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#32
「コッコッコッコッコケ~コ…!」
「コッコッコケ~コ!コッコッコケ~コ!」
てんで、バラバラだ…
雄鶏を失った雌鶏の鳴き声には、まとまりがない…群れの消失だ。
重たい瞼を開いて、俺を見つめて涙を流す豪ちゃんを見て、にっこりと微笑んだ。
「豪…おはよう。」
豪ちゃんはしとしとと涙を流しながら、俺の唇に容赦なく指を突っ込んで来た…そして、真顔の表情を変える事無くボソリと言った。
「おはよう…惺山…今日は、学校、お休みする…」
そうだね…
そうしよう…
「分かった…健太にそう言う…」
俺は、豪ちゃんの手を退かして体を起こした。そして、布団の中で項垂れる柔らかい髪を撫でて、あの子が捕まえようとする手から逃げる様に、布団を出た。
引き戸のつっかえ棒を外して、風呂場の前でいびきをかき続ける健太に声を掛けた。
「おい、朝だぞ!豪ちゃんは…具合が悪いみたいだから、今日は学校をお休みするそうだ!」
「んぁああ!」
これは、きっと…分かったって、言ったんだ。
俺の言葉に唸り声で返事をした健太を横目にみながら、雨戸を開いた。
そして、涼しいくらいの朝の空気を部屋に取り込んでいく…
…もう、秋だな。
焼き芋を焼いてもらおう…
おもむろに庭に降りて、いつも豪ちゃんがそうする様に、鶏小屋の扉を開いて雌鶏たちを外に放った。
「…お前は、アンヘッシュだ…」
小屋の中、一匹だけ残ったアンヘッシュを見下ろしながら、藁の上にコロリと光る卵を籠の中に回収していく。
「コケ~コ!!」
「…コケ…コケ…」
小屋の外から聴こえてくる雌鶏の声は、まるで口喧嘩でもしている様に聞こえる。
雄鶏の居なくなった群れは、将軍の死んだ後の大奥と同じ。正室と側室が派閥を作って、独特の緊張感を放っている…。
草をついばむ場所取りで、大体のグループ分けを把握する事が出来る。
今の所…2つの派閥に分かれてるみたいだ…
どこにも属さないアナーキーな雌が、ちらほら…散見する。
…こんな一触即発な彼女たちを同じ小屋に入れていても…平気なのかな…?
また、喧嘩でも始まったら大変だ。
早く…江森のおじさんって人の所に…返しに行った方が賢明だ…
「豪!豪!」
卵を回収し終えた俺が縁側に戻るころ…器用に蠕動運動で前進する健太を横から眺めて、目を奪われた…
…あぁ、あんなクレイアニメを…甥っ子と見た事がある。
部屋に上がった俺は、豪ちゃんの名前を大声で呼びながらズリズリと這いずる健太を横から蹴飛ばして言った。
「豪ちゃんは具合が悪いんだ!大声出すな!」
「なんだ!じゃあ、俺の飯は…?!」
最低だな…
転がる体を止める事も出来ない芋虫健太をグリグリと足で踏みつけて、顔を覗き込みながら言った。
「そんなんじゃ、女の子は逃げて行くぞ?俺の飯は?俺の世話は?…はっ!テメエでやんな!って…嫌われるぞ?良いか?豪ちゃんみたいな拗らせた世話好きの女なんて、そうそう居ない。あれが普通と思うな?世の中の女性はもっとシビアだ。優しい顔をしていたかと思ったら、次の瞬間…バッサリ行くぞ?」
そんな俺の脅しを生唾を飲んで聞き入った健太は、台所へ向かう俺の足元をズリズリと這いずりながら付きまとった。
「じゃあ…ご飯を作ってあげるって言われたら、断った方が良いのか?」
必死に顔を見上げて聞いてくる健太に、首を横に振りながら呆れたため息を吐いて言った。
「はぁ…そういう時は、好きな女だったら…過剰に喜んで誘いを受けたら良い。でも、手伝う姿勢は忘れるな。“何か手伝おうか?”って、言うか…言わないか、それが、ポイントだ。」
何度も頷いて感心する健太を横目に、俺はほんのり温かい卵を、いつも豪ちゃんがそうする様にボールに割って掻き混ぜた。
「エッチをするタイミングは…?」
…こんな事、朝、話す内容じゃない…
芋虫状の体をくねらせながらしつこく聞いてくる健太を見下ろして、俺は肩をすくめて言った。
「…帰らせたがらなかったり、やけに体を触って来たり、しきりに手を見て来たり、声の調子がいつもと違ってうっとりして来たらやれば良い。ただ!確認はした方が良い事は確かだ。たまに居るんだ…そんなつもりじゃなかったのに…とか抜かす馬鹿が。」
吐き捨てる様にそう言った俺の足を、健太は何度も頭で小突きながら必死に聞いて来た。
「確認の方法!確認の方法!」
「はぁ…敢えて顔を近づけて見たり、手を握ってみたり、軽くキスした時の反応で…推し量れ。」
「へえ…」
ほ…?
そんな…冷めた様な声色に視線を上げた。
そこには、寝室から顔を覗かせた豪ちゃんが立っていた。ジト目で見つめる目の奥が…心なしか、メラメラと燃えて見えた。
あの子を見つめて、なぜか…蛇ににらまれたネズミの様に恐怖で動けないでいると…豪ちゃんは再び口を開いて言った。
「へえ…」
おぉ…怖い…
「まあ…人、それぞれだから…」
咄嗟に豪ちゃんから視線を外した俺は、しつこい健太を蹴飛ばしながらフライパンに火をつけた。
「…じゃあさ、いつ挿入するの…?いつ?いつ挿入するの?…タイミングは?」
「…知らない。」
しつこい…
食い下がる。という言葉を体現する様に、健太は、何度蹴飛ばしても俺の足元にすり寄って来る。
俺は、そんな健太を無視したまま、温まったフライパンに卵を入れて、塩コショウをした。
「おい!惺山…!グチョグチョになったら?ねえ!惺山!聞いてんだろッ!無視すんなよっ!グチョグチョになったら挿れたら良いの?その前に挿れたら、怒られるの?」
…どうしたら良いんだ。
寝室の入り口で、ジト目で俺を見つめる二つの真ん丸の視線を感じるんだ…
それはいつもの様に恋焦がれる様な可愛い物じゃない。
射貫く様な…鋭くて、強烈な視線だ…
「さぁ…知らないなぁ…」
健太の問いかけなんて、答える気はないさ…
俺は、涼しい顔をしながら視線をフライパンに落として、卵を菜箸で何となく…混ぜてみる。
「…教えてあげたら、良いじゃない…」
ふと、そんな声がすぐ傍で聞こえて…ゾクッと背筋を震わせた。
「ハァっ?!…ご、豪ちゃん…起きて来たの…?ね、寝てて良いんだよ?」
なぜか異常に緊張した俺は、口から出した声が裏返った…
そんな俺の背中を撫でた豪ちゃんは、フライパンの中を見つめながら言った。
「…グチョグチョになったら…挿れていたの?それとも…グチョグチョになる前に…挿れていたの?ねえ…?惺山、どっち…?」
何だか…怖いね。
怖くて、フライパンの中の、菜箸が止まらなくなったよ…
「ひ、ひ、ひひ…人それぞれだよ…」
フライパンの中の卵焼きは、当初俺がイメージしていた物よりも、細かいスクランブルエッグになった。それは、以前豪ちゃんがお弁当に入れてくれた…そぼろの様だ。
ふと、さっきまで、しつこく食い下がり続けた健太の声が聞こえなくなった事に気が付いて、あたりを見渡した。
豪ちゃんの不穏な空気を察した健太は、居間へ蠕動運動して逃げて行った…
「ご飯出来たぞ?自分でやるんだ。俺はやらないからな!」
「豪!豪!豪がやって!」
ビチビチ跳ねて抗議する健太を横目に見た豪ちゃんは、俺に抱き付きながら、まん丸の瞳を見開いて言った。
「…僕と離れたら、誰かをグチョグチョにして挿れたりするのかな…?ねえ?惺山…するのかな?」
何て会話だ!
