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#34
「ん、もう…!兄ちゃんのばっかぁん!」
豪ちゃんの平手を背中に受けながら、余裕の笑顔を見せた健太はケラケラ笑って言った。
「兄ちゃんは…明日、キメるぞ…豪!」
はっ!気が早いんだ。
俺は深いため息を吐いて、首を横に振りながら健太を覗き込んで言った。
「…馬鹿な男だ。初めてのデートは、所謂…品定めさ。この男に身を捧げる価値はあるのかって…考えてんだ。だから、明日のデートでがっついた所なんて見せてみろ?次は無いぞ?」
そんな俺の言葉にハッとした健太は、考え込む様に唸って言った。
「だったら…明日は、どこまでして良いんだ…?」
はっ…!笑わせる!
「そんなの…手を繋ぐ程度さ。」
鼻で笑ってそう言う俺に、健太は顔を歪めて言った。
「まじか…」
あぁ…マジだ。
「初めてのデートでは、優しくしまくれ。車が通るたびに背中をさりげなく抱いて、車道の反対側に誘導すれば良い。後、ご飯を食べに行く所も、何件か候補を決めておけ。土壇場で途方に暮れると、次は無いぞ。」
俺の的確なアドバイスを熱心に聞いた健太は、首を傾げて言った。
「…ラーメン屋は?」
「…無いな。良いよって言うかもしれないけど、全部、嘘だ。話題のお洒落なカフェに連れて行って…1680円くらいのランチを食べろ。決して金に糸目をつけるな。初めが肝心だ。」
俺は、夢中になって、豪ちゃんの向こうに座る健太を覗き込んでそう言った。すると、あいつは眉間にしわを寄せながら呟いた。
「1680円…」
そうだ…
高いんだ…
牛丼が3つ買える。
しかし、奮発する時に金を使わないでどうする。しかも、初デートでケチるなんて…そんな男、俺が女なら絶対嫌だ…。
やや渋り始めた健太を横目に見て、俺は得意げになって、次のワンポイントアドバイスを彼に送った。
「…映画館では、真ん中にポップコーンを置け。そして、食べる振りをして何回か触れろ。」
「ほうほう…!」
健太は食い気味に前のめりになって俺の話に何度も頷いた。そして、ふと考えこんだ素振りを見せた後、ため息を吐いて言った。
「じゃあ…帰り際は、どうすれば良いの?送ってくの?」
「お前はバイクだろ?スカート穿いてたら跨げないじゃないか、駅かバス停で、いちゃつくんだ。離れたくないよう…みたいな雰囲気を出して、いちゃつくんだ。でも、決して触り過ぎるなよ?顔で演技するんだ…悲痛な、感じを…こうやって出すんだ…」
俺がそう言って悲しげな表情を作ると、豪ちゃんが俺を見上げて言った。
「…へえ。」
はっ!
「って…人から聞いたんだ。誰にも試して無いけど…人から聞いたんだぁ。」
俺は、不自然に引き攣り笑いをしながら、豪ちゃんを見つめてそう言った。すると、あの子は解せない表情を浮かべたまま、俺の頬をペチペチと叩いて、真顔でチャーハンを食べ始めた…
あぁ…へそを曲げた。
俺が健太に女の口説き方を伝授したら、やきもち焼きの豪ちゃんが…へそを曲げた。
お前のせいだ…
俺は、そんな恨みのこもった横目で、健太を睨みつけた。すると、あいつは急にお利口さんになって、豪ちゃんのチャーハンを褒めちぎり始めた。
「美味しい!さすが…豪のチャーハンは素材の旨さが引き立ってる!」
つ、続けっ…!
「本当だぁ…素材の旨さが…沁みる。」
俺は必至な気持ちをひた隠しにして、健太に続けとばかりにあの子のチャーハンを褒めちぎった。
しかし、豪ちゃんは真顔を止めずに俺をジト目で見上げて…こう言った。
「へえ…」
あぁあああん!
「なぁんだよ…豪ちゃん、へそ曲げるなよ。人から聞いたって言っただろ?俺がそんな事、する訳無い。」
そう言いきって、あの子の腰を抱いて顔を覗き込んで言った。
「そうだろ…?」
こうなったら、押せ押せだ…
この子が押しに弱いのは…知ってる。
「ん、だぁってぇ…やなんだもん…。惺山が女の人をどう扱っていたかなんて、僕は知りたくないんだぁ。」
豪ちゃんが頬を膨らませてそう言うから、俺は口を尖らせてあの子を見つめて、首を横に振りながら言った。
「してな~い!そんな事、一回もしてな~い!」
嘘さ。
バリバリの実地で獲た、生きた情報さ…
「…本当?」
俺の顔を覗き込むあの子の瞳は…まるで嘘だって気が付いている様に、冷たい。
でも、俺は押し切るよ?
「あぁ、本当さ…」
冷たいあの子の瞳をじっと熱く見つめると、そう言って頬にキスをした。
「ふぅん…」
ポツリとそう言った、あの子の腑に落ちない返事を右から左に受け流して、味の薄いチャーハンを食べながら健太に言った。
「…ゴホン、ゴホン…。健太ぁ、そろそろこっちのパソコンで作業するから、テレビのケーブル外しておけよ。」
「えぇ…?!なぁんだよ。楽しみにしてたのに…!」
このモニターはもともと、俺の作業用の物だ。
お前のテレビの為に置いてあるわけじゃない。
大人でずる賢い俺は、腑に落ちない様子の豪ちゃんを無視して、話題を変えて、あの子の気を逸らした。深追いする事は賢明じゃない。
だって…豪ちゃんは杞憂の焼きもちを妬いてるだけなんだ。
今日のチャーハンも味が薄くて、美味しかった。
ご馳走様をして、豪ちゃんの片付けを手伝って、あの子がバイオリンを取り出すのを横目に見て瞳を細める。
「豪ちゃん、バイオリンを取り出した時…調弦する癖を付けると良い…この、4本の弦はこっちから…G線、D線、A線、E線…って呼ぶんだ。それぞれの開放弦がソ、レ、ラ、ミ…になる様にペグを締めたり緩めたりする。」
俺は、豪ちゃんのバイオリンに手を伸ばしてペグを触った。そして、開放弦を指で弾きながら耳で音を聴く様子をあの子に見せた。
「はい…G線が今、ソになった。他の音を合わせてごらん?ソ、レ、ラ、ミ…だよ?」
「うん…」
豪ちゃんは真剣な顔で頷いて、俺がした様に開放弦を指で弾いて耳を澄ませた。
ふふ…左耳で聴いてる。
可愛いな。
この子の利き耳は左。それは間違いない様だ…
「出来たぁ…」
そう言って俺にバイオリンを向けるから、あの子の差し出した弦を指で弾いて言った。
「ん~…全体的に下にズレてる。もう少しだけ、締めて?」
チューナーを見れば視覚でも確認出来るだろうが、少しだけ下に音がズレていた。
「この…位かなぁ…」
ピアノの部屋に向かった俺の後ろを追いかけて豪ちゃんがそう言うから、俺はあの子のバイオリンを受け取りながら、楽譜をひとまとめにして片手に抱えた。
「どれどれ…」
弦を指で弾いて、開放弦の音色を一緒に耳を澄ませて聴いてみる。
やっぱり、下に少しズレているみたいだ…。
「…聴いて?」
俺はピアノの蓋を開いて、あの子の為にピアノの鍵盤で、ソ、レ、ラ、ミを弾いて聴かせてあげた。
すると、豪ちゃんは何も言わずにピアノに腰かけて、口を尖らせながら再びペグを調整し始めた。
ふふ…音のズレに気付いたみたいだ…
何度もやってると、自然と音が分かるようになる。
もちろん…発表会前なんかはチューナーを使った方が良い。
ただ、練習するくらいなら…この位で良いんだ。
相対音感を鍛える、ちょっとした練習にもなるしね…
ピアノの椅子の上で頭を悩ませるあの子を横目に、居間へ移動して沢山の楽譜をテーブルの上に置いた。
そして、パソコンの電源を付けてモニターを付けた。
…さぁ、やるぞ!
