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#33

「あ~のぼせたぁ~!」 俺も…のぼせた… 顔を赤くした豪ちゃんは、足早に縁側に向かった。そして、ゴロンと寝転がって携帯を弄る健太の腹の上に頭を置いて両手で抱き付いた。 ギリギリ…アウトだな。 健太は嫌がるそぶりも見せないで、豪ちゃんの髪を撫でた。そして、ニヤニヤしながら携帯電話を眺めて俺を横目に言った。 「あぁ…これって、もしかして…誘われてるのかなぁ…?」 お…? 「どれどれ…」 俺は水を片手に縁側へ向かった。そして、俺にどや顔する健太を横目に見ながら、あいつの掲げる携帯画面を覗き込んだ。 “健太君はぁ、映画、何が好きですかぁ?私はぁ、今やってるぅ…ロボコップ17とか…興味ありますぅ…テヘヘ。ハズカチイ!日曜日は予定が無いからぁ…ひとりで行ってみようかなぁって思ってますぅ…。” あぁ…ゴリゴリに誘ってくるのを待ってる文章だな。 「…嫌じゃないなら、日曜日…誘ってみたら?」 健太の腹の上でぼんやりと体を揺らす豪ちゃんを見下ろしてそう言うと、健太はハフハフと興奮しながら言った。 「お店のお客さんでさ、すっごい可愛い子なんだよ?虫が苦手で、猫が大好きなんだって!趣味は…手芸と、お菓子作り。女の子って感じだよな?」 あぁ…それは多分、全て嘘だ。 男兄弟しかいない奴あるあるなのか…俺もそんな幻想を抱いていたさ。 女の子は、おならなんてしないって…本気で思ってた。 「まあ、年相応のお付き合いをしたら良いじゃないか…」 俺は健太にそう言って、ぼんやりと…のぼせ切った豪ちゃんに水を差し出した。すると、豪ちゃんはムクリと体を起こして、受け取った水をゴクゴクと飲み干した。 「…豪ちゃん、もう寝なさい。」 「うん…」 豪ちゃんはコクリと頷いて、再び、健太の腹の上に頬を乗せて、瞳を閉じた… そこで…寝るなよ… 「あぁ…鬱陶しいな!ブス!」 健太は豪ちゃんの頭をペシペシ叩いて、体を揺らしてあの子を嫌がり始めた。 おい… この子がブスなら、お前が鼻の下を伸ばしてる女の子は…どうなる? 人間外だぞ?! 「おいで…抱っこしてあげる。」 そう言ってあの子を抱き上げると、デレデレと携帯を見つめ続ける健太を一瞥して言った。 「このまま寝るわ…おやすみ…」 「はいはい!ご自由にどうぞ~!」 ふん… きっと、付き合い出して、しばらくしてから違和感に気付くんだ。 あれ…?初めの頃は手作りのクッキーをくれていたのに…最近は、物をねだってばかりだなって… まあ…俺の場合は、金がないせいか、体を求められる事が多かったけどな! 「なんだ…疲れたの…?」 クッタリと脱力した腕の中の豪ちゃんを布団に下ろしてそう聞くと、豪ちゃんはウトウトと半開きの瞳で俺を見つめて、両手を伸ばして言った。 「…疲れてない。」 はぁ、嘘つきめ… 今にも眠りに落ちそうな半開きの瞳をジト目で見つめて、口元を緩めて微笑んだ。 豪ちゃんは隣に寝転がった俺に抱き付いて顔をスリスリと擦り付けて…いつの間にかクッタリと大人しくなった… あぁ、寝た。 可愛い… 両手に確かに抱きしめる事が出来るこの子を抱きしめて、柔らかい髪に顔を埋めて、生きている喜びを感じながら瞳を閉じた。 死んだら…お終い。 それは紛れもない、事実だった… 「コッコッココケ~~コ!」 「コココココ…!」 「コケッコッコ!コケ~~~~!!」 「クオォケ~~!」 「なんだ!」 いつもよりも怒気のこもった雌鶏たちの鳴き声に、驚いて瞳を見開いた。咄嗟に体を起こす俺の胸の上で、微睡みながら豪ちゃんが言った。 「口喧嘩してる…これがもっとエスカレートすると…直接、攻撃し始める…」 悲しそうに眉を下げてそう言った豪ちゃんは、おいおい…と肩を揺らして泣きながら言った。 「ずっと、仲良く暮らしてたのにぃ…」 「どれ…小屋から出して来よう…」 泣き止まない豪ちゃんに困り果てて、俺は重たい体を起こして寝室を出た。 「よっ…おっと…ヨイショ…」 動き辛いのは、あの子が俺の足にしがみついているせいだ… 「…もう、ダメだぁ…。あんな鳴き声を出して…今にも喧嘩が始まってしまいそう。もう…同じ小屋には入れられない…。あっああん…!あんなに…あんなに、仲良くしていたのに…!うっうう…!」 そうだな…だから、早く小屋から出そうと思ってるんだ…! 俺の足の負荷になり果てた豪ちゃんは、言葉通り…俺の足を引っ張ってる。 「うわぁあん…どうして…?どうしてこんな事になったのぉ…。もう…最悪だぁ…」 なんとか縁側までたどり着いた俺は、足元で喚き散らす豪ちゃんを無視して雨戸を開いていく。すると、豪ちゃんは俺の足をスウェット越しに噛みついて言った。 「んぁあ!も、最悪だぁ!」 分かってる。だから…早く、鶏小屋を開放したいんだ! こんな風にごねている今も、鶏小屋からは凄い剣幕の鳴き声の応酬が続いている。 「早く、江森のおじさんって人に、鶏を返した方が良い。喧嘩になったら、また、誰かがケガするぞ…?」 「…ふぐっ…うん…」 俺の言葉に俯きながら頷いた豪ちゃんは、鶏小屋へと走って向かった。 「喧嘩しないで…ジュリア・ロバーツ…どうしてそんな声を出すの…?キャサリン・ゼタ=ジョーンズとは同期だろ…?そんな怖い顔しないで…。あんな男のせいで…も、ばっかぁん!君たちの友情は…そんな物じゃないだろぉ?!」 …喧嘩を吹っ掛けてるのは、気性の荒いジュリア・ロバーツ…か。 豪ちゃんはベソをかきながら鶏小屋の扉を開いた。すると、一斉に鶏たちが我先にと、小屋の外へと飛び出して来た。 …まるで、巻き込まれたくない!と…逃げ出してる様じゃないか… 「んぐっ…ふぐっ…ジュリア・ロバーツ!正気に戻ってよぉ…!こんな形で、仲違いなんてしないでぇ…!」 豪ちゃんは鶏小屋の中へ向かってそう言った。 そんな豪ちゃんの視線を追いかけて一緒にあの子の足元を見つめていると、悠々と自信に満ちた顔をして、ジュリア・ロバーツが出て来た。 は?何が…? まるで、そんな風に言っている様だ… 「うう…うっうう…ばっかぁん…」 彼女の背中にそう言った豪ちゃんは、涙を拭って卵の回収をする為に鶏小屋に入って行った。 …群れの崩壊は、あっけないな。 人間と同じだ… トップが居なくなると、権力争いや、本当はずっと嫌だったの!とか言い始める奴が出て来て…混乱が起きるんだ。 そして、必ず声の大きい者が代表の様に振舞い始めて、場を仕切り始める。 そんな奴に限って自分勝手で、責任感なんて持ち合わせていないんだ。 どの生き物でも、それは同じなんだな… 「ふぐっ…ぐふっ…」 豪ちゃんの朝は忙しい…。 ベソをかきながら何度も鼻を啜って台所に立つ。そんなあの子の後姿は、甲斐性なしの旦那に泣かさせられる…妻の様に見えた。 さて、俺は…東京へ戻ったら、どの群れの中に入るのが賢明か… どっしりと安定したキャサリン・ゼタ=ジョーンズの群れか…それとも、アグレッシブで放任主義のジュリア・ロバーツの群れか… どちらにもメリット、デメリットがあるが…きっと、俺みたいな脛に傷のある者は、ジュリア・ロバーツの様な者が率いる群れにしか、歓迎されないだろうな。 キャサリン・ゼタ=ジョーンズが率いる群れは、所謂…堅実な作曲家の集まりと言っても過言ではない。そんな連中…木原先生に恥をかかせた俺を、受け入れてくれるとは思えない。 それとも…一匹狼の姿勢で、スタジオから、発表の場まで自分ひとりで用意して、気楽に立ち回るか… はぁ、悩むわぁ… 「…惺山、おいで?ごはん出来たよ?」 あの子の声に縁側から立ち上がった俺は、ニコニコと体を揺らして言った。 「わぁ!今日も美味しそうだね…」 いつもの様に…どんぶり越しに人をジロジロ見て来る健太の視線を無視して、豪ちゃんの美味しい朝ご飯を食べると、いつもの様に片づけをしてお皿をしまう。 すると、いつの間にか庭に椅子を置いた健太が言った。 「ほら!髪切ってやるぞ!どっちからにする!?」 …今日は土曜日、仕事はお休みなのか… 「…繁盛日なのに。」 縁側から健太を見下ろしてそう言うと、健太は俺に手招きして言った。 「今日はオーナーと精鋭の先輩たちが、総出で東京へ仕事へ行くんだ。誰だっけ…大量のグループのアイドルのスタイリストを総出でするらしい。だから、俺みたいなペーペーはお休みだ。ほら、惺山から、その伸びきった髪を切ってやろう…」 へぇ…美容師も出張なんてあるんだ…大変だな… 「ん、だぁめぇ…!良いの!これで良いのぉ!」 健太に誘導されて庭に設営された椅子に腰かける俺の背中に…そんな豪ちゃんの声と、あの子のドタドタと…激しい足音が聞こえて来た。 縁側を華麗に飛び降りた豪ちゃんは、そのまま俺の体に抱き付いて、頭を両手で守って健太を睨みつけて言った。 「だぁめ!」 「この形のまま…短くするんだよ。じゃないとやばい髪型になるよ?良いの?豪。惺山がやばい髪型で良いの?」 嫌だ…切ってくれ… 「豪ちゃん…少し、スッキリしたいから…切って貰うよ。はい、退いて…」 俺の言葉にムスくれた顔を向けた豪ちゃんは、体を揺らしてごねながらも、渋々俺から離れて縁側に腰かけてくれた…。 しかし、まん丸の瞳は健太の手元の鋏を凝視している。 「…ん、絶対、切り過ぎないでよね!!」 あぁ…本当に、あの子は俺の髪が好きみたいだな… 美容師にも、なれるかもしれない。 そのくらい…髪型に異常な拘りがあるんだ。 豪ちゃんの言葉に適当に相槌を打った健太は、手慣れた様子で髪を束ねると、サクサクと気持ちの良い音をさせながら迷いなく髪を切って行った。 「凄いな…。もう、プロじゃないか…」 そんな俺の言葉に口元を緩めた健太は、照れた様に笑って言った。 「まだまだだよ…」 あぁ…こうして叩き上げの職人の様な人が、育って行くのかな。 お膳立てされた舞台に立つんじゃなく、自分で切り開いた場所に立つ。 逞しくて…強い、そんじょそこらの風じゃ吹き飛ばない様な…根の張った職人が出来上がって行くのかな… 「はい…お終い!」 「あっという間だな…美容室に行くと大抵1時間は座ってないと駄目なのに…15分くらいだった。」 ケラケラ笑って、足元で必死に俺の切られた髪を集める…ちょっと、行動が、気持ち悪い豪ちゃんを見下ろして、顔を歪めて言った。 「やめなさいよ…怖いから…」 「ん、だってぇ…!こんなに…こんなに切られちゃったぁ…!」 そう言いながら顔を上げた豪ちゃんは、ハッ!と表情を変えて、頬を赤くしながら立ち上がった。そして、俺の周りを前後左右…ぐるりと回ると、健太を見上げて言った。 「…カッコいい…」 ほほ! 手渡された鏡を見て、感嘆の声を上げた。伸びきった髪がきれいさっぱり整えられて、ここへ来た時よりも男前になった気がする。 「お上手!」 椅子から立ち上った俺に健太が手を差し出して来るから、俺はあいつの手をパチンと叩いてハイタッチして言った。 「ありがとよ!」 「はっ!金払えよ…惺山、カット代2000円だ。」 …な、なんだと?! 「…割引は…?」 まるで犯罪者でも見るような目つきの健太は、俺の言葉に首を傾げて言った。 「割り引いて…2000円だ。」 都内の美容室でカットすると、シャンプーもコンディショナーもして貰って、6000円弱。 お得なのか…?これは、お得なのか…?わ、分からない! 渋々頷いた俺は、憮然とした顔で縁側に座ってあいつに言った。 「後で払う…」 「絶対だかんな!」 あぁ…察したぞ… きっと、明日のデート代を稼いでるんだ… 「ほら、次、豪!」 「ねえ?兄ちゃん?僕も惺山みたいにして?」 椅子に腰かけてそう言うあの子を見下ろした健太は、首を傾げて言った。 「短い物を伸ばす事は出来ない。俺は切る人だからな?分かるか?切ると短くなるんだ。長くなったりしない。それは、俺にはどうしようもない事だ。」 そんな健太の答えに口を尖らせた豪ちゃんは、自分の髪を指さしながらもにょもにょと言い始めた。 「じゃあ…耳のとこと…あとぉ…後ろはぁ…もっと、長めにぃ…ふんわりと、ボリュームを出してぇ…」 「いつも通りだな!分かった!」 強引だ… 悲しそうに眉を下げた豪ちゃんが、いつも通りに仕上げられていく様子を眺めて、瞳を細めて微笑んだ。 あぁ…可愛い。 この子は…本当にこの髪型が良く似合う。 柔らかい癖っ毛のベリーショート… まるでオードリーヘップバーンみたいだ。 