朝の6時にするような会話じゃない!
真顔で見上げて来る狂気の豪ちゃんを見下ろして、首を横に振りながらキメ顔で言った。
「しないさ…」
「嘘つき…」
速攻で否定された!!
「ど、ど、どどうしてそう思うのさ…」
そう言ってあの子の真ん丸の、見開いた、怖い瞳を見つめて首を傾げると、豪ちゃんは瞬きもしないで俺を見つめて言った。
「…スケベだから…」
はは…
はははは…!
そう言ったっきり、クッタリと抱き付いて来るあの子を抱えたまま…健太のどんぶりに米をよそった。
これ以上…この話題は、危険すぎる。
豪ちゃんの杞憂の嫉妬が牙を剥いて、俺を攻撃してくる!
「ささ…ご飯を食べて、少し寝たら良い…ね?ね?」
怯える健太にどんぶりを手渡した俺は、豪ちゃんのお茶碗と自分のお茶碗をテーブルに置いて、いただきますをした。
「…なぁんだ!この卵焼きはぁ!味無しの卵そぼろご飯じゃねえか!」
そんな健太の声にピクリと眉を動かした豪ちゃんは、おもむろに立ち上がって台所へ行った…
「…健太…お前があんな話を振るから、あの子が怒ったじゃないか…!」
「…知らない…俺は、何も…知らない。はは…巻き込むなよ、惺山…」
コソコソと言い争いをしている俺と健太の間に戻って来た豪ちゃんは、茄子の漬物を刻んだ物と、急須をテーブルに置いて言った。
「…兄ちゃん、お茶漬けにしたら良いでしょ…?」
「そうだな!豪の言う通りだ。すぐに、お茶漬けにします。」
健太は言葉通り、すぐに体を動かした。
どんぶりの中に、茄子の漬物と、俺の作った卵のそぼろをパラパラと振りかけて、迷う事無くお茶をぶっ掛けた後、どんぶりを抱えて、口の中へとかっ込み出した。
「はぁ、やっぱり…豪は凄いなぁ!味のしない卵が…ガツガツ…ほら、ガツガツ!こんなに美味しくなったぁ!」
なる程…
「本当だぁ!豪ちゃんが居てくれて、あぁ…良かったぁ!味のしなかった卵焼きが、こんなに美味しく変わったぁ!わぁ~い!」
俺は必死に健太の真似をして、豪ちゃんを異常に持ち上げた。
そんな俺と健太の様子をジト目で見つめていた豪ちゃんは、ツンとすまし顔をした後、鼻でため息を吐いて言った。
「ん…もう…」
あぁ~~~~!怖かったぁ!
いつもの調子に戻ったあの子の様子に胸を撫で下ろした俺は、おかわりを自分でよそいに行く健太を見て…まだ、油断してはいけないんだと、把握した
「豪ちゃん?お漬物…お茶漬けに丁度良いお味だね?」
「本当?どれどれ?…うん、美味しいね?」
確かに…そう言って俺を見つめるまん丸の瞳の奥が、まだ、かすかに燻ってる。
この子は、やきもち焼きなんだ…
可愛いよ?可愛いけど、怖いんだ…
まん丸の瞳が、嫉妬の炎で燃え盛って、急に狂気を纏い始めるんだ。
良く言うだろ…?
普段怒らない人が怒るとめっちゃ怖いって…
それさ。
「ご馳走様でした…」
健太は早々に朝ご飯を切り上げて、そそくさと出勤の準備を始めた。
俺は機嫌の戻りつつある豪ちゃんと一緒にお皿を片付けながら、ふと…あの子の剥き出しのおでこを触った。
「…熱い?」
そう聞いて来るまん丸の瞳を見下ろして、何て事無い平熱のおでこにキスして言った。
「熱くない…」
だって、どこも具合が悪い訳ではないんだ。
昨日の夜…俺の話を聞いた豪ちゃんは、怖くなってしまったんだ。
俺から目を離す事が…怖くなった。
「もしもし?おはようございます。健太です。豪が風邪ひいたみたいで、体調を崩したんで今日、学校休むんです。だから…哲郎に伝えて貰っても良いですか?はいはい、え?いやぁ…夏風邪かなって…はい、どうも…はい~。」
健太は携帯電話を片手に、器用に靴下をはきながら、哲郎の家に電話を掛けて本日のお迎えを断っている…。そんな兄貴の様子を俺の手を握りながら、豪ちゃんは見つめていた。
「おはようございます。豪の兄です。今日…風邪かな、体調不良で…お休みします。先生にお伝えください。はい、失礼します。」
学校への連絡も済んだ様だ…
「…どこも悪くないのにね…」
俺は、そっと豪ちゃんを見下ろしてそう言った。すると、あの子は俺の足を踏んで痛めつけた。
意外とこの子は…ドSの可能性も秘めてる。
「ほら、寝てろよっ!兄ちゃんは仕事に行って来るからな!豪!」
「うん…気を付けてね。」
豪ちゃんはいつもの様に健太に駆け寄って頭をポンポンと叩いて貰った。そして、すぐに踵を返して俺に抱き付いて…健太を振り返って言った。
「…行ってらっしゃい!」
「…まぁったく!」
呆れた様に項垂れた健太は、まるで豪ちゃんの仮病に気が付いてるみたいに、ハァ~っとため息を吐いて、背中を丸めて出かけて行った。
「気を付けてな~…」
そんな俺の声も、届いたかどうか…
「とりあえず…着替えて…鶏を返しに行こう…?」
「え…?」
俺の提案に潤んだ瞳を歪ませた豪ちゃんは、俺を見つめて首を横に振った。
「もう…!車は運転しちゃ…だめ!」
そんな…
そんな…!
せっかく買ったのに!!
