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#36

「…お腹いっぱいだ。ごちそうさまでした。」 俺は両手を合わせて豪ちゃんにそう言った。すると、あの子はコップにお茶を注いで俺に差し出して言った。 「水分も、ちゃんととってね?」 ふふ…全く。 「はいはい…」 残ったピザにラップを掛けて台所へ持って行く豪ちゃんを見送った俺は、テーブルに胡坐をかいて座り直した。そして、再び…第四楽章を調整して行く… 「さてと…」 そんな仕切り直しの声を出した俺の背中に、圧し掛かって来るあの子を感じて、口元を緩めて微笑んだ。 本当…俺が大好きなんだ。 俺の襟足の髪を指先に絡めてクッタリと甘える様に背中に抱き付いた豪ちゃんは、スピーカーから聴こえてくるタランテラのリズムに合わせて体を揺らし始めた。 トントントン…と素足で拍子をとりながら、俺の背中を手のひらでポンポンと叩いて来るから…可愛くってなんねえ… 「この曲、好きだぁ…」 知ってるよ…君は俺の曲は何でも好きなんだ。 俺の胸を抱きしめて来る小さな手を撫でて、顔を仰いであのこに言った。 「夜ご飯は何かな…?」 そんな俺に頬を真っ赤に染めた豪ちゃんは、嬉しそうに瞳を細めて言った。 「ふふ…何が、食べたいの…?何でも作ってあげる。」 あぁ…何が良いかな…? 豪ちゃんの可愛い笑顔に、鼻の下を伸ばしながらデレデレしていると、ふと、豪ちゃんは俺の背中から体を起こして、クルクルと楽しそうに回り始めた。そして、満面の笑顔で俺を見下ろして言った。 「ここが…最高に好き~~!」 それは、第四楽章の中で、一番の盛り上がりを見せる場所…沢山の楽器の上を…バイオリンが駆け巡る所だ。 どこで覚えたのか…あの子は上手に足を踏み鳴らして踊り始めた。そして、俺に手を伸ばして、満面の笑顔で言った。 「惺山、おいで?」 あぁ…麗しの豪ちゃん。 あの子の手を掴んで立ち上がった俺は、コロコロと転がる様なあの子と一緒に、何となく踊ってみた。 「あはは!体が重いぞ!惺山!帰ったら筋トレをしないと!」 ケラケラ笑ってそう言った豪ちゃんは、突然、俺に抱き付いて… いいや… しがみ付いて、声を上げて大泣きし始めた。 「あぁ~~~~ん!あぁぁああん!どうしてぇ!どうしてだよぉ!馬鹿野郎!!」 あぁ…豪ちゃん… まるで、ずっと、堪えていたかの様な、そんな豪ちゃんの怒涛の泣きっぷりに…思わず苦笑いをした。 …やっぱり。 この子は…俺が何も言わずに立ち去ろうとしている事に、気が付いている。 でも、止めるつもりは…無いんだ。 不器用で…リアリストな豪ちゃんを、ギュッと抱きしめた。 第四楽章が終わると同時に…クッタリと大人しくなったあの子は、俺の肩に頬を乗せて鼻を啜りながら言った。 「また…会えるって言って…」 「会えるよ…絶対だ。」 なぜ、君が…俺が立ち去ろうとしている事に気付いても、何も言わないままでいたのか、分かった気がした。 それは、肝が据わってる訳でも、芯が強い訳でもない。 ただ…認めたくなかっただけなのかもしれない。 君も…俺と過ごすこの時間が、永遠に続けば良いって思ってくれていたの…? 「よしよし…」 小さな背中を撫でて宥める様にそう言った俺は、豪ちゃんを両手に抱っこしたまま縁側を下りた。そして、頭の上を無数のトンボが飛び交う…秋の空を見上げた。 