「ほい!出来たぁ!はい、1000円!」 なんだと…?! こいつは…弟からも料金を取るのか…! 豪ちゃんのがま口の財布からお金を受け取った健太は、機嫌よく鼻歌を歌いながら、庭に落ちた髪の毛を手際よく箒ではいて塵取りにいれた。 なぁんて…奴だぁ! 「健ちゃん来たよ~!」 そんな声を上げながら哲郎、晋作、清助、大吉がゾロゾロと庭先にやって来た。そして、縁側に腰かけた俺と豪ちゃんを見てケラケラ笑って言った。 「おお、おっちゃんも綺麗にして貰ったんだ。ボサボサだったからな…」 え…? そんな何気ない清助の言葉に引っ掛かりを感じつつも、俺は首を傾げて言った。 「…まあな…」 「はい、ここに座って待っててね~?」 健太はご機嫌にそう言って、子供たちを縁側に座らせた。そして、次から次へと“いつものカット”を施しては、その度に料金を徴収して行った。 凄い…凄い稼ぎ方だ! 手に職を持つ者のみが出来る…荒稼ぎの現場だ! 「あぁ~!スッキリした~!」 「まいど~!」 あらかたのお客を捌いた健太は、箒で庭を掃きながら哲郎に言った。 「哲、お母さん来ないの…?」 なんだと?!こいつは、大人にまで…手を出そうとしてるのか?! そんな健太の声に首を傾げた哲郎は、豪ちゃんの剥き出しの襟足をモミモミしながら言った。 「…え?母ちゃん?そろそろ来ると思うよ。」 来るんだ。 大人も、常連客なんだ。 ここで稼いだお金は非課税ですか…? 「健ちゃん~来たよ~!」 そんな声を上げながら…今度は大人たちがゾロゾロと庭先にやって来た。 いつの間にか…午前中の穏やかな庭先が、立食パーティーの様に賑やかになった… こんな光景…前なら本能レベルで嫌がったのに、今ではお構いなしにぼ~っと座り続ける事が出来る。 まるで鶏になった様に、我関せずにぼんやりと…していられるんだ。 どうやら、俺のメンタルは…ギャング団に鍛えられて強くなった様だ。 これなら、東京へ戻っても…無理して群れる必要なんて無いかもしれない。 一匹狼のまま…マイペースにコネを広めて、スタジオと、発表する場を自分で探そう。 きっと、その方が…気楽でいられる。 その方が…曲作りを、楽しめる… 「豪ちゃん、雄鶏、死んだのか…?」 庭の鶏を見渡した晋作の親父は、悲しそうに眉を下げる豪ちゃんの頭をポンポンと叩いて、あの子の顔を覗き込むように姿勢を下げた。 「うん…山の向こうの養鶏家の黒さつま鶏が脱走して、豪ちゃんの鶏達で新しい群れを作ろうとしたの。そしたら、雄鶏が怒って…戦って、怪我して…死んじゃった。」 そんなあの子の言葉に顔をしかめて、首を横に振りながら大吉の母親が言った。 「あぁ…お洒落な養鶏家ね…。今どきの若い人の…何だっけ?クラウドファンディング…?って言うの?ああいうので始めたらしいよ。」 あぁ…頷ける。 ピタピタのTシャツにお洒落な帽子、そして自然と向き合ってます感を出した、薄っぺらい笑顔… まさに…そんな感じだった。 「はい、まいど~!」 そんな中でも、健太は荒稼ぎの手を休める事無く、親父たちを次々とバリカンで捌いて行った。そして、近くでおしゃべりに花を咲かせる大吉の母親を椅子に座らせて言った。 「いつものね?」 注文なんて初めから聞く気なんて無いんだ… あいつは、“いつもの”床屋になってる。 「…みんなぁ?聞いてぇ?」 …ん? 隣に座っていた豪ちゃんがおもむろに縁側に立った。そして、庭の家族たちに向かって言った。 「…惺山は、そろそろ東京へ、帰ります。仲良くしてくれてありがとう。そして…ぼ、ぼ、僕は、中学校を卒業したら、バイオリンの先生の所へ…フランスへ行く事になりました。」 「はぁ~~~~~?!」 一同が驚いて声を上げる中、哲郎だけ、眉間にしわを寄せた険しい表情で豪ちゃんを見つめていた。 そんな周りの反応にゴクリと唾を飲んだ豪ちゃんは、オドオドと眉を下げて、でも、しっかりと自分の口と言葉で、自分の思いを話し始めた。 「…ぼ…ぼ、僕は…ずっと、人と違う事が恥ずかしかった…。だから…わざと、変な子になって、人と違う所を、誤魔化しながら生きて来た…。でも…この人に教えて貰った音楽で…やっと、自由になれた気がした。だから、もっと…上手に、なりたいんだ。」 偉いね… ちゃんと…”僕”と言って、本当の自分の言葉を伝える事が出来たじゃないか。 本当の事を言っても良い事なんて無い… そう言って、自分の気持ちも、事実も、誰にも話せなかった君は、見違えるほどに強くなったみたいだ… きっと、理解して貰える喜びと、心強さを知ったからだ… 良かった… 怖がらずに、本当の自分を愛する家族に見せる事が出来た…そんなあの子の勇気に、胸を打たれて、俺は込み上げてくる嗚咽を堪えながら涙を落した。 良かった… そんな豪ちゃんの言葉を聞き届けたあの子の家族たちは、縁側の上の豪ちゃんを見つめて、穏やかで優しい笑顔を向けた。 きっと…俺と、同じ思いを抱いているんだ。 良かったって…思っているに違いないんだ… 「行って来い!行って、誰よりも立派になって戻って来い!」 哲郎の親父が泣きながらゲラゲラ笑ってそう言って、続けとばかりに、他の親父たちもあの子に激励の言葉を投げかけた。 「そうだ!豪ちゃん!いきなりの栄転じゃないか!!」 大盛り上がりする親父たちとは裏腹に…少しの不安を表情に覗かせた母親たち…と、ギャング団…そして、完全に打ちのめされて項垂れた…哲郎。 そうだな…フランスは、遠くて…簡単に会える距離じゃない。 でも、会えない訳じゃないんだよ。哲郎。 だって、お前は生きてるじゃないか… 豪ちゃんは、そんな不安な目の色を見せるギャング団と、母親一同を見下ろして、唇を一文字に結んだ。微妙な表情をしながら…何やら考えを巡らせている様に見えた。 次の瞬間、ハッ!とい思い立った豪ちゃんは、ピアノの部屋からバイオリンを手に持って戻って来た。そして、姿勢を正してバイオリンを首に挟むと、右手に持った弓を美しく持ち上げて、弦に置いた。 「…こ、こ、これはぁ…僕の大事な家族へ、贈る曲ですぅ…」 そう言ってあの子が弾き始めたのは…”愛の挨拶“。 あっという間に豪ちゃんの優しい音色があたりを包み込んで行く。 