい…」 火傷案件だ。 味は確かに美味しい…しかし、悪意を感じさせる豪ちゃんは、わざと俺に熱々を食わせている気がして…ならない。 その疑惑を確信させる様に…こんなにジト目で見つめ続けても、豪ちゃんは不自然に張り付いた笑顔を崩さないんだ! この子は…怒ってる… 「健太…明日、豪ちゃんの先生が来る事になった。」 豪ちゃんから視線を外して、その向こう側でテレビを眺める健太を覗き込んでそう言った。 「え…!」 俺の言葉に慌てた健太は、テレビを消して、かしこまって正座をした。そして、不思議そうに首を傾げる豪ちゃんを見つめて、あの子に言った。 「豪…お前の、バイオリンを…凄いって言ってくれる有名な先生が居るんだ。その人の所で修行したら、もっと上手になれるそうだ。…どうだ?中学校を卒業した後…行ってみるのは?兄ちゃんなら平気だ。自分の事ぐらい出来るし、鶏の世話だって出来る。」 そんな健太の言葉に、あの子は同じ様に正座をすると、向かい合う様に座った健太を見つめて言った。 「兄ちゃん…鶏の群れは壊れた。雄の居なくなった群れは…群れじゃなくなってしまった。この機会に、あの子達を湖の向こうの養鶏家のおじちゃんに返しに行こうと思ってる。せっかく貸して貰った雄をちゃんと守れずに死なせてしまった事を、僕は謝りに行かなくてはいけない…。」 項垂れた頭をグラグラと揺らして深いため息をひとつ吐いた豪ちゃんは、膝に結んだ健太の手を握って、クスクス笑って言った。 「…先生には、明日会って、美味しい何かを作ってあげようね?何が好きかな?ふふ…惺山は知ってる?フルーツパフェ以外に好きな物あるのかな?」 はぐらかした… 健太の直球の言葉を、豪ちゃんが、はぐらかした。 「…嫌なんだな。」 俺は、豪ちゃんにそう言った。すると、あの子はムッと頬を膨らませてすぐに言い返した。 「嫌じゃない!」 嘘つき…怒ってるじゃないか… 「なぁんだ!嫌なら嫌って言えよ!豪ちゃんが俺に選んで欲しいと言ったから、俺はお前の未来を選択したのに…!なんだ、その態度は…!」 ムキになった俺の言葉に、豪ちゃんはキッと目じりを上げて、睨んで言い返した。 「だったら、惺山だってそう言えば良いだろ!豪ちゃんの言う通りにするって言うから…僕は、そう、決めたんだぁ!僕は…あなたに何が何でも生きて欲しいんだぁ!だから…だから…!」 あぁ… 俺の言った言葉を、引きずってる… “ただ、生きてるから…良い訳じゃない。どう生きたかが…大事なんだ…” そう言ってしまった本心を… 怖じ気づいて、この子から離れたくなくなった気持ちを…見抜かれていた。 どうして、うどんなんて捏ねたのか…察した。 この間、餃子のあんを捏ねた時と同じさ…イライラをぶつける様に、粉をこねくり回して、叩きつけて、ザクザクに切ったんだ。 つまり、豪ちゃんはあの時の俺の態度に…悶々としたんだ。そして、鬱憤を晴らすために怒りのエネルギーを全てうどんに込めて、叩き付けながら捏ねた。 …誰も傷つけない、しかも美味しい物が出来上がる… リアリストな豪ちゃんらしい、ストレス発散法だな… 豪ちゃんを見つめて深いため息を吐いた俺は、首を横に振って項垂れた。 「違う…嫌じゃない。ただ…」 「僕は、一貫してる!あなたに死んで欲しくないんだぁ!なのに、なのにぃ…!分かってるって言ったじゃないかぁ!言う通りにするって…言ってくれたじゃないかぁ…!嘘つきぃ!…ん、嘘つきぃ!!」 俺の胸を叩きながら、豪ちゃんはボロボロと涙を落として怒った。 「…嘘じゃない!本当にそう思ってる!ただ、お前と離れて暮らす事を考えると、怖くなるんだよっ!ただ、生き続ける事を、虚しく感じないか…自信がないんだ!」 あの子の手を掴んで、怒れる真ん丸の瞳を見つめて言った。 「君は俺の全てだよ。だから…悲しんで欲しくない。でも…ふと考えてしまうんだ。君に会えなくなった俺は、幸せなんかじゃない。不幸だって…。だったら、幸せなまま…君の傍で死んで行きたいって…」 俺の言葉にボロボロと涙を落とした豪ちゃんは、俺の頬を撫でながら、震える声で懇願する様に言った。 「…やぁだぁ…。あなたが目の前で死んだら、僕も一緒に死ぬ…。惺山の居ない世界を生きていく自信はない。ねえ、僕を愛してくれているなら…僕の言う事を聞いて…僕から離れて。そして…いつか…モヤモヤが無くなったら、また一緒になろうよ…」 そんな日…来るのかな… 誰にも、分からないじゃないか。 まん丸の瞳から逃げる様に顔を背けた俺は、あの子を横目に首を傾げて言った。 「あの雄鶏は…逃げる事も出来たのに立ち向かった…。そして死んだ。