「…ご、豪ちゃんが一緒なら、何となく、安全な気がする…!」
俺はケロッと普通の顔をして豪ちゃんにそう言った。でも、あの子は俺の胸をパシパシと叩いて、全拒否をしてこう言った。
「…に、鶏は後で良いのぉ!早く!早く…交響曲を書き上げてよっ!」
そんな…
怒った顔で俺を見つめる豪ちゃんを見つめ返して、胸の奥がチクリと痛くなった。そんな気持ちを誤魔化す様に、あの子のプニプニのほっぺを両手で挟んで、可愛い唇にキスした。
「…無理だよ。ああいうのは気が乗らないと…出来ない。」
「ん、もう…!ばっかぁん!」
ふふ…可愛い。
やっぱりだ。
やっぱり…この子は俺に早く離れて欲しがった。
…悲しいな。
悲しいな。
「豪ちゃん…鶏を全員連れて行くの…?パリスも…?」
腕の中でモゴモゴと文句を言い続ける豪ちゃんを見下ろして、そう尋ねた。あの子はハッと顔を上げて、瞳に涙を溜めながら言った。
「…パリスも…連れて行く…」
あぁ…パリス嬢。
麗しの…俺のパリス嬢…
こんな急に、お別れが来るとは思わなんだ。
「分かった…」
俺は豪ちゃんと一緒にピアノの部屋へ向かった。テラスには、いつもの様に藁の上で卵を温め続けるパリスが、俺と豪ちゃんを不思議そうに見上げた。
「…お嬢、お別れだ。君は鶏の沢山いる場所へ連れて行かれる事になった。そもそもの発端は、君だ。分かるかい?あんなやさぐれた男に惚れたのが、運の尽きだ。君の恋は周りを巻き込んで…ボスの命を奪った。お陰で、この群れはお終いだ。」
そんな俺の言葉に首を傾げたパリスは、ムクリと立ち上がってお尻を向けて座り直した。
ふふ…お嬢はやっぱり、賢い鶏。
離れがたいよ…
「豪ちゃん…パリスの卵はどうする…?」
そんな俺の言葉なんて耳に入ってない。
豪ちゃんはパリスを見下ろしたままボロボロと涙を落として、鼻をズーズー音を立てて啜った。
「…うぐっ!…この子はぁ…第二世代の一番の美人さんなんだぁ…!僕が、僕が…初めて、孵化させた卵ぉ!うっうう…うわぁあああん!パリスゥゥゥ!嫌だぁああ!どこにも行かないでぇぇぇ!」
ギョッと顔をしかめるパリスを無視して、豪ちゃんは彼女の元に駆け寄って優しく抱き上げると、テラスに寝転がって…背中で回り始めた。
あぁ…
何てことだ…
「いつも…いつもぉ!雄鶏がパリスについて歩くから…他の雌が大荒れするんだ!パリスばっかりモテるって!他の雌が怒るんだぁ~~!そりゃそうさ、彼女はナンバーワンだもの!!うぐっ…ううっ…う、うぅ…!うわぁあああん!」
3周くらい…背中で回転をした後、ふと、豪ちゃんは体を起こして膝の上にパリスを置いた。そして、嫌がる彼女の頬に頬ずりしながら…ギリギリの歌を歌い始めた。
「ふんふん…もごもご…ゴニョゴニョ…振り向くなパリス~!」
あぁ…このやり取りが…きっと、20羽分あるのだろう…
さめざめと泣き続けるあの子の頭を撫でて、俯いた顔を覗き込んで言った。
「今日は…止めよう…」
「うん!…うん!」
何度も頷いて答えるこの子には…愛情を込めて育てた鶏を、簡単には手放す事なんて、出来そうもない…。もう少し、時間が必要だ。
豪ちゃんの決心が付くまで…鶏の件は保留だな。
では…仕方が無い…
「じゃあ、第四楽章を作るよ…」
俺は肩を落として、豪ちゃんにそう言った。すると、あの子は何度も頷きながら瞳を潤ませた。
作りたくない…
作ってしまったら、帰らなくてはいけなくなる。
この子の傍に居る口実が、あっという間に終わって行くんだ。それはまるで…早く離れろと、言わんばかりに…
まだ、この子の傍に居たいのに。
何でだよ…
ため息を吐いてピアノに腰かける俺に、隣に座って顔を覗き込ませた豪ちゃんが体を揺らして言った。
「早く!早く!」
はぁ…
「豪ちゃんは…俺の事が、嫌いなの…?」
そんな俺の沈んだ声に、豪ちゃんは悲しそうに眉を下げて言った。
「…愛してる。」
…分かってる。
分かってるさ。
だけど…嫌なんだ…
豪ちゃんの傍に、半年はいる筈だったのに…考える暇もないまま、あっという間に過ぎていく時間の中、君の傍に居られる理由はどんどん無くなっていく…
君がパリスと離れがたい様に…俺にも、時間が必要なんだ…
分かるだろ。
君と離れるなんて…今は、まだ、考えたくない。
ピアノの鍵盤に両手を掲げて、そっと瞳を閉じた。そして、弾き始めたのは…ショパン、“ワルツ第七番嬰ハ短調”。
この曲を、君の為だけに弾く…この曲は君の様だ。
甘ったるくて…トロける…そんなメロウな君が、大好きだ…
大好きだ。
豪ちゃんは何も言わないまま、俺の肩に腕を掛けて体を寄り添わせた。そして、左の耳を傾けながら、俺の顔を覗き込んで、ピアノを聴いている。
そんな事…瞳を開かなくても、耳に届く君の息遣いで分かるんだ。
「ここが…好き…」
そう言いながら俺の襟足を指に絡めて来るから…曲のポイントなのか…俺の襟足なのか…どちらが好きなのか、分からない。
ピアノを弾き終えた俺は、ゆっくりと瞼を開いて目の前のあの子を見つめて言った。
「今の曲を、君にあげる…」
君への愛と思いを込めた…俺だけの“ワルツ第七番嬰ハ短調”。それは、楽譜には無い要らない音を沢山踏んだもの。
だけど、君の耳には…届いているだろ。
俺が何の音を聴いて、何の音を踏んだのか…
「わぁ、素敵だったぁ…。では、僕もお返しをしよう…」
ピアノの音色に耳を寄せて気持ちが落ち着いたのか…豪ちゃんは、もう俺を急かす事を止めた。
「特に…ポロロロン…って、尾を引く様な、音色が綺麗だった…」
…それは、ハープの音色だよ。
音の流れを表現する様に人差し指をクルクルと動かした豪ちゃんは、うっとりと瞳を潤めて俺の頬にキスをくれた。
