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#35

「豪…!惺山は怒ったぞ!」 そう言いながらトイレの扉を開いた俺は、ギラギラした目つきで豪ちゃんを睨みつけた。しかし、あの子はトイレでクッタリと項垂れたまま、オナニーに耽っていた…。 そして、俺を見上げてうっとりとトロけた瞳を潤ませながら、甘ったるく言った。 「はぁはぁ…惺山…気持ちいの…」 あぁ… 全く!この子は絶対に、すっぽんスープを飲ませちゃ駄目な人だ…! 理性が吹っ飛ぶんだ。 …これじゃ、兄貴同様、間違いを犯す事…間違いない! 「知らない!」 ムスッと頬を膨らませてそう言うと、俺に抱き付いて来るあの子を無視して、ドカドカと歩いてテーブルの前にドカッと座り直した。 「…んふぅ、どうしてぇ…?どうして怒ってるのぉ…?」 俺の背中にしがみ付いた豪ちゃんは耳元に吐息を吹きかけながら、そう聞いて来た。 そんなの、哲郎と危ない橋を渡ろうとしたからに決まってる!! いくら、自制心が利かなかったとしても、俺の目の前であんな事をするなんて…!! …怒ったぞ!! 「豪ちゃんが、哲郎の体に興奮して、エッチしそうになったから…なんだか、もう嫌いになっちゃった…」 俺は、パソコンの画面を見つめたまま突き放す様にそう言った。すると、背中に乗った豪ちゃんが体を捩って唸り始めた。 「だってぇ…だぁってぇ…」 俺の首に舌を這わせたあの子は、抱きしめた手をススッと俺の体に沿わせて、がら空きのシャツの胸元を撫でて、呟いた… 「あぁ…でも、やっぱり…僕はこっちの方が好きみたい…」 当然だ! 俺の体はムキムキではないけど…敢えて隙を残して仕上げている…所謂、プロ仕様の体なんだからな!! 「触んなよ…嫌いなんだ。」 そう言ってあの子の手を払い除けると、豪ちゃんは鼻息を荒くして興奮し始めた。 「なぁんで…なぁんでぇ…!だぁめぇ…怒らないで。せいざぁん…怒らないでよぉ…」 ふんだ… いじけたもんね! 俺の髪をグチャグチャにしながら顔を覗き込んでくるあの子をガン無視して、キーボードに拍子を打ち込んで行く。 退く?退かないさ。 あの子が泣き出すまで、こうして無視してやるんだ。 「なぁんだ…惺山の馬鹿ぁ…」 胡坐をかいた俺の膝に体を入れたあの子は、おもむろに俺のズボンのチャックを開いて、中から少しだけ落ち着きを取り戻しつつある半勃ちのモノを取り出した。そして、おもむろに口の中に入れて、扱き始めた。 あぁ…すっぽんパワーが…俺のすっぽんから、吸われていく様じゃないか…! だけど、俺は退かないさ。 この子が、泣いて後悔するまで、怒り続けるんだ! 「あぁ…もっと、もっと奥まで入れろよ…」 そう言ってあの子の髪を鷲掴みした俺は、強引に自分の股間に豪ちゃんの顔を押し付けて腰をゆるゆると動かした。 「ん…んぐっ…」 そんな苦悶に満ちた表情をさせながらも、君はちゃっかり…自分のモノをズボンの上から扱いているんだもん…堪らないよ。 「ねえ…何してんの…?」 そう言ってあの子のモノを撫でてやると、豪ちゃんは俺のモノを咥えたまま悲鳴を上げてイッた…。 あぁ…ほんと、この子は可愛い… そして、哲郎なんかじゃ満たせない、どМの素質を持て余してる。 「…はっ!他の男に発情した癖に、勝手にイクなんて…ほんと、豪ちゃんは駄目な子だね…」 意地悪くそう言って蔑んだような笑みを浮かべて、あの子の頬を撫でながら鼻で笑った。 これは、高度なプレイさ。 「んん…だってぇ…だぁってぇ!…んん!意地悪しないでぇ!惺山…大好きなの、怒んないでぇ…!」 更に興奮したのか…豪ちゃんは、はぁはぁと熱い吐息を吐き出しながら、俺のモノにむしゃぶりついて来た。 あぁ…やばい…気持ちいい! イッちゃいそう…イッちゃいそうだぁ! 「ははっ!も、だめだぁ!」 そう言ってあの子を持ち上げた俺は、豪ちゃんを寝室に放り込んで、襖を閉めた。 つっかえ棒をする事も忘れないで、しっかりと施錠をして、惚けて潤んだ瞳を向けるあの子を見下ろして言った。 「…豪、哲郎に襲い掛かったの?」 「んん…だってぇ…てっちゃんがぁ…ムキムキだったんだもん…!ごめんなさぁい…」 ムキムキ… ムキムキ…! 「はは…じゃあ、豪はムキムキの男が好きなの?ねえ?惺山じゃなくっても…ムキムキの男なら、お前は誰でも良いんじゃないか…?」 そう言って豪ちゃんの体に覆い被さると、俺を抱き寄せるあの子の腕に抵抗して体を突っぱねた。 俺はムキムキじゃないさ…でも、そう言ってみたんだ。 「…んん!惺山の方が良いの!でもぉ!でぇもぉ!てっちゃんがぁ…エッチに見えたのぉ…ごめんね?ごめんね?」 口を尖らせた俺にキスをした豪ちゃんは、一気に極まったのか…火が付いて、乱れた。 「あぁ…!大好き…!大好き!」 両手で俺の頭を抱え込んで、貪り付く様にキスをして、両足で俺の腰にしがみ付いて来るんだもん… 可愛いったらありゃしないよ… 「何されたの…?体を触られたの…?」 両手を突っぱねたまま、しがみ付いて来る豪ちゃんを抱きしめる事もしないで、あの子の耳元でそう言うと、豪ちゃんは俺の背中を抱きしめて頬ずりしながら言った。 