「あぁ…!すっごぉい!…ん、もっと…ん、あぁああん!こんなにおっきいの、はいんなぁい!」
AVだ…
目の前で、盛大にAVが流れてる…
「あぁっ!いけね!いけね!」
そう言いながら慌てて駆けてきたのは…健太だ。
あいつは、俺のモニターの裏に隠し置いた小型のDVDレコーダーの電源を落として、ケーブルを抜いて、そそくさとどこかへと消えて行った…
最悪だ…
あいつは俺の仕事用のモニターに、勝手にDVDレコーダーを繋げて、AVを再生してた!
しかも…古めかしい…企画もののAVだ。
高校生の制服を着た…微妙なおばさんが、作った様な声で喘いでいた…
趣味が悪い!
気を取り直して編集ソフトを立ち上げて、画面を見つめながらヘッドホンを耳に付けた。
さあ…始めるぞ。
まずは第一楽章から…
バイオリンに主旋律を弾かせて…あの子の主題をピッコロで演出しよう。ノスタルジーで、少しだけ寂しさを漂わせる様な…そんな回想シーンだ。
手元の五線譜からパソコンへ音符を移しながら…頭の中で構想を描いていた楽器たちを、あの子の交響曲、第一楽章へとはめ込んで行く…
楽器の数だけずらりと並ぶ五線譜を見つめながら…ひとつひとつ音符を入力した。そして、出来上がった3小節分を再生させて、ヘッドホンから耳に届けた。
「あぁ…素晴らしいじゃないか…!」
それは想像以上の素晴らしいハーモニーを奏でて、鼓膜を優しく揺らした。
冴えてる…イケてる…最高な予感しかしない…
思った以上の響きを見せた自分の感覚に、急に自信が付いた。
そして、ふと、隣でバイオリンの練習をし始めたあの子を見て、首を傾げながら瞳を細めた。
普通じゃない…
豪ちゃんはぼんやりしながら何かを思い出す様に首を傾げては、天井を見つめて、弦の上を指を滑らせて弓を引いてるんだ。
まるで、頭の中に記憶した音を探り探り…探してる様なあの子の様子に、首を傾げながら頬杖をついた。
バイオリンには、ギターやウクレレ…その他の弦楽器にある、フレットと呼ばれる、音階の目印…のような、区切りのような、そんな横線が無い。
どこの音が求める音なのか…ある意味、自由に探す事が出来る。
本物を探って、確かめるには…耳が肝心。
ねえ、そう考えると…バイオリンは、君にうってつけの楽器だね…豪ちゃん。
自由な分、冴えわたる感覚が重要になる…そんな楽器だ。
チューニングが上手く出来ていても、ピンポイントで音階を出す事と、曲の中で踏む音は“感覚”なんてあいまいな物の上に立ってる。
ふと、豪ちゃんはバイオリンをウクレレの様に胸に抱え始めた。そして、ネックの上の4本の弦を二本の指で押さえて、弦を指先で優しくかき鳴らし始めた。
「ぷぷっ!」
面白い事をする…
撫でる様に音色を出しては何度も首を傾げる豪ちゃんは、いったいどんな和音を出そうとしているのか…ヘッドホンを付けた俺の耳には聴こえてこないさ。
でも…面白い。
頬杖をつきながら、そんなあの子を興味深げに眺めていると、豪ちゃんは思い立った様にバイオリンを畳の上に置いた。そして、まるでお琴のようにつま弾き始めた。
「ぐふっ!」
微妙に姿勢を良くして正座しながら弾くの…止めてくれ…
そんな興味深い豪ちゃんの練習風景から視線を外した俺は、パソコンのモニターを見つめて作業の続きを再開した。
それはただ…自分の書いた楽譜の中の記号と音符を入力して、楽器を指示して行くだけの、単純な作業となった。
…本来なら、何度も書き直したり…取捨選択をして構成を変えたり…グチャグチャになったり…そんな、一進一退の過程の筈なんだ。
豪ちゃん…ねえ、不思議だよ。
一発でこんなに上出来に整う事なんて、今まで一度も無かったんだ。
追い風が吹いているなんて…そんなものじゃない。
誰かが…
何かが…
俺の背中を押して、早く…君の傍から離れろと言ってるみたいに感じてしまうんだ。
良い?これは、俺の主観だよ…
君への贈り物でこさえた、この交響曲は…俺、ひとりの力で作った物じゃない。
ずっと、君のお母さんが…助けてくれている様に感じていた。
君の傍に居たいと願う俺に…分かったから、早く作ってしまいなさいって…君の様に…最大限の譲歩をしてくれている様に感じているんだ。
上手く良き過ぎた創作過程と…この、順調な調整作業…
君を悲しませない為に、特別な力が働いてるって…そう、思えてならないんだ。
まるで、君を思って心を砕いた…哲郎の母親のような、そんな優しい愛情を感じてる。
君はお母さんに産まれる前から愛されていて…今もまだ、愛されてる。
きっと、この交響曲は良い物になるだろう。
確信に似た感覚を覚えながら、口元を緩めて微笑んだ。
…すると、不意に、目の端に白い煙がモクモクとこちらへ漂って来て、あっという間に目の前を覆い隠して行った…
はっ?!