そして、ピアノの上に置かれたままのバイオリンをケースから取り出して、珍しくペグを触りながら俺を見つめて言った。
「…ほんの少し、たるませて弾いてみたいんだぁ…。」
へぇ…
そんな事…考えるんだ…
「駒が傾かない程度にしなさいよ…?」
「はぁい…」
俺の言葉にクスクス笑いながら、あの子は指で弦をはじきながら調弦した。そして、本来“ソ”の音のG線を“ミ”まで落として、俺を見ておねだりして来た。
「この音に合わせて…全部の音を教えて?」
「ほい…」
豪ちゃんのお願いは…断れないさ。
“ミ”に落とされたG線に合わせて、残りの3弦の音をピアノで教えてあげた。すると、豪ちゃんは、弦に弓を強く当てて、チャルダーシュの冒頭の様なこぶしの効いた音色を出した。
そして、真剣な表情で、じっと、耳を澄ませながら確認した様に頷いて言った。
「…よし!」
ピッチが下がった。
これで、この子は…俺に何を贈ってくれるのかな…
「では…僕からあなたへ…」
そう言って微笑んだ豪ちゃんは、姿勢を美しく整えてバイオリンを首に挟んだ。
まん丸の瞳は、泣きはらした赤い目じりをそのままに、俺を見つめて愛おしむ様に色付いた。
美しく弓を引き上げてそっと構える姿は、ただただ…美しかった。
豪ちゃんは、ゆったりと体を揺らして、まるで踊る様にバイオリンを弾き始めた。
…エリック・サティの“ジュ・トゥ・ヴ”
「はは…もう、覚えたの…?」
参ったね…選曲のセンスが、秀逸だ。
あなたが欲しい…あなたが大好き…そんな邦題が付くこの曲を、豪ちゃんは俺を見つめながら弾き始めたんだ。
照れるさ…
照れて、恥ずかしくて、嬉しくて…
俺は、頬を熱くしながらクスクス笑って豪ちゃんを見つめた。すると、あの子はじっと俺を見つめ返して、にっこりと微笑んだ。
初めに弛ませた弦の怠さが、サティの重い音色をよく再現させてる…
面白いな…この雰囲気が、この、ねっとりと粘つく様な音色が欲しかったのか。
「まるで…ピアノの音色に聴こえる…」
そんな俺の言葉に、豪ちゃんはゆったりと体を揺らして、答える様に嬉しそうに微笑んだ。そんなあの子の様子を見ていたら、自然と指が鍵盤の上を走って…ピッチの下がったサティを一緒に弾き始めた。
「あぁ…こっちか…!」
“ジュ・トゥ・ヴ”の伴奏を何度となく鍵盤を踏み間違える俺に、豪ちゃんは首を傾げて言った。
「下手くそ~!」
なんだと?!
この曲は、シンプルに見えて…トリッキーなんだぞ?
音があっちこっちに飛ぶんだから…
しかもピッチが下がって、いつもと違う鍵盤を踏んでるんだ。
多少の間違いは、ご愛敬だ!
「…もう少しゆったりと弾いてよ。雰囲気が無いな…」
お返しにそう言ってやると、豪ちゃんはクスッと笑って言った。
「…はぁい」
ふふ…
あぁ…可愛い…
このまま…この子と、ずっと一緒に居たいや…
あの子のバイオリンが主旋律を弾くと、俺はそれにハーモニーを加えて…メロディを一緒に作って行く。
それは簡単な様で…難しい事。
まるで紐の無い二人三脚の様な物。
だけど…君となら、テンポのズレなんてある訳ないさ。
ピッタリと合わさって…同じメロディを弾き続ける自信があるよ。
ゆったりと、水面に落ちて行く木の葉の様に…大きく揺れながら曲を弾き終えた。
豪ちゃんは弓をバイオリンから離して、俺にお辞儀をした。
「ふぅ、気持ち良かったぁ…」
エロイな…その表現は、少し、エロイな…
すかさず俺の隣に座り直したあの子は、バイオリンのネックを俺に差し出して言った。
「…ね、直してぇ?」
「ふふ…まったく…」
でも、俺は…この子に弱いんだ。
頼まれ事を断るなんて…出来ない。
バイオリンを受け取って正しい音に調弦し直して、手を出したままのあの子に返した。
豪ちゃんは俺を背もたれにしながらバイオリンをウクレレの様に構えて、弦をつま弾き始めた。
「ポロン…ポロン…」
そんな言葉を一緒に呟いて、ぼんやりと…どこかの世界に行ってしまったあの子をそのままにしながら、空の五線譜を眺めて第四楽章を考える…
第三楽章で、音楽という自己表現の術を手に入れたこの子が、これから向かう先だ…
それは華やかで、煌びやかな世界…
ん、どうかな…?
俺の襟足を指に絡めて、ぼんやりするのが一番好きなこの子が、そんな世界へ行きたいと思うかな…
ただ、穏やかに流れる時間を味わう様に生きている、この人が。
そんな、見せかけだけの…虚像を望むかな…
俺の為にバイオリンを弾く豪ちゃん…
でも、君がバイオリンを弾く理由は、それだけじゃない…。
君は、音楽で…自由を手に入れられたんだ。
そうか…
第四楽章のテーマは、自由だ…!
第一楽章は、爽やかなソナタ形式で起承転結を用いて、あの子の産まれを描いた。
第二楽章は、マーチにして、”普通“という事と”常識“という事を行進で表現して、止まらない日常と、それに必死に合わせようとするあの子の葛藤を描いた。
第三楽章は、音楽と…俺と出会って、自分の内面を表現する術を手に入れた。それは今まで短所だと思って来た、疎ましく思っていた、感受性や、感性が、長所へと変わった瞬間だ…そんな劇的なシーンを…マズルカと、タンゴのリズムで仕上げた。
だとしたら…第四楽章は…ワルツ…?ポルカ…?
いいや、もっと情熱的で、最高に盛り上がる物が良い。
頭の中を表現しきれる技術を手に入れた、未来の豪ちゃんが…自分の体を抜け出て…無限の想像力で…曲の中を自由に泳ぎ回る。
そんな…躍動感と…強烈なインパクトが欲しい。
タランテラ…
あぁ…良いね…!
タランチュラの毒にもがき苦しんでいる様に見える…そんなアップテンポの舞曲。タランテラのリズムにしよう。
「惺山…あ~んして?」
「あ~ん…モグモグ…ん?」
いつの間に…タコライスを作ったの…?