「キスした…」 ほんとに?それだけ? …まあ、15歳の少年は、せいぜいその位までしか…出来ないか。 「俺よりも、気持ち良かったの…?」 焦らす様にあの子の頬にキスをして、可愛い唇をパクパクさせながら、俺の唇を狙ってくる豪ちゃんを見つめて首を傾げた。すると、豪ちゃんは瞳を潤ませて何度も首を横に振りながら、俺の胸に顔を擦り付けて言った。 「ん~ん…惺山の方が気持ちいの…そんな事、聞かなくても分かるでしょ?」 ほほ! 「分かんないよ…豪ちゃん。あんなに気持ち良さそうにキスしてたら、俺よりも…哲郎の方が良いのかなって…そう思うよ。」 ゆっくりと豪ちゃんの足の間に体を入れて、すでに勃起したあの子のモノをお腹に当てながら、体で挟む様にあの子の上に圧し掛かった。 「はぁあん…ご、ご…ごめんなさぁい…惺山、許して…ごめんなさい…」 堪らなくなったのか…豪ちゃんは、俺の首にしがみ付いて腰をゆるゆると動かしながら、息を荒くしてトロけて行く… 「いやだ…」 そう言ってあの子の髪を掴むと、乱暴に引き剥がして、潤んだ瞳をじっと見つめて言った。 「許さない…」 「んん~~!!ごぉめんなさあぁい!」 あぁ、そうだね…そろそろ、可哀想になって来た。 ボロボロと泣き始める豪ちゃんを両手で優しく抱いてあげると、あの子の唇にキスしてまん丸の瞳を見つめて言った。 「先生と…あんな事、絶対にするなよ…」 そう…俺の杞憂はそこだ。 俺にとったら、あの人の方が、哲郎以上に危険な因子だ。 俺よりも近い所でこの子と通じ合っている…そんな気さえしてくる二人のやり取りに…そこはかとない苛立ちを禁じ得ないんだ。 「しないよぉ…だって、だぁって、僕は惺山が大好きで…先生は…青い蝶が大好きなんだもの。エッチな事なんて、しないよぉ…!ん、ばっかぁん…!」 豪ちゃんは泣きながらそう言って、俺の唇に舌を入れた熱くてむせ返る様なキスをくれた。 青い蝶…って、何だろう… そんな事、どうでも良い…目の前のこの子を虐めすぎたから、今度はたっぷり愛してあげないとね。 それが…ソフトSMの極意だ。 「仕方が無いね…じゃあ、許してあげる…」 豪ちゃんの火照った体を手のひらで撫でて、あの子の勃起したモノを握って扱いてあげる。そして、すぐに、体を仰け反らせて気持ち良さそうによだれを垂らした、あの子の唇に何度も何度もキスをした。 「気持ちいの…?豪。」 「んんっ!気持ちい…はぁはぁ…惺山、惺山…惺山しか…勝たん…!」 どういう意味だ… でも、きっと…褒められたんだろうな。 仰け反った体に目立つ可愛い乳首を舌の腹でねっとりと舐めて、悲鳴を上げてよがるあの子の腰を掴んで引き寄せる。そして、あの子の中に指を入れて、気持ち良くしていく。 「あぁあん…!はぁはぁ…早く来てぇん!せいざぁん…してよぉ…早く来てよぉ…!」 悩ましい声で喘ぎながら、豪ちゃんは俺の背中をバンバンと叩き始めた… 「駄目だよ…ゆっくりやりたいんだ。我慢しろよ…」 俺は意地悪にそう言うと、潤んだあの子の真ん丸の瞳を見つめながら、ギンギンに硬くなった自分のモノをあの子の股間に押し付けて腰を揺らした。 「あっああ…ん!はぁはぁ…せいざぁん…!」 …可愛い。 こんなにも乱れて…この子は、本当に快感に弱いな… 「…はは、何だよ…もうイキそうじゃないか…」 俺は不敵に笑って、フルフルと胸の下で震える豪ちゃんを見つめてそう言った。すると、あの子は…潤んだ瞳で俺を見つめ返して、言葉なく、ただ俺をギュッと抱きしめて来た… 可愛くて、堪らなくて…俺は熱くなった自分のモノを、ゆっくりと、あの子の中に沈めて行った。 …火照って熱くなったあの子の中は…予想以上に気持ち良くて、すぐに腰が震えた。 あぁ…やばい…既に、イキそうだぁ! 「ん~…はぁはぁ、気持ちいの…惺山の大好き…大好き!」 乱れまくった豪ちゃんはそう言いながら俺の腰をむんずと掴んで、下から腰を動かし始めた。 「はぁっ!っと…あぁ…!ちょっと待ってね…ちょ~っと待ってね!」 腰を引く俺と、それを必死に抑え込もうとするあの子…そんな大人の快感を巡った醜い攻防が始まった。 「なぁんでぇん!せいざぁん!ばっかぁん!」 「はは…ゆっくりしたいんだぁ…!俺は、じっくりと…ゆっくりとする派なんだぁ…!だから、豪ちゃんは、大人しく待ってたら良いんだぁ!」 そんな俺の、文字通り…弱腰の言葉に苛ついたのか…短気で、頑固者で、アグレッシブなあの子は、しびれを切らして俺の腕に噛み付いて来た。 「あぁ、イテテ…!こらぁ!」 全く、本当にきかん坊だ! こんなに可愛い顔をしてても、あんなに恥ずかしがり屋でも、この子の本質は、強引で、俺様の、きかん坊…健太と同じ“雄”の血が流れてる。 それは、こんな風に乱れた時や、バイオリンを弾いている時…つまり、本能に身を任せた時に、顕著に表れては…俺のがら空きの頬をぶん殴って行く。 先生の弾いていたショパンをジャックした時、正直、痺れたよ。 カッコいい!って…俺の乙女心が疼いた。 もちろん礼儀的には駄目な事さ。 