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#30

今朝の雨は通り雨だったのか… 遠くの空には青空が見えて、少しの湿気を残したまま、すっかり道路も乾いてしまった。 窓を開けると、心地よい風が車内に入って来て髪を撫でて抜けて行く。 …ん、気持ちいなぁ… 「惺山、止まって。」 「え…?」 ふと、あの子の声が聴こえた… 不思議に思いながら言われるまま車を路肩に停めて、今、耳に聴こえたのは何だったのか…首を傾げて途方に暮れる。 「…ん?確かに…今、豪ちゃんの声が聴こえたんだけどな…」 車の外を見渡しても、あの子の姿が見える訳でも無い… だったら、さっきのは誰の声だったんだろう…? 首を傾げたまま、ぼんやりとフロントガラスの向こうを眺めて、途方に暮れた。 すると、 ゴロゴロと地鳴りを響かせながら、目の前を大きな石が転がって落ちて行った。 「は…?」 右側にそびえる山肌から、パラパラと落ちて来る小石を見つめながら…先に落ちて行った大きな石を思い返して、一気にゾッとした。 「え、え、えぇ~~~?!」 もしも、あの子の声に従っていなかったら…? あのまま車を走らせていたら…? あの落石にぶつかっていただろう… 「え、こっわ~~~~!!!ぬわぁんで?ぬわぁんでぇ~~?!」 車の中で大騒ぎして興奮した気持ちを発散させる。 そうでもしないと震えてなんないんだ! 「ま、マジか…」 …ジワジワと感じる恐怖を抱えながら、決して深追いしない様に…粛々と車を走らせた。 それはそれは…あたりの様子に警戒し過ぎなくらいに、ゆっくりとだ… あの子の声に、助けられた… 直径1メートル強の大きな落石… あんなの、横からぶつかられたら、このジムニーは押し出されて、左の崖を簡単に落ちて行っただろう… ゾゾゾゾ…!! 「気を付けよう…最大限に気を付けて、ゆめとぴあまで向かおう…」 ”死”が俺を狙ってる… そんな嫌な予感を打ち消す様に、首を横に振ってハンドルを握り締める。 大丈夫… 大丈夫だ… でも…あの落石が運転席側にぶつかっていたら… 俺は、ぺしゃんこになっていたかもしれない。 ふと、泣き叫ぶあの子の顔を想像して、胸の奥が痛くなる。 大丈夫だ… 何ともなかったじゃないか… それは、突然聞こえて来たあの子の声に、従った結果だ。 あの時、そうしなかったら… きっと… 「もう、止めよう…こんな事考えるのは…心臓に良くない…」 バクバクと胸が跳ねる程の動悸を深呼吸して抑え込むと、眉をひそめながらあの子を思った。 …豪ちゃん。 俺を助けてくれたの…? 君は本当に…不思議な子だ。 大丈夫…俺は君に弱いんだ。だから、君の言う事なら、なんだって聞くんだよ… そうだろ…惺山。 あの子が…お前の、命綱だ。 絶対に死んだりするな。 あの子を…泣かせるな。 這う這うの体でゆめとぴあに到着した俺は、急いで先生の姿を探した。 「…遅いじゃないか!」 ムッと頬を膨らませた先生は、ゆめとぴあの入り口前でずんだシェイクを飲みながら言った。 「もう、30分も待ったんだぞ!」 こちとら、死にかけたんだぞ!この…イカれ眼鏡! そんな事…思っても、言わないさ…。この人は、偉い人なんだ… 「…落石があって…危険だったので、少し遅れてしまいました。すみません…」 そう言って頭を下げると、先生を伴ってゆめとぴあの野菜売り場へと向かった。 「豪ちゃんにお使いを頼まれてまして…すぐ終わるので、すみません…」 ペコペコ頭を下げてそう言った俺は、買い物かごを手に持って“ぼくちんのプリン”を8個入れた。 「随分…プリンばかり買うんだな…。豪ちゃんは、そんなにプリンが好きなのか…」 「いえ、これは…あの子と、友達たちと、兄貴と、先生と私の分です。」 不思議そうに首を傾げて俺を見つめる先生にそう言って、豪ちゃんの様に足早に次の目的地、野菜売り場へと急いだ。 「季節の野菜…って、何だろう…?」 さてはて、首を傾げながら考えあぐねる俺に、木原先生が顔を覗かせて言った。 「秋はキノコ…ごぼう、さつまいも…後は玉ねぎか…」 へぇ… 先生の教えてくれた野菜とキノコを適当に買い物かごに入れた俺は、さっさとお会計を済ませた。 「落石なんて怖いなぁ~!」 先生はそう言って、ケラケラ笑いながら黒いポルシェに乗り込んで言った。 「君の後に着いてく!」 「はいはい…」 俺は急いで自分の車に戻って、買い物袋を助手席に置いた。 あぁ…豪ちゃん、また危険が迫ったら俺に教えてくれよ… 俺は君の言う事なら…何だった聞くからね。 再び押し寄せて来る恐怖を、豪ちゃんに縋る事で…やり過ごす。 「豪…守って。」 祈る様に呟いて、深呼吸してからエンジンを掛けて車を出した。 怖かった… …助かったけど、確かに“死”を感じて、体が震えて来るんだ。 早く、君に会いたい… 先生のポルシェに煽られながら慎重に車を運転して、徹の実家にやっと到着した。 最後の最後まで気を抜かずに駐車して、サイドブレーキを引いて、ホッと胸をなで下ろした… 「はぁ…無事に、帰って来れた…」 気付けば汗だくになっている自分の額を、項垂れながら手のひらで撫でて拭った… 「…あぁ!おっさん!ポルシェなんか連れて来て、どうした!儲かったのか?」 庭先から現れたギャング団たちは中古車から降りる俺にそう言って、俺の後ろのポルシェを見て、異常にはしゃいで興奮した… 馬鹿め…! こんな車…北海道のどこまでも続くストレートの道でしか、本気は出せないんだ! しかも、こんなに狭い田舎道…こんな車で来て、馬鹿みたい! しかもだ!20キロで走る俺の後ろをついて来たから、低速しか入れられなくて、うるさくってなんないね!! 