俺の隣に座った豪ちゃんは、満面の笑顔で、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたタコライスをスプーンにすくって俺の口へと運んだ。
そして、驚いて目を丸くする俺を見つめて、ケラケラ笑って言った。
「これはお肉じゃないんですぅ!大豆を潰して…乾燥させておいた偽物のひき肉なんですぅ!騙されたでしょ?あっふふ!」
騙された…
てっきり、ひき肉だと思った…
「…とっても、美味しいよ…」
ポツリとそう言って、口を開いて豪ちゃんの差し出したタコライスをパクリと食べた。
絶妙なタコミートだ。
レッドキドニービーンズまで入って、チリコンカンに近い…ピリリと辛いスパイスも上等な、本格的なタコミートだ。
「サルサソースが…見事だね…」
五線譜を眺めながらそう言うと、豪ちゃんは俺の腕をナデナデしながら嬉しそうに言った。
「うふぅ。そうでしょ?完熟トマトを細かく切って…ニンニクとオリーブオイルと玉ねぎ…唐辛子を入れて、少し煮込んだんだ。」
凄いな…店でも開けそうだ。
“豪のGO!GO!カフェ”なんて…そんなダサくて、コテコテの店名にして欲しいよ…
そんな下らない事を考えながら…俺は、いつもの様に豪ちゃんに餌付けしてもらう。
ピアノの上を走り続ける指を自由にさせて、一曲、弾き始めた。
”タランテラ・ナポリターナ“…タランテラと言えば、この曲を真っ先に思い出す。
「あふふ!沢山の音色が聴こえる…!」
あぁ…そっか…
「…ふふ、例えば…?」
俺はクスリと口端を上げてそう尋ねた。そしたら、豪ちゃんは首を傾げて答えた。
「知らない。僕は楽器の名前を知らない。でも…弦の付いてるギターみたいな楽器と、タンバリン、後は…こうやって…演奏する。鍵盤の付いてるやつ!」
豪ちゃんはそう言いながら、両手を開いたり閉じたりして見せた。
面白い…俺が頭の中で演奏してる楽器と、同じじゃないか。
マンドリンと、タンバリン…後は、アコーディオン。
この音楽にはこの楽器が良く似合うんだ。
タコミートにサルサソースがよく合う様にね。
「はい、惺山。あ~んして?」
「あ~ん、モグモグ…美味い!」
せっかく第四楽章として、とりを飾るんだ…
豪華な編成にしたいね。
サックス…ホルン、トロンボーン…その他の管楽器で彩った厚みのある音色の層に、チェロ、コントラバス、チューバの重低音のベースで、要所要所にタンバリンとマンドリンの震える音色にインパクトのあるリズムを刻ませよう。これが、タランテラであると…誇示するようにね。
そして、バイオリンがその上を自由に駆けまわって行くんだ…
音楽の中を自由に泳ぐ、あの子の姿、そのままに。
「惺山、最後…あ~んして?」
「あ~ん、モグモグ…」
最期にお茶を一口飲ませて貰った俺は、ピアノに向かってイメージを膨らませながら、いくつかのタランテラのフレーズを弾き始める。
これは豪ちゃんの集大成となる、タランテラ…
自由なあの子を表現するのと同時に、裏の意味も込める。
俺が…あの子に望む姿だ…
沢山の楽器がずらりと並んだ…オーケストラの前で、君は指揮者の隣でバイオリンを首に挟んで、沢山の観客を前に…君の自由を、君の感性を、伝染させるんだ。
あたり一面を君色に染めて…飲み込んでしまえ…
…他と違う事が、君の最大の強み…
溢れる感性と感受性を武器に変えて、誰よりも自由で、誰よりも無限の音色を奏でて…飛び立つんだ。
…誰にも行けない場所へ。
そうして…いつの日か、また…出会える時が来たら…
また、俺を…愛してくれ。
「…出来た…」
「せいざぁん!ね、あ~んして?あ~んしてみて?」
ピアノの部屋のドアを勢い良く開けて、豪ちゃんが飛び込んで来た。そして、俺の口元に何かを運んで体を揺らした。
完璧な情景を盛り込んだタランテラに極まった俺は、満足して放心しながら、何も考えずに口を開けて言った。
「あ~ん…モグ…!」
そうだ…あの子の中のドSが牙を剥いていたんだ。
「あっふい!あふい!こらぁ!」
「キャッキャッキャッキャ!」
満足げだな…
お猿の笑い声を響かせる豪ちゃんを横目にジト目で見つめた。そして、口の中の物を火傷しない様にモグモグと食べてみる。
おぉ…これはぁ…
「んまい!とんかつだ!」
「ぶっぶ~!ヒレカツですぅ!」
豪ちゃんは不満そうに頬を膨らませて舌を出した…そして、おもむろに菜箸をバイオリンの弓の様に動かしながら言った。
「さっきの、とっても好き~!」
あぁ、俺もだよ…
「ヒレカツ…旨し…」
そう言いながら五線譜に“#4”とナンバリングをすると、本棚の上に置いた楽譜たちと一緒に並べて置いた。
…揃った…
第一楽章から…第四楽章まで…揃った…
一週間も経たない内に、納得する出来の交響曲が完成するなんて…
よっぽどの天才か、よっぽどの見誤りがあるかだ…
…それとも、誰かが…背中を押しているか…
早く豪ちゃんから離れろと…誰かが言ってるみたいだ。
やなこった…
俺には、豪ちゃんと離れる前の心の準備期間が必要なんだ。
毎日美味しいご飯を食べて、毎日この子の傍で楽しくのんびり暮らして、いつの日か…あぁ、そろそろ離れようかな…なんて、思ってから、荷造りをして、帰るんだ。
「あぁ、終わった…終わった…」
集中力が切れた。
ドッと疲れた体をヨロヨロと動かして、居間の畳の上に寝転がった。
縁側の向こうでは、鶏たちが朝の小競り合いなんて忘れた様に、穏やかに草をついばんでいる。
トントン…トントン…
台所からは、豪ちゃんの包丁が野菜を切る音が聴こえて…目の前の空は夕暮れに赤く染まり、涼しい風が頬を撫でていく…
あぁ…このまま…このまま、死んでしまいたいな。
そっと瞳を閉じると、体がズシリと重たくなって…そのままクッタリと脱力した。
この、幸せの中で…死んでしまいたい。
あの子の傍で、死んでしまいたい。
「…惺山?」
豪ちゃんの訝しがる声が聴こえて目を覚ました俺は、ムクリと体を起こして豪ちゃんを振り返って首を傾げた。
「どした…?」
そう聞いたのに…豪ちゃんは俺に視線を合わせないで、下を見つめたまま、顔を歪めて駆け寄って来た。
「惺山…!」
「ど、どどどしたんだよ?!怖いな!」
豪ちゃんのあまりの剣幕に驚いて立ち上がって、身構えた。
でも、豪ちゃんは俺の方なんて見もしないで、足元に滑り込んで来た。そして、眠ったままの俺を揺すりながら何度も言った。
「惺山?惺山…?」
え…?!