でも、あいつは良くやった…。最後まで逃げないで…戦ったんだ。」 「惺山…死んだら何もない。でも…生きていれば、また会える可能性が残される。そうでしょ…?ねえ…?僕が先生の所に行ったら、あなたと離れていても、音楽で、繋がっていられる。そうでしょ…?ねえ!」 音楽で…繋がる…? 項垂れたままあの子の言葉を頭の中で復唱して、俺の胸を縋る様に掴んだあの子の手を握りしめて言った。 「君と離れて…独りぼっちになって…作曲を続ける自信がない…」 「うん…」 「もしかしたら、君に会えない絶望で、死ぬかもしれない…」 「…うん。」 「それでも…離れるというの…?」 豪ちゃんの、真ん丸で、真剣な瞳を見つめて、涙を落としながらそう言った。 そんな俺を見つめて深く頷いた豪ちゃんは、迷う素振りも見せずに言った。 「そうだよ…」 その言葉の重さも、意味も、君の厳しさも、良く分かってる筈なのに… 解せないんだ。 唇を固く噛み締めた俺は、溢れて来る涙を堪えて視線をあの子から逸らした。 「僕はあなたの為にバイオリンを弾く!…あなたは僕の為に作曲を続ける!」 まるで、この話はお終い!とでも言う様に…豪ちゃんは強い口調でそう言い切って、うどんを箸で摘んで持ち上げた。 そして、いじけた様に顔を逸らした俺に言った。 「あ~んして!…惺山!」 「…嫌だ!俺は…君の傍に居たいんだ…!」 そんな俺の言葉に瞳を歪めた豪ちゃんは、手に持ったうどんをプルプルと震わせながら、大粒の涙を幾つも落として、絞り出す様に言った。 「…あなたは良いかもしれない!でも、あなたが死んだら…僕は何もしなかった自分を呪って、悲しみと後悔を背負いながら死んでいくでしょう!ねえ…!僕に…そんな思いをさせたいの?ねえ!僕は、あなたに死んで欲しくないんだ!なのに、なのに、それでも一緒に居たいというのなら…いっそのこと、僕が先に死んでやるっ!」 「豪!いい加減にしろっ!」 俺たちの問答をじっと眺めていた健太が、怒鳴り声を上げて豪ちゃんを制した。そして、じっと俺と豪ちゃんを交互に見ると、肩を落として、ため息を吐いて言った。 「…完全に納得する形なんて無い。だって…お互いが、自分の感情と真逆の事をするんだから…。胸の奥からすっきりする事なんて…無いだろ!」 そうなんだ… 分かってる…分かってるけど、胸の奥で…納得、出来ない気持ちが疼いてくるんだ。 まるで弱音を吐けと、急き立てる様に…疼くんだ。 君と離れたくないと、地団駄を踏んで叫べ!って…疼いて…震えるんだ。 「…そうだな。」 興奮した気持ちを静める様に鼻から息を吐きだした俺は、ポツリとそう言って、豪ちゃんの差し出したうどんを口の中に入れた。 「モグモグ…あぁ…絶妙な、うどんのコシがあるね…」 「…うん。手打ちだもん…」 憮然としたまま俺にそう言った豪ちゃんは、涙を乱暴に拭って、うどんを箸で摘んで持ち上げた。 「…はい、あ~んして…?」 「あ~ん。あふい…」 自分の感情と真逆の事をする…だから、完全に納得する事なんて無い。 愛しいこの人と離れて、会えなくなる。 それに納得なんて出来ない事は、当然の事なんだ。 そして、それは幾ら自分で抑え込んでも…疼いて、消えない、思いなんだ。 「…兄ちゃんの、言う通りだ…」 そう言って口を歪めた豪ちゃんは、俺を見上げて涙を頬に垂らしながら言った。 「でも、それでも…僕は、あなたの為に生きる。あなたは…僕の為に生きて…」 「分かった…」 分かってるんだ。 君の気持も、君の恐れも、君の望みも、分かってるんだ… ただ、弱音を吐いた。 果敢に散った雄鶏の姿に…自分の選択の情けなさを見て…うんざりしたんだ。 豪ちゃん、ごめんね。 君が悲しむと分かっても…俺は、君の傍で、死にたいと思う気持ちを抱えてる。 逃げないで…君の傍に居続ける事を…心の底では願ってる。 やり場のない納得出来ない感情を抱えたまま、口先だけで、分かった。なんて言っても…さっきから俺の様子を伺う様に瞳を潤ませる君は、納得しないだろうね。 そう…君は、お母さんにそっくりな…頑固者。 一度決めた事は、てこでも動かない…そんな、気の強い頑固者なんだ… 特に…俺の生死に関しては、君は絶対に譲らないだろう。 興奮したせいか、血圧が高くなった… ぼんやりとうどんをすする俺の顔をチラチラと覗き見る豪ちゃんは、ハッと目を丸くすると、俺をじっと見上げてこう言った。 「ねえ、惺山…言ったでしょ?僕と離れて…独りぼっちになって作曲を続ける自信が無い…と。それはある意味…戦いそのものだ。あなたはしっぽを巻いて逃げるんじゃない。これから戦いに向かうんだ。