穏やかな風を味方に付けて、庭に集まったあの子の家族の頭上へ、温かい音色を…降り注いで行く。 感謝と…愛。 そんな思いが…伝わって来るよ。 まるで、ここだけ…春の様に穏やかで、暖かくて、心地よい… そんな愛が、あの子の音色と一緒に空から降り注いでくるんだ。 「…豪ちゃん…」 そう呟いた哲郎の悲しい声が…耳の奥に届いて、残った。 「まいど~!はい、次~!」 豪ちゃんの演奏にうっとりと聴き入る、そんな周りの雰囲気なんてお構いなしだ… 風情の無い金の亡者…健太は、あの子の演奏をBGMに、“いつもの”床屋を、手際良くこなしていく… ある意味、プロだ。 パチパチパチパチ… ”愛の挨拶”を弾き終えた豪ちゃんは、感動に揺れる家族たちを見下ろしながら、お辞儀もしないままに弓を構え直して言った。 「次はぁ…“タランテラ・ナポリターナ”を弾きますぅ…」 え…? 驚いた…そんな顔で豪ちゃんを見上げると、あの子は俺を見下ろしてにっこりと微笑み返した。そして、弦の上を弾ませる様に弓を動かして、昨日、聴いたばかりのあの曲を弾いてみせた。 凄い…完全に、耳コピだ… この子は、耳で覚えていく。でも、これは…後々厄介だ。 まぁ…先生が、上手い事…矯正するだろう。 楽しくなった俺は、あの子のタランテラに合わせて縁側の床を叩いてリズムを取った。すると、豪ちゃんは嬉しそうにクルクル回って、縁側の上を自由に踊り始めた。 可愛いなんてもんじゃない…これは、天然記念物だぁ! 「あぁ…!豪ちゃん…!」 そんな震える声を出して、あの子を見上げたまま母親たちがオイオイと泣き始めた。 それは、あの子の自由な姿を見て…心の底から喜んでいる様な、胸を打たれている様な…そんな涙だ… それとも、初めての子供の発表会で、袖で極まって泣く母親のそれかもしれない… 「わぁ!豪ちゃん凄いな!」 楽しくなった大吉は体を揺らして、あの子の隣で一緒に踊り始めた。 はは…良いじゃないか! 「良いぞ!大吉!脱げ!」 そんな俺の合の手にクスクス笑って、晋作も清助もタランテラのリズムに体を揺らして、手拍子を付けていく。 「豪!ブラボーー!」 見事だ…見事な高音だ!! あの子の奏でる高音に、うっとりと酔いしれて体を持って行かれそうになる。 すると、豪ちゃんは俺の背中をツンツンと蹴飛ばした。 「せいざぁん!このまま…ポルカに行きたい!」 息を切らせてあの子がそう言うから、俺は居間のテーブルの上に置いたままのキーボードを抱えて、縁側に急いで戻った。 「じゃあ…弾き切れよ。そうしたら、俺が合わせてやろう…!」 そんな俺を見ると、晋作が目を輝かせて言った。 「おっちゃん!!やっと、やっと、音楽家っぽく見えるじゃないか!!」 晋作よ…俺は結構前から…ピアノを弾いてるんだ。 今まで、何を見てたんだよ… あの子がタランテラを弾き終えるタイミングに合わせて、そのままのリズムをピアノの音色で続けながら、アクセントを付けてポルカのリズムへと変えて行く… キーボード…電子機器の良い所はね…こう言う所なんだ。 持ち運びも簡単だし、ひとつあれば…何でも出来る。 そんな、凄い奴だよ? 「あぁ…おじ、おじ、おじちゃぁん!惚れる!僕も…それ、弾ける様になったらモテるかもしれない!!」 そんな大吉の黄色い声に口元を緩ませて、足で調子を取るあの子の素足に、クスリと笑った。 体に元からあったみたいだね…その調子の取り方。 …まるで、音楽好きみたいだ! 1フレーズのリズムを録音して、それを再生させながら他の音色を付け加えていく…。そして、ポルカの前奏を、アコーディオンの音色でお手本の様に弾いて見せると、あの子を見上げたまま言った。 「サッキヤルベンポルカを…次の小節から、フルスロットルで弾いて行け!」 「はぁい…」 そんな気の抜けた声とは裏腹に…この子の弓は激しく動いて、サッキヤルベンポルカの小気味の良いメロディを、テンポ良くそつなく弾き上げた。 凄い…! 本当に…凄い…!! どうして弾けるの…?! それに、この度胸と、アドリブ力…ジャズのプロが欲しがりそうだ… 「わぁ!豪ちゃん!!」 そんな見事なあの子の演奏に一気に笑顔になって、庭に集まったあの子の家族は、手拍子を取りながら体を動かして、楽しそうにバイオリンを奏でる豪ちゃんを見つめた。 そうだ、そうなんだ。 この子を見ると、笑顔になる…そんな、楽しい音楽を、聴かせてくれる子なんだ。 「おじちゃん!頑張れ!」 「ぷぷ…!」 なんで俺を応援してんだよ… どうしたものか…大吉が両手を硬く結んで、俺を必死に応援してくるんだ。 こんな事されたら…応えない訳には行かないさ… どれ…可愛い豪ちゃんの演奏を、ジャックするか… 豪ちゃんが気持ち良さそうに首を伸ばして弾いている“サッキヤルベンポルカ”のテンポを8小節でガラリと変えた。そして、戸惑う豪ちゃんを無視して、“Hit The Road Jack”を自分の為に弾いた。 「ん、あぁん!も、ばっかぁん!」 そんなあの子の怒った声なんて…聴こえない。 だって、俺の目の前には…ぷぷっ!俺を必死に応援する、謎のファンが居るからね。 出て行け、二度と戻って来るな! そんな歌詞の内容をジャズ風にアレンジして、目の前のファンの子にウインクして届ける。 「あぁ…!おじちゃぁん…!惚れたわぁ…!」 やばいな…大吉。俺はぽっちゃり系は無理なんだ。 審美眼が備わってるから、ごめんよ。 無理なんだ… 興奮して前のめりになった大吉から視線を逸らした俺は、ズカズカと庭に降りて大吉を蹴飛ばす豪ちゃんに目を丸くして、再び視線を逸らした。 …まぁったく…とんでもない、やきもち焼きだ…! 転がって行く大吉に鼻息を吹きかけた豪ちゃんは、そのままの勢いで俺の目の前に立った。 …怖い…怖いさ…だって、この子は…曲の中で、たかが外れて、言葉通り…自由になるんだからね。 怯える俺を尻目に、豪ちゃんは弓を大きく振りかぶって、いきなりのこぶしを利かせた音色を響かせて、サティの“ジュ・トゥ・ヴ”をアップテンポで弾き始めた。 「はは…!ほんと、面白いな…」 クスクス笑ってあの子の伴奏を始める俺に、豪ちゃんは首を傾げながら眉を上げて、どや顔をして見せた。 