見せかけの派手さに心惑わされた…馬鹿なギャング団をジト目で見つめて、自分の中古車…ジムニーを優しく撫でてあげた。 …お前は実用的だ。 「惺山~!」 豪…!! あの子の声に涙目になった俺は、駆け寄って来る豪ちゃんに顔を歪めながら、思いきり抱き締めた!そして、豪ちゃんの胸に顔を埋めて半泣きで言った。 「死にかけたんだぁ!あぁ~~~ん!怖かったぁ!」 「え…?」 一瞬で真顔になった豪ちゃんは、俺の頬を強く掴んで自分に向けた。そして、眉を片方だけ上げて見せて、声を落として言った。 「本当…?」 あぁ… 駄目だ… 豪ちゃんにあんな事言ったら…きっと、怖がって俺から離れたがるに決まってる… まだ、だめだ… まだ 交響曲が完成していない…! 「う…う…うっそぴょ~ん!」 咄嗟にそう言って取り繕って、ムッと頬を膨らませたあの子に平気な顔をして言った。 「ほ、ほら!先生と…“ぼくちんのプリン”を買ってきたぞ…!」 助手席から買い物袋を取り出して、真顔のまま俺の様子を伺い見る豪ちゃんに手渡した。さすがのあの子は、まるで何かを疑う様に眉を片方だけ上げ続けて、俺の様子を観察した。そして、そっと俺の肩に手を掛けると、耳元に顔を寄せて言った。 「…あなたは、あんな冗談を言う様な人じゃない。でも…今は、そう言う事にしておいてあげる…。後で話すんだよ。惺山。良いね?」 あぁ… うん…はい… 「分かってる…」 引き攣った笑顔のまま豪ちゃんにそう言った。そして、すかさずあの子の二の腕をモミモミしながら…ホッと一安心のため息を吐いた。 「あぁ~ん!豪ちゃぁん!」 気持ち悪い、先生の生の猫なで声だ… ポルシェから颯爽と降りて来た先生は、豪ちゃん目がけて駆け寄った。 そして、俺の手からあの子を奪って、高く持ち上げて抱きしめた。その間も、豪ちゃんは俺を見つめたまま、眉を下げ続けた… 「豪ちゃん!」 顔を覗き込んで来た先生にいつもの笑顔を向けた豪ちゃんは、先生の鼻をチョンと触って言った。 「先生!来てくれたんだぁ。わぁい!みんなを紹介してあげる!豪ちゃんのお友達だよ?来てぇ~!」 あぁ、言わなきゃ良かった…でも、怖かったんだ…耐えられなかった…。 嬉しそうに目じりを下げた先生の手を握った豪ちゃんが、そのまま縁側へと連れて行く後姿を見つめながら…さっきの自分の発言を後悔した。 ヤバいな… 「はぁ…何としてでも、交響曲の完成まではここに居るんだ。あの子の傍に…居るんだ…。何とか、あの子を説得する方法を考えないと…」 死にかけた事実を、豪ちゃんに誤魔化す事なんて出来っこない。事実を話した上で、もう少しだけ…辛抱してもらう必要がある。その為の方便が必要なんだ… 「おぉ~っ!」 そんな歓声が縁側で上がった。 俺は深呼吸をひとつ吐いて、豪ちゃんと先生の後ろを追いかけた。 「おっさん、すっげぇな!ポルシェなんか乗って、金持ちじゃないか!」 「…おっさん…じゃないさ、年齢は体の衰えに過ぎない…」 「それを、おっさんって言うんだよ。なあ?」 ギャング団の手荒い洗礼を受ける先生を横目に、這う這うの体で縁側に腰かけた俺は、隣に座った哲郎に言った。 「お前たちの分も…プリンを買って来たから、食べたら良い…」 「よっしゃ~~~~!」 哲郎の隣で俺の話を聞いた大吉が歓喜の声を上げた。そして、豪ちゃんが差し出した袋の中を漁りながら清助が言った。 「お!“ぼくちんのプリン”はめちゃくちゃ美味しいんだよ!おっちゃん、さすが目の付け所が違うな!」 いいや…坊ちゃんに、買って来いと言われたんだ。 「みんなぁ?見て?この人が先生だよ?仲良くしてね?」 豪ちゃんは鶏小屋をバックに俺とギャング団を見つめて、先生を紹介した。すると、クスクス笑いながら先生が一礼をして言った。 「…ご紹介に預かりました。私が“先生”です。どうぞ、よろしく。」 「はい!先生は…何の先生なのぉ?…なんか、理科っぽい!」 理科っぽい…!確かに!流石の大吉だ…目の付け所が違う。 そんな大吉の質問に苦笑いをした先生は、首を傾げながらあいつに言った。 「…残念ながら、私は理科の先生ではない。そうだな…豪ちゃんだけの、音楽の先生…とでも言おうかな…」 「へえ、カテキョーかぁ。…儲かるんだな!」 「おっさんも、作曲家なんてやめて、家庭教師にでも転職すればポルシェに乗れるのにな!あっはっはっは!」 ギャング団たち、とくに哲郎は…どんな話題になっても俺をディスりたいんだ…。きっと、先日の“バター犬”を根に持ってるんだ… 哲郎を横目に涼しい顔をして、ふと、豪ちゃんに視線を戻した。 あの子は、先生の耳元に顔を近付けて何かを話した。 豪、何て言ったんだよ… 耳を貸した先生は、クスッと微笑んで瞳を細めながら、あの子の頬をそっと撫でた。そして、豪ちゃんと繋いだ手を踊る様に離して、ニコニコと上機嫌な様子で俺の隣に座った。 俺の顔を覗き込む様に体を屈めて、クスクス笑いながら先生が言った。 「…森山君、随分、馴染んでるね?」 「まあ…何カ月も居るんで、自然と…」 苦笑いしながらそう言った。事実そうだ。嘘なんて吐いてない。 そんな俺の答えなんてどうでも良いのか…先生はぼんやりと視線を落として、庭を闊歩する鶏に手を伸ばした。 突かれてしまえ…! なんて、思わないさ…この人は偉い人なんだ… 「惺山、偉いね~?みんなの分も買って来てくれたんだぁ。これは、先生にあげるね。」 そう言いながら縁側を歩いてやって来た豪ちゃんは、先生にプリンを手渡して、俺と先生の間にお尻をムリムリと入れて座った。 「豪ちゃん、今日、小林先生に呼び出されてたけど、ぶっちして帰って来たんだよ?」 