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#35_01
「…ん、やっと、出来たぁ!」
やっと、整った豪ちゃんが立ち上がって体を揺らすから、俺はあの子のバイオリンにマイクを付けて、試しに一音弾いてもらった。
「一音ください。」
「はぁい…」
あの子が弦を擦ると、俺のパソコンのモニターに波紋が起きて、きちんと音が届いている事が分かった。
「よしよし…じゃあ…豪ちゃん、これを付けて…」
俺はそう言いながら、豪ちゃんの耳にヘッドホンを付けた。でも、あの子は頭が小さいうえに、髪が柔らかい…
大きなヘッドホンはあっという間にズルズルと落ちて来てしまった。
「おっとと…調整しよう…ぶふっ!」
ベリーショートの髪に大きなヘッドホン…まるでモンチッチの様になったあの子の姿に、可愛すぎて吹き出した。
すると、豪ちゃんはムスッと頬を膨らませて、俺をジト目で見上げた。
いけね…
すぐに気持ちを切り替えて、あの子を見つめて言った。
「見て…?この楽章の…ここから、君のバイオリンの音色が欲しいんだ。」
「知ってる。」
あの子は首を傾げてそう言うと、ヘッドホンを片手で直しながら付け加える様に言った。
「分かってる。」
あぁ…そうかい。
やれやれとため息を吐いた俺は、パソコンの画面を操作して、第三楽章をあの子の耳に付けたヘッドホンに再生させた。
その瞬間、豪ちゃんの表情がガラリと変わった…
そして、まるで、耳の奥に音を沁み込ませる様に、そっと、瞳を閉じて、静かに体を揺らした。
綺麗だ…
いつもは可愛い豪ちゃんが、バイオリンを弾く時…やたら美人さんになるのは、この子の表情のせいかな…
そんなあの子に背中を向けて、画面を見つめながらグングンと進んで行くフレームを追いかけた。そして、あの子のバイオリンの入るタイミングを計る。
よし、そろそろかな…
そう思って振り返ってあの子を見上げると、豪ちゃんは伏し目がちに開いた瞳で宙を見据えたまま、既に弓を構えていた。
本当に、この子は…俺の曲を、熟知してる…
今から弾いてもらうこの旋律を五線譜に並べたら、至って簡単な物だ。
そんな旋律を、この子は、誰にも真似出来ない音色と表情を付けて…表現してくれるに違いない。
…はい!
俺は、そんな顔をしてあの子にタイミングを教えた。でも、豪ちゃんはその少し前から、弓を弦に当ててバイオリンの音色を響かせ始めた。
あぁ…素晴らしい…!!
なんて音をくれるんだろう!
俺の思っていた…いいや、それ以上の物をくれる…
ボーイングの選択も…気に入った。
楽しそうに体を揺らしながらバイオリンを弾くあの子を見つめて、ただただひれ伏したくなる様な畏敬の念を抱く。
この曲に込めた自分の思いと…あの子のバイオリンの音色が重なって…見事に昇華されていく様子に、込み上げてくる感動を抑えきれなくなった。
バイオリンのパートが終わった。
そっと弓をバイオリンから外して俺を見下ろした豪ちゃんは、ヘッドホンを首にずらしながら、困った様に眉を下げた。そして、溢れる嗚咽が止まらない俺の背中を…ギュッと抱きしめてくれた。
「素敵な曲…僕とあなたが出会った曲だ…」
あの子の落ち着いた声色になぜだか酷く安心した俺は、あの子の胸に抱き付いて泣きながら言った。
「素晴らしい音色だった…!…君に弾いて貰うから、この曲は完成するんだ…」
そう、誰でも良い訳じゃない。
音符を書いてある通りに演奏すれば良い訳じゃない。
君が弾くから…意味があって、君が弾くから、この曲が完成するんだ…
「あ…そうだ、ご飯の用意しよっと!」
俺の感動を返してくれ…!
ケロッと表情を変えた豪ちゃんは、バイオリンをテーブルに置いていそいそと台所へ行ってしまった。
まだ…10時なのに…もう、お昼ごはんの事を考えてるのは、どうしてなの…?
もしかして…泣いてしまいそうなのを我慢してるの…?
台所へ向かったあの子の背中を見つめて、目に溢れる涙をぬぐった。
おもむろに豪ちゃんは大きなボールを抱えて、小麦粉と薄力粉をぶち込み始めた…
あぁ…また、大がかりな、何かを作るんだ…
この子はシビアだからね…今更、縋って泣いたりしないんだ…
やるって決めた時点で…覚悟が決まってるから、その時が来ても…みだりに動揺したりしない。
可愛い顔してるくせにさ!
なんだよっ!
「はぁ…」
そんな、ほんの少しの物足りなさを感じながら呆れた様にため息を吐いた俺は、残りかすの様な涙を拭ってパソコンの画面を見つめた。
今、録ったばかりのあの子の音源を、早速、自分の交響曲に組み込んでみよう…
「おや…あらら…」
明らかに機械で作った音色と、あの子の音色の雰囲気が合わない。
これは多分…生のオーケストラで演奏をしても、調整出来ない程の音色の違いだ。
参ったな…これじゃ、浮いちゃう…
浮く…
浮く…?