俺の言う事を聞いてろ!ってか… 全く、血の気の多い子なんだ… でも、 だから… やっぱり、 大好きだよ。 「フィニッシュしたら、お終いだよ?」 あの子を見つめてそう言うと、豪ちゃんは口を尖らせて首を傾げた。 ふんだ!…とでも言ってる様だな。 未だに、大吉へのウインクに嫉妬してるんだ… 心配するなよ…豪ちゃん。 俺は君意外、欲しくないんだ。 「あぁ…この曲、懐かしいなぁ…昔、兄貴とゲームで遊んだわぁ!」 親父たちがクスクス笑ってそんな話をしてる…。でもね、それ以前に…この子は簡単にこの曲を弾いている。その事の方に、フォーカスすべきだ。 呆れた様に首を軽く横に振って、俺を見つめて来る豪ちゃんを見つめ返した。そして、”君が欲しい“なんて意味の”ジュ・トゥ・ヴ“を一緒に仕上げる。 「ゆっくり…」 あの子を見つめてそう言うと、嬉しそうに口元を緩めてあの子が微笑んだ。 そして、ゆっくりと弓を動かしながら、俺に…愛してると声を出さずに呟いて、静かに曲を弾き終えた… ふふ…最高のセッションだったよ。 まるでプロと掛け合ってるみたい、いいや…それ以上に…ただただ楽しかった。 合計…5曲を演奏し終えた豪ちゃんは、やっと弓を弦から外して俺に背中を向けた。そして、庭先で大歓声を送る…あの子の家族たちにペコリとお辞儀した。 「豪ちゃぁ~ん!あんたが大将!」 「お見事!」 「うっうう…あの、あの…豪ちゃんが…!こんな…凄い演奏が出来るだなんて…!!」 やんややんやと盛り上がる親父たちの歓声と、しみじみと感慨深げにすすり泣く母親たち。そんな姿を目に焼き付ける様に眺めた豪ちゃんは、満足げに笑って俺を振り返った。 「…どうして、途中で勝手に変えたのぉ!」 あぁ…やばい… 「大吉が…面白くって…!」 ケラケラ笑う俺をペチペチ叩いた豪ちゃんは、踵を返して、潤んだ瞳で俺を見つめる大吉に言った。 「大ちゃん!この人はね、僕のだからぁ!途中から入って来るのは無しなのぉ!」 「豪ちゃんだって、誰かの途中から入った口じゃないか!」 「なぁんだ!清ちゃん!やんのかぁ!」 おぉ…!怖い! そう、この子は…とんでもない、やきもち焼きだ。 きっと、俺に近付く何もかもに牙を剥く事だろう…可愛いだろ? 「ば、ば、ばっかだな!豪ちゃん!僕は、お姉さんに命を捧げる男だよ?ただ、演奏がカッコいいなって思っただけだ!僕は、そんな趣味無いからっ!ごめんだから!」 こっちのセリフだ…! 顔をフイっと背けた大吉を睨みつけた豪ちゃんは、呆けたままの哲郎に気が付いた様だ。おもむろに、足を彼に向けて歩き出した。 「てっちゃん、どうだった?僕の演奏…好き?」 自分を”豪ちゃん”と呼ばないあの子を見つめて、哲郎はじんわりと瞳を潤めて言った。 「うん…好き。」 そう言ってあの子の頬を撫でた哲郎は、ゴクリと生唾を飲んで付け加えて言った。 「豪ちゃんが…好きだよ…」 そんな哲郎の言葉を皮切りに…まるで、舞台の演出の様を見ているかの如く…大人と子供たちがサーーーーっと袖へと退けて行った。 おぉ… …そんな様子を目の当たりにして、察した。 彼らは、哲郎が豪ちゃんに恋をしていると…気付いていたんだ。 だから、今、この時を…固唾を飲んで見守っているんだ… 「…ふ、ふんふふ~~ん…」 そんな中、逃げ遅れた俺は…目の前で繰り広げられる”告白タイム”を、気付かない振りをしながらやり過ごすしか…無くなった。 「…ん?僕も、てっちゃんが大好きだよ!」 はは…豪ちゃん、哲郎の言ってる“好き”は、君の思ってる”好き”と違う。あそこを舐め舐めしたいとか、モノを入れてアンアンさせたいとか…そっちの好きだ。 まぁったく… 豪ちゃんのトンチンカンな返しに、首を横に振りながら遠くを見つめると、退けて行った大人たちが俺を見て、同じ様に首を横に振った… 仕方が無いだろ…?逃げ遅れたんだ! 俺は、気付いてないっ! 何にも知らないって体で…ここでキーボードを拭き拭きする。そんな無害な人を…演じるさ… 「キスしたいんだ…」 は…? 哲郎の衝撃の言葉に、思わず顔を上げて二人を見た。すると、あいつは豪ちゃんの肩を抱き寄せて、唇にそっとキスをした。 「あ…てっちゃん…」 驚いてそう言ったあの子の反応が、余りにも素すぎて…こちらの方がドキドキしてくる… 「好きなんだ…ずっと前から…豪ちゃんだけ、好きなんだ…」 俺の視界の隅で、哲郎の親父と母親が息子の勇気ある告白タイムに…旗でも振り出しそうな勢いで体を動かしている様子が見える。 「でもぉ…僕は、男の子だよぉ?」 豪ちゃんはそう言ってケラケラと笑った。そして、真剣なまなざしを向ける哲郎の頬をペタペタと撫でて首を傾げた。 何を言ってるんだぁ!俺と毎晩のように愛し合ってるじゃないか…! あぁ…そうか… この子は、そう言って、哲郎に身を引かせるつもりだ… 悪い奴だ。 都合の悪い時は、こうやってとぼけて、こうやって欺いて、嘘を吐くのは…変わらない。 もはや、これは…豪ちゃんの生きる術から、この子の性格へと変わった様だ。 「知ってるよ…でも、好きなんだ。」 哲郎が食い下がった。 さすが、お前は…俺の乙女心の初恋の相手だ… すると、豪ちゃんは困った顔をして俺を見つめて来た。 は…?! 止めろ、俺を巻き込むな! そんなあの子の視線を追う様に、哲郎が俺を睨みつけた。 は…?! 「さてと…キーボードも拭き終わったし…鶏でも返しに行くかなぁ…」 「ごめんね…てっちゃん。僕は、惺山を愛してるの…。あの人は僕を自由にしてくれた人。あの人は僕の特別な人。そして、もうひとりの、僕なの…」 誤魔化そうと両手を挙げて伸びをしている…そんな、間抜けなタイミングで、豪ちゃんが直球で哲郎を振った… 「…そうか。分かった…」 哲郎はそう言うと、豪ちゃんの頬を撫でて言った。 「嫌になったら…俺の所に来てね…」 「うん。分かったぁ…」 分かった?? そんなあの子の返事に首を傾げた。すると、儚く散った哲郎が俺の目の前にやって来て、ニヤッと口端を上げて言った。 「…俺にとっての黒さつま鶏は、あんただな?おっさん…」 ほほ… ほほほ… 「は、は、果たして…そうかな…」 間抜けな顔でそう言うと、哲郎が舌打ちして俺の頭を引っぱたいた。 