大吉は俺に言い付ける様にそう言って顔を歪めた。その様子をすまし顔で見た豪ちゃんは、俺を見ながらとぼけた様に口を尖らせて言った。 「ん、だぁって…どうせ、兄ちゃんの話を聞かれるだけだもん。」 あぁ…それは最悪だな… 同情する様に、豪ちゃんの背中を撫でてあげた。 あの雌豹ならぬ、雌狸に掴まったら、今度こそお終いだ… 逃げ切れ…!健太…! 「…ねえ豪ちゃん、プリンが好きなの?」 豪ちゃんの顔を覗き込んでそう聞いて来た先生に、あの子は肩をすくめて答えた。 「ん、だってぇ…ここのプリンは美味しいんだもん。だから好きなんだぁ。先生の…千疋屋のフルーツパフェと同じ!」 プリンの蓋を開いて、ひとすくいした豪ちゃんは、おもむろに俺の口に運んで言った。 「はい、惺山…あ~んしてぇ?」 「あ~ん…」 つい… 自然に口を開いて、豪ちゃんがくれたプリンを口の中に入れた。そして、目を見開いた先生と…目が合った。 「…おいしい?」 俺の口に入れたスプーンをペロペロしながら豪ちゃんがそう聞いてくるから、俺は顔を真っ赤にして、あの子からスプーンを取り上げて言った。 「ん…自分で食べられる!」 「も、嘘つきぃ!」 そんな俺と豪ちゃんのやり取りを見て…何を血迷ったのか…晋作がゆっくりと縁側から腰を上げた。 そして、向かい合う様に仁王立ちしたあいつは、ニヤニヤと顔をニヤ付かせて俺を見た。 やばい… こいつ、やる気だ…! 思った通り、晋作は急に内股になると、体をクネクネさせながら渾身の力を込めて言った。 「ん、豪ちゃぁ~ん!おいひい!おいひい!」 最悪だ…! これはもはや…物まねじゃなく、誹謗中傷だ…! 「ぎゃ~はっはっはっは!似てる~~!」 どこがだ! そんなギャング団の合の手にしらけた顔をした俺は、フイッと顔をそむけて、嵐が去るのをじっと…待った… 「んぁ~~!豪ちゃぁん!お茶ぁ~!」 「だ~はっはっはっは!!そっくりじゃないか~~~!」 調子に乗った清助がそう言って爆笑を起こすと、大吉が脚色と捏造をふんだんに盛り込んで更に言った。 「んふぅ!豪ちゃぁあん!豪ちゃぁあん!おっぱい見せてぇ!」 「きもいぞ~~!おっさん!自重しろ~~!」 そんな彼らを唖然と口を開いて見つめる先生の横顔を見て、再び…そっと、視線を逸らした… ふん…こんなの、慣れっこだもんね… そんな余裕を見せつけながら、繰り広げられる俺への誹謗中傷を無視する。そして、俺を見上げる豪ちゃんに言った。 「良いの…自分で食べられるの。」 「えぇ…?」 まるで、信じられない!…とでも言う様な顔をしてそう言った豪ちゃんは、俺の手にプリンを置いて悲しそうに眉を下げた。 ふたりきりなら良いんだ…でも、今は、大人がいる… そんなの…恥ずかしいじゃないか… 「じゃあ…豪ちゃん、先生に食べさせてよ…」 は…? ギョッと顔を歪めて、平気でそう言った先生をジト目で見つめて、諫める様に言った。 「先生!」 「ふふ、良いよぉ?食べさせてあげるね?」 満面の笑顔でそう言った豪ちゃんは、先生の手からプリンを取り上げて、スプーンですくって口元へと運んだ。 「はぁい、先生、あ~んしてぇ?」 信じられない! 先生は、そんなあの子を見つめながら目いっぱいデレて、鼻の下を伸ばして言った。 「ハフハフ…!あぁ~ん!ん~~!おいちい!」 は…?キモ過ぎんだろ… 目の前で繰り広げられる光景は、嘘か…誠か…焦点を合わせる事すら体が拒絶する。俺は、遠い目をしながら鶏の数を頭の中で数えた。 「あんたが連れて来る人は、みんな変態なの…?」 そんな哲郎の言葉が…身に染みる。 俺の知っている先生は、いつもキリッとしていて格好良かった… 目の前で、鼻の下を伸ばす…変態じゃない! 堂々としていて、凛としていて、隙の無い、非の打ちどころのない先生だった…。音楽を語らせれば、多様な知識と見識で他を驚かせて…流石だと…言わしめた。 そんな、俺の理想の…先生が…豪ちゃんに陥落した。 衝撃的すぎて、頭が付いて来ない… 豪ちゃんの演奏が飛びぬけて凄いから…先生は骨抜きになっているのか…? それとも…もともと、こんな性癖があるのか…? 大の大人が…豪ちゃんに餌付けされて鼻の下を伸ばしている姿は…それはそれは、気持ち悪かった… はっ! 「はは…俺は、こんなに酷くないだろ…?」 俺は咄嗟に身を屈めて、縁側に並んで座るギャング団、全員の顔を見つめてそう尋ねた。しかし、彼らは一様に微妙な表情を見せて、首を傾げるばかりだった… ど、どういう事だ?! 「…先生、豪ちゃんにも食べさせたいなぁ…?」 「え?本当?嬉しい!」 はっ! なぁにが…豪ちゃんにも食べさせたいなぁ~?だ…気持ち悪い! 歳を考えろよ。歳を…! あんたの息子でも幼い…この子の年齢を考えろってんだ! そんな事、思っても言わないさ… ただ、くちどけの良い…“ぼくちんのプリン”をひとり、わびしく食べてるだけだ。 そんな俺を見た大吉は、慌てた様子で豪ちゃんに言った。 「豪ちゃん、おじちゃんがいじけちゃったよ?新しい男にうつつを抜かし過ぎてる!すぐに、古いものを蔑ろにするのは…豪ちゃんのいけない所だよっ?!」 そうだ…大吉。 お前の言う通りだ! ザッツライトだ! 「はい、豪ちゃん、あ~んして?」 …まるで、俺以外見るなと言わんばかりに豪ちゃんの頬を片手で抑えた先生は、自分のスプーンであの子のプリンをすくって口元に運んだ… 「ふふぅ、あぁ~ん!」 そんな先生の気持ちの悪い唾液付きのスプーンに乗ったプリンを、あの子は躊躇なく口の中に入れて、可愛い唇を挟んで食べた。 あぁ…もう、キスしたくなくなったぁ! 「…甘くって、美味しい!」 「ぐふふ!」 あぁ…やっぱりだ。やっぱり、こう来るんだ。 …コソコソ話す豪ちゃんに、クスクス笑うジジイ。 そして、まるで阿吽の呼吸の様に通じ合っている様子… このふたりの組み合わせは、俺の気持ちを、ヤキモキさせるんだ…! あぁ、嫉妬さ、嫉妬だ、嫉妬なんだよ! だぁから、この人の所に、この子を行かせたくなかったんだぁ! やっぱり、気に入らねぇ… 「…お、おっちゃんが嫉妬してる!」 「これが大人の嫉妬なんだ。見ない様に背中を向けて…黙々とプリンを食べてる!」 「…はっ!ざまあみろだな!」 哲郎の心のこもった言葉に余裕の笑顔を見せた俺は、豪ちゃんと先生を微笑ましく見て言った。 「はは、このふたりは…息が合うんだ。それは、前からそうなんだ。別に嫉妬なんてしてないさ…。仲が良い事は、良い事じゃないか…ははは。」 そうだ…よく考えたら、嫉妬なんて…する必要ないんだ。 だって、この子には、俺しか見えていないんだから… そうだよね…豪ちゃん? 先生に餌付けを続けるあの子の背中を見つめて、いつもは自分に向けられる、あの子の真ん丸の瞳が恋しくなった… 「…ん、も、豪ちゃぁん!食べさせてぇん!」 そう言ってプリンを手から放棄した俺は、理性など忘れて、体を揺らしてごねた… 「あぁ…もう、惺山ったら…格好付けるから、寂しくなっちゃうんだよ?」 ギャング団が笑いを堪える中、豪ちゃんは俺のプリンを手に持って頬を赤くして言った。 「ほんと、お馬鹿さん…」 うう… 「はい、あ~んして?」 「あ~ん…!」 いつもの様に口を開けて、いつもの様にあの子の瞳を見つめてそう言った。すると、あの子がにっこりと微笑んで…いつもの様に聞いて来た。 「美味しい?」 「…うん、美味しい…!」 あぁ… 豪ちゃんの真ん丸の瞳が俺に戻ると、安心したみたいに心のざわつきが収まった。 …俺は、先生に嫉妬している。 この子と、ゼロベースで通じ合える、先生に…嫉妬している。 「豪ちゃん、トンボ捕まえた!」 「わぁ!おっきい!オニヤンマだぁ!」 哲郎の声にキャッキャッとお猿の様に笑った豪ちゃんは、空になったプリンを置いて、オニヤンマを掲げて威張る哲郎の元へと走って向かった。 そんなあの子の背中を見送る俺に、隣に座った先生がポツリと言った。 「…あんな子供を誑かすなんて、森山君はやっぱりお盛んだな…」 は…? あんたにだけは言われたくないな…!この、変態! 余裕な微笑みを作った俺は、トンボを触る豪ちゃんを見つめながら先生に言った。 「先生も…豪ちゃんに、どこかの野良犬みたいに懐いているじゃないですか…。はは。意外だな。あぁ、でも、そう言えば…藤森北斗の事も、幼少期から特別に目を掛けていましたよね…あの人は、ほら、見た目が美しいから…。特別な感情を持たれていたのかな?なんて…。まあ、想像ですけどね…」 「ふあっ?!…そうだよ!想像にしか過ぎないだろ?!私はね、弟子に手を出す様な事はしないんだ!そんな事したら…師弟関係が崩れてしまうからね!フン!」 動揺した先生が、声を裏返させて…そう言った。 でも、全然説得力がない。 無名のバイオリニストの女性に、小さなリサイタルを開かせていた先生の言う事なんて、説得力がないね…。 「先生、見てぇ?オニヤンマだよ?大きいでしょ?」 豪ちゃんが手に大きなオニヤンマを持って、縁側に座った先生に駆け寄りながら掲げて見せた。 「あぁ…本当だ。大きいね?豪ちゃんは…大きいのが好きなの?」 指先のオニヤンマを見つめる豪ちゃんを瞳を細めて見つめた先生は、そう言いながらあの子の頬を撫でた。そんな、愛撫に首を傾げた豪ちゃんは、まん丸の瞳を細めて先生に言った。 「ん?豪ちゃんはね…大きさよりも、形が好き…」 「形…?それは、どんな形なの…?」 食い気味にそう言う先生は、豪ちゃんの腰を掴んで自分の足の間に引き寄せた。 うぉおい…!爺さん…何してんだよ… 怪訝な表情で先生を睨んだ俺の視線なんて…気にならないんだ… 先生は豪ちゃんだけを見つめて、足の間に入れたあの子の返事を微笑みながら待った。 「んッとぉ…根元が太くて、長いのが好き…だって、格好良いんだもん。」 「ぶふっ!あぁ…そうなんだ。先生は根元は太いよ?」 最低だな… そろそろ、哲郎の鉄拳制裁を受けたら良いのに。 そう思って哲郎を見つめると、あいつは逆に俺を見つめてニヤニヤとほくそ笑んでいた… はぁ、敵の敵は…味方。 そう言う事か… 浅いな…お前の頭の中は、赤ちゃん用のプールよりも浅い! 「…えぇ?そうなの?ふふ!変なの!先生はトンボじゃないのに…太いんだぁ。」 首を傾げた豪ちゃんはそう言うと、オニヤンマを先生の頭に乗せてクスクス笑った。そんなあの子を見つめる先生は、すっかり惚けた顔をして言った。 「あぁ…先生は、太いんだ。太くて、強いんだ…!」 「先生…そろそろ止めて下さいませんか…?」 我慢ならないね! 強引に先生の腕の中から豪ちゃんを引き剥がして、庭に放って言った。 「む、向こうで遊んでなさい!」 「ん、もう!惺山にオニヤンマを見せたかったのにぃ!」 そう言って地団駄を踏み始める豪ちゃんを、鼻息を荒くして見下ろして、差し出されたオニヤンマに表情を固めて言った。 「…グロイ…!」 「ふふ!強くて格好良いんだよ?」 クスクス笑った豪ちゃんは、俺の目の前でオニヤンマを自分の腕の上に乗せて、にっこりと微笑みながら言った。 「この子は、4枚の羽根をバラバラに動かす事が出来るの。ホバリングする時間も長い。だからね…こんな風にして…惺山、見てて…!」 そう言って勢いよく腕を真上に上げると、飛び立ったオニヤンマが豪ちゃんの腕の真上でホバリングして止まった。 「不思議…。この感覚。放り投げたのに…落ちてこないで、真上で止まってる…。