か、火事…?!
俺は、大慌てでヘッドホンを耳から外して、縁側に目を向けた。そして、次の瞬間…ため息を吐いて言った。
「…なぁんだ!晋作!こっちに煙が来てるじゃないかぁ!」
「あ~はっはっは!おっちゃん!燻されて…いぶし銀になれるぜ?あ~はっはっは!」
うまい事言ってんじゃないよ…
両手に小枝を抱えた晋作は、顔を歪める俺を見て大笑いしながら焚火に棒を突っ込んで言った。
「まだ枝に湿気があるから、やたら煙が出て、思った様に燃えないんだぁ!」
なんだと…?!
そんな晋作の言葉に、俺はヘッドホンをテーブルの上に置いて縁側から庭に降りた。そして、晋作の隣で清助が息を吹きかける小さな焚火を見下ろして言った。
「これ…どうするんだよ…?」
「惺山!今から、焼き芋を作ってあげるよ?」
豪ちゃんだ…
楽しそうなあの子の声を背中に受けて、ため息を吐きながら振り返った。
そこには、大事そうにさつまいもを両手で抱えて歩いて来る豪ちゃんと、哲郎の姿があった。
「火事かと思った!それに…そんな大きなさつまいも、こんな小さな焚火じゃ焼けないだろ?」
「あ~はっはっは!馬鹿だな!」
俺の言葉にそう言ったのは…哲郎だ。あいつは豪ちゃんの後ろから顔を覗かせて、やれやれと言わんばかりに首を横に振って言った。
「おっさんは分かってねえな…。この焚火はな、下に穴を掘ってるから、窯みたいになってんだよ。はっ!ほんと、分かってねえな!」
え…?!穴…?
驚いた俺は、焚火に棒を突っ込む晋作の手元をもう一度、見直した。
あぁ…本当だ。
あいつがかき混ぜる様に動かし続ける棒は、穴の中の葉が良く燃える様に、酸素を送り込む役割をしていた様だ…
「この葉っぱが燃え切って…落ち着いたら、お芋を入れて…そうだな、30分くらい待つの。そうすると、ホクホクの焼き芋が出来るんだよ!んふぅ!」
豪ちゃんはそう言って嬉しそうに体を揺らした。
きっと、芋が好きなんだ…
呆然とあの子を見つめる俺の背中をポンポンと叩いた豪ちゃんは、哲郎と一緒に縁側から台所へと、行ってしまった。
「おっちゃん…こんな事、本当は9月にはしないぜ?いつもなら、11月とか…寒い中でやるんだ。こんな季節に焚火なんて…はぁ、暑くてなんねえ…。どうせ…豪ちゃんに、焼き芋食べたぁいん!って…駄々をこねたんだろ?はぁ…ダサいね…」
晋作はやたら勘が鋭いな…その通りだ。確かに、焼き芋が食べたぁいん!って言った。
でも…本当にしてくれるとは、思ってなかった…
「きっと…言ったんだ。」
そんな清助の言葉に、頷く事も、否定する事もしないまま、チリチリと燃える焚火を見つめた。
「てっちゃん…もっと濡らす?」
「うん…もっとびちゃびちゃに濡らしてよ、豪ちゃん…。湿って堪らないくらいに…びちゃびちゃにして…滴らせてよ…。足りなかったら、ヌルヌルを使えば良いんだ。」
何の話だ…哲郎氏…
そんなふたりの怪しい会話に聞き耳を立てながら、目の前で白い煙を立てて燃え続ける焚火を眺めて、瞳を細めた。
…なんだか、とっても…楽しいな…
「おぉい!惺山!すげえぞ!晋作の父ちゃんが、お前の為に遊覧船を貸し切りにしたぞ!今度の火曜日は、湖の上で…パーリーナイトだぞ!」
へ…?!
どこからか戻って来た大吉と健太は、タケノコを手に掲げながらそう言った。
「まじか…」
俺のそんな気の抜けた返答にケラケラ笑った健太は、俺の肩を抱いて顔を覗き込んで言った。
「豪と、惺山の…壮行会だな?」
貸しきりの…遊覧船…?!
わぁ…
凄い…豪華クルーズの様なものだ!
「あぁ…そうか…」
俺はにっこりと笑って健太にそう言った。そして、寂しそうに眉を下げて俺を見つめる大吉を見下ろして、肩をすくめて見せた。
俺はどうやら、子供にモテるみたいなんだ…きっと、放っておけないオーラが出てる。
音楽の先生なんてやったら、楽しいかもしれない…
ここに来るまでは、そんな事一度も考えた事も無かったけど…そんな生活も悪くないって…今なら思える。…隣に豪ちゃんが居てくれれば、尚良い。
「現場、整いましたぁ~~!」
そんな清助と晋作のゴーサインに、水浸しの新聞紙とアルミホイルに包まれたさつまいもを手に持った哲郎と豪ちゃんが、大急ぎで台所から縁側へと戻って来た。
…ふたりの手にはしっかり軍手が付けられていて、準備万端の様子だ。
「豪ちゃんは危ないから、俺に芋を渡す係になって?」
「ん、わ…分かったぁ!」
哲郎の的確な指示の下、赤く燻った炭の中にさつまいもが並べて置かれていく…
凄い…!結婚してくれ…哲郎…
相変わらず俺は、哲郎のサバイバル能力の高さにあらぬ乙女心が疼いてくる。
「よし、清ちゃん…蓋して?」
哲郎がそう言って顔を上げると、清助は頷いて、赤く光る黒い炭をさつまいもの上に乗せて行った。
やっぱり、哲郎は…リーダーだ。
カッコいい…結婚してくれ…
そんな乙女心が疼いた俺は、じっと哲郎を見つめて不気味に微笑んだ。しかし、あいつは焚火の奥をじっと見つめる豪ちゃんの腰に手を回して、鼻の下を伸ばしていた。
最低だ…
俺の乙女心は一気に冷めて、あいつを見ながら肩を落として…眉間にしわを寄せた。
あぁ…こいつは、振られても変わらない…豪ちゃんに夢中なむっつりスケベだ。
「豪ちゃん…あんまり覗き込むと熱いよ…?」
「ん、だってぇ…」
やり取り自体は、普通さ…
でも、あの子の腰を掴んだお前の手つきは、明らかにいやらしさを纏ってる。
哲郎…!