「気持ち悪いな…」 そんな俺の言葉にクスクス笑ったあの子は、伏せていた顔を上げて俺を見つめて言った。 「…トンボの眼鏡は水色眼鏡。青いお空を飛ぶと…水色の眼鏡になる。でも…赤色のお空を飛ぶと、赤色の眼鏡になる。つまり…トンボは、主観に支配されてるんだ…」 絶対違うよ…豪ちゃん。 「へえ…そうなの…」 興味なさげにそう言って、家の周りをぐるっと回って裏庭の方へと向かった。そして、あの子を肩に担いで走り出した俺は、テラスで卵を温めるパリスを見下ろして言った。 「パリス!お前のご主人様はバブちゃんだぞ?ほら、見てみろ!抱っこが大ちゅきなバブちゃんなんだぁ!」 「ん、ちがぁう!ち~がぁう!」 そう言って足をバタバタさせる豪ちゃんを、肩から下ろして再び抱っこし直した。 そして、テラスの窓枠から覗き見える…ピアノを見つめて言った。 「あの時、炎天下の下…ずっと居たね…。心配だったんだ。」 それは、俺が、この子を拒絶して…締め出した時の事。 まだ、この子の特性を理解していなかった時の話… 「…うん。今日は何を弾いてくれるのか…楽しみだったんだ。」 クスクス笑った豪ちゃんは、俺の襟足を指に絡めてクルンと離して言った。 「でも、突然笑い出した時は、少しだけ怖かったぁ…」 ぷぷっ! 「あっふふ!そうか…!あはは!あはははは!!」 豪ちゃん… あの時から…ずっと、俺を守ってくれていたんだ。 「ねえ…」 俺の襟足に顔を埋めた豪ちゃんが、そう言ったっきり…押し黙った。 君の次の言葉を、俺は、聞かなくても分かるよ… …いつ帰るの…?だろ。 でも、聞きたくないんだね… 俺も、言いたくないんだ。だから、聞かないでくれ… まるで、そんな俺のわがままな気持ちが分かる様に…豪ちゃんは、言い出した言葉を飲み込んだ。そして、何も言わないまま俺の襟足を優しく撫でた。 良いの…惺山なら、良いの… そんな君の声が、耳を通さなくても聴こえてくる気がして…目頭が熱くなった。 「さてと…お庭探訪も折り返し地点だ…。はい、豪ちゃん。パリス嬢に手を振って?なかなかお目にかかれない美人な鶏だよ?」 豪ちゃんの髪に頬ずりしながらそう言うと、あの子は少しだけ顔を上げてパリスに手を振った。 そんな俺たちを不思議そうに見上げるパリスとお別れして、豪ちゃんを抱っこしたまま玄関先へと歩いて向かった。 「おじちゃぁん!あ、あ、明日…何着たら良い?!」 突然目の前に現れた大吉は、豪ちゃんを抱っこする俺を見上げながら、クネクネと体を捩って言った。 「何を着たら…魅力的に映るかなぁ?」 「ぶふっ!」 あっはっはっは!!腹が痛い!! 狸の着ぐるみ…なんて、そんな意地悪言わないさ。 ブラブラと揺れる豪ちゃんの足を小突いて、俺の返事をひたすら待っている大吉を見下ろして言った。 「…い、い、いつもの服装で良いじゃないか…。なんで、気張るんだよ?」 大吉の言う”明日“とは、多分、遊覧船のパーティーの事だ。 家族しか来ないのに…何を着たら魅力的に映るかなぁ…?なんて…ウケる。 呆れた顔を大吉に向けて、ため息を吐いた。すると、豪ちゃんが俺の頭を抱えてきつく抱きしめ始めた… それは、まるで蛇がじわじわと絞め殺す時の様だ。 …きっと、この間、俺に新しい可能性を見出してしまった大吉に、ライバル心の様な嫉妬心の様な、そんな物を抱いてるんだ…!痛い!頭蓋骨が、割れる! 