まるで、時間が止まったみたいに見えるんだぁ…」 首を真上に上げながら、上空でホバリングするオニヤンマを見てそう言った豪ちゃんは、ケラケラと楽しそうに笑いながら付け加えて言った。 「オニヤンマはパトロールする決まった道がある。だから、その道を覚えれば…こんな事も出来るんだよ!惺山、見ててぇ!」 そう言いながら庭を駆けだした豪ちゃんの頭の上を、さっきのオニヤンマが、まるで一緒に散歩でもしているかの様に付いて回っている。 「はは…凄いな。」 「…面白い子だな…」 感慨深げにそう言った先生の声に口元を緩めた俺は、あの子を見つめたまま言った。 「あの子は自然が大好きです。後、料理をする事も。だから、あまり外食ばかり連れて行かないで…あの子が料理をする時間と、一緒に食事する時間を作って下さい…。」 「覚えておこう…」 そう言った先生の声を背中で受け止めて、目の前で俺を見つめて首を傾げながら微笑むあの子に、同じ様に、にっこりと微笑みかけた。 君は…俺と離れて、この人の元へ行く… 正直、嫌さ…だって、この人は変態のロリコンだもの。 「豪ちゃん、またな~!」 豪ちゃんが“先生”なんて呼ぶせいか…ギャング団たちはお行儀よく木原先生にぺこりと頭を下げて会釈して帰って行った。 俺には一度もそんな事しなかったのに…! 「どれ…豪ちゃん、先生のピアノでも聴くかい…?」 そう言って立ち上がった先生に駆け寄った豪ちゃんは、ウキウキしながら言った。 「聴く~!聴く~!何を弾くの~?」 「何が聴きたいの?」 そう言ってあの子の顔を覗き見る先生の手を握ると、豪ちゃんは先生の腕を抱きしめて言った。 「うふふ!知らないもん…僕は曲の名前も、どんな曲があるのかも、惺山から聴いた物しか知らない。だから、先生が教えてぇ?」 は…?! 豪ちゃんは自分の事を”僕”と言って、先生に無防備に甘ったれた… 俺にだって…初めのうちは甘える事すら躊躇していたこの子が、甘ったれたぁ! 最悪だぁ…! 項垂れてショックを受けた俺を見た豪ちゃんは、首を傾げながら手を引いて言った。 「どうしたの?惺山もおいで~?」 「うん…」 腑に落ちない。 腑に落ちないよ。 どうして、その人にそんなに懐くのさ… おかしいだろ?豪ちゃん。 君は俺の大切な人なのに、まるで昔からの知り合いみたいに…いいや、まるで昔からのラブラブな恋人の様にその人に甘ったれてさ。 流石の俺でも、いじけるさ… 解せない気持ちのままピアノの部屋に入った。 豪ちゃんは先生をピアノの椅子に座らせて、いつも俺にする様に隣に腰かけて言った。 「先生?主観って大嫌いだったけど、最近…悪くないって思ってる。」 「ふふ…そうなの?時と場合に寄る事は、多々あるよね…」 先生はクスクス笑ってそう言うと、ピアノの蓋を開いて美しい旋律を弾きながら言った。 「豪ちゃん…この曲は知ってる…?」 「ショパン、ワルツ第7番嬰ハ短調だよ…?ね?惺山?」 あぁ…どうして、あなたまで…この曲を、この子に弾くんだ… ショックとも言えない。そんな微妙なざらつく気持ちをひた隠しにして、俺を見つめる豪ちゃんを見下ろして頷いて微笑んだ。 「でも…惺山と、違うね…?」 豪ちゃんは、先生の顔を覗き込む様に身を乗り出して、左の耳を傾けた。そして、じっとピアノの音色を聴きながら、先生を見つめて言った。 「違う…」 「それは…主観…?」 先生は豪ちゃんの瞳を正面から見つめて、口元を緩めて笑った。 「違う。これは…先生の主観。僕の主観じゃない…先生の、この曲に対するイメージが、惺山と違うんだ。だから…違う曲に聞こえる。」 先生の顔を覗き込んだまま、肩に添えた手でポンポンと先生の背中を叩いた豪ちゃんは、首を傾げながら言った。 「…情緒がこもってない。」 ふふっ…まさか…! 情緒の塊のような演奏をする先生のピアノに、情緒がこもっていないなんて… 「そうだね…豪ちゃんの言う通りだね…どうして、分かるの?」 「え…?」 驚いて、つい、そんな声が出た。そして、すぐに、嬉しそうに目じりを下げた先生を見つめて、眉をひそめた… 「だって…ただの、綺麗な曲にしか聞こえないから…。この前ね、惺山のピアノを聴いた時も同じだったんだぁ…。僕はてっきり…自分の耳が彼の声を聴けなくなったんだと思って、悲しくなった。でも…違かった…。彼は、敢えて、僕に心を閉ざして、音色に情緒を込めなかったんだ…。」 …この前…? 豪ちゃんが家出をした時の事だ…。 確かに、俺はテラスにあの子の存在を感じて、わざとピアノを弾いた…。そう、豪ちゃんが言った通り、情緒も何も込めずに…ただ、弾いた。 豪ちゃんはそう言ったっきり黙って、肩に添えた腕を動かして、先生の短い襟足を撫でながら首を傾げた。 おい… 「豪ちゃん…あまり、ベタベタしないんだよ…?」 嫉妬ではらわたを煮え繰り返させながらそう言った俺は、容赦なく豪ちゃんを抱き抱えて先生から引き離した。 そして、自分の胸の前で両手で抱きしめると、首を傾げてぼんやりし続けるあの子を見下ろしてため息を吐いた。 まったく… 誰にでもベタベタするのは…この子の良くない所だな… そんなんだから、大吉にビッチ扱いされるんだ。 先生の弾くピアノを少し離れた所で聴いて、ピアノから聴こえてくる音色に左の耳を傾けたまま、豪ちゃんはあの子を抱きしめる俺の両腕をそっと撫でて言った。 「今、色付いた…」 「ご名答…」 豪ちゃんに嬉しそうに微笑んだ先生は、まるで演奏に浸って行く様に、瞳を閉じてピアノを弾き始めた。 「あぁ…蝶々が見える。惺山…見て?先生のピアノから…蝶々が飛んで行く…!」 急に笑顔になった豪ちゃんは、手を伸ばして人差し指を立てて言った。 