呆れた様に首を横に振った俺は、縁側から居間に上がって、昼寝の続きを始めた健太の隣で作業の続きを再開した。
焼き芋か…楽しみだな…
そんな期待を胸に隠して、黙々と音符をパソコンに打ち込んでいく。
それは単調で骨の折れる作業だけど、頭の中であの子の交響曲がフルオーケストラで演奏される爽快感は、言葉に表しがたい幸福を与えてくれた。
ふと、俺の隣に座った豪ちゃんが、ゴソゴソと大きなアルミホイルを開き始めた。
あぁ…もう、焼けたのか…
気にする事無く画面を見つめ続けていると、あの子が開いたアルミホイルの中から、美味しそうな良い香りが鼻に届いて、抗えずに手を止めた…
「豪ちゃん、豪ちゃん、あ~ん…あ~ん!」
そう言って口をパクパクさせて催促する俺に、あの子はクスクス笑いながら出来立ての焼き芋を千切って、口の中に放り込んでくれた。
…ドS。
「あふっ!あふい!あっふい!!」
体を揺らして焼き芋を口の中で転がす俺を見て、豪ちゃんは顔を真っ赤にして大喜びした…
ヘッドホンを付けていても…くぐもった音で、君のお猿の様な笑い声が聴こえてくるよ…
「だってぇ…惺山が早く食べたそうだったからぁ…」
ヘッドホンを外してジト目であの子を見つめる俺に、豪ちゃんはそう言って眉を下げながら、にっこりと微笑みかけて来た…
あぁ…全く…
こんな顔をされたら、何でも…許しちゃうじゃないか…
「…フゥフゥしてから食べさせて!」
俺は、にやけながらさつまいもを千切る豪ちゃんを見つめてそう言った。すると、そんな様子を見ていた大吉が、縁側に腰かけたまま焼き芋を差し出して言った。
「お…おじちゃぁん…ぼ、ぼぼぼぼぼ僕の…焼き芋、舐める…?」
舐める…だと?
大吉…お前…もしかして…
怪訝な表情で大吉を見つめると、あいつは顔を赤くして俺に背を向けた…
何てこった!
俺は、大吉の危ない扉を開いてしまった様だ!!
「…変な大ちゃん!惺山はさつまいもを舐めたりしないもんね?フンだ!はぁい…惺山、あ~んして?」
大吉のまんまるの背中を愕然とした表情で見つめて、豪ちゃんが差し出してくれる焼き芋を口の中に入れた。そして、ホクホクと甘くておいしい焼きいもに笑顔になって言った。
「ん、おいひい…!」
ごめんよ…大吉、お前の気持ちには答えられない。
なぜなら…俺には、嫉妬深くて、可愛い豪ちゃんが居るからだ…
「あぁ…ん、もう…お口の端に付いちゃってる!」
こんな風に…無邪気に顔を舐めて来る可愛い子に、勝てる人はいない…
ペロペロと舌先で俺の口元に付いた焼き芋を舐めた豪ちゃんは、首を傾げて言った。
「…甘ぁい。」
はぁぁぁああああん!
「豪ちゃん!おっさんは、仕事してんだ。こっちにおいで?」
哲郎が苛ついた声で縁側から豪ちゃんに声を掛けるけど、俺はあの子の手を握ったまま…離さないよ。だって、まだふた口しか、口の中に入れて貰っていないんだ。
そんな俺の期待が分かるのか…豪ちゃんはクスクス笑いながら、俺の口に焼き芋をもう一つまみ運んで入れた。
「ねぇ…惺山。美味しい?」
「美味しい…。豪ちゃんの焼き芋が一番美味しい…」
豪ちゃんを見つめてそう言うと、あの子の嬉しそうに瞳を細めた可愛い笑顔に目じりを下げた。
縁側には皮を剥かれたタケノコが置かれて…何だか、卑猥だ。
「ねえ…惺山、タケノコの皮に梅干を挟んだやつ、作ってあげようか?」
なんだ…それ。
豪ちゃんの言葉に首を傾げた俺を見て、哲郎がケラケラ笑って言った。
「おっさんは、食べた事ないんだ。」
「食べたい…」
豪ちゃんの手を掴んで、すぐにおねだりした。すると、あの子は首を傾げながら肩をすくめて俺に言った。
「…そんなに、美味しいものじゃない。むしろ、どうしてそうした…?って、小一時間…悩むもの。それでも、食べてみたい…?」
「え…うん。」
俺の返答を聞いた豪ちゃんは、すぐにタケノコの皮を手に持って台所へと向かった。そして、しばらくすると、笹団子の様な…ちまきの様な…タケノコの皮を持って戻って来た。
「…はい。」
そう言って差し出された、タケノコの皮を俺は受け取って途方に暮れて、首を傾げた。
「…これ…」
豪ちゃんを見つめたまま首を傾げていると、あの子は俺の手に持ったタケノコの皮をパクリと口の中に入れて、チュウチュウと吸い始めた。
あぁ…何だ…これ、いやらしいじゃないか…!
自然と、手が動いて、あの子の可愛い唇を指で撫でながら、鼻の下を伸ばした。
「…ん、こうやって、口に入れて…しゃぶるんだよ?中に、梅干しが入ってる。」
…どうして、そうしたんだよ…
意味不明だ。
口からタケノコの皮を出した豪ちゃんは、あの子のよだれで濡れ濡れになったタケノコの皮を俺の口に運んで、言った。
「あ~んして…?」
ご褒美だ…!
「あ~ん…」
「惺山…吸ってみてぇ?」
はぁはぁ…はぁはぁ…興奮する!
ちゅう…
なんだ…これ…
「味がしないね…」
俺の言葉に頷いた豪ちゃんは、俺の口からタケノコの皮を取り出して自分の口の中に入れ直して言った。
「そうなの…一日置くと、皮は赤く染まるけど…対して味は変わらない。ね?どうして、こんな事考えたんだろう…。意味不明だよ…」
きっと、こんなエロいシチュエーションを作る為に考えられたんだ…
それ以外、無いだろ…
そんな事、思っても言わないさ…破廉恥だからな。
「はぁ…」
エロかった…
そんな邪な欲望は一旦しまって、気持ちを切り替える様に手元の五線譜をトントンと整えた。
…豪ちゃんはタケノコの皮を口に入れながら、縁側でギャング団たちと遊び始めた。
さぁ…俺は、この続きをやってしまおう…
曲を彩る楽器が多い分、楽譜の量も増えて行く。
必然的に作業量も多くなって、音符を入力するだけなのに相当の時間がかかってしまった…
気が付けばもう夕方…庭にいたギャング団たちは家に帰った様だ。
トントン…と小気味のいい音を出しながら、豪ちゃんが台所で夕飯の支度を始めていた。
「とりあえず…音符は全て移したぞ。後は…微調整をして行こうかな…」
独り言を呟いて両手を上に上げて伸びをした。すると、次の瞬間…鼻に届いた甘い匂いに、自然に口元が緩んでいった。
「わぁ…良い匂い。なんの匂いなの~?」
台所の豪ちゃんは、そんな俺の言葉に振り返って言った。
「大学芋~!」
ほほ!!