「惺山…どうして…どうして!うっうう…うわぁああん!!だぁめだぁ!あぁあああん!!」
あの子の悲鳴が耳の奥をつんざいて、目の前を真っ白に染めて行く…
これは…どういう事なのか…
どうやら…俺は、死んでしまった様だ。
だって、動かなくなった自分の体に豪ちゃんが縋り付いて…泣いている様子を、少し後ろから眺めているんだ…
「惺山!せいざぁん!!いやぁだぁ!あっあああああ…」
豪ちゃんは動かなくなった俺の体を抱きしめたまま、絶叫して気を失った…
どうしよう…
どうしたら良いんだ…
理解不能な状況に俺の頭は、パニックだ…
咄嗟に、俺の体の上に倒れ込んで動かなくなった豪ちゃんに寄り添って、あの子の頭を撫でた。
でも…触れる事が出来なかった。
この子の…こんな様子を、見ていられない…
何とかして…誰かを呼ばないと…
「豪ちゃん!どうした!」
血相を変えた哲郎がそう言いながら縁側に現れた。
さすが…哲郎だ…
良かった…お前が来てくれたなら、もう…安心だ。
ホッと胸を撫で下ろして、縁側から哲郎を見下ろして言った。
「哲郎…豪ちゃんを助けてくれ…パニックになってるんだ。落ち着かせて…安心させてあげてくれ…」
そんな俺の声なんて聞こえる訳もない…
哲郎は首を傾げながら、畳の上に寝転がった俺の上に覆い被さって眠る豪ちゃんを揺すって起こした。
「豪ちゃん…豪ちゃん、どうしたんだ…?!凄い声が聴こえたぞ…?」
哲郎の声にゆっくりと瞼を開いた豪ちゃんは、俺の胸を撫でながら、ボツリと小さい声で言った。
「惺山が…死んだ…」
「は…?」
状況のつかめない哲郎は、唖然としたまま豪ちゃんを見つめた。そして、眠ったままの俺の顔に手を掲げると、呼吸の無い様子に一気に狼狽して声を震わせた。
「はぁ…?はぁ?何で…?何でだよ…?!」
「だめだぁ…!」
豪ちゃんは目を真っ赤にして俺の体を揺すり続けた。そして、見様見真似の人工呼吸をしながら必死に叫んだ。
「せいざぁん!せいざぁん…!!だぁめぇ!!惺山!!死なないで!!」
豪ちゃん…
ごめんよ…意図せず、死んでしまったみたいだ。
震える豪ちゃんの背中を撫でられない。悲しむあの子を抱きしめてあげられない。
寄り添って…大丈夫だ、と伝える事も…
死んでしまった俺には、出来ない。
「ご…豪ちゃん…救急車!救急車、呼んでくる!!」
哲郎は、必死に人工呼吸を続ける豪ちゃんにそう言うと、縁側から庭に降りて、一目散に敷地の外へと駆け出した。
哲郎は賢いから…きっと、大人を連れて来るか…救急車を呼びに向かったんだ…
ただ…
この子をひとりにするのは…どうかな…
心配だよ。哲郎…
人工呼吸を止めて口を拭った豪ちゃんは、突然、畳の上を思いきり一発殴った。
「あぁ…」
その瞬間…あの子の右手首が、おかしな方向に曲がったのを見て、気の抜けた声が口から漏れた。
折れた…
大事な右手が…折れた…
痛がる様子も見せない豪ちゃんは、俯いたまま折れた右手で俺の髪を撫でた。上手く動かなくなったあの子の細い指が、プルプルと俺の髪を指に絡めきれずに震えている。
…何て事だ…
「豪ちゃん…落ち着いて…落ち着いて…大丈夫、大丈夫だから…しっかりして…」
いてもたってもいられなくなった俺は、豪ちゃんの隣に座って、歪に折れてしまったあの子の右手を、触れもしないのに何度も撫でた。そして、表情の読めなくなった放心する豪ちゃんの顔を覗き込んで、聴こえもしないのに…何度も声を掛けた。
「…救急車?…間に合わない。もう…死んだ。モヤモヤが消えている…。あの人は、もう…居ない…。僕は、彼を…助けられなかった…。助けられなかったぁ…」
抑揚のない声を出した豪ちゃんは、震えの止まらない背中を丸めて、俺の頬を撫でながら何度も俺の唇にキスをした。
どうして…
どうしてこんな事に…?
…豪ちゃんの、未来が、潰れた。
俺の…希望が…無くなってしまった…
この子に、弾いて貰いたかった…!
誰よりも愛するこの子に、自分の作品を…弾いて貰いたかったのに…!!
折れてしまった右手では…もう、あんな風に、繊細な…バイオリンを弾く事は出来ないだろう…
自分の体があるのかも分からない…自分の手も、足も、分からない…
ただ、目の前の光景だけは…まじまじと目の中に現実を突き付けて、俺の無い胸を激しく傷つけて行く…
誰か…
この子を助けて…
この子を…早く、助けてあげてくれよっ!
誰か…!誰か…
「惺山…あなたの居ない世界は、光の無くなった世界と同じ。光が無ければ…影は出来ないんだ…そうでしょ…?」
ポツリとそう言った豪ちゃんは、おもむろに立ち上がると台所へ向かった。そして、さっき位まで野菜を切っていた…包丁を、迷う事無く手に持った。
この先の展開なんて…考えたくもないさ…
「豪ちゃぁん!…も、もうやめてくれっ!やめてくれっ!!」
フラフラと台所から戻って来る豪ちゃんの目の前に立って、あの子の肩を掴もうと、何度も何度も…見えない手を伸ばした。
…でも、豪ちゃんは、俺の体を通り抜けて行くんだ。
どうしたら良いんだよ…
何も出来ない。
触れる事も、声を聴かせる事も、安心させる事も、出来ない。
死んでしまった俺には…何も出来ない…
ずっと…苦しんで来たのに…
ずっと…自分を偽って来たのに…
俺を失った事で、やっと手に入れた生き方の活路と、自由を、放棄してしまった…
「…豪ちゃん、待って…待ってよ。君はこれから…その才能で、沢山の楽しい事を見つけて行くんだ。駄目だよ…そんな事しないでくれ…。約束しただろ?バイオリンを弾き続けるって…約束しただろ…?」
触れられない体を抱きしめる様に重ねて、聴こえない声を必死に腹から出して、豪ちゃんの手に持たれた包丁を、必死に何度も手で掻いた。
くそっ!
くそっ…!
豪ちゃん…豪ちゃん、お願いだ…そんな事しないでくれ…
愛してるんだ。
「…惺山…さっきの曲、とっても素敵だったぁ…愛してる。あなただけ…愛してる。」
動かなくなった俺の隣に座った豪ちゃんは何の躊躇もなく…自分の首を包丁でかき切った。
嘘だろ…
「あっあああ…駄目だ!駄目だぁ!豪ちゃぁん…!…哲郎!哲郎!!」
こんな光景…見たくない。
崩れ落ちる様に俺の胸に頭を沈めた豪ちゃんは、細い首から真っ赤な血をドクドクと流しながら、優しく微笑んで、俺の胸を撫でた。
「…守れなかった…守れなかった…」
微かに聴こえる震えた声が、聴こえなくなるまで…豪ちゃんは、俺の胸を撫で続けた。
そして、豪ちゃんは…静かに絶命した…
「…豪ちゃん!晋ちゃんの父さん、連れて来た!車で…車で病院まで…!は…」
遅いよ…哲郎。
縁側の下で哲郎が膝から崩れ落ちて、壮絶な室内の状況を見た晋作の親父は、一気に顔を青くした。
「…て、哲!先生呼んで来い!今すぐ!先生呼んで来い!!」
晋作の親父は、庭に項垂れた哲郎にそう叫ぶけど…あいつの耳にはそんな声、どんなに大きくても届かない。
「豪ちゃぁん!嘘だろっ!何してんだよっ!豪ちゃん!!」
哲郎は大粒の涙を落としながら瞳を歪めて、血だらけの豪ちゃんを抱き抱えた。そして、真っ赤な血が溢れるあの子の首を手で必死に抑えた。
「嘘だぁ…嘘だぁああ!豪ちゃぁん…豪ちゃぁんが…死んじゃったぁ…!!」
すぐに真っ赤になって行く哲郎の手を見つめて…何度も揺すられたあの子の半開きに開いた瞳から、タラリと涙が伝って俺の頬に落ちた…
嘘だ…
嘘だろ…こんな事
愛する人が…絶望の中、自分の命を絶つ瞬間を…見た。
止める事も、宥める事も、落ち着かせる事も出来ないまま、耳に声を届ける事さえ出来ないで…ただ、目の前で、豪ちゃんが死を選ぶ瞬間に立ち会って、あの子が絶命する瞬間を…見る事しか出来なかった…
馬鹿野郎…
…どうして、死んでも良いなんて、言ったんだ…
どうして、あの子の傍で、死にたいなんて…望んだんだ…
その結果が…これだ。
可愛い、俺の豪ちゃんが…死んでしまったじゃないか…
俺を守れなかったと絶望して…全てを捨ててしまったじゃないか!!