そうでしょ…?現実を見ないで僕の傍に居る事の方が…逃げじゃないか…」 は…? こんなの、詭弁だ。物は言いようなんだ… でも、どうしてかな…豪ちゃんの言葉に、俺は…すっかり弱気になった気持ちを、持ち直す活路を見いだせた気がした。目からうろこが落ちた様にね… この子の傍で死にたいと願う事の方が、逃げで… 辛いと分かっていても、離れて行く事を選ぶ方が…立ち向かう事になる… 豪ちゃんはやっと留飲の下がった俺を見て、ほっと安心した様に鼻から息を吐いた。そして、うどんを箸で持ち上げて俺の口に運びながら言った。 「僕たちはこれから、自分の思いと反対の事をするんだ…。僕はあなたの為に、あなたは僕の為に離れる選択をした。それは辛くて、悲しくて、耐えられないかもしれない…試練の様な、戦いの様な物。でも…逃げないで、立ち向かおう?なぜなら、僕はあなたの”死“に勝機を見出してる。あなたが助かると確信してる。だから…惺山、僕を信じるんだ。」 信じるさ… 「分かってる…」 口を固く結んで、口に押し付けられるうどんを無視した俺は、豪ちゃんを見つめながら眉を上げて言った。 「…ちょっと、弱音が出ただけだ…」 「分かってる。」 俺の口が開いた瞬間、すかさずうどんを突っ込んだ豪ちゃんは、まるでやれやれと言わんばかりに首を横に振りながら俺に言った。 「ほら、啜って!」 ふふ… 「ズズズズ…本当に自分で作ったの?とっても美味しいね?」 「そうだよ?上手でしょう?ふふ!」 目じりを赤くしたあの子がそう言って微笑みかけてくれるから…俺はあの子を見つめて、同じ様に目じりを下げて微笑んで言った。 「とっても…上手だ。」 悶々とした怒りのエネルギーをプラスに変えた…見事なうどんだ。 「はぁ!まぁったく…!手のかかる奴らだな…!!」 健太は呆れた様にそう言って、豪ちゃんに餌付けされながらデレデレと鼻の下を伸ばす俺を見て言った。 「…で、惺山。その、先生って…何時ころ来るの…?」 「さあ…。でも、ゆめとぴあに着いたら連絡をくれって伝えたから、連絡を貰ったら迎えに行くさ。お前はいつも通り…仕事を終えてから帰って来たら良い。なに…前向きに検討しているんだから、顔合わせみたいなもんだと思えば良いさ…」 豪ちゃんを見つめながら、あの子の差し出すうどんを口に入れて、もう一度言った。 「えぇ?このうどん、本当に、自分で作ったの?」 「キャッキャッキャッキャ!」 わざとらしく目を丸くした俺の変顔に、お猿の笑い声で答えた豪ちゃんは、嬉しそうに瞳を細めて微笑んだ。 胸の内に秘めた思いをこの子に話した事で、少しだけ…楽になった。 豪ちゃんの激しい抵抗を見たけど、それでも、俺の弱音を聞いて貰った事は結果的に良かったと思ってるんだ。 …納得出来ない思いを飲み込めない…そんな自分を、知って貰って…良かった。 「惺山?ゆめとぴあに行くなら季節のお野菜を買って来て?最低3種類。あと、あそこで売ってる“ぼくちんのプリン”って名前のプリンも買って来て?」 豪ちゃんが風呂場まで付いて来て、すっぽんぽんの俺を捕まえて話しかけてくる… 「ん、後で聞く…」 鬱陶しそうにそう言って、眉を下げたあの子を手で払いながら風呂場の扉を閉めた。 僕チンのプリン?なんだそのネーミングセンス、やばいな… 「惺山…?」 は…まだ居るの…? 風呂場の曇りガラスの向こうに、薄ぼんやりとあの子の姿が見えるから、俺は体を洗いながら言った。 「野菜と、“ぼくちんのプリン”だろ…?ちゃんと、聞こえたよ。」 「…ねえ、僕はバイオリニストになりたい訳じゃないのに…先生の所へ行っても、平気かな…?」 あの子はそう言うと、背中を風呂場の扉に付けてズルズルとしゃがみ込んだ。 「…僕みたいな…動機が不純な人が、目的も無く、バイオリンに触れても良いのかな…」 あぁ… 「ふふ…小学校に上がった頃、惺山少年は保育園生活から解放されて、のびのびと友達の家を渡り歩いてた。共働きの両親は帰って来るのが夜の9時なんて、当たり前の家庭だったんだ。だから、俺はリミット一杯…友達の家で過ごした。案の定、保護者会の議題に上がる問題児になってね、バツが悪くなった両親が、無理やり俺の放課後を習い事で埋め尽くしたんだ。その一つが、ピアノだった。」 ケラケラ笑ってそう話すと、曇りガラスの向こうから可愛い笑い声が聴こえてくる。 「物事を始める理由なんて人それぞれさ…そこに偉大な目標なんて要らない。ただね、豪ちゃん。やり始めて、人よりも上手く出来るのなら…それは、才能だと思うんだ。誰にも表現出来ない物を、君は表現出来るんだよ。」 