最高じゃないか!
「せいざぁん!あ~んしてみて?」
箸に大学芋を乗せたまま駆け寄って来るあの子を見つめて、俺はニヤリと口端を上げた。
…何をしようとしてるのかなんて…お見通しだよ?
そんな表情であの子を見つめると、俺の口に押し付けてくる前に、あの子の手を掴んで、うっとりと瞳を見つめて言った。
「豪ちゃん…可愛いね?どうして、そんなに可愛いの…?」
「えぇ…」
まん丸の瞳を大きく見開いた豪ちゃんは、顔を一気に真っ赤にして、もじもじと体を捩らせ始めた。
…そうだ。
俺はこうやって、わざと、あの子をもじもじさせて…箸の上の大学芋の温度を下げている。
こうして…時間を稼いでるんだ。
この子はね、熱々の食べ物を口に入れた人が、拒絶したり、悶絶したりする様子を見て、面白がってるんだ。
だから…こうして気を逸らして…熱々を回避してるんだよ。
「ん…もう、ん、もう!惺山ったらぁ!」
嬉しそうに何度も瞬きした豪ちゃんは、俺の口に大学芋を運んで言った。
「ねえ…?お味を見てよぉ…?」
もう…熱々じゃなくなっただろう…
「あ~ん…」
余裕の笑顔で口を開いて、あの子が嬉しそうに俺の口の中に運ぶ大学芋を迎え入れた。
モグ…
「あっふい!なぁんだ!まだ、あっふいじゃないの!」
口をハフハフさせながらそう言う俺を見て、あの子は嬉しそうに瞳を細めて微笑んだ。
あぁ…君のその笑顔が、大好きだよ…
揚げたてのさつまいもを、熱々の水あめに絡めて…すぐに俺の所に持って来たんだね…。そりゃ…事故案件だよ、豪ちゃん。
そんな気持ちを込めてあの子に微笑みかけた。そして、可愛いほっぺを摘んでグリグリと引っ張ってやった。
「んふふ~!んふふふぅ~!」
豪ちゃんは嬉しそうに笑って、俺に抱き付いてクッタリと甘えて言った。
「美味しかった…?」
「美味しかった。」
俺は、豪ちゃんの細い腰を抱きしめて、あの子の柔らかい髪に何度もキスしながら言った。
「第一楽章は、途中まで終わった…明日はもう少し、集中して出来ると良いな…。今日は、少し騒がしくて作業が途切れた…」
「ふふ…分かったぁ…」
豪ちゃんは俺の胸に頬ずりしながらそう言って甘えた。そして、俺を見上げてにっこりと微笑むと、可愛らしい声で言った。
「ねえ…キスして?」
はぁぁぁあああああ!!かんわいい!
「ふふ…どうしよっかな…」
腰砕けになったデレデレの気持ちを悟られない様に、俺は眉を片方だけ上げてわざと意地悪くそう言って笑った。
すると、豪ちゃんは嬉しそうにクスクス笑って、俺の胸に顔を埋めて、両手でギュッと抱きしめて来た。
この子は…俺に意地悪されるのが大好きなんだ…
それは、哲郎や健太の様な大雑把な意地悪じゃない。
…俺はね、この子が喜ぶ、猫の額くらいの狭いピンポイントを捉える事が出来る…。
この子の欲しがる塩梅の意地悪を提供する事が出来るんだ。
「…んふぅ、意地悪しないで…ねぇ、キスしてよぉ…」
頬を赤くした豪ちゃんは、うっとりと瞳を色付けて俺の胸を撫でながら後ろへと押し倒して来た。俺の胸を押さえつけて、首を傾げる様子は…何だか、エロい。
きっと、大好物の俺の意地悪に…火が付いちゃったんだ!
俺の上でマウントを取った豪ちゃんは、俺の両手を掴んで畳の上に押し付けて来た。そして、口端を上げた意地悪な笑顔を見せると、俺の顔を覗き込んで言った。
「惺山さん…どうして欲しいの?」
ふふ!
あぁ…もう…こりゃ参ったね…
「愛して…」
官能的な豪ちゃんに瞳を細めてそう言うと、首を伸ばして、柔らかい唇を舌でぺろりと舐めた。
「ん…もぉう~~~!」
そんな絶叫を上げた豪ちゃんは、一気に顔と耳を真っ赤に染めて俺の上から転がり落ちて…七転八倒し始めた。
はは、可愛いだろ?
きっと…恥ずかしさの頂点に達したんだ…
「なぁにしてんだよ。豪!早く飯を作れよ!兄ちゃんは…明日、10時には家を出るんだからな…!」
そんな暴言を吐きながら顔に紙のパックを乗せた健太が現れて、寝転がる俺の隣にドカリと腰かけた。すると、無表情になった豪ちゃんは、ムクリと体を起こして健太の足を蹴飛ばしながら台所へ戻って行った。
凄いな…最近の男は、そんなお手入れをするのか…?
俺は健太の顔に乗った潤いしかないパックを指で突いて、首を傾げた。
そんな俺を横目にジロリと睨み付けた健太は、ニヤリと口端を上げて言った。
「惺山、お前、カット代2000円支払って無いだろ?1000円にまけてやっても良いよ?ただし、ひとつ教えてくれよ…なあ…」
健太はそう言って俺の肩を組んで顔を寄せると、豪ちゃんに聞こえない位の小さい声で聞いて来た。
「…物を…買うのはどうなんだ…?」
は…?
「…ね、値段による。」
言っただろ…
俺は金は持って無いんだ。
だから、体を求められる事の方が多かったって…
プレゼントなんて貰った事はあっても、自分で買ったのは先生の奥さん位しかいない。
…なけなしのお金で買った指輪だったんだ…グスン。
今考えると、どうしてあんな事をしたのか…自分でも良く分からないんだ。
だけど、その時は…そうする物だと信じて、疑わなかった。
馬鹿だった…
「はぁ?歯切れが悪いな…」
健太は顔をしかめて、俺をジト目で見て言った。
「勿体ぶるなよ!なあ、例えばだ…これ、欲し~の!って言われたら…買った方が良いのか?それとも、流した方が良いのか…?」
全く…分からないな…
俺は健太の間抜けな顔を見つめながら、頭をフル回転させて、様々なシチュエーションで検証を始めた。
欲し~の!って言われて買ってあげたら…喜ぶかもしれないけど、次もおねだりされる確率が上がる…。かといって、スルーしたら…ケチ男の烙印が押される…
どうする事が…正解なのか、正直、分からない…
「欲しいの!って言われたら、そうなんだぁ…って適当に流して、別の場所に移動してからこっそりと買いに戻るんだぁ。そして、彼女と別れる時に、あの時、欲しがってたやつ…君に似合うと思ったんだぁって…渡してみたらぁ?」
へ…?