でも…俺はこの子の、相手の顔面を笑顔でぶん殴る…そんな剛毅な所が、大好きなんだ… 最高に痺れて、最高に面白いって思ってしまう。 あの時の、翻弄されて取り乱した先生を見ると思うんだよ。 俺たちの知ってる事は、まだまだ浅くて…まだまだ足りてないんだって… 常識も主観も吹き飛ばしてしまうほどの…現実。 それが、この子… 凝り固まった虚像の上の価値観をぶち壊して、シンプルで、簡潔な現実を突き付けて来る。 「あぁ…豪ちゃん、可愛いね…イキそうなんだぁ…」 難しい事を考えながら、何とか踏ん張って耐えて来た… しかし、もう限界点を突破して、俺のモノはダラダラとあの子の中でよだれを垂らして言ってるんだ。 惺山…もう無理だ…って。 「あっああ…!」 熱いくらいに火照ったあの子の体に項垂れた俺は、あの子の中で腰をびくつかせながら…最高に気持ち良く…イッた。 堪んない…官能的をはるかに超えて…これはもう、夢見心地だ。 「はぁはぁ…惺山…大好き…大好きぃ…」 俺の背中を抱きしめて、耳元でキスと愛の言葉を繰り返すあの子を抱きしめて、再び腰を動かして…もっとトロけて行く。 すっぽんスープは…凄かった。 俺と豪ちゃんは、ことごとく、ネイチャーパワーに振り回されて…カラカラになるまでお互いを求めて、セックスをした。 時には泣きながら、時には怒りながら、いつもは隠す様な、溢れて来る色んな感情をぶつけあって…愛し合った。 わぁ、こんなの…初めて! きっと、キメセクってこんな感じ…俺と豪ちゃんは、自然の力を享受して、合法でキメセクした… 「あぁ…ご、ご飯を…用意しないと、兄ちゃんが帰って来るぅ…」 俺の体の上でそう言った豪ちゃんは、もぞもぞと少しだけ体を揺らした後、そっと瞳を閉じて大人しくなった。 まるで…このまま眠りにつきそうだな… そんな脱力しきったあの子を抱きしめて、柔らかい髪を何度も撫でながら天井を見つめた。 …あぁ、腰を振り過ぎて…お尻が、筋肉痛になるかもしれない。 「ねえ…あの歌って、なんて言ってるの…?」 俺の胸を撫でながら、掠れた声で豪ちゃんがそう呟いた。 あの歌…? 首を傾げてあの子を見つめる俺に、豪ちゃんは鼻歌で“Alle Tage ist kein Sonntag”を歌って聞かせた。 あぁ…前、俺が歌ってあげた歌だ… 「ドイツ語の歌で…第二次世界大戦の中、ドイツで流行った歌なんだ…」 それだけ言うと、あの子の問いに答えないまま…そっと髪を撫で続けた。 「…教えてくれないの?」 俺の顔を覗き込んでそう聞いて来るから、あの子の唇にポンポンと指をあてて言った。 「そう。教えてあげない…」 「なぁんだぁ…」 クスクス笑った豪ちゃんは、俺の髪を優しく撫でて瞳を細めて微笑んだ。 寝室から出ると、辺りはすっかり日が暮れて、庭先では鈴虫が鳴き始めた… 「このまま…お風呂に入っちゃおう…」 あの子の手を引いて、ヨロヨロと怠い体を引き摺りながら風呂場へ行った。そして、体を洗いながらお風呂にお湯を溜めた。 「…チリチリ、言ってるね?」 湯沸かしの煙突を見上げながら豪ちゃんがそう言った。 「怖いよな…」 俺は横目でそう言うと、手桶のお湯で泡だらけの頭を流した。 もう7時だったのに…健太は帰って来ない… 「…ね、兄ちゃん、遅いねぇ?」 湯船に浸かりながら、あの子がそう言って俺の肩にお湯を掛けた。 「そうだな…」 豪ちゃんの言葉に頷いて答えた俺は、眉間にしわを寄せて天井を睨みつけた。 まさか… まさか…初めてのデートで、そんな… 俺の顔を覗き込むまん丸の瞳を無視しながら、そんな事ある訳無い!…と、首を横に振って、お風呂から上がった。 「惺山…ご飯、炊いてない。僕、怒られちゃう…。」 台所で炊飯器の中を覗き込んであの子がそう言うから、俺は首を傾げて言った。 「…良いよ。豪ちゃん、何かご飯食べに行こう…」 どうせ…健太は飯も食って帰って来る… 豪ちゃんにそう言った俺は、車のカギを手に取ってあの子を見つめた。あの子は、もごもご言いながらおかまを炊飯器に戻して、俺の後ろを付いて来た。 「でもぉ…兄ちゃんがぁ…」 「あぁ…大丈夫だよ。もし怒ったら、俺がやっつけてやる…」 自信は無いけどね… 「…ん、でもぉ…」 俺は、もごもご言いながら眉を下げ続ける豪ちゃんを車の助手席に乗せて、運転席へと回った。すると、遠くの方から、健太のバイクのエンジン音が聞こえて来た。 「…健太、帰って来たみたいだよ。」 運転席のドアを開いて助手席のあの子を覗き込んでそう伝えると、豪ちゃんは表情を明るくして、嬉しそうに笑って言った。 「良かったぁ!」 なに…心配する事なんて無いんだよ。 それにしても、こんなに健太の事を気にして…なんだかんだ言って、この子は筋金入りのブラコンだ。さすが…ギリギリの兄弟だな…。 何度もふかしながら健太のバイクが戻って来た。そして、車の前で帰りを待っていた俺を見つけて、後輪を派手に滑らせながら颯爽とバイクを停めた。 一連の動作で、何があったのかなんて…予想が付いたさ。 「あはは!どこ行くの?」 ヘルメットを外してそう言った健太の顔を見たら、その予想は確信に変わった。 