口元を緩めてそう言いながら、手桶のお湯を頭から被って言った。 「君は俺の為にバイオリンを弾いていると言った。でも、俺に語りかけながらバイオリンを弾く君は、十分に音楽を楽しんで弾いているよ。一緒に演奏するこちらが楽しくなる程にね…。難しく考えなくて良い…」 シャンプーをしながら曇りガラスの向こうを見つめると、豪ちゃんがポツリと言った。 「自由を…手に入れられるんだ。」 ふふ… あの子の言葉に声を出さずに笑って、頭からお湯を被ってシャンプーを洗い流した。 そうだね… 君は演奏している時、本当に…自由になれる。まるで、首輪を外した子犬の様に…どこまでも、楽しそうに走り回れるんだ。 「だったら良いじゃないか。それに後ろめたさなんて感じるなよ。上手に出来る事に遠慮なんてするんじゃない。それは謙遜とは違う。」 全てのパーツを洗い終えた俺は、湯船に入って曇りガラスの向こうのあの子を見つめて言った。 「…俺は、豪ちゃんのバイオリンが好き。君が楽しそうにバイオリンを弾く所を、見るのが好き。だから…ずっと、弾いておくれ…俺の為にね。」 「うん…」 あの子はそう言って立ち上がると、こちらを振り返って言った。 「もう、寝るね…おやすみ。」 「ん、お休み…」 意外にも…豪ちゃんは木原先生の所へ行く事を、嫌がらなかった。 「僕はあなた…。だから、あなたが決めて。僕はその意志に愛を感じて…どんな未来になっても、幸せなままでいられるでしょう。だから、あなたに決めて欲しい…。」 そう言ったあの子の言葉、そのままに…すんなりと俺の判断を受け入れてくれた。 俺の選択が…あの子への愛…か… でもね、豪ちゃん… 俺は今の今まで、君を木原先生の所へ行かせたくなかったんだよ。 理由は…下らない嫉妬だ。 そんな物の為に、君の才能を潰しかけた。伸びる筈の芽を、太く根を張る筈の幹を、俺は自分の手元に独占して…愛でていたかった。 雄鶏の死は、俺に色々な事を考えさせた。 自分の在り方も…自分がいなくなった後の君の事も… そうして、やっと決断する事が出来た。 君を、あの人の元へ…送ろうって… “音楽で繋がっていられる…” そんなあの子の言葉を思い出しながら、天井を見上げて考える。 確かにそうなんだ… 木原先生の元に豪ちゃんが居るなら、俺としても…あの子の状況が把握しやすい。 離れ離れになる俺たちにとっては、この話…よくよく考えたら渡りに船だ。 ふふ… まるで、こうなる事が決まっていたかの様に感じてしまうよ。 豪ちゃんは俺に恋をして…木原先生と知り合った。 俺を喜ばせたくて…バイオリンを手に取った。 そして…今、バイオリンを習う為に…木原先生の元へと行く決断を下した。 まるで運命が、あの子に…バイオリンを弾かせたがっているみたいだ… そんな壮大なお膳立ての中に…キーマンとして俺が存在するとしたら、そんな光栄なことは無い。 だって…この子は、神様から贈り物を受け取った…特別な人なんだから。 風呂から上がった俺は、タオルで体を拭きながら廊下に布団を敷き始めた健太に言った。 「…あぁん、見るなよ。エッチ!」 「誰がおっさんの裸なんて見たいと思う?大して鍛えてる訳でも無いのに、微妙な腹筋の癖に、自意識過剰だぜ!」 わぁ~ん! 1言うと10返って来る…! 黙々と真剣な表情で寝床を整える健太を横目に見ながら服を着て、あいつの極上の巣を踏まない様に跨いで移動した。そして、いつもの様に台所でコップに水を入れて飲み干す。 「はぁ…」 ふと、流しで乾かされる洗い物の中に麺棒を見つけて、クスリと微笑んだ。 …きっと、凄い形相で…小麦を練ったんだ。 でも、とても…美味しかった。 豪ちゃんは、本当に上手に食べ物を作るんだ。 普通の主婦だってあんな手間のかかる事…趣味でも無けりゃ、好んでしたがらないだろう。 大家族の母ちゃんになれそうな…そんな素質も、持ってる子だ。 「健太~お休み~!」 廊下の奥に向かってそう言った俺に、あいつは寝転がって携帯を眺めながら唸って返事をした。 ふふ、弟が居たらあんな感じなのかな… クスクス笑いながら寝室に入って、念の為のつっかえ棒を今日もした。 そして、微動だにしない豪ちゃんの隣にゴロンと寝転がった。 お腹に掛けた鶏柄のブランケット越しにお腹をポンポンと叩きながら、くぅくぅと寝息を立てる豪ちゃんを瞳を細めて見つめる。 この、きかん坊の強情っぱり…! でも…とっても、強くて…優しい子。 そんなあの子を抱きしめて柔らかい髪に顔を埋めると、ニヤニヤしながら抱きしめて眠った。 「コッコッコッコ…コケ~!」 