テーブルを拭きながら、豪ちゃんがそう言った…
すると、健太は、肩を組んだ俺を放り投げて、豪ちゃんに食い付いて言った。
「良いな、それ!」
確かに…女が好きそうな、サプライズってやつだ…
豪ちゃんは…なかなかどうして、こんなに可愛い顔をして…人心掌握術を心得てる。
この子が、もし…彼女なんて作った日には、その子は毎日幸せいっぱい夢いっぱいだろうな…
「ん、豪ちゃんが…守ってあげるぅ!」
なんて、可愛い顔で言われたら…メロメロになるだろう…
可愛い顔に見合わず、快感に弱い所も…堪らんだろうな。
「あぁ…すっごい、気持ちい!んんっ!らめぇ、中に出しちゃうよぉ!」
なんて言われたら、どうぞって…言っちゃうだろうな…
夜ご飯の料理を次々とテーブルに運び続ける豪ちゃんを眺めて、そんなどうでも良い事をぼんやりと考えた。すると、あの子は俺の視線に気が付いて、クスリと笑って俺の頭をポンと叩いた。
あぁ…幸せだな…
この子の傍にいられて…幸せだ。
今日の晩御飯は、大学芋とお味噌汁、焼きタケノコと、後は素材が生きた野菜炒めだ…
「いただきま~す!」
水あめで美しく光った大学芋をお箸で掴んで、パクリと口の中に入れて悶絶する。
「あぁ…美味しいね!」
そう、野菜炒めとチャーハン以外は、味がしっかりついているんだ。
「惺山?タケノコも食べてね?」
豪ちゃんが差し出した焼きタケノコは、俺がリクエストした物だ。上に乗った鰹節がタケノコの熱でゆらゆらと揺れて、いい香りを鼻に届けてくれる。
「はぁ…美味しそう…」
うっとりと、テレビでしか見た事の無い食べ方のタケノコを箸で摘み上げた。
コリ…
「柔らかい!美味しい!えぐくない!」
あんなに卑猥に縁側にそそり立っていたタケノコが、こんなに美味しいなんて…!!
「土から出てないタケノコの赤ちゃんだから、えぐみが少ないの。アクを取らなくても、十分食べられるでしょ?惺山、美味しい…?」
美味しい…
「めたくそ美味しい…」
俺は豪ちゃんに何度も頷いて、初めて味わったタケノコの美味しさの感動を伝えた。
「ふふ…良かったぁ…!」
そんな俺を見て、豪ちゃんは嬉しそうに瞳を細めて微笑んだ。
豪ちゃんは本当にお料理上手だ…
「惺山、お野菜も食べてね…」
豪ちゃんの野菜炒めは味が薄い。
本人は中華出汁が味の決め手だという事は知っている様だったけど、自分の野菜炒めの味に決め手が無い事には、気が付いていない様だった。
でも、俺はそんな味の薄い君の野菜炒めが、だんだん…好きになって来たんだ。
「ん、美味しい!」
口に入れた瞬間に分かった。
いつもの味の薄い野菜炒めに体を揺すって喜びながら、豪ちゃんを笑顔で見つめた。すると、あの子は嬉しそうに瞳を細めて言った。
「良かったぁ!」
「なあ…惺山。これ…何なの…?」
豪ちゃんと見つめ合ってデレデレしている俺に、健太が目の前のモニターを指さして尋ねて来た。
彼の指の先には、ずっと再生しっぱなしのフレームが画面の中で流れ続けている。
「これは、交響曲の第一楽章をパソコンに打って…管理してる画面だ。」
俺は、健太を覗き込む様に見ながら、お米を口に入れてそう言った。すると、間に挟まれた豪ちゃんが、俺を見上げて得意気に言った。
「あ、いつも…何かを、追いかけてるんだよね?まだ、掴まらないんだねぇ…?」
ふふ…
俺がフレームを追いかけるって話したら…この子は、物理的に俺が何かを追いかけてると思って、勘違いしてる。
可愛いだろ…?
「んふ、そうだね…まだ、掴まらないなぁ…」
そんな俺の言葉に、豪ちゃんはしたり顔で何度も頷いた。
ふと、ヘッドホンを切った俺は、目の前の小さなスピーカで入力したままの第一楽章を流した。そして、フルオーケストラで演奏している”ひな形“を、豪ちゃんに聴かせた。
「あぁ…」
ポツリとそう言ったっきり、豪ちゃんは手に持ったお箸をそのままテーブルに置いて、じっと左耳を傾けて音を聴き始めた。
嬉しそうに微笑んで、音に聴き入る…そんな君の瞳が、心なしか…潤んで見えた。
でも、気が付かない振りをするよ。
「わぁ、すっげえな…惺山はただのニートじゃなかった!」
みんなそう言う!