「哲!手ぇ出したらダメだ!堪えろっ!堪えろっ!!次弾装填準備だ!」 遠くで、哲郎の親父がそう言った。すると、そっと哲郎の肩に手を置いた豪ちゃんが、俺に背中を向けて俺と哲郎の間に体を入れた。 「てっちゃん…だめ。」 聴こえて来た声はいつもの豪ちゃんの声なのに、あの子を見つめる哲郎の顔は、少しだけたじろいでいる様子を見せた。 「…豪ちゃん。」 バツが悪くなった哲郎は、あの子の髪をぐしゃっと撫でて俺の前から立ち去って行った… 豪ちゃんは、可愛い鶏ちゃんだけど…怒ると怖い。そして、俺の事になると…牙を剥くハードルが一気に下がる。 きっと、真顔で哲郎に眼を飛ばしたに…違いないんだぁ! 「あ…さてさて…」 逃げる様に居間に上がった俺は、キーボードを接続し直して、いつもの様に遊び始めるギャング団を横目に、告白して散って行った…男前の哲郎の背中を見た。 俺にとっての…黒さつま鶏は、あんた… まさに…その通りだな。 黒さつま鶏が帰っても、群れが元に戻らない様に…俺が東京へ戻っても、この子の関心が、お前に向く事は無いんだもんな… しかも、豪ちゃんは俺と知り合ったせいで、フランスへ行ってしまう事になった。 はらわたが煮えくり返る思いだろうね…。 「…惺山先生、ちょっと!」 そんな大人の声に顔を上げて、いそいそと縁側から降りた。そして、足早にあの子の家族の元へと向かった。 「いやぁ~~!凄かった…。やっぱり、あの子は…凄い子だったんだ!」 儚く散って行った息子の事など忘れたのか…哲郎の親父は興奮しながら俺にそう言うと、激しい抱擁をして、何度も俺の背中を大きな手のひらでぶっ叩いて来た。 い、痛い…これは、逆襲なのか…? 息子の敵を取っているのか…?! 「本当だ!豪ちゃんの顔を見ただろ?とっても楽しそうだった!あの子のあんな笑顔…見た事ないかもしれない!」 そう言って満面の笑みを浮かべる大吉の親父を見つめて、ふと、大事な事を思い出して、慌てて言った。 「そう言えば…この前、松坂牛ご馳走様でした。お礼が遅くなって申し訳ありません…」 そんな俺に大笑いした大吉の親父は、ニカッと笑って言った。 「豪ちゃんの恩人だ!東京に帰るまで…俺たちはあんたを大事に扱うぜ?なあ?」 「当り前よっ!あの子の…あの子の…愛してる人だもの~~!」 母親たちはキャピキャピ騒いで、まるで若い女子の様に、俺の右手に付いたあの子のミサンガを指さした。そして、クスクス笑って、ニヤニヤと顔をニヤ付かせてコショコショと内緒話を始めた… 「いやぁ…凄かったな?フランスの先生って…?はぁ~!豪ちゃんは白鳥の子だったんだ!こんな村に収まるスケールじゃねんだ!はっは~!こりゃ、赤飯だ!」 晋作の親父はそう言って大笑いしながら携帯電話を取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。そんな彼の背中の後ろで、清助の親父はおんおんと泣いて言った。 「…徹が連れて来た人がぁ!豪ちゃんを…豪ちゃんを、自由にしてくれたぁ!あの子の…演奏が、温かかったぁ~~!あんな音が出るなんて、す、す、凄い~~!」 そう…あなた達に送ったあの子の“愛の挨拶”は、感謝と愛がこもっていた。 とっても…温かくて、優しい… あの子らしい…そんな感謝の伝え方だった。 この人たちは、豪ちゃんと健太…このふたりの兄弟を親代わりに育て上げた。 そんな彼らは、あの子の大切な家族。 素敵な…家族じゃないか。 健太と一緒にそんな彼らをお見送りして、見えなくなるまで手を振った… 「じゃあ…全部、捕まえるぞ!」 大人が帰った広い庭…哲郎がそう言うと、いつものギャング団の面々がコクリと頷いて答えた。 「ん、優しくして…ねぇ…?乱暴しないで…?」 哲郎はそんな豪ちゃんの言葉にいつもの様に微笑んで、あの子の頭を撫でながら”鶏捕獲作戦“を決行した。 「おっちゃんの小さな車に全部乗せるのは無理だ。うちの軽トラを貸すから…。おっちゃん、一緒に来てよ!」 清助はそう言って俺の腕を掴んで引っ張った。 「あぁ~ん!てっちゃぁん、だめぇん!」 「なぁんでだよ!こうやって捕まえないと、いつまで経っても捕まえられないよ?明日になるよ?」 そんな毎度おなじみのやり取りを背中で聞きながら、俺は、清助とあいつの家へと向かった。 「あぁ~…やっぱり、フラれた!」 清助は、おもむろに両手を上に掲げて伸びをしながらそう言った。そして、俺を横目に見て、ため息を吐きながら言った。 「てっちゃんは…ずっと豪ちゃんが好きだったんだ。あぁ、男同士でも、どうしてか…気持ち悪いなんて思った事は無かったよ。きっと、ふたりの事をよく知ってるからかな…。」 あぁ…そうだな… 何も言わない俺を見てケラケラ笑った清助は、再びため息を吐いて続ける様に言った。 「おっちゃんが…徹叔父ちゃんと来た時から、豪ちゃんはおっちゃんしか見てなかった…。あぁ…終わったなって、俺たちは、結構、すぐに、そう思った。」 どうしたものか… 何と言ったら良いのか…分からない。 ため息を吐いて項垂れた清助の背中を見つめたまま、何も言えずに、あいつの家までやって来た。 ここら辺の家は都内に比べると、どこも立派だ。 母屋の隣に大きなガレージが付いた清助の家は、少しだけ今時な洋風の趣を漂わせていた。 「父ちゃん!おっちゃんに車貸してやってよ!豪ちゃんちの鶏を湖の向こうの…江森のおっさんとこに持って行くんだって~!」 玄関先で清助が家の中に向かってそう言った。すると、家の奥からドスドスと凄い足音を立てながら清助の親父が現れた。 清助の親父のやけに口角を上げたニヤ付いた顔と、彼の手に持たれた…何かの小さな賞状を見て、首を傾げた。 「見て、これ!徹の小学校の時の、水泳の記録!すっごいタイムだろ?50メートル泳ぐのに、15分も掛かってる!あ~はっはっは!!これ…写真に撮って…!撮って!東京に戻ったら、みんなに見せて回ってよ!」 兄貴って…どこも、最低だな… そんな事を思いつつ、友達の水泳の黒歴史を写真に収めると、清助の親父に言った。 「豪ちゃんの鶏を返しに行きたいので…軽トラを貸してくれませんか?」 