俺は健太をジト目で見つめながら、ボソリと言った。 「豪ちゃんと、湖の向こうの定食屋に行ってくる…」 「今からっ?…混んでるぜ?まぁ…気を付けてな!」 健太はキラキラと、すっきりした笑顔を見せて俺にそう言った… 俺はため息をひとつ吐いて、健太の気持ちの悪いくらいの満面の笑顔に見送られながら、首を傾げ続ける豪ちゃんをそのままにしてとっとと車を出した。 「なぁんでぇ!だめだぁ!って、怒ると思ったのに…兄ちゃん、優しかったねぇ?」 「…そうだな…」 …へぇ、デート初日でセックスって出来るんだ。 そんな事、思っても言わないさ。 随分、股の緩い子だったのかな…? そんな事、思いもしないさ…豪ちゃんの兄貴の彼女だ…失礼じゃないか。 「…惺山は何食べる?僕はねぇ…海老天丼にしようかな?」 景気の良い事を言う豪ちゃんを横目に見てクスクス笑って、あの子の柔らかい髪を撫でて言った。 「…お腹、空いた!」 規則正しい生活の弊害だ… 腹時計が正常に機能し始めた俺の体は、自然と空腹を感じて、美味しい物を食べたいなんて欲求も真っ当に持ち始めた。 あんなに食べる事に無関心だったのに…自分でも信じられない。 だぁから、太るんだ! 時刻は8時…すぐに到着した定食屋は、健太の言葉通りほどほどに繁盛していた。 車を停めて中に入ると、地元の家族連れや夫婦、仕事帰りなのか、作業服姿の団体が所狭しと座敷に座って、楽しそうにご飯を食べている。 「お!豪ちゃぁん!いらっしゃい!」 店の奥からそんな声が聴こえて、気前の良さそうな店主が厨房の中から顔を覗かせた。 「ん、おじちゃん。豪ちゃん、海老天丼を食べに来たよぉ?」 豪ちゃんはケラケラ笑って、お腹を撫でながら早々に目的の物を注文した。 …常連客なんだな。 豪ちゃんの村から一番近い定食屋…それがここだ…。 だから、自然と村の人たちはここに足を運ぶ様だ。 「連れの旦那は?何にします?」 座席に座ってメニューを眺め始めた俺に、向かい側に腰かけた豪ちゃんが前のめりになって言った。 「惺山!馬刺しを食べてごらん?美味しいよ?後は…お蕎麦が美味しいの。手打ちだからね、のどごしが良いんだぁ~!」 ふふ… 俺は、キラキラと輝くまん丸の瞳をじっと見つめて微笑んで、店主を見上げて言った。 「じゃあ、それで…」 「はいよ~!まいど~!」 「絶対、美味しいからっ!」 熱のこもったコメントを言いながら、豪ちゃんは俺のコップに水を注いで出してくれた。 「ありがとう。気の利く良い子だね?」 そんな俺の言葉に、いつもの様に頬を真っ赤に染めた豪ちゃんは、もじもじと体を揺らしながら、恥ずかしがった。 さっき…あんなに、貪欲に求め合ったのに… 可愛いったらありゃしない。 そんな君とも…もうすぐでお別れなんて… 「だから言ったでしょ?!」 お…? なんだなんだ…? 隣に座った家族連れの夫婦が、突然、口喧嘩を始めた。 まん丸の瞳を大きく開いた豪ちゃんは、失礼なくらいそんな夫婦を見つめている。 はッ…?! 慌てた俺は、あの子の頬を撫でながら自分に向かせ直した。 「だから、写真を撮っておけって言ったのよ!なのに、あなたはのらりくらり…はぐらかして…。そうこうしてる内に、もう!子供が、こんなに大きくなっちゃったじゃないの!!どうすんのよっ!あの頃の思い出は!も、二度と戻って来ないのよっ!」 「今から撮れば良いだろ…。まったく、ヒステリーだな。」 眉を吊り上げて怒る奥さんに、旦那の方はやれやれ…と言わんばかりの呆れ顔を見せている…。この旦那は、そんな行為が火に油を注ぐと…学んでいない様だ。 「惺山も…僕の写真撮ってない。忘れる?僕の事、忘れる…?」 急にそう言った豪ちゃんは、瞳を潤ませて、俺の手をヒシっと握り締めて言った。 「すぐに撮ってよ!今!今、すぐに撮ってよぉ!あっという間に大きくなっちゃうんだからぁん!ん~もう!ばっかぁん!」 あぁ…豪ちゃん…豪ちゃん…どうしたのかな… 隣の夫婦が君をジト目で見ているよ…? そんな事お構いなしに…豪ちゃんは俺のポケットから携帯電話を取りだして、カメラを起動して言った。 「はい!今すぐに撮ってぇ?」 「へい、お待ち!豪ちゃん、海老天丼だよっ!」 丁度のタイミングで、豪ちゃんの目の前に海老天丼が置かれた。どんぶりからはみ出る程の海老の大きさに目を丸くした俺は、適当に相槌を打ちながらあの子の差し出す携帯を受け取った。 すると、何を思ったのか、豪ちゃんは、海老天丼を両手に持って顔の横に掲げた。そして、可愛い笑顔を向けて言った。 「撮ってぇ?」 ぷぷっ! 「…わ、分かった…」 パシャリ… 言われるがままに、まるで食レポの様なスタイルのあの子の笑顔を写真に収めた… なんだ…この写真は…? 可愛い笑顔で海老天丼を掲げるあの子の写真を眺めて、首を傾げる。 ブログ好きの女子が乗せそうな一枚だ… すると、俺の目の前に、馬刺しと美味しそうな蕎麦が運ばれて来た。 「貸して…!貸して…!」 強引に俺から携帯電話を奪った豪ちゃんは、俺にカメラを向けて言った。 「惺山さん、食べてみて下さい!」 