流れて来る交響曲を聞いた健太は、ケラケラ笑いながらどんぶりご飯をかっ込んだ。
そんなあいつとは対照的に、豪ちゃんは、じっと耳を澄ませて、焦点の合わない瞳で…俺の作った交響曲の第一楽章にどっぷりと浸かっている…
「あぁ…素敵だぁ…」
頬に涙を伝わせながら豪ちゃんは俺をじっと見つめて小さく呟いた。
「…どうしてかな。なぜか…お母さんの笑顔がチラつく。」
そうだね…
それは、きっと…俺がこの曲に込めた思いが…きちんと、君に伝わったって事だよ。
君は、産まれる前から愛されていたんだ。
そんな思いを込めたからね…
「そうか…」
あの子の頬に伝う涙を指先で拭った俺は、きちんと届いた…あの子への見えないメッセージに手応えを感じた。
明日は残った部分の編集調整と、第二楽章を入力して”ひな形“を仕上げて行こう…
パリスが卵を温め始めて5日目…
卵が孵化するまで…20日…
どう考えたって…俺はその前に交響曲を作る事が出来る事だろう。
「惺山、あ~んして?」
「あ~ん、モグモグ…」
いつもの様に俺に餌付けするあの子の頭をナデナデしながら、こんな毎日の終わりを感じて…眉間にしわを寄せた。
「兄ちゃん!お風呂入っちゃって!」
「ほ~い…」
背中を丸めて風呂場へ向かう健太を見送った豪ちゃんは、お皿を洗いながら俺に言った。
「あの…聴かせてくれた曲の、主題を弾いていた音色はなんて楽器なのぉ?」
「…ピッコロだよ。」
俺はそう言うと、あの子に最後の食器を手渡して携帯電話を取り出した。そして、自分のプレイリストから一曲を選ぶとあの子の目の前で再生させた。
「これは、ベートーヴェン交響曲第9番、第4楽章…合唱の部分だよ。聴いててね?」
俺の言葉に頷いた豪ちゃんは、お皿を洗いながらじっと耳を澄ませた。
携帯からテノール歌手の美しい歌が聴こえ始めて、耳を奪われた豪ちゃんの洗い物の手が、止まった。
俺はそんなあの子の背中に覆い被さって、感性の子が、音を浴びて、体に染み渡らせていくのを一緒に感じた。
「ベートーベンさんは…凄い人…」
ポツリとあの子がそう呟いたタイミングで、第4楽章の合唱が一旦静まった…
さぁ…フルートとピッコロが出てくる…
まるでつま先で歩く様に、軽快に、表情豊かに登場するんだ。
「あぁ!…ふふ!可愛らしい!」
ピッコロの音色に気付いたのか…声を弾ませた豪ちゃんに口元を緩めると、柔らかい髪にキスをして言った。
「ピッコロはオーケストラの中でも目立つんだ。この軽快で…可愛らしい音色は、時にアクセントになって、時に主旋律よりも目立つ。可愛いけど、主張の強い誰かさんみたいだと思わない…?」
俺の言葉に体を揺らしてクスクス笑った豪ちゃんは、後ろ足で俺をトンと蹴飛ばした。
「さあ、最高潮だ…」
そんな俺の言葉と共に、オペラ歌手の美しい歌声から、大きな声の圧を伴った大合唱が始まった。
すると、腕の中で豪ちゃんの体が小刻みに震え始めた。
…きっと、今、この曲に感動しているんだ…
「凄いだろ…?こんな物を、先生の傍に行ったら、事ある毎に、生で、聴けるんだ…それは、君にとったら…素晴らしい体験になる筈だ…」
「凄い…」
豪ちゃんは気の抜けた声でそう呟いて、おもむろに、流しっぱなしの水道の蛇口をしめた。
ねえ…君には、このコンポーザーが、何を思ってこの曲を作ったのか…分かるの?
ねえ、今、どんな、情景が見えているの…?
俺は体を屈めて、身動きをしなくなったあの子を覗き込んだ。すると、豪ちゃんは両眼から涙をダラダラとこぼして口を歪めて泣いていた。
あぁ…これは、感動しているのか…それとも、情景を見つめて泣いているのか…
どちらなのかな。
「どした…?」
俺はクスクス笑いながら、豪ちゃんの涙を布巾で拭った。すると、あの子は俺の胸に顔を付けて泣きながら言った。
「…心が揺さぶられたぁ!この指揮者の人は、この曲が大好きみたいだぁ…!なんて健気で、なんて…一心なんだぁ…」
へ…?
予想外だ…
豪ちゃんは、作曲家の込めた情景ではなく、この曲を指揮した人物の思いをくみ取っていた…
そして、そのひたむきさに…感動して涙を流していた。
なる程。
作った本人…すなわち作曲家しか、この曲に込めた情景という物は表現出来ないと言う訳か…
いくらベートーヴェンの情報を仕入れて、分かった気になったとしても…彼本人でないと、この曲は本当の意味で完成しないんだ。
真理だ…
「あぁ…君は本当に、面白い事を俺に教えてくれる人だ…」
あの子を両手で抱きしめて、グスグスと鼻を鳴らすあの子をユラユラと揺らして、このまま体の中に沈めてしまいたいと思った。
このまま…ひとつになってしまいたいよ…
「俺は明日、7時に起きて…パンプアップしてから出かけるからな!」
再びパックを付けて現れた健太は、そう言いながら俺と豪ちゃんを眉をひそめて見つめて言った。
「…早く、皿を洗えってんだ!」
…こんな男、振られれば良い。
いつもの様にあの子とお風呂に入って体を洗いっこして、肌寒いくらいの湯上りを縁側で過ごした。
そして、背中にもたれかかるあの子を感じながら、モニターを眺めてヘッドホンを耳に付けた。
さっき流して聴いた時…気になった個所があったんだ。
それだけ…修正したかった。
…そう思っていたのに…
気が付いたら、真っ暗な部屋の中…膝の上には豪ちゃんがすやすやと眠りこけていた。
…音の聞こえなくなったヘッドホンに、健太の盛大ないびきが聴こえて、やっと、気が付いたんだ。
はっ…やっちゃった…
つい、夢中になって、第一楽章の編集を終えて…第二楽章の音符まで全て入れ込んでしまっていた。
慌ててパソコンの電源をスリープにした俺は、膝で眠るあの子を抱き抱えて、コソコソと寝室へ向かった。
寝室の窓は既に明るくなって、部屋の中を薄ぼんやりと明るく照らしている。
しかし、そんな事認めたく無かった俺は、布団の上に豪ちゃんを下ろして、いつもの様にお腹の上にブランケットを掛けてあげながら、ゴロンと横に寝転がってあの子の柔らかい髪に顔を埋めた。
そして、何食わぬ顔をして眠りについた。
「コッコッコッコケ~コ…コッコッコッココケ~コ!」
すぐにパリスのぼやきが耳に聞こえて来て、俺の腕の中の豪ちゃんが、もぞもぞと動き始めた…
徹夜した。なんて…この子に言えない…
だって、俺の健康管理を人一倍に気にしているんだから!
言えないっ!