「コケ~コッココココケ~コッコッコッコ…」 雌鶏たちの声を聞きながら瞼をゆっくり開いた。 目の前では、豪ちゃんがダラダラと涙を流しながら天井を見つめていた… あぁ、きっと…雄鶏の事を思い出しているんだ… いつも、毎朝…鳴き声を聴かせていてくれた雄鶏は、もう居ない。 「…泣かないで…」 そう言って豪ちゃんの頬に流れる涙を手の甲で拭いて、顔を覗き込んだ。 あの子は俺に両手を伸ばしてヒシっと抱き付いた。そして…泣きながら言った。 「うっうう…怖い…!」 「大丈夫…」 震える体を強く抱きしめて、柔らかい髪を撫でてあげる。 眉間に寄ったしわをそのままに、俺の胸に顔を擦り付けて涙を拭うあの子を見つめた。 昨日の朝まで確かに生きていた命が…今日は居ない事が、怖いんだ。 突然に失われる命が、怖いんだ… この子は、強い… 大吉の親父が言っていた。3歳の豪ちゃんは山で誤射された死に行く人の、傷口を必死に押さえていたと…この子は、そういう強さを持ってる。 力が強いとか、そういう強さじゃない…。 心が、強いんだ… そんな豪ちゃんは、いつも人知れず…こんな風に、怖がって泣いていたのかもしれない。 「…豪ちゃん。今日は、何時に帰って来るの…?」 鼻を啜りながら俺の胸を指先で撫で始めた豪ちゃんに尋ねた。 「今日はね…6時間授業だから、3時45分に終わるの…。だから、4時過ぎくらいに帰って来るの…。」 恐怖の嵐は過ぎ去った様で、俺の顔を見上げてそう答えたあの子の目元には、もう涙は無かった。 強いだろ…?俺は、この子のこんな強さが、好きだ… ふと、豪ちゃんは俺の胸を手のひらで撫でて、チュッとキスして言った。 「僕はね…ここも好きなんだぁ…」 あぁ…可愛い…! 「じゃあ…もっと、くっ付いてて良いよ…?」 そう言った途端、俺は、細い腰を引き寄せてギュッと抱きしめた。豪ちゃんは腕の中でクスクス笑いながら、俺の胸にクッタリと頬を付けてにっこりと微笑んだ。 「ふふ…悩殺だな…可愛いったらありゃしない…」 でも、きかん坊だ! 「ツンツン…」 「ん、やぁだぁ…」 「なぁにがぁ…」 「んん…だぁめぇん…」 ドンドンドン!ドンドンドン! 「豪~~!豪~~!無事かぁ~~?!あぁああ~!」 豪ちゃんと布団の中でイチャラブしていたのが分かったのか…健太が凄い勢いで寝室の引き戸を殴り始めた… ここは俺の家じゃない。徹の実家だ。 寝室の引き戸を壊したら、ぜひ、健太に謝罪してもらいたいもんだな… 「はいはい…健太君、待ってね…今、面会させてあげるよ…」 そう言いながら豪ちゃんの髪を撫でて、重たい体を起こした。 「ふぁ~~~!」 大きなあくびをしながら寝室の扉を開た俺に、目の前に現れた健太は威嚇する様に唸り声を上げた。そして、グイっと顔を突っ込みながら布団で微睡む豪ちゃんに言った。 「…うぉおい!豪!何もされてないか?!」 「…うん。」 一体どんな安否確認だよ…。まったく…信用がないね? 深いため息を吐きながら、呆れた顔を健太に向けた。 いつもの様に雨戸を開いて、鶏小屋の様子を眺めながら、雨が降りそうな暗い空を見上げて言った。 「あ~…今日は天気が悪そうだな…」 「…え、ほんと?あぁ…雨が降る。」 俺の胸に抱き付いた豪ちゃんが、そう言って鼻をクンクンさせた。 なんだ…加齢臭でも匂うのか… 「ど、ど、どうして…鼻をクンクンしてるのさ…」 「惺山が臭いんだよ…」 そんな健太の言葉なんて右から左に聞き流すと、あの子が俺を見上げて言った。 「雨の匂いがする…ほら…分かる?」 豪ちゃんの真似をして、匂いを嗅ぐ様に鼻を動かしてみる。確かに少し…埃っぽい匂いを感じて、口元を緩めて言った。 「あぁ…本当だ。」 そんな俺の顔を見つめてにっこりと微笑んだ豪ちゃんは、籠を手に持って縁側から庭に降りて行った。 「惺山、くっさ~い!おじいちゃんみたいな匂いがするぅ~!ん、も~!やぁだぁ!」 …こんな、健太の小学生みたいな煽り…俺は気にしないさ…! 「…兄ちゃんは、足が臭いよね…?」 豪ちゃんは卵を回収し終えると、笑顔で縁側に戻って来てそう言った。 健太はピタリと押し黙って、聞こえないふりをした… 「俺はね…昔から、足は臭くないんだ。」 台所へ向かう豪ちゃんの後ろを背後霊の様に付いて歩いて、健太を横目にそう言ってやった。 「じゃあ…どこが臭いの…?」 え…? キョトンとした顔で俺を見上げるまん丸の二つの瞳を見つめて、固まった…。 じゃあ…どこが臭いの…? 臭い所なんて…ないさ。 ま、ま、まるで…どこかしら匂う事が当然の様に、話を運ぶのは止めなさい…! そんな思いを込めながら、豪ちゃんをジト目で見下ろした。 