「ほらぁ…止まったぁ!」 瞳を細めた豪ちゃんがゆっくりと振り返りながら、俺に指先を向けた… その瞬間、居もしない青い蝶が、あの子の指先に止まって、羽をゆっくりと動かしている姿が見えた。 「あぁ…」 「綺麗な蝶々。じっとしていない蝶々。止まったかと思えば、どこかへ飛んで行ってしまう蝶々…。でも、大好きなんだ…ふふ!」 そう言ってクスクス笑った豪ちゃんは、目を瞑りながら微笑んだ先生を見つめて言った。 「先生って…手に入らない物が好きなんだ。手に入る物は簡単すぎて、飽きてしまうんだ。だから、先生みたいな人と結婚しても、ずっと、愛して貰えない。」 「はは…鋭いな…」 豪ちゃんの言葉に苦笑いした先生は、ピアノを弾き終えて、瞳を半開きに開いて言った。 「蝶々が、見えたの…?」 「そうだよ…青くて、綺麗な蝶が…あちこちを飛んでいた。先生は美しいね…でも、ひねくれてる。」 豪ちゃんはそう言ってクルリと体を返すと、俺を抱きしめながら言った。 「あなたとは違う感性ってやつを持っているみたい…」 「そう…」 青い蝶か…綺麗だったな… 俺の胸に顔を埋める豪ちゃんの柔らかい髪をふわふわと指先で撫でながら、ぼんやりと蝶が消えてしまった部屋を眺めた。 「惺山?お昼ご飯食べた…?」 ん…? 今? 今、それを聞くの…? 「た、食べたよ…美味しかった。三色弁当…」 「本当?どれが一番おいしかった?」 豪ちゃんは俺を見上げながら体を揺らして、瞳を細めながら微笑んで聞いて来た。 「え…えっと、今…ほら、先生がピアノを弾いてるから…後で、教えてあげるよ…」 たじたじさ… だって、目の前で木原先生がピアノを弾いているにも関わらず、豪ちゃんは俺に今日の弁当の話を振って来るんだ。KYって…無敵すぎる。 何とか気を逸らそうと話を誤魔化す俺に、豪ちゃんは寂しそうに眉を下げて言った。 「今、言ってぇ…!」 「今、言ってあげなさい!」 まただ! 木原先生のお怒りの声にため息を吐きながら、目の前の豪ちゃんを見つめて言った。 「どれも美味しかった…。どれか一つ欠けたら、あの美味しさにはならないって思ったよ。」 「…本当?嬉しい!惺山…大好き!」 悪くない… 悪くないよ… 本来、君はこうするべきなんだ。 両手を俺の首にかけて体を揺らす豪ちゃんを抱きしめて満足すると、ピアノを弾きながら俺をジト目で見つめて来る先生に言った。 「…豪ちゃんは料理が上手で…。学校が始まってからは、毎日お弁当を作ってくれるんですよ…」 「へえ!良いね!」 ムスくれてそう言った先生は、何か意図でもあるのか…再び同じ曲を弾き始めた。 それは、先ほどよりもワルツのリズムを強調した弾き方で、先程よりもスローテンポだ… そんな先生のピアノのリズムに体を揺らした豪ちゃんは、俺の体に抱き付きながら踊り始めた。 「いち、に、さん…いち、に、さん…いち、に、さん…」 そう言いながら俺を見上げてにっこりと微笑むと、おもむろに、ピアノの上に置いてある自分のバイオリンケースからバイオリンを取り出して、首に挟んだ。 「惺山さん、ここは魅惑の深海パーティーです。お客さんはみんなお魚…気持ち悪いでしょ?僕は魚は捌きたくない。だって…血の…甘い匂いが嫌いなんだ。」 豪ちゃんは俺を見上げてそう言うと、顔をしかめながら右手に持った弓をゆっくりと弦に当てて言った。 「だから…こんな生臭いパーティーは、ぶち壊してやりましょう…!」 ほ…? ぶち壊す…? 体を振りかぶる様に弓を引いたあの子は、こぶしの利いた音色を立てて”華麗なる大円舞曲“のメロディをバイオリンで奏で始めた… それは…所謂、ジャックだ。 先生の演奏を…テンポだけ頂いて、豪ちゃんがジャックした。 「はぁっ!!」 突然の事態に目を丸くした先生は、すぐに顔を崩すと、ニヤニヤと笑いながら豪ちゃんを見上げて言った。 「なぁんて、悪い子だ!」 「魚は食べると美味しいけど…泳いでる所は、気持ち悪い…」 豪ちゃんは俺を見上げて真顔でそう言うと、クルリと体を返して先生を見下ろしながら”華麗なる大円舞曲”を弾き続ける。 鳴り響くピアノの音色をかき消して行く様に、力づくで上から押さえつける様に…強引だ! そんなあの子を怒った顔で見上げた先生は、変わらず“ワルツ第七番嬰ハ短調”を弾きながら言った。 「…豪ちゃん!そんな事、誰が教えたの?!」 は…俺じゃない! 「ふん!知らな~い!」 豪ちゃんは先生にとぼけた顔をしてアッカンベした。そして、まるで煽る様に先生に近付くと、“華麗なる大円舞曲”をピチカート演奏で、可愛らしく弾き始めた。 そして、先生の顔を覗き込みながら、ピチカートで“華麗なる大円舞曲”のワンフレーズを、しつこくリピートさせた。 どんどん、ピアノのリズムが狂って…先生の右手が、音を見失って止まった。 あぁ…完全に乗っ取られた… 表情を歪めた先生が…豪ちゃんにファックされる様を、まざまざと見せ付けられた… 悔しそうに口を尖らせた先生があの子を見て怒って言った。 「なぁんて事するんだ!」 「あはは!先生!来て?お魚が…肺呼吸を覚えた!このまま水面まで一直線に向かって…空へ行こう!」 あの子はケラケラ笑ってそう言うと”華麗なる大円舞曲”のメロディを次から次へと転調させて、音階を上がって行く。 「はぁああ?!」 髪を乱して激しく動揺した先生は、それでも、あの子の演奏に食い付いて、合わせて、大人しく伴奏に徹し始めた。 そんな、自分の憧れの先生を見つめて…ふと…思い出した。 この子は…俺以外の演奏者と演奏した場合…どうするんだろう? そんな疑問… その答えがこれだ。 否応なく…強引に、自分の情景の中に引きずり込んで…抵抗でもしようもんなら、相手を屈服させて、無理やり従わせる… 可愛い顔をして、こいつはとんでもない、暴君だった。 