ふと、俺の髪を撫でながら豪ちゃんが言った。
「惺山…寝てないでしょ…?お昼に起こしてあげる。寝てて良いよ…」
うぅ…
狸寝入りする俺にそう言ったあの子は、俺の頬を撫でながら唇に優しいキスをくれた。
そして、俺の体の上に圧し掛かりながらそのままゴロンと転がる様に落ちて、ヨロヨロと寝室から出て行った…
はは、バレバレだ…
自分の不甲斐なさと、あの子の優しさに口元を緩めた俺は…あの子の匂いと温もりが残る布団に顔を伏せて、再び眠りに落ちた。
「兄ちゃん…そんなに汗かいたら臭くなっちゃうよ…?」
「良いんだ!兄ちゃんはパンプアップして、良い体になってから行くんだから!」
部屋の外から…そんな健太と豪ちゃんのやり取りが聞こえた…
ぐう…
「…えぇ?寝てる?おっちゃんと釣りに行こうと思ってたのに…なんだぁ!」
そんな晋作の声が、聞こえた…
ぐう…
「惺山…?そろそろ起きて、お昼ご飯を食べて。」
俺の前髪を撫で下ろしながら、可愛い豪ちゃんがそう言った。
「あぁ…ふふ…徹夜してしまった…」
俺は、重たい瞼を半分持ち上げて、目の前の豪ちゃんを見つめてそう言った。すると、あの子は、困った様に眉を下げて、俺の頬をそっと撫でた。
そして、優しいキスを俺の額にひとつくれると、顔を覗き込む様にして優しく言った。
「…すっぽんのスープを貰って来たよ?」
あぁ…また…すっぽんジジイが、すっぽんを見つけたのか…!
そして、とうとう…俺の手元に”禁断のスープ”が持ち込まれたのかぁ…
「…カメのスープなんて、気持ち悪いから飲みたくない…」
そう言ってあの子を抱きしめた俺は、腰をヘコヘコ動かしながらあの子の柔らかい二の腕を甘噛みした。
「ん、だぁめ!徹夜したんだから…飲むの!」
豪ちゃんは俺の頭を引っぱたいてそう言うと、腕の中からすり抜けて、寝室を出て行ってしまった…
すっぽん…か…
豪ちゃんの後を追いかけて寝室を出た俺は、テーブルの上に置かれた美味しそうなオムライスと、謎の茶色いスープを見下ろして首を傾げた。
…あれが、きっと、そうなんだ。
「はい、あ~んしてみて?」
一足先にテーブルに座った豪ちゃんは、立ち尽くす寝起きの俺に向けてオムライスをスプーンですくって、笑顔でそう言った。
はぁ…
渋々豪ちゃんの隣に座った俺は、差し出されたスプーンを口に入れてオムライスを食べた。
あぁ…美味しい…
「…美味しい。豪ちゃん、オムライスは美味しい…!」
俺は、寝ぼけたままのぼんやりした頭でそう言って、あの子の頬にチュッチュッチュとキスをして、体を揺らした。
卵の半熟具合が…プロだ…
「これも…美味しいよ?」
豪ちゃんは俺を伺う様に横目で見ながら茶色いスープをひとすくいして、俺の口に運んだ。
そんな怪しい動きを俺は瞬時に察して、すぐに、顔を背けて嫌がって言った。
「きっと、亀の匂いするから…気持ち悪いから、嫌だ!」
「…ん、そんな事ない!」
口を尖らせてそう言った豪ちゃんは、横目で見つめる俺を見つめながら、スプーンの上のスープを啜って言った。
「…ん、美味しい!亀の味なんてしないよぉ?」
飲んだ…
豪ちゃんが、すっぽんスープを飲んだ…
「…ほらね?だから、惺山も飲んでごらん…?」
あの子に向き直した俺にそう言うと、豪ちゃんはすっぽんスープを再びスプーンの上に乗せて俺の口に運んで言った。
「あ~んして?」
「…あ~ん!不味い!亀の味がする!」
本当はただのコンソメスープみたいな味だ…
だけど、わざとそう言って嫌がった。
どうしてかって?
嫌がる俺を宥める為に、豪ちゃんが、どんどんすっぽんスープを飲んで見せるから、それが目当てで、ごねてるんだ…
どうなるのか…楽しみじゃないか!…はは!
ご飯を食べ終えた俺は、身支度を整えて胸元がいつもより開いたシャツを着た。
そして、色っぽく髪を流すと、テーブルに座って、がら空きの隙を見せつけながら、パソコンのモニターを眺めてあの子が襲い掛かって来るのを待った。
まだかな…
まだかな…?
「…ね、惺山?てっちゃんとお勉強するから、テーブルのこっち側ちょっと、貸してねぇ?」
おもむろにテーブルの上に教科書とノートを置いた豪ちゃんは、俺の顔を覗き込んでにっこりと笑って言った。
「ちゃんと勉強してるの。偉いでしょ?」
…哲郎?
あいつが、今から、来るのか…
「うん…偉いね…」
俺は豪ちゃんを横目に見ながら、そう言った。
そして、ホカホカになって来た自分の体と、ギラギラになってくる目つきのやり場に困って…モニターを凝視した。
やばい…これは、プラシーボじゃない。
確かな…すっぽんの力が、俺の中に宿ったぁ!!
「豪ちゃん、来たよ?」
そんな声と共に、白いTシャツ姿の…良い体をした哲郎が、縁側に顔を覗かせた。
そして、居間に上がって、俺を一瞥すると、挨拶も無しにドカッと豪ちゃんの隣に座った…
「あぁ…てっちゃぁん…」
はっ?!
やけにトロけた声を出した豪ちゃんを横目に見て、様子を伺った。すると、あの子は頬を真っ赤にして、哲郎の胸板を見つめて、ニヤけていた…
「豪ちゃん…大丈夫?少し、頬が赤いよ…」
そう言ってあの子の頬を撫でた哲郎は、潤んだ瞳を覗き込む様に体を屈めた。
「んふぅ…てっちゃぁん…。数学、分かんないのぉ…」
あぁ…
豪ちゃんは、どうやら、自分がすっぽんスープの影響を受けているなんて、思っていないみたいだ。
いつもの様に哲郎の顔を見つめてそう言った豪ちゃんは、いつもと違う吐息の様な甘い声を出して、そう言った…
そんなあの子の様子に顔を真っ赤にした哲郎は、俺をチラチラと見ながら、豪ちゃんの体にぴったりと体をくっつけて、あの子の顔を覗き込んで言った。
「ど、どどどど…どこが…分からないの?」
は~~?!お前!やる気だな!!
「あぁ…ふふ、てっちゃんて…ムキムキだね?ねえ…ほらぁ、こんなに硬いの…すごぉい…!」
火が付いてしまったのか…豪ちゃんはトロけた瞳であいつを見つめてそう言うと、哲郎の胸を撫で下ろして、あいつのシックスパックをいやらしい手つきで撫で始めた。
「ゴホン…豪ちゃん、お勉強するんだろ…?」
黙ってられない!
俺は厳しい視線を豪ちゃんに向けて、トロンと俺を見つめるあの子をジト目で見つめた。
右手に持ったマウスを握りつぶしてしまいそうな位…俺もみなぎってるんだよ…豪ちゃん!!
そんな俺の目の前で…他の男に触るなんて…!!
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