なんだよ…一体… あの子のカメラも、隣の夫婦のジト目も気にしない様に顔を背けた俺は、手元の箸で馬刺しを掴んで、パクリと口の中に入れた。 …パシャリ え…? どんなタイミングでシャッターを切ったのさ… 上目遣いにあの子を見ると、豪ちゃんはニヤニヤ笑いながら携帯越しの俺と目を合わせて、もう一度シャッターを切った。 パシャリ… 「馬刺し、とっても美味しいけど…豪ちゃんが気になって味わえないから、もう止めて?」 すぐに、あの子から携帯を取り上げて、間抜けに撮られた自分の写真を見て吹き出して笑った。 「ぶはっ!酷いな…何て顔だ!」 「いつもそんな感じだよ?可愛く写ってるでしょ?後で兄ちゃんの携帯に送ってね?」 はぁ?いつもそんな感じ…? …あり得ない! 写真を撮って満足したのか…豪ちゃんは海老天丼の海老を俺に向けて言った。 「はい、惺山、あ~んして?」 「あ~ん…モグモグ、ほ!おいひい!」 プリプリの大きな海老だ! そんな俺の笑顔を見た豪ちゃんは、嬉しそうに瞳を細めて残りの海老をパクリと食べて悶絶して言った。 「ん~、美味しい!おじちゃぁん!海老が美味し~い!」 「ありがとございまぁす!」 気の良い掛け声を背中に受けながら豪ちゃんはホクホクの笑顔で、海老天丼を食べ始めた。 豪ちゃんの言った通り、新鮮で臭みも無い馬刺しはとても美味しかった… せいろに入った蕎麦は、手打ちなだけあって白くて細くて、美しい。その上、喉越しが最高に良かった。 「とってもお蕎麦が美味しい…」 「そうでしょ?そうでしょ?んふぅ…!」 得意気になってそう言った豪ちゃんは、まるで自分が褒められた時の様に、顔を真っ赤にして照れた。 「…ねえ、明日。第三楽章の一節を録音させて?」 美味しいそばを啜りながら、目の前で大きな天ぷらを頬張る豪ちゃんにそう言った。すると、あの子は目をまん丸にして、にっこりと笑って頷いて答えた。 「うん!」 君は写真でこの時を残そうとするけど…俺は、君をバイオリンの音色に変えて…この時を残そう。 店を出ると、すっかり月は真上に登って、夜風が冷たいくらいに肌寒く感じた。 「寒くない…?」 「寒~い!」 俺はすぐに豪ちゃんに自分のジャケットを羽織らせた。嬉しそうに俺のジャケットに袖を通したあの子は、クルクルと回りながら俺の手を掴んで車とは逆方向に歩き始めた。 「…どこ行くの…?」 手を引くあの子にそう尋ねると、豪ちゃんは俺を少しだけ振り返って言った。 「惺山はこっち側、来た事ないでしょ?ここら辺はペンションや別荘が沢山あるから、観光客様に湖の畔がウッドデッキになってるんだぁ。綺麗なんだよ?行ってみよう?」 こんな夜更けに…湖のウッドデッキなんて…カップルみたいだな。 …思った通り、等間隔に並んだ街灯の下…ムードを漂わせたウッドデッキには、カップルがちらほらと沸いていた。 「トントン…ふふ、トントントン…」 豪ちゃんはつま先で歩きながら、ウッドデッキに足音を響かせてクスクス笑った。そして、俺を振り返ってにっこり微笑んで言った。 「すっぽんスープは、危険な飲み物だぁ!」 「ぷぷっ!」 変な子… ケラケラ笑いながら目の前を歩いて行くあの子の後を追いかけて行く。すると、デッキの端に腰かけた豪ちゃんは、足を湖の上に投げ出して、ブラブラと揺らしながら俺を見上げて手招きした。 「…ここに来て?」 「うん…」 にっこりと微笑んであの子の隣に腰かけた俺は、真っ暗の湖を一緒に眺めた。 海と違って…潮の音なんてしない。ただ、揺らめく水面が街灯に照らされて…時折色付いて見えるくらいだ… 俺の体にもたれた豪ちゃんは、足をブラブラと揺らしながら鼻歌を歌い始める。 それは、ショパン…ワルツ第7番…嬰ハ短調。 君に出会った頃、この曲を君を思いながら弾いた。 …破天荒で、陽キャ、どさんこの様に感じた奔放な君に、こんなに繊細な曲をあてがった自分の感性を疑った… でも、俺の感性は正しかった。 「途中まで分かったんだぁ。でも…難しい…。細かい所を忘れちゃうんだぁ…。ね、明日、もう一度聴かせて…?」 豪ちゃんは俺の腕に頬ずりしながら、俺の顔を覗き込む様に首を傾げた。 頷いて答えた俺は、音がズレた豪ちゃんの鼻歌を、修正する様に被せて鼻歌を歌い始めた。 「あぁ…ふふ、そこが間違ってたのかぁ…」 そんな豪ちゃんのクスクスと笑う声を聴きながら、寄りかかって来るあの子の体を抱いて、真っ暗な湖に向かってショパンを歌った。 「ねえ…惺山…」 「…ん?」 俺の手のひらに手を重ねて指を絡めたあの子は、首を伸ばして、顔を覗き込んだ俺に可愛いキスをくれた。 じっと俺を見つめるまん丸の瞳には、暗く揺れる湖を背景に俺が映って、思わず吸い込まれそうな錯覚を覚えた。 「僕の事…好き?」 静かにそう尋ねて来た豪ちゃんの頬をそっと手のひらで撫でて、俺はにっこりと微笑んで言った。 「好きだよ…」 そして、柔らかい髪に頬ずりしながら、もっと自分の傍に寄せる様に…あの子の小さな肩を抱いた。 きっと、明日…完成する。 今日、第二楽章をパソコンで編集調整して気が付いたんだ。 