「体中が臭いんだよ!だから、相殺されて、足の臭さが分からないんだぁ!」 水を得た魚だ… 健太は呆然と立ち尽くした俺の傍にやって来ると、ゲラゲラと指をさして大笑いし始めた。 「…兄ちゃんは、足が納豆みたいな匂いの時があるけど、惺山は臭くないよ?」 …とどめを刺した。 豪ちゃんにそう言われた健太はピタリと大笑いを止めて、聴こえなかった振りをしながら畳の上に胡坐をかいて座った。そして、俺の作業用モニターで朝の情報番組を見始めた。 そんな兄貴の様子に首を傾げた豪ちゃんは、飄々と視線を動かすと俺を見上げて言った。 「…ねえ、惺山。パリスの卵を貰って来てくれる?」 「ほい!」 ウケる…!納豆臭いの、ウケる! 心の中で哲郎の悲しげな背中に指を差して大笑いした俺は、留飲を下げてピアノの部屋に向かった。 「おはよう…お嬢。」 テラスの隅で卵を温めるパリスを見下ろして声を掛けると、藁の上の4つの卵を見つめて、どれが有精卵で…どれが、無精卵なのか…首を傾げて悩んだ… 「パリス…お前が初めに産んだのは、どれ…?」 「コケ…」 私にも…分からない。 まるでそう言っている様な彼女と顔を見合わせた。ふと、豪ちゃんの話を思い出した俺は、ひとつずつ卵を持ち上げて薄暗い日の光に照らしてみた… 「…透けて見えない…」 曇り空の日の光では弱いのか…おもむろに、今度は携帯電話のライトを付けて卵にかざして見た。 「ん…分かんないな…」 藁の上に卵を戻して、俺を見つめるパリスと見つめ合いながら、首を一緒に傾げた… 「惺山、ごめ~ん。パリスは卵を温めていたよね…忘れてたぁ。」 …はぁん?!聞き捨てならないよ? ケラケラ笑いながら俺の隣に来た豪ちゃんは、4つの卵にペンで印を付けた。 「この4つは、良く分からないから手を着けないでおこう…」 なる程ね…もっと早くにしておくべきだったな… 「かざしても…分からなかった…」 隣にしゃがんだ豪ちゃんの髪に顔を埋めてそう言うと、あの子はクスクス笑いながら言った。 「まだ早いもん…。もっと、日が経たないと分からない…」 人間の様に、10月10日たつと人の姿をして、子宮から産まれてくる訳じゃない… 卵で生まれて殻の中で育って…雛に成長するんだ。 凄いよな… 命の創造に胸を馳せる俺は、豪ちゃんに手を引かれながら後ろ髪惹かれる思いでパリスの傍を離れた。 そして、居間で足の裏を気にする健太を横目に通り過ぎて、台所で朝ご飯の支度を始めた豪ちゃんの小さな背中を見つめた。 「惺山…昨日のうちに漬けた茄子の浅漬け、お皿に出してくれる?」 「ほい…」 冷蔵庫の中から袋に入った茄子を取り出して、あの子の隣で水を切りながらお皿に移した。 「どうかな…お味見て…?」 そう言ってあの子が摘まんで俺の口に運んだ茄子をかじると、頷いて言った。 「ちょうど良い…」 「どれどれ…」 そう言って俺のかじった半分の茄子を自分の口の中に放り込んだ豪ちゃんは、満足そうに頷いて言った。 「うん。美味しい!」 ほんと、お料理上手なんだ… 茄子の漬物をテーブルに運んだ。すかさず、再び豪ちゃんの傍に行って、あの子が手渡す卵焼きを受け取って、再びテーブルに置きに行く。 「…惺山?今日はね。美味しい物を作ってあげるね?」 豪ちゃんは、得意げにそう宣言すると、フライパンに刻んだショウガと鳥のひき肉を入れて、菜箸でかき混ぜ始めた。 「ね…お味噌を溶かしてくれる?」 次から次へと申せ付けられる…そんな、あの子の要求に怯む事なく答えていく。 これが次世代の男の在り方だ… 健太よ、お前の様な化石男は…クルクルっと丸めてポイされるぞ。 言われた通りに冷蔵庫から味噌を取り出して、いつも豪ちゃんがそうする様に、お玉にすくって見せた。 「…この位?」 「うん…丁度いい。」 コクリと頷いた豪ちゃんは、お味噌汁のみそを溶かす俺の隣で、菜箸を細かく動かして、お砂糖と、みりんと、しょうゆを入れながら鼻をクンクンさせて言った。 「あぁ…良い匂い…!」 甘くてしょっぱい…そんな、そぼろの良い香りがして来た!すると、腹を空かせた健太が言った。 「そぼろだぁ!やった~!」 ふふ、子供みたいだ… 本当に健太は、豪ちゃんと離れて暮らせるのかな… こんな弟、他にはいないし、この子の代わりなんて…誰も出来ないだろう。 フライパンの中のそぼろをお皿に移して、お茶碗にご飯をよそい始めたあの子の隣に行って、もりもりにお米の乗ったどんぶりを両手で運んだ。 「惺山…!馬鹿だな、米と一緒に、そぼろを持って来いよ!」 