「良いよ!豪ちゃんの、年上で、イケメンな、作曲家の彼氏の為なら、どうぞ?」 はは… そんな清助の親父にたじたじになりながら苦笑いをした俺は、グイグイと手を引く清助に連れられて、裏のガレージにやって来た。 「鍵はついてる。俺は後ろに乗るから、気にするな!」 どういう意味だよ…気にするだろ?普通。 「危ないから、隣に乗んなさいよ…」 荷台に乗りたがるのは…何でなんだ。 スリルを味わいたいんだろうが…危険極まりないぞ。 助手席に清助を乗せて、軽トラを運転しながらこんな生活も悪くないなんて…また考えてしまう。 俺は誰で、何をする人なのか…忘れてしまいそうになるんだ。 この暮らしが…この子供たちが、この環境が楽しすぎて…ずっと、このまま…ここで暮らしていたくなるんだ。 それも…きっと、終わりがあるから分かる…そんな、バイナリーな気持ちなんだ。 「おぉ~!来た来た!」 俺の運転する軽トラックを嬉々と見つめる晋作と大吉は、まるで誘導員の様に両手を上げて、庭先に俺の車を誘導した。 「オーライ…オーライ…はい、ストップー!」 軽トラから降りた俺は、すぐに手際よく段ボールを詰め込み始める哲郎たちを見て言った。 「豪ちゃんは?」 「…あぁ、パリスを取りに行ったっきり、戻って来ない。」 哲郎はそう言いながら、やたら明るい笑顔で俺の胸を何度も殴った。 「初めて取り上げた雛がパリスだったんだ!俺もその時一緒に居たから、よく覚えてる!だから、離れがたいんだろうね!黒さつま鶏!」 「い、痛い…」 痛くて胸を押さえて、視線を逸らして苦笑いする清助や、晋作…大吉を順々に見た。 …ごめん。逃げて… そんな彼らの声に出せない言葉を瞬時に察して、俺は哲郎から離れて裏庭のテラスへ急いで逃げた。 やばい…哲郎は普段通りにしてるかと思ったら…めちゃくちゃ殴って来る! しかも、腰を入れた重いパンチを繰り出すんだ… さりげなく逆襲してくる…親父に、似てる! 「豪ちゃん…トラック持って来たよ。」 裏庭…ピアノの部屋のテラスに顔を覗かせた俺は、昨日と同じ様に、テラスの上で寝転がって、泣きながら、悶絶を打つ豪ちゃんに声を掛けた。 「あぁ~~~ん!パリスゥ!パリスゥゥゥ!!」 腹の上に乗せられたパリスは…昨日と同じ様に、首を傾げて呆れた様な顔をしてる。 はぁ… 「どうだい…この子だけ、飼い続けたら良いだろ?フランスの…先生の所に一緒に連れて行けば良い。」 そんな俺の言葉にピクリと動きを止めた豪ちゃんは、ピタリと泣き止んで俺を見つめて聞いて来た。 「え…?良いの…?」 知らないさ… これはあくまで、今の君を納得させる為に言っている…言わば、その場しのぎのコメントだ…その後の事は、先生にお任せする…なんて、無責任さを帯びている。 そんなコメントだ… 「きっと、部屋の中で…ピアノを弾いてバイオリンも弾くんだ。防音の部屋さ…」 そんな俺の言葉にジッと押し黙った豪ちゃんは、パリスを藁の上に戻して、俺を見つめて言った。 「この子は、僕と一緒に居る事にする…」 「あぁ…そうしなさい…」 じゃないと…キリが無いからな… やっと動き出した豪ちゃんを連れて、軽トラックの元へと連れて行く。荷台には10箱程度の段ボールが積み込まれ、上に乗った哲郎がゴムのベルトでしっかりと固定していた。 あぁ…俺が女だったら、お前の彼女になりたい。 そして、あちこちを連れまわして…あちこちでセックスしたい。 「コッコココ…」 「コココ…」 荷台に積まれた段ボールの中から、鶏たちの話し声が漏れ聞こえてくる。 ”どこ行くの?“ ”知らね…“ まるでそんな感じに、ひそひそ…と、でも、途切れる事無く…話し続けてる。 「ちゃんとゴムベルトで固定したから、車がひっくり返っても段ボールは転がんねぇぞ…?」 哲郎は、そんな冗談にもならない物騒な事を言った。そして、ついでに、俺の二の腕も殴った。 「はは!気を付けてな!」 痛い!青あざだらけになっちゃう! そんな乙女心をひた隠しにしながら、これ以上殴られない様に慌てて運転席に座って言った。 「…行ってきます。」 「ありがとう…みんな…!うっうう…パリスは置いてく…だって、僕の魂の鶏だもん!」 どういう事だよ… まん丸の瞳から涙をボロボロと流した豪ちゃんは、見送りのギャング団に手を振った。 「…ねえ、何だか…農家の夫婦みたいだね?」 初めて乗った武骨な軽トラックは、意外にも乗り心地が良かった。特に、必要最低限のダッシュボードはシンプルで、逆に良い。 俺のそんな言葉に、助手席の豪ちゃんは、メソメソと涙を拭って鼻を啜りながら言った。 「それを言うなら…養鶏家が鶏をしめに行く時みたいだ…」 はは…物騒だな。 「あぁ…風が気持ち良いね…」 開いた窓から入って来る風に髪をなびかせながらあの子を見ると、豪ちゃんは悲しそうに眉を下げて、同じ様に短い前髪をなびかせてため息を吐いた… 気が進まない…でも、仕方が無い…そんな、表情だね。 豪ちゃんの道案内に従って、大きな湖をぐるっと回る様に道なりに進んでいくと、時折、キラキラと光る湖面が防風林の隙間から覗いて見えた。 ここは…素敵な情景のある場所だな… 「…豪ちゃんは、自分の家族に”僕”って言えたね…」 顔に当たる風に瞳を細めながらポツリと呟いた俺に、あの子は瞳を潤ませて…クスリと笑って言った。 「…言えた。自分の本当の気持ちで…話せたぁ…。緊張したけど、不思議と怖くはなかった…」 良かったね…豪ちゃん。 きっと、君はもう、自分を隠す必要が無くなったんだ。 行き場所が…自分の向かうべき場所が、分かったから。 もう、持て余す感性を…怖がる必要が無くなったんだ。 嬉しそうに瞳を細めて微笑むあの子を見下ろして、柔らかい髪に手を置いてそっと優しく撫でた。 「そろそろ…左側に看板が見えてくるよ?」 豪ちゃんの言った通り…左側に“エモい卵あります…江森養鶏”なんて…くそ寒い看板が見えて来た… 「…はぁ、癖の強そうな人が居そうだね…?」 助手席の豪ちゃんを見てそう言うと、あの子はぼんやりと外を眺めて、ホロリと涙を落としていた… あぁ… 「大丈夫…きっと、ここでもうまくやって行くさ…。」 