もう、すでに出来上がってるって… 後は、楽器を指示して…微調整を加えてしまえば完成するって… 順調な作曲作業なのに、全然嬉しくないよ。 こんなに胸が苦しいのは…君とのお別れが、すぐ、来るからだ。 疑似的にでも、“死”という物を体感してしまった俺は…今、生きている事の喜びをことある毎に痛感している。 君に触れて…君に声を聴かせて、君の傍にいれる事が、こんなに幸せだと…心の底から実感出来るのは…あの経験があったから。 そして、それを手放す事は…大好きな君と離れて暮らす事よりも、辛いと分かった。 せっかく、君がくれた生きるチャンスを…逃しては駄目だよね… …だから、俺は曲が完成したら、君の前から姿を消そうと思ってるんだ。 何も言わずに出て行くから…いつもの様に、目覚めてくれ… そして、いつもの様に…朝ご飯を作って、兄貴を見送って…俺を思ってくれ。 「そろそろ、帰るか…健太が心配するからね…」 豪ちゃんのお尻を叩いてそう言うと、あの子は潤んだ瞳を隠す様に顔を背けて言った。 「はぁい…」 「ただいまぁ~」 「惺山!この、この!嘘つきめ~っ!」 豪ちゃんと徹の実家に戻ると、玄関先まで迎えに出て来た健太が俺の腕を引っ叩きながら捲し立てて言った。 「出来たじゃないか…!出来ちゃったじゃないかぁ!!」 あぁ…やっぱりそうだったのか… 項垂れて頷いた俺は、あいつの肩をポンポンと叩いて言った。 「良かったじゃないか…」 「そうなんだ!まるで違った!体のハリが…全然、違うんだ!!惺山、分かるか?ここに付いていた物が…ここに付いていて…ここにあった物が、この位置にあるんだ。」 最低だな… まるで小林先生の胸の位置と、今日、出会った女の子の胸の位置を比較する様に両手を上下に動かして、健太はうっとりとした瞳で天井を見上げて言った。 「気持ち良かったぁ…」 最低だな… 「も、兄ちゃん。惺山…昨日、徹夜したから今日はもう寝るの!おやすみなさい!」 俺の肩を掴んで離さない健太を強引に押しのけた豪ちゃんは、これ以上あいつの話を俺に聞かせたくないみたいに、俺を寝室に放り込んでピシャリと言った。 「惺山さん、おやすみなさい。僕はお米を研いだら寝るから、先に寝てて良いの。」 ほほ!怖いね! でも、さすが、豪ちゃんは賢いんだ。 健太と女の子の話をする俺に悶々と嫉妬してしまうのを見越して、元を断ったんだ。 「あぁ…分かったよ。」 クスクス笑いながらそう答えて、目の前でピシャリと閉じられる寝室の襖を眺めた。 のそのそと暗い部屋を移動して、寝室の窓を開いた。月明かりを頼りに、布団を敷いて、ゴロンと横になる。そして、窓から見える月を見上げた… この、美しい黄色い月も…見納めか… 火曜日…遊覧船でご馳走して貰った次の日の朝…ここを出よう… 「兄ちゃんって、女の人を大事にしない男なんだね。軽蔑したぁ!」 凄い剣幕で健太を罵る豪ちゃんの声が襖の向こうから聞こえて来て、対抗する様に、健太の怒鳴り声と、ドカドカと歩いて近付いて来る音が続いて聞こえた。 次の展開を予測した俺は、苦笑いをしながら寝室の襖を見つめた。 そろそろ来るな… そう思った瞬間、健太から逃げる様に寝室に入った豪ちゃんは、ピシャリと襖を閉めて、つっかえ棒を掛けた。 ほらね…? 「んぁあ!豪!兄ちゃんは大事にしない訳じゃない!男が強すぎるんだ!本能には逆らえないだろう?!男は種を残す宿命に産まれたんだぁ!だから、本能が言うんだ!今じゃないの?今がその時なんじゃないのって!兄ちゃんは…そんな声に従ったまでだぁ!」 どういう事だ… 襖の向こうで思う存分自分の思いを吐き出した健太は、気が済んだのか…反応が無い事に諦めたのか、ドカドカとうるさい足音をフェードアウトさせた。 そんな襖の向こうの様子を、じっと固唾を飲んで見守っていた豪ちゃんは、俺を見つめてポツリと言った。 「だって…」 「ふふ…おいで。」 両手を広げてあの子を呼んで、コロコロと可愛い笑顔を見せながら胸の中に飛び込んでくるあの子を抱きしめた。 あぁ…可愛い。 こんな愛しい人と、離れないといけないなんて…本当、神様はドSだ。 「お休み…豪ちゃん。」 「ん…おやすみ。惺山。」 君の柔らかい髪が大好きだよ。お日様の匂いがする君が大好き… 「コッコッコッココケ~コ!コッコッコッコケ~コ!」 パリス嬢のぼやきを聞きながら目を覚ますと、俺を見つめて悲しそうに眉を下げているあの子と目が合った。 「おはよう…豪ちゃん…」 「おはよう…惺山…」 あぁ、君の声で分かるよ。 俺の考えている事が分かっているって。 でも…敢えて、口に出して言わないでおくね… 「パリスの卵…もうすぐ有精卵か、分かるかな…?」 そう言ってあの子の髪を撫でると、豪ちゃんは首を傾げて言った。 「…見てみようか?」 寝室から出た豪ちゃんは、雨戸をあける俺を置いて、ひとり、ピアノの部屋へ向かった。 …多分、気付いてる。 俺がそろそろ帰ろうと思っている事を…あの子は、うすうす気付いてる。 「惺山!おいで~?」 ピアノの部屋から俺を呼ぶ豪ちゃんの声が聞こえた。 いそいそとあの子の元へ向かった俺は、テラスの上でパリスの卵を日の光にかざして微笑むあの子の姿を見つけた。