「あぁ…!先生、凄い…!」 そんな聞き捨てならないあの子の言葉に我に返った俺は、あの子の編曲された”華麗なる大円舞曲”を、ものの見事に美しく飾り始める先生を見て、ため息を吐いた。 上手い… 音選びから…テンポ、あの子のイメージをすぐに掴んで…合わせる所か、さらに上に持ち上げて行く… 流石だ…この人は、卓越してる… 「豪ちゃん…はぁはぁ…もっと、して欲しいの…?」 「ん、もっと…もっとしてぇ!」 「あぁ…はぁはぁ…こ、こんなのは、どうかなぁ…?」 「あぁん…すっごい、すっごいのぉ…!」 大丈夫…これは、演奏してるだけだ。 服も来てるし…距離もある。 だけど…ふたりとも、見つめ合いながら頬を赤くして、興奮していく様は…セックスしてるのと変わらない。 そう…セックスしてる。 彼らは合奏しながら、セックスしてる。 「あぁ…豪ちゃん、凄い…イキそうだ…!」 ピアノを弾きながらよだれを垂らした先生がそう言うと、豪ちゃんはゆったりと弓をボーリングさせながら言った。 「だめぇ…」 「はぁあああんん!!」 気持ち悪い… 俺の師と仰いだ先生が、あの子の演奏と、あの子の見た目に…完全にイカレてしまった。 「先生…最後は、もっと奥まで来て…!」 あの子はそう言うと”華麗なる大円舞曲”のフィニッシュを、先生のトリッキーなピアノに合わせて、踏む音を選びながら、途切れ途切れに効果的な音を伸ばして弾いた。 「あぁっ!ダメだぁ…!気持ち良い!イッちゃう!」 ミュートしろ…俺の耳よ、先生の気持ち悪いイキそうな声を…ミュートするんだ。 「だぁめぇ!あっ…!」 あの子はそう言うと、一緒に駆け上がって行かない先生を睨みつけながら曲を弾き終えて言った。 「ん、もう…!先生の、ばぁかぁ!」 項垂れた先生の頭をボカスカ叩くと、髪が乱れても、じっと俯いたままの先生の顔を覗き込みながらあの子が言った。 「どうして?どうして、最後まで一緒に来てくれなかったの…?…嫌だったの?」 「嫌じゃない…」 ポツリとそう言った先生は、豪ちゃんから顔を逸らして、テラスのパリスを見下ろして言った。 「めんこい、鶏だぁ!」 「パリスって言うんだよ?お顔を見せてあげるねぇ?」 豪ちゃんは嬉しそうに微笑んで、バイオリンと弓をピアノの上にそっと置いた。そして、テラスの窓を開いて、裸足でパリスの元へと向かった。 「惺山…惺山…」 そんなヒソヒソ声に顔を向けて、先生を見つめて首を傾げた。すると、先生は悲しそうな顔をして、俺に言った… 「…パンツを一枚、貸してくれ…」 あぁ…マジで…イッたんだ… 豪ちゃんの情景の中を強制的に連れまわされた結果…先生は、あの子にイカされた…。 いいや、先生はまだ…あの子の情景の中に入り切れずにいた。ただただ、あの子の曲展開に翻弄されて、自由に曲の中を泳ぐ様を見ただけだ… 「見て?先生、見て?ほら、一番の美人さんだよ?パリスって言うの…可愛いでしょ?今ね、卵を温めてるんだけど、無精卵なのか、有精卵なのか、まだ分からないんだ。だけどね…ふふっ!惺山ったら、可愛いんだよぉ?ずっと楽しみにしてるの。ふふ…!この人はね、こういう所があるの。可愛いでしょう?」 「うん、可愛いね…惺山はとっても可愛い鶏だ…」 動揺しながらそう言う先生が気の毒になった。 だから、俺は眉を下げながら豪ちゃんに言った。 「豪ちゃん…先生にお茶でも入れてあげなさいよ…」 「あっ!そっかぁ!」 俺の言葉にハッとした顔をした豪ちゃんは、パリスを元の場所に返して、そそくさと台所へ向かった… 「いやはや…凄かった…!」 洗面所で自分のパンツを洗う先生を見ない様に背中を向けると、ため息を吐きながら感嘆の言葉を口に出し続ける先生に得意げに言った。 「あの子の曲展開は凄いでしょ…?」 「凄いなんて物じゃない。曲の領域を簡単に飛び越えていく…。あの子の演奏に付いて行けたのかい…?私は最後…極まってしまったよ。」 先生は自分のパンツを硬く絞って、パンパンとはたいて言った。 「北斗と…演奏させてみたい。」 はは…! あの藤森北斗と? それは…流石の豪ちゃんでも、負けるだろうな… だって、彼は鍛え抜かれた、隙の無い、完璧なバイオリニストだ。 技術力もさる事ながら、独自の表現力も、多様な曲の知識も豊富だ。 足元にも及ばないなんて言ったら、豪ちゃんが可愛そうだけど…育った環境が違い過ぎる。 音楽をする為に用意された環境で育った人間と、そうではない人間。 その差は、どうやっても埋まらない。 幾ら才能が有っても、知識と、経験が物を言う様な技術面では…太刀打ち出来ないだろう。 しかも、藤森北斗はなかなか気が強いと聞いた。 豪ちゃんの強引さにキレる事、間違いなしだ。 水と油だよ。 「どうかな…豪ちゃんの演奏は、わがままだから…。人に合わせて弾かないから…。圧倒的な技術力を前に、地団駄を踏んで、かんしゃくを起こすかもしれない…」 クスクス笑ってそう言う俺に首を傾げて、先生は濡れたパンツを手に持ったまま、台所でコーヒーを淹れる豪ちゃんに言った。 「豪ちゃん、パンツを干しても良い?」 「良いよ。僕が干して来てあげる~!」 あの子はすかさず先生に駆け寄って派手なパンツを受け取ると、縁側沿いの鴨居の上にハンガーでぶら下げた。 「ね、どうしてパンツを洗ったの?漏らしちゃったの?」 豪ちゃんは…容赦ないな… 満面の笑顔で先生にそう聞いたあの子は、首を傾げながら先生の答えを待っている様だ… ふと、先生は遠い目をしながら話し始めた。 「年を取ると…」 「おむつを穿いたら良いじゃない?CMでやってるでしょ?今度、買って来てあげるね?