俺の言葉を皮切りに、豪ちゃんは肩を揺らして再び泣き始めた… あちゃ… ずっと可愛がって来たから、手放したくないんだ。 でも、雄が死んだ今、統率の取れなくなった群れを飼い続ける事が困難なんだ。 自分の手に負えない状況を、回避する為に…鶏たちを返しに来た。 それを無責任だと思う…? それを勝手だと思う? 「着いた…」 ログハウスで作られた養鶏場の売店の前に車を停めると、あの子は一目散に車を降りて、店から出て来た初老の男性に飛びついた。 …あぁ、あの人が…江森さんの様だ。 泣きながら…何度も頭を下げて謝っているあの子の姿に…胸が痛くなった。 鶏を飼い続けて…5年。初めは5匹だった鶏が3世代も代を繋いで、今では烏骨鶏を混ぜて20匹の大所帯になった… まるで”死”に囚われて“生”を渇望する様に…毎日、産まれて来る卵を拾っては…哲学をして、産まれて来る事の当然さも、死んで行く事の当然さも…不慮で亡くなる命の儚さも… 命について、鶏に教えて貰ったみたいだね…豪ちゃん。 あの子の背中を見つめながら運転席を降りた俺は、豪ちゃんの傍へ行って、中肉中背のエモい江森さんにペコリと会釈をした。 「あれ…?豪ちゃん、お兄ちゃん…随分、年を取っちゃったね…?」 酷いじゃないか… 俺を見た江森さんが首を傾げてそう言った。すかさず、豪ちゃんはグスグスと鼻を啜って江森さんに教えてあげた。 「違う…この人はお友達なの…。手伝ってくれてるの…僕のぉ!無責任のぉ…後始末を、手伝ってくれてるぅ…うっうう…!!」 無責任… そう思ってるの…? 何度も腕で涙を拭う豪ちゃんを見つめて、俺は眉を下げた。あの子は悔しそうに唇を噛み締めながら、まん丸の瞳を歪めて…江森さんを見つめていた。 「違う。豪ちゃん…これは、無責任とは言わない。おいちゃんはそんな風に君を思ってないよ?どれ…みんなを見せて?」 そう言うと、江森さんは軽トラックから段ボールを10箱下ろして、中に入った鶏を覗き込んだ。 「あぁ…みんな立派な体つきだ。羽もふわふわで…可愛らしいじゃないか。」 「あっああ…!キャサリン・ゼタ=ジョーンズ!!うわぁあん!」 地面に突っ伏して嗚咽を漏らしながら泣き始める豪ちゃんの背中を撫でて、あの子の顔を覗き込んだ。そして、悲しみに暮れる瞳を覗いて言った。 「豪ちゃん…落ち着いて…鶏たちが…怖がっちゃうだろ。」 「はぁい…はぁい、うん…うん…ぼ、僕…おち、落ち…落ち着くぅ…」 しゃくりあげながらそう言った豪ちゃんは、真っ赤な目じりで俺を見上げて深呼吸をしながら、何度も瞬きをした… 感受性が豊かな分…悲しみも豊かで、過呼吸を起こすんじゃないかと心配になって来る。 そんなあの子を見下ろした江森さんは、嬉しそうに声を弾ませて言った。 「あぁ。皆、大事に育てられて来た子達だね。おいちゃんちょっと見ただけで分かっちゃった。そうだ。この子達は…しばらく群れには合流させないで、向こうの小屋に入れて…環境に慣らしてあげようね…。豪ちゃん、手伝ってくれるかい?」 「は…は、はぁい!」 姿勢を正した豪ちゃんは、涙を堪えながら…鶏の入った段ボールを江森さんの指示した小屋まで何往復もして運んだ。 「ほら、見てごらん?豪ちゃん…。みんな初めての場所に来たせいか…緊張して、仲良く固まってるね?」 江森さんが指さした先の…初めての小屋に入れられた、緊張気味な自分の鶏たちを見て、ポロリと涙を落として豪ちゃんが言った。 「…本当だぁ、あんなに…喧嘩してたのに…。やっぱり、仲良しだったのかな?うちに連れて帰ったら…また、喧嘩する?」 「するだろうね…。でも、ここに居たら、こうして…団結するしかないから固まってるんだ。鶏に限らず…動物は自分の身を守る事を第一優先に考える物だよ。今は、こうする事が得策だと考えてるんだ。」 何度も頷きながら真剣に話を聞く豪ちゃんの頭を撫でて、江森さんはにっこりと笑って言った。 「…雄鶏は残念だった。でも、最後まで、助けようとしてくれてありがとう。」 そんな優しい言葉に首を横に振った豪ちゃんは、涙を溜めながら、江森さんを見つめて言った。 「ごめんなさい…大事に育てるって言ったのに…僕は、雄鶏を死なせて…群れをバラバラにさせてしまった…。いつ喧嘩が始まるのか…怖くて、見てられなくて、投げ出した。こんな、無責任で…。本当に、ごめんなさい…!!」 「豪ちゃん。人は時に、自分の手に余る物を、見て見ぬ振りしてやり過ごす。そして、どうしようもない事態に陥ってから後悔するんだ。おいちゃんはその方が、無責任だと思う。君は現実的だよ。群れを失くした鶏を自分の手に余ると判断したんだ。そして、この子達が幸せに暮らせる環境に、連れて来た。それは、自分の至らなさを認める…勇気の要る事なんだよ?」 あの子の言葉にそう答えた江森さんは、嬉しそうに瞳を細めて言った。 「3世代まで繋ぐことは、容易じゃない。君がこの子達を大事に育てていた事は、見たら分かる。手放す判断は辛かっただろう?情けなかっただろう?その気持ちは、君が真剣に…鶏と向き合ってきたから感じる気持ちなんだよ?」 良い事言うわ…流石…エモい、江森さんだ… 俺の感動というエモーションが発動するぜ… 優しく微笑み続ける江森さんに、豪ちゃんは何度も腕で目を拭って頭を下げて言った。 「うっうう…この子達を、よ、よ…よろしくお願いします…!」 「うん。任せなさい。おいちゃんはプロだ!」 あぁ…この子は、本当に心の優しい、良い子だ。 そして、この江森さんは…とっても優しい人だ。 鶏を譲り受ける時…江森さんは豪ちゃんに”貸す”と言った。 それは子供が生き物を育てる事の難しさを予見しているかの様な…そんな遊びを持たせた言葉だと思った。 いつか…きっと面倒に思って、世話を投げ出すんじゃないか… そんな時、鶏が無事に自分の手元に無事に戻って来る様に…”貸す”と言ったんだ。 しかし、豪ちゃんは彼が思った以上に鶏の飼育を頑張ったんだろう… 3世代まで繋げた群れと、個体の体つきの良さ…目の輝き…それらを見て、とっても嬉しそうに笑ったんだ。

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