近付いて来る俺に気付いた豪ちゃんは、ニッコリと笑って言った。 「あたりだ!惺山が言った通り…この卵は有精卵だった!」 やっぱり…! 「本当?どれどれ…?」 俺は嬉しさを隠し切れないで、豪ちゃんと同じ様に裸足のままテラスに出た。そして、あの子の真似をして、パリスの卵を日の光にかざして見つめた。 卵の上部に…細かい毛細血管が、確かに透けて見えた。 「あぁ…!ふふ!パリス!凄いな…!」 嬉しい… とっても、嬉しい…! 痛いくらいに、頬を上げて笑った… そんな俺を、豪ちゃんは優しい笑顔で見つめていた。 「38度を保って…温め続ければ、この卵は孵る。」 俺の言葉に頷いた豪ちゃんは、パリスの頭を撫でながら言った。 「そうだよ。惺山。この卵には命が宿ってる。」 他の卵を手際よく回収した後、有精卵を再びパリスのお腹の下に戻した豪ちゃんは、ピアノの部屋を出て、トコトコと台所へ行ってしまった。 「パリス…その卵、俺が必ず孵化させるからな…」 物言わぬ鶏を見下ろしてそう言うと、彼女は俺をじっと見上げて、ココッと喉の奥を鳴らした。 “よろしくね”なんて…言う訳も無いのに、そんな風に言った気がするよ。パリス。 小さなパリスの頭を手のひらで優しく撫でて、気持ち良さそうに瞳を細める様子に、口元を緩めて微笑んだ。 命が宿ってる…卵だ。 「兄ちゃぁん!起きてよ!」 「ん…無理だ…!兄ちゃんは、昨日、興奮して…寝られなかったんだぁ!」 ピアノの部屋から居間に戻った俺は、風呂場の前の健太に大声を上げる豪ちゃんの背中を見つめた。 あの子の声がうるさかったのか…健太は、グルグルと体に掛け布団を絡め始めた。 あぁ…こ、これが…あいつが芋虫になる瞬間なんだ… 希少な映像だ… グルグルっと布団を体に巻きつけた健太は、つま先と、ほんの少し顔が布団の両端から覗く様に体を移動させている。 クネクネと器用に動く様子は…脱皮する蝶の様だ… 興味深げにあいつが芋虫になる過程を眺めていたら、豪ちゃんが俺に言った。 「せいざぁん、卵を3つ、割ってよぉ~。」 「ほい!」 いつもの様に、俺は豪ちゃんの注文に応えて、キビキビと動いた。すると、ゴミ箱の中に、さっき豪ちゃんが手に持って行ったパリスの卵が捨てられているのを見つけて、あの子に聞いた。 「これ、捨てちゃうの…?」 「さすがに…もう、食べられない。ずっと温めてたから…」 そうか… 悲しそうに眉を下げる豪ちゃんの頭を撫でて、あの子の隣に立った俺は、指示通りに3つの卵をボールに割って入れた。そして、慣れた手つきで、菜箸で溶かして行く。 これが…有精卵だったら、この黄身はヒヨコになるのかな… 「ほい、出来た…」 そう言ってあの子に手渡すと、豪ちゃんはにっこり微笑んでいつもの様に卵焼きを作り始める。 今日が月曜日…明日が火曜日…次の日には、東京へ戻ります。 あの子のうなじを見つめながら、心の中で、誰かに…そう報告した。 「あぁ~ん!若い女の子って…ピチピチしてて…全然、違うんだよ!惺山!聞いてくれよ!俺は初めて、あんなにピチピチの体に触った気がするんだ!!」 朝の6時にする会話じゃない… しかし、興奮しきった健太は、俺に昨日の事を報告したくて堪らない様子だ… 「帰りたくないの!って言われて、えっ?えっ?って、気が付いたら…ホテルに入っててさぁ!健太君、先にシャワー浴びてて…って言われて、俺は財布をしっかり握ったまま、シャワーに行ったね!」 嬉々とした表情で俺にそう言った健太は、豪ちゃんなんて気にしない様子で言った。 「締まりが…全然、違うんだ…!」 アウトだな… 「喘ぎ声とか…あんなに興奮する物とは思わなかった!」 アウトだ… 「惺山のお陰で、初めてセックスが気持ち良いって…分かった気がするよ~~!はぁ…早く、また、会いたいなぁ…」 健太がそう言うと、豪ちゃんはあいつの顔を真顔で見つめて、首を傾げながら言った。 「エッチしたいから会いたいの?それとも、好きだから会いたいの?」 「はっ!面倒くせえ事言うんじゃない!豪!」 そんな健太の返事に首を傾げた豪ちゃんは、わざとらしく大きなため息を吐いて言った。 「さいて~!」 「なぁんだと!」 こうして、いつもの様に…兄弟喧嘩が始まった。 毎度の如く、俺は巻き込まれて、無駄に健太に引っ叩かれた。 そして、豪ちゃんは俺を盾にしながらあいつを煽って言うんだ。 「ばぁ~か!エテ吉!」 「なぁんだと!」 こんなキリの無い…下らない喧嘩も、もうすぐ見納めだ。 次に会う時には、お互い年を取って…こんなワチャワチャも見られないだろう… そう考えたら、こんな光景…微笑ましいじゃないか。 そんな穏やかな気持ちで彼らを見つめていると、俺の頭を引っぱたいた健太が、張り合いがないのか…首を傾げて言った。 「なんだ。惺山が仏の様だぞ!豪。何があったんだ!」 健太の言葉に俺を見つめた豪ちゃんは、ぎこちなく視線を泳がせて俺から目を逸らした。そして、俺のお茶碗に漬物を乗せながら首を傾げて言った。 「さぁ…。惺山は、元々優しい人だよ…。」 