晋ちゃんのお店に売ってるから。」 おむつ…?! 「ぐふっ!」 やばい…腹がつりそうな位…大笑いを堪えてる…! あぁ…こんな事言われたら…俺だったら、イッちゃったって白状してしまうだろうな。 こんな…屈辱を受けるくらいなら… 君の演奏で、勃起してイッちゃったって言った方が、断然良い…! 肩を震わせながら笑いを必死に堪える俺の背中をそっと撫でて、豪ちゃんは、落ち込んで項垂れる先生を心配そうに見て言った。 「今…買って来てあげようか?」 「ぐふっ!」 「イッちゃったんだ…先生はお漏らししたんじゃなくって、豪ちゃんの演奏がエキサイティングで…つい、興奮してイッちゃったんだ!てへぺろ!」 言った!! 流石に、先生も嫌だったんだ… おむつの話をされる事が…嫌だったんだ…!! 体裁を捨てた先生は、正直に白状して開き直った。すると、豪ちゃんは首を傾げながら先生を見つめて言った。 「先生って…すぐにそうやってエッチな話ばっかりして…嘘つきなんだ。お漏らししたって良いじゃない…。年を取ったら人は色々と緩くなっちゃうんだよ?それは恥ずかしい事じゃないのに…老いは、誰にでも訪れるというのに…」 やめてあげて…! 豪ちゃん…! 先生のHPはゼロに近い…もう、それ以上言ってあげるな… 「…うん。」 えぇ…?! ポツリとそう言った先生は、悲しそうに眉を下げたまま畳の上に座った。 諦めるのか…? まだまだお漏らしなんてしない歳なのに…お漏らしジジイのレッテルを付けられて、平気なのか…?! 先生!! 俺は、しょんぼりと口を尖らせて畳の上に座った憧れの師を…哀れんで見つめた。 ちょっと…可哀想だな… 「惺山、僕のお茶持って来て?」 豪ちゃんはいそいそとコーヒーをテーブルの上に置きながら、俺を見上げた。 「はいはい…」 俺は台所に置かれたままの豪ちゃんのマグカップを手に持って、先生の隣に座った豪ちゃんの目の前に置いてあげた。 「ねえ、先生?僕さぁ、中学校を卒業したら…先生とずっと一緒に居たいんだぁ。良い?」 「ぶほっ!」 豪ちゃんは、言葉を選ぶ事をしないんだな…言い方を考えるって事もしない。 単刀直入にそう聞いて来た豪ちゃんに思わず口に啜ったコーヒーを吹き出した先生は、顔を真っ赤にしながらドギマギし始めた。 「…え、ずっと…一緒…?」 「うん。だって、僕は高校にも行かないし…。もし、一緒になったら、先生の身の回りの事、全部してあげる。だから、その代わりに…僕に音楽を教えて下さい…」 きっと…上目遣いの…飛び切りの可愛い顔をして言っているんだ。 豪ちゃんを見つめて顔を真っ赤にする先生の顔を見たら、そんな事、見なくても…簡単に分かった。 「…え…?ほんと?ほんとに、なんでもしてくれるの…?」 「うん…僕に出来る事なら、何でもしてあげるよ。」 あの子がそう言った瞬間…先生は鼻の下を思いきり伸ばしてニヤけた。 …きっと、ろくでもない事を考えているんだ。 「ゴホン…そ、その前に、聞かせてよ。豪ちゃんは…将来どうしたいの…?」 やけにまともな質問をする先生に、背後の俺を振り返った豪ちゃんは、もじもじしながら言った。 「惺山と…一緒になりたいの…」 あぁ…もう! 豪ちゃん…俺の可愛い人…! 愛してるよ… 「はは…質問の仕方が悪かったね…。君自身は…どうしたいと思ってるの…?」 先生はクスクス笑いながら、あの子の髪を撫でて瞳をじっと見つめた。 俺の場所からは…あの子の表情は見えない。 でも、先生の真剣な瞳を見たら…あの子が、じっと先生の瞳を見つめて、熟慮している様子が伝わって来た。 「…僕は、自由になりたい…」 ポツリとそう言ったあの子は、涙を拭う様に肩を揺らした。 自由になりたい… その言葉の重さを…俺は知ってるよ。 「音楽は君を自由にするの…?」 瞳を細めて先生がそう尋ねると、豪ちゃんは鼻を啜って言った。 「…僕は、小さい頃から…人と違うんだぁ。”普通“という事が分からなくて…”普通”になれなくて…”変わった子“でいる事を望んだ。そんな僕に、彼が…音楽を教えてくれた。それは…今まで抑えて来た、僕の無茶苦茶を表現しても、笑って喜んでくれる場所だった…。もっとして良いよって…彼が笑顔で言った。」 俺の存在が、あの子のきっかけになった… そんな豪ちゃんの言葉に胸がいっぱいになって、笑顔でも無いのに…頬が痛くなった。 「…先生?僕には、見えちゃいけない物が見えるんだ。でも、そのお陰で…彼の音色が…まるで話し声の様に聞こえて…彼が弾く音楽が、映画の様に目の中に映った…。うっうう…。ずっと…ずっと、どうしたら良いのか分からなかったこの目を…この感覚を…。彼が、こうしたら良いって…教えてくれたんだぁ…。」 あぁ…そうだね。 君の感受性は止め処ないから…持て余していたんだよね… どうしたら良いのか…分からずにいたんだよね… 涙に震え始めた豪ちゃんの小さな背中をそっと撫でながら…あの子のすすり泣く声に、一緒になって涙を落した。 「…だったら、どうして私なんだい…?確かに、私は豪ちゃんを気に入って、自分の手元に置きたいと思ってる。聴き手に欲しいし、本格的にバイオリンを習わせたいと思ってる。でも、豪ちゃんは、森山君に心酔してるじゃないか…。彼に指導を受ける事は考えなかったのかい?」 豪ちゃんの涙をハンカチで拭きながら、優しい声で先生があのこにそう尋ねた。 どうして俺ではなくて…先生なのか… それは… それを説明するには…あの事も言わなくてはいけない… そんな話を… 普通の人は、まともに聞いてくれるんだろうか。

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