逆に、浮かせて、ソロにするか…
急遽楽譜を書き直した俺は、あの子のくれた音源をソロ演奏にして、チェロを残してその他の楽器を黙らせた。
「ふぅん…こっちの方が良いじゃん。」
きっと、この交響曲をオケで演奏する時…このソロは重大なネックになるに違いない。
だって…誰もこんな風に弾けないからね…
でも、知らない。
俺はこれが気に入った。だから…このままで行こう。
きっと、名だたるバイオリニストでも、この音色と表現は再現しきれないだろう…
豪ちゃんだけが、このソロを完璧に弾く事が出来る。
俺の作った交響曲を、この子が弾く事で…この曲は初めて完成するんだ。
満足の仕上がりに自信を付けた俺は、束ねた五線譜の上に“ソロ”と書き加えて、問題のパートを修正した。
「ねえ?おじちゃん、いつまで温まってる?ホント?じゃあ…ちょっと借りても良い…?ん、余熱で良いの…。ボーボーにしないで。余熱で良いのぉ!」
いつの間にか…庭に出ていたようだ。
庭の死角から、豪ちゃんが誰かにそう言った声が聞こえて来た。すると、聴いた事も無い、しゃがれた声の男性が答えて言った。
「あぁ…分かった。余熱ね…じゃ、早く、持って来い?」
誰だ…?
そんな会話をヘッドホン越しに聞いた俺は、顔を縁側に向けて様子を伺った。
「やったぁ~!待ってて!」
誰かに向かってそう言いながらホクホクの笑顔で戻って来た豪ちゃんは、俺の頭をポンと叩いて台所へまっしぐらすると、両手に何かを抱えて、再び縁側を降りて行った…
あの子の行動は…相変わらずの予測不能だ…
「さてさて~!とうとう、最後の第四楽章を弄りますよ~!」
盛大な独り言を言って指をクネクネと動かした俺は、第四楽章を初めから再生させて、耳に届くオーケストラの演奏に聴き入った。
フンフン…なる程ね。
じゃあ…ここは少しばかり、調整した方が良いね…
ふと、足で拍子をとりながら、首がリズムに合わせて動いている事に気が付いて、クスリと笑った。
「ふふ…」
さすが、タランテラのリズムは、中毒性がある。
聴いているこちらまで、自然と体が動いてしまうんだからね…こりゃ、猛毒だ。
信じられないよな…
一度聴いただけなのに…覚えて弾けちゃうんだもの…
あの子の弾いてみせた“タランテラ・ナポリターナ”を思い出して、画面を見つめながら口元を緩める。
こんなの、不公平だって…練習を積む人はやっかむだろうか。
それとも、畏れ慄いて…ひれ伏すんだろうか。
でも…どうかな…
この特技が、後々、あの子を苦しめる…そんな気がするよ。
耳で覚える事自体、悪い事ではないんだ。
ただ、それは基礎がしっかり付いている人に限る話だ。
豪ちゃんは基礎が無い分、おかしな癖を付けてしまう恐れがある。
運指にしても、あらかじめ用意された指使いをする事には大きな意味があるんだ。
耳でコピーしただけでは、そういった技術面の細かな気配りが疎かになる。
そして、これが、あるのとないのとでは、全く演奏の質が違ってくるんだ。
例えば高速で高音から低音まで駆け降りて行くピアノで言うと、きちんと運指が出来ている人はスムーズに鍵盤を降りて行けるのに対して、運指が苦手な人は、所々で引っかかってしまうんだ。
その事によって…曲を美しく弾く事が出来なくなる。
あの子の弱点は…そこだな。
自由過ぎるが故の、弱点だ。
でも、きっと、先生が…骨を折ってくれるだろう。
「あは~~!せいざぁん!見て見て!すっごい上手に出来たぁ!」
どこからか戻って来た豪ちゃんは、両手に大きなピザを2枚も抱えて、大満足の笑顔で俺に笑いかけた。
ほ…?
「どしたの…これ、買って来たの?」
豪ちゃんが縁側に置いたピザを眺めて驚いて目を丸くすると、あの子はケラケラ笑って言った。
「僕が作ったんだぁ!」
なんだと…!?
いつの間に…?
台所へ行ってコップと麦茶を持って戻って来たあの子は、俺を膝で押して縁側に転がした。そして、ニッコリと微笑むと俺を見下ろして言った。
「惺山、お昼ご飯食べよう?」
ふふ…!
「うん…とっても良い匂いがする。」
そう言って縁側に腰かけた俺は、あの子がピザを包丁で切り分けるのを見つめた。
「うちの隣のおじちゃんがねぇ、家の庭に窯を持ってるんだ。今日、そこでお魚を焼くって聞いたから、その後にピザを焼かせてもらったんだぁ。丁度良い高温の余熱で、あっという間に焼けるんだもん。あぁっ!僕も窯が欲しくなったぁ~!」
…この子の、この料理魂はどこから来るんだろう…?
「はい、あ~んして?」
そう言って差し出されたチーズのトロけるピザを、俺は躊躇する事なく、あの子を見つめたままガブリとかじった。
「あ~っふい!あふい!はふはふ…!」
「キャッキャッキャッキャ!」
お猿だな…この笑い声は…お猿だ…
そして、最近になってよく聞く様になった、このお猿の笑い声が…この子の最上級の笑い声みたいだ。
「美味しい!すっごい美味しいよ、豪ちゃん!お前は、お料理の天才だ!」
嬉しそうに頬を赤くするあの子のほっぺを撫でて、満面の笑顔で褒めちぎった!
だって、本当に美味しいんだ。
ピザの上にはトマトソースと、ベーコン…バジルの葉が乗って、チーズが掛かった…いたってシンプルな具材が乗っている。
なのに、どうしてか…とっても美味しいんだ。
「生地から作ったんだよ?凄いでしょ?この生地があれば、パンだって作れるし、シナモンロールも作れるんだぁ。小麦粉ってさぁ…マジで、最強なんだよ。」
花が満開に咲く豪ちゃんの料理話を聞きながら、ピザを口に運んで、俺は適当に相槌を打った。
空には気持ち悪いくらい大量のトンボが飛び交って、頬を撫でて行く風は爽やか…
あぁ…こんな、生活が…ずっと続けば良いのに…
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