やっぱり…豪ちゃん…きっと、気付いてるんだろ…? 俺が、君の元を去ろうとしている事に… でも、君は、気付かない振りをしてくれるんだ。 怪訝な表情で様子を伺い見る俺に、あの子はお箸に掴んだ卵焼きを運びながら、いつもの様に瞳を細めて言った。 「はい、惺山、あ~んして?」 豪ちゃん… そんなあのこの様子を見て…瞳をグラグラと揺らした俺は、動揺を隠して余計な事など言わずに大人しく口を開いた。 「あ~ん、モグモグ…美味しい…!」 「んふぅ…そうでしょ?」 俺の言葉に嬉しそうに瞳を細めた豪ちゃんは、頬を赤くして恥ずかしそうに体を揺らして、もじもじした… この子は…お母さんに似て、頑固者… でも、とっても優しい子。 だから、俺の交響曲が完成するまで…恐怖を耐え忍んで、待ってくれていた。 …やっと君から離れる決断をした俺を、いつもと変わらない日常で送り出してくれるつもりなんだ… ほんと…肝が据わってる。 「ごちそうさまでしたぁ!」 あの子の隣でそう言って両手を合わした俺は、片付けを手伝わない健太を無視して、いつもの様にあの子のお手伝いをした。 「健太は駄目だと思う…」 そんな俺のぼやきに一緒になって頷いたあの子は、クスクス笑って言った。 「惺山は、お利口さんなのにね?」 ぐふふ! 「そうだよ?俺はお利口さんだろ?」 そう言ってあの子の背中に抱き付いた俺は、細い首に顔を埋めてハムハムと唇で甘噛みをした。 「はっ!30歳のおっさんがお利口さんね?!はぁ!気持ち悪っ!」 そんな、健太の負け惜しみなんて…右から左に流すさ… だって…俺が豪ちゃんにお利口さんなのは、ぐうの音の出ない事実だからな。 今日も、いつもと変わらず、慌ただしい朝だ… 「豪、兄ちゃんは労働に行ってくるぞ!」 「はぁい!待って~!」 縁側で靴を履いた健太に大慌てで駆け寄った豪ちゃんは、いつもの様に頭を差し出してあいつに言った。 「ポンポンしてぇ?」 ふふ…!可愛い! 「はい、行ってくるぞ!」 ポンポンといつもの様に豪ちゃんの頭を叩いた健太は、俺をチラッと見て口を曲げた。そして、踵を返すとバイクを停めた玄関先へと行ってしまった。 なんだよ… 首を傾げて肩をすくめた俺は、台所に戻って行く豪ちゃんを見送って、顔を洗いに洗面へ向かった。 「さてと…」 昨日のうちに、パソコンに打ち込んでおいた…第三楽章の微調整を始めるか… 居間のテーブルに胡坐をかいて座って、耳にヘッドホンを付けた。 そして、画面の中の再生ボタンを押した。 あぁ、やっぱり…思った通りだ。 どこも弄る必要が無いくらい、完成されてる。 凄いな… まるで、細い針に、一発で糸を通す様な…そんな、あっけない感覚と似てる。 「はい、どうぞ?」 コトンと目の前にコーヒーが置かれると、豪ちゃんを見上げて言った。 「ありがとう。豪ちゃん。」 ニッコリと笑いながら台所に戻って行くあの子の後姿を、視界の隅で見送った。 耳に届くフルオーケストラでの第三楽章は、怒涛のハーモニーが留まる事無く押し寄せて来て…まるであの子の溢れる感性そのものだった… あぁ…これは凄い。 …圧巻だ。 壮大で、ドラマチックで…あの子の様に情熱的だ。 鳥肌の立った腕を見つめながら、我ながら神がかった仕上がりを見せたこの曲に胸の奥が細かく震えた。 ヤバい…凄いのが出来たぁ…! 静かに、でも、確実に高くなって行く血圧を沈める様に、深呼吸をして、深く、静かに酸素を体中に送り届けた… 「…とても、良いのが出来た…」 ポツリとそう呟くと、俺の背中にもたれて、バイオリンの調弦を始めた豪ちゃんに言った。 「…豪、音を録るよ。」 「うん…待ってぇ?」 そう言って10分は経っただろうか… 背中のあの子を振り返ってもう一度言った。 「豪、音を録るよ?」 「う~…ん、これ、合ってる?」 あの子はそう言うと、俺の耳にバイオリンを近づけて開放弦を指で弾いた。 「…やっぱり下に少しズレてる。ちょっと待ってて…」 そう言って寝室へ戻った俺は、使い古しのチューナーを取り出してあの子の元へ戻った。そして、バイオリンのネックに挟んで言った。 「この弦は…G線、G線の開放弦は、Gになる様に合わせる。この弦は…D線、D線の開放弦は…」 「Dになれば良いの?」 チューナーを見ながらあの子がそう言うから、俺は頷いて答えた。 「そうだよ。後は…」 「A線と…E線…」 ほほ…そうだね。ちゃんと覚えて、偉いじゃないか… 真剣な表情でチューニングをする様子を眺めて、弦が鳴る度にメーターが揺れる使い古しのチューナーを豪ちゃんと一緒に覗き込みながら、言った。 「これは豪ちゃんにあげる。練習する前に必ず調弦して、音を体で覚えるんだ。良いね…?」 「え…良いの?」 良いさ…もう3年以上は使ってるお古だけどね… 嬉しそうに頬を赤くする豪ちゃんの髪を撫でて、調弦の済んだバイオリンの弦を指先で弾いて鳴らしたあの子の姿にゾクッと鳥肌を立てた。 どうして、こんなに様になるんだろう… どうして、こんなに…しっくりくるんだろう…

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