ムカつくさ… そりゃ、何もしてないのに文句だけ上等なこいつに、ムカつかない奴なんていないさ… 健太を無視してそそくさと豪ちゃんの元へ戻って、残りのお茶碗を両手に持って運んだ。 「惺山!早くそぼろを持って来いって!はぁ~!やんなるね!」 そんな、健太の声なんて…俺の耳には届かないね… 豪ちゃんがよそった味噌汁を運んでテーブルに置くと、あの子が持って来たそぼろを嬉々として見つめる健太をジト目で見た… 「いただきま~す!」 いつもの様に、豪ちゃんと手を合わせて朝ご飯の挨拶をした。すると、大きな手が伸びて来て、まるで略奪して行くかのような動きを見せながら、そぼろの入ったどんぶりをかっさらって行った! 「あ~はっはっは!」 健太だ… どうかしてる… たかが、ご飯に…ここまで必死になるなんて、どうかしてる… 「兄ちゃん…スプーン2杯ずつだよ?いっぺんに沢山かけないでね?」 そんな子供にする様な注意を受けた健太は、グフグフ笑いながら自分のどんぶりにそぼろを掛けた。 「…はぁい、惺山にもかけてあげるね?僕のそぼろは美味しいんだよぉ?」 豪ちゃんはそう言ってにっこり笑って、俺のお茶碗の中にそぼろを3杯かけた。 「良い匂い…」 鼻をクンクンさせてそう言った俺に、豪ちゃんは嬉しそうに頬を赤くして言った。 「ん、食べてみて…?」 お箸でお米とそぼろを掴んで、あの子の視線を受けながら口の中に入れた。 「ん~~!美味しい!」 そう。 それはお世辞抜きで…とっても、美味しいんだ。 「ふふぅ!良かったぁ!」 そう言って瞳を細めた豪ちゃんは、体を揺らして喜んで笑った。 何て、料理上手なんだろう… 朝、昼、晩、三食を美味しく頂く様になって…俺は確実に太った。 体重計なんて乗っていないけど、腹の肉が増えた気がするんだ。 それは、ことある毎に実感として感じてた。 例えば、風呂に入って屈んだ時… 例えば、エッチをしてる時… 例えば、持って来たズボンを穿く時… 明らかに以前より…腹の存在感が、デカいんだ。 「ん~~!んまい、んまい!」 満足げにそう言いながらガツガツとどんぶりを抱える、健太をジト目で見つめた… 毎日、どんぶり2杯のご飯を食べても、健太は所謂、細マッチョだ。 それは彼の代謝が若者のそれだから…後は、仕事で体を動かしているから。 俺の様にほぼ動かない人は…意識して体を動かさないと、あっという間に中年太りするんだな… ここ最近、ビールもろくに飲んで無いのに… 「惺山…たくさん食べてね?」 「うん…」 お世話好きの豪ちゃんが、俺のお茶碗に乗せていく卵焼きを食べて、茄子の漬物を食べると、そぼろの乗った美味しいご飯をもりもりと食べた。 あぁ…美味しい… 止まらなくなりそうだぁ…! 「豪!おかわり~!」 「ん、もう…!」 いつもの様に健太のおかわりをよそったあの子は、両手でどんぶりを運んで健太に手渡した。 「イテテ…」 どんぶりマンが、どんぶりを受け取る手を引っ込めて、イテテ…なんて言い出した。すかさず、健太の手を握った豪ちゃんは、あいつの顔を覗き込む様に見上げて、とっても優しい声で言った。 「…また、痛くなった?」 「うん…昨日から、また痛くなった…」 あぁ…職業病みたいな物かな… 俺の手も同じだけど、腱鞘炎の様に痛む時がある。 健太は仕事で鋏を使ったり、櫛を持ったり…と、指を沢山使うから手が疲れやすいんだ。 豪ちゃんは心配そうに眉を下げて、健太の右手をモミモミし始めた。 「…天気が悪い日に痛むのかな…?」 「さあね…」 健太はそう言うと、手のひらを揉む豪ちゃんを見つめて優しく瞳を細めた。 ギリギリの兄弟… 俺の当初の見解は、まだブレていない。 でも…どうかな… 健太は…豪ちゃんの未来を憂いて、あの子が先生のもとへ行く事を否定しなかった。豪ちゃんが、自由に、のびのびと生きられる場所へ向かう事を…手放しで喜んだ。 ギリギリの兄弟である事は変わらないが、良い兄貴である事も変わらない。 「ん、もう良い…ご飯食べたい!」 豪ちゃんにそう言った健太は、再びどんぶりを手に持って、そぼろを米の上に投入した。 「ご馳走様でした。」 いつもの様に片付けを済ませて、豪ちゃんが制服に着替えるのと、健太が町行の髪型にセットするのを眺めながら、庭先で雄鶏の居なくなった雌鶏たちを見下ろした。 「湖の向こうに養鶏家が居るの…?」 「そうだよ。江森のおじちゃん…。僕に、鶏を貸してくれたんだ。小さい頃、育てたいって言ったら、じゃあ…貸してあげるって言って、5匹…今の、モー娘。世代の子達を貸してくれた。その後、繁殖の為に雄鶏を貸してくれて、僕は3世代まで増やす事が出来た。