お前は生きるべきだったんだ…
ただ、あの子との未来を信じて…生き続けるべきだったんだ!!
なのに…
なのに…何、死んでんだよ…
お前は…いつまで経っても…自分の為にしか、物事が判断できない屑野郎だ。
見栄や、虚栄心だけじゃない…
豪ちゃんの…たったひとつの願いも聞き入れないで、いつまでもあの子の傍に居続けて…あの子の傍で死にたいと願って…
残されたあの子の事を…考えずにいた。
俺とあの子は、光と影の様に対になって離れない…バイナリー。
なのに…
なのに…
勝手に死んでも良いなんて…どうして思ったんだ。
あの子を愛しているなら…そんな事、考えるべきじゃなかった。
きっと…打ちひしがれて、死んでしまうと…分かっていたじゃないか。
分って…いたじゃないか…
この、甘ったれの…クソッタレ!
「惺山…ね、あ~んしてみて?あ~んしてみて?」
そんな…豪ちゃんの楽しそうな声が聴けて、堪らなく嬉しくて…口元を緩めながら、言われた通り…口を開いた。
「あ~ん…」
おぉ…?!
次の瞬間、口の中に物凄い熱い物が入れられて驚いて目を見開いた。
一気に体を起こして、反応を楽しそうに伺う豪ちゃんに怒って言った。
「あっふい!豪ちゃぁん!危ないだろっ!寝てる時にしちゃ駄目!」
「キャッキャッキャッキャ…!」
あ…
目の前で、猿の様に笑いながら、顔を真っ赤にして大喜びするあの子を見つめて…
さっきのが、夢であったと気が付いた。
夢…?
それにしては…とてつもなく、リアルで…とてつもなく、怖かった。
「火傷した…?」
豪ちゃんは、呆然とあの子を見つめ続ける俺に首を傾げながら、そっと両手で俺のおでこの髪を掻き分けて、顔を覗き込ませた。
俺の頬を撫でる豪ちゃんの右手首は…折れていない…
良かった…あぁ…良かった…
「凄い…汗…。怖い夢でも見ていたぁ…?」
怖い夢…?
いいや、あれは…怖い未来だ…
「豪…!」
咄嗟に豪ちゃんを抱きしめた。
触る事の出来る温かい体は、しなって、あったかくて、柔らかかった…
豪ちゃんは、縋りつく様にあの子に抱き付いて離れなくなった俺を両手で優しく抱きしめてくれる。
そして、髪を撫でた手を襟足に持って行って、いつもの様に指先に髪を絡めながら穏やかで優しい声で何度も慰めてくれた。
「大丈夫…ただの夢だよぉ?大丈夫…大丈夫…」
きついくらい…苦しいくらい…あの子を抱きしめて…思い出しては溢れてくる恐怖を堪え切れずに、豪ちゃんの胸に顔を埋めて…泣いた。
とても、怖かった…
「あぁ…可哀想に。惺山さん…僕が付いてるよ。僕が守ってあげるからね…」
そんな豪ちゃんの言葉に…さっきの夢をまざまざと思い出して、震える体のまま…項垂れて体を沈めて行った。
そして、観念して…言った。
「愛してるよ…豪、君は俺の希望であり、夢であり、全てなんだ…。君を失いたくない!だから…俺は何が何でも、生き続けるって…決めた!絶対、死んだりしない。死にたくなんて無い!死んでも良いなんて…金輪際、思わない!」
これは宣誓だ…
あの子へ、心の底から誓いを立てた。
何が何でも…生き延びて、この子の未来を…俺の夢を、絶対に叶える!
口先だけの言葉じゃない…心の底からの…決意表明だ。
「…嬉しい。」
あの子は一言そう言うと、しがみ付いて離れようとしない俺の背中を何度も撫でてクスクス笑った。
駄目だ…
温かくて、柔らかいこの子から、離れられない。
怖いんだよ。あの夢が…強烈に怖かった…
「よしよし…」
そんな俺の背中をポンポンと叩いて、豪ちゃんは可愛らしい鼻歌で”愛の挨拶“を歌い始めた。
あぁ…
綺麗な声だね…
グチャグチャに乱れた心の中の逆立った鱗を、綺麗に剥がして洗い流してくれる様だ…
「さぁ…“愛の挨拶”が終わりました。ねえ、僕のヒレカツを食べて?上手に揚げられたんだよ?ね?もう、大丈夫だから…ご飯を一緒に食べよう?」
「…うん!」
俺は俯いた顔を上げて、いつもの可愛い豪ちゃんを見つめながら可愛いあの子の唇にキスをした。
「ふふ…あぁ、ダメぇん…」
そんな事言われたって…止まらないんだ。
また、君の柔らかくて甘い唇を味わえて…君の体に触れられて…堪らないんだよ。
堪らなく、生きている事が…嬉しいんだ…
そんな俺の勢いに押された豪ちゃんが、困った様にお尻で後ずさりしていくから、両手で抱きしめて押し倒してしまう。そして、しつこく舌を絡めたキスをして、豪ちゃんの体中をまさぐりながら、ひとつひとつ、確認していく。
華奢な肩…なぜか少しだけ膨らんだ胸に、プニプニのお腹…
そして…可愛いお尻。
バチン!