みんな、大きな病気もしないで大きくなった…」 豪ちゃんはそう言うと、ネクタイを首にかけたまま庭先を見下ろして瞳を潤めた。 「そうか…」 豪ちゃんの赤いネクタイを掴んだ俺は、俺を見上げるあの子の視線を感じながら、シャツの襟を立てて、綺麗に結んであげた。 懐かしいな…学生時代を思い出す… 「はい…上手に結べた…」 そう言いながらネクタイを撫でおろすと、豪ちゃんは頬を真っ赤にしながら、もじもじと体を揺らして言った。 「…あ、ありがとう…」 …可愛い… あんなにいろんな事をしてるのに、俺はこの子が照れると、未だに一緒になって…頬を赤くしてしまう。 ふふ…あぁ…可愛いなぁ… 「おら、どけ!」 最低だな… 健太は凄い勢いで、俺と豪ちゃんの間をすり抜けて行った。そして、縁側で靴を履いて、豪ちゃんを見上げていつもの様に言った。 「行ってくるぞ!豪!」 「うん…行ってらっしゃい。気を付けてね?」 健太は、しゃがんだ豪ちゃんの頭をポンポン叩いてニヤッと口端を上げて見せた。そして、俺を横眼に見ながら、豪ちゃんに言った。 「今日は…先生が来る…」 「…うん。」 豪ちゃんは頷きながら首を傾げて、健太の頬を撫でて言った。 「どうして、兄ちゃんがそんなに嬉しそうなの…?」 そりゃ…お前が、偉い先生に注目されてるから、嬉しいんだよ… 心の中で健太の代わりにそう呟いた。 そして、不思議そうに首を傾げ続ける豪ちゃんに、ケラケラ笑うだけの健太を見送りながら言った。 「気を付けて行けよ~!」 「おう!」 あっという間に、健太のバイクの音が遠ざかって行った… 若さとは、いつも早歩きして通り過ぎて行く様なもの…。老いた時に、ふと、後ろを振り返って思うんだ…どうして、あんなに、急いで来てしまったんだろう。もっと、周りの景色を見れば良かった…もっと、周りの状況を楽しめば良かった…って。だって、あちきは、もうすぐ31歳になる大人でやんすから…かしこみかしこみ… 「豪ちゃぁ~ん!おはよ~!学校行くよ~!」 鶏の徘徊する庭を眺めながら”若さ“について、ポエムしていた俺の穏やかな心の中を、どっかの誰かの嬉々とした声が、ぐちゃぐちゃにした! 「てっちゃぁん、待ってぇ!今、行くからぁ!」 平日の朝は、忙しいな… 登校の準備が終わった豪ちゃんは、自分のリュックを肩にかけて、いそいそと玄関へと走った。 「惺山…行ってくるね…?」 後ろをついて回る俺を振り返った豪ちゃんは、そっと俺の胸に手を当てながら背伸びをして可愛いキスをくれた。 あぁ…!! 「うん…気を付けていくんだよ?」 「惺山も…先生のお迎えに行く時、十分に気を付けてね…?」 フラグを立てるなよ… 靴を履きながら、豪ちゃんが心配そうにそう言って、俺を見つめて瞳を潤ませた。 「分かってる…」 まん丸の瞳を正面から見つめてそう言って頷いた。そして、可愛い豪ちゃんに体を屈めてチュッとキスをした。 …何度も俺を振り返る豪ちゃんを見つめて、敷地の外まで見送った。 さりげなく、哲郎があの子の背中を抱いた。 もちろん、要らないサポートだ。 豪ちゃんは老人じゃないからね、背中に手なんて当てなくても、まっすぐ歩けるさ… 「ちっ!ほんと…あいつは、ろくでもないどスケベだな…!大吉にもっと言って貰わにゃ駄目だな!」 今にも雨が降って来そうな曇り空を顔を見上げて、玄関の扉を閉じた。 少し、肌寒いくらいだ… 一気に静かになった家の中、縁側に沿った居間のガラス戸を閉めてピアノの部屋へ向かった。そして、昨日書いた、豪ちゃんの作り出したメロディを口ずさみながらピアノに腰かけた。 サーーーーーーッ!! …急に小雨が降り出して地面を満遍なく濡らしていく。 そんな様子を窓から眺めながら、ふと、庭の鶏が気になって…縁側へ向かった。 「ほら…ほら、早く入れ…!いち、に、さん…」 小雨の降る中、数を数えながら鶏たちを小屋へ誘導して、人数ピッタリ屋根のある小屋に閉じ込めた。そして、しっかりと補修した扉に鍵を掛けた。 ゴロゴロ… 遠くで雷の音が聞こえて、遠くの方で稲妻が光った。 「あぁ…大荒れじゃないか…」 ポツリとそう言って縁側から部屋に上がると、濡れた服を着替えて、再びピアノの部屋に戻った。 テラスではパリスが不安そうに雨の様子を眺めて、俺を見て言った。 「コッコココ…」 「なに、大丈夫だよ。そこには屋根があるだろ…?」 そんな俺の言葉にパリスはコクリと頷いて体を丸めて首を中にしまった。 へえ…そんな事も出来るのか…随分とコンパクトになるんだな… 無駄に感心した。

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