…むち打ちになる
そんな…強い衝撃を後頭部に受けた…
ふと、顔を上げると、顔を歪めた健太が俺を見下ろして言った。
「…俺の靴下の匂い、嗅ぎたいか…?惺山…?」
あぁ…ここからでも、臭うよ…健太。
生きているからこそ…お前の足の臭さが分かるんだ…
「いいえ…コオロギが出て…ビックリしてたんです。」
俺は、大人しくそう言って豪ちゃんの上から体を退かした。そして、顔を真っ赤にしたあの子の手を掴んで、体を引き起こすと、両手に抱きしめて頬ずりした。
生きているから…この子を抱きしめられる。
死んでしまったら…何も、出来ない。
お終いなんだ…
「いただきまぁ~す!」
俺を横眼に伺い見る豪ちゃんを同じ様に横目で伺い見て、にっこりと微笑みかた。
豪ちゃん…
さっき、とっても怖い思いをしたんだ。
まるで君の事を考えない自分勝手な俺に…誰かが、そろそろおよしなさい…って、忠告したみたいだよ。
君の悲鳴も…君の絶望も、君の死も…全て鮮明に覚えてる。
あれは夢なんかじゃない。
ひとつの、なりうる未来だ…
選択を誤るなと…誰かが忠告してくれたんだ。
「ん!美味しい!サクサクする!」
豪ちゃんは揚げ物が得意だ…
喜んで体を揺らして喜ぶ俺を見た豪ちゃんは、嬉しそうに頬を真っ赤に染めて、目じりを下げた。
君のその笑顔が…大好きだ。
「なんだ、惺山は…一皮むけた卵の様にプリプリしてるじゃないか!」
ケラケラ笑って俺を馬鹿にする健太を見つめて、ジンと…目頭が熱くなった俺は、意図せず涙を落としてメソメソと泣き始めた。
「しくしく…」
「…はっ?!な、なぁんだよ!泣くなよ!俺は虐めてないぞ?」
グスグス鼻を啜る俺にたじろいだ健太は、豪ちゃんに必死にそう言った。
豪ちゃんは、肩をすくめて健太を見ると俺の頭を撫でながら言った。
「ん…もう、何だか…怖い夢を見たみたいなんだよ。だから…もう少し優しくしてあげて?きっと…とっても、怖かったんだ。もう大丈夫だよ…?可哀想に…」
可哀想…?
いいや、その逆だ。
チャンスを貰ったんだ…
選択を誤らない様に…チャンスを貰った。
「豪ちゃん…交響曲が出来上がったよ…後は、調整をするだけだ…」
俺のその言葉に、豪ちゃんは複雑な顔をして…眉を下げて言った。
「…そう。」
良いんだ…
離れたって…生きていれば、また会う事が出来る。
また、この手に君を抱きしめて…愛する事が出来るんだから。
「所で…豪、具合が悪いのはどうなったんだ?」
健太はそう言って、どんぶりご飯にキャベツを乗せた。そして、ソースを掛けて、ガツガツと食べながら、言い淀む豪ちゃんを見つめて、あの子の返事を待った。
すると、豪ちゃんは、意を決した様に健太に膝を向けて正座で座り直した。
「兄ちゃん、ごめんなさい。僕は、嘘を吐いた…。もうすぐ惺山と…一旦、お別れする。だから、それまで…この人の傍に居たいんだ。片時も離れないで…傍に居たいんだ。お願い…学校を休む事を、許して下さい…。」
あぁ…
豪ちゃん…
そんな豪ちゃんを見つめて胸を熱くした俺は…あの子の隣で、同じ様に正座し直して健太に言った。
「…お願いします!俺も…この子が傍に居てくれたら…嬉しいんだ。」
一旦のお別れが…何年間になるかなんて、誰にも分からない。
この子達の親父は…10年なんて長い年月、離れて暮らしていたから…いつのタイミングでモヤモヤが消えたのかさえ、分からない。
それでも…必ず、消える物だと、俺は信じてる。
俺と豪ちゃんの真剣な表情を見つめた健太は、大きなため息を吐いて言った。
「はぁ…分かったよ…。まあ、哲郎達にしてみたら、惺山が帰るってなったら豪が離れなくなる…なんて、周知の事実だけどな…。それでも、学校の方には…長期の休みを取ると連絡をするさ…」
「やったぁ!」
健太の言葉に体を揺らして喜んだ豪ちゃんは、自分のお皿の上のヒレカツをひとつ、あいつのどんぶりに乗せて言った。
「兄ちゃん!ありがとう!!本当の事をきちんと伝えるって…大事な事だね?」
豪ちゃんのそんな満面の笑顔と言葉を受け取った健太は、嬉しそうに瞳を細めて頷いた。
「おうよ…」
ここの生活が気に入っていたんだ。
都会の喧騒から離れた…静かで、穏やかで…ゆったりとした時間の流れる場所。
立ち止まっても…良い場所。
ここを離れて再び歩き始めなければいけない事に、不安はあるさ。
ただ、俺はもう二度と飲み込まれたりしないだろう。
人の目や…価値観に囚われて、自分を見失う事も。要らない見栄を張る事も…無いだろう。
自分の位置を俯瞰して、いつでも逃げる場所を用意して…上手くやって見せるさ。
「惺山、あ~んして?」
いつもの様に豪ちゃんは俺の世話を焼いて、まん丸の瞳を大きく見開きながら俺の口にヒレカツを運んでくれる。それを、俺は当然の様に…受け取る。
「あ~ん…モグモグ。あぁ、おいひい。」
離れても…君は俺の全てだよ。
「ふふ!良かったぁ!」
あの子の赤くなった頬を指先で撫でながら、にっこりと微笑みかけて言った。
「とっても美味しい。君の手料理が…大好きだ。」
「はっ!やってらんないね?!」
そんな健太の言葉すら、今の俺には…嬉しい日常の一部だ。
「ん、もう…」
俺に見つめられて恥ずかしくなったのか…豪ちゃんは、もじもじしながら頬を真っ赤に染めた。
それが…とっても、可愛い。
離れたくないよ…豪ちゃん。
でも…
君の為に…君を守る為に、離れるよ。
俺たちはふたつでひとつのセットだから、君を守る為に、俺は何としてでも、死ぬわけにはいかないんだ。
ご馳走様を済ませて、いつもの様に健太がテレビに夢中になる中豪ちゃんとせっせと片付けをした。
ふと、風呂にお湯張りに行った豪ちゃんが戻って来て、俺の背中を撫でながら顔を覗き込んで言った。
「惺山?今日も背中を流してあげるね?」
「ほ、ほ~い!」
やった!
…やったぁ!
俺はウキウキしながら、洗い物を始める豪ちゃんの背中に抱き付いて、お日様の匂いがするあの子の髪に顔を埋めた。
そして、落とした視線の先に、あの子の手元で綺麗に洗われて行く食器と…調理道具を見てゾクッと背筋を凍らせた。
…包丁
それは、夢の中…あの子が自分の首をかき切った…包丁。
最悪だった…
とても、怖かったんだ…
この子を絶望に落としてしまう…そんな自分の死を…何が何でも食い止める。
いつまでも…この子が、バイオリンを弾ける様に…
「…今日は、甘えん坊なの?」
覆い被さり続ける俺を横目に見ながら、あの子がクスクス笑ってそう言うと、俺はあの子の首に顔を埋めて、何度もキスしながら言った。
「ん…いつも…」
そう…甘ったれで、自己中…
君が苦しむと分かっているのに、君の…傍で死にたいなんて思う様なクズだ。
でも…大切なんだ…
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