「…でもさぁ、やっぱり、好きな人には…魅力的に映りたいじゃない?」 食い下がって聞いて来る大吉を見下ろしながら、よっこらせっと豪ちゃんを持ち直して、あの子の締め付ける腕から頭を外して言った。 「…好きな人って、誰が来るんだよ。女の子でも来るのか…?」 そんな俺の言葉にもじもじと体を揺らした大吉は、足で土をほじくりながら言った。 「え…それはぁ、秘密ぅ…」 「惺山は僕のだからね!大ちゃん!ダメだよっ!い~~~っだ!」 豪ちゃんは身を乗り出して、大吉にアッカンベをしながらそう言った。そして、俺を振り返って両手に抱きしめながら、スリスリと頬ずりして言った。 「惺山は豪ちゃんの~!!惺山は豪ちゃんのぉ~!!未来永劫、豪ちゃんのぉ~!!」 そんな事を…大声で言う事の意味を、俺は求めないよ…豪ちゃん。 「はっ?ちっがうよ!僕はね、男なんて興味が無いんだ!この間はどうかしていたんだ…。きっと、あれが巷でよく聞く”音楽の力“ってやつなんだ!危うく、そんな力にひれ伏す所だったけど、すんでの所で踏みとどまったよ?ゲイのAVを見たら、すっかり元に戻ったもんね!」 大吉…!! 大吉!! 顔を歪めてそう言った大吉は、俺を見上げながら鼻をフン!と鳴らした。 …まるで俺が誘惑した様にするのを、今すぐ、やめろ…! 「明日…てっちゃんの親戚のお姉さんが来るんだ。恵ちゃんだよ。豪ちゃんも知ってるだろ?」 そんな大吉の言葉に顔を歪めた豪ちゃんは、フン!と顔を逸らして俺の肩に顔を乗せて言った。 「めぐちゃん、意地悪だから…きら~い!」 「豪ちゃんがどう思おうと良いんだよ。僕はね、めぐちゃんの気の強い所も、魅力に見る事が出来る…上出来の男だからね…」 豪ちゃんの無防備なお尻を思いきり引っ叩いた大吉は、俺を見上げたまま首を傾げて再び言った。 「ねえ…どんな服装が良いと思う?」 …知らねえよ… 「豪ちゃ~ん!宿題とプリント、持って来たよ~!」 そんな哲郎の声を皮切りにして、いつもの様に…学校帰りのギャング団が徹の実家に集まり始めた。 ここは、まるで彼らの集合場所の様になっている… 「豪ちゃんは相変わらず堂々とずる休みすんだな!」 「お…?おっちゃん、なんか良い匂いするけど、今日は何を食べさせてもらったの?余ってないの?」 あっという間に周りを囲まれた。 ひたすら、清助の、クンクンと鼻を動かす音が俺の耳に届くのはどうしてだ… すると、豪ちゃんは俺の上から飛び降りて、みんなを見て言った。 「ピザがあるよ?食べる?」 「よっしゃ~~!ピザだぁ~~!」 縁側に腰かけた彼らは、豪ちゃんが出すお茶を飲み干して、余っていたピザをあっという間に平らげて行った。そんな様子を居間から眺めて、豪ちゃんが注いでくれたお茶を一口飲んだ。 …胃袋が若いと、底なしなんだ… 28歳を過ぎたあたりから、あれ?何だか…胃がもたれるな…なんて感覚を味わう事になる。それまでの…自由だ。 ふと、縁側で隣に座った豪ちゃんに哲郎が何かを言った。 そんな哲郎を見つめた豪ちゃんは、肩をすくめてクスクス笑って、ゴメンネ…って言った。 あぁ…多分、すっぽんスープの影響で哲郎に襲い掛かって…哲郎が野獣になった日の事を、お互いに水に流してるんだ… まあ…俺は水に流さないけどね。 でも、豪ちゃんを見つめるお前の瞳を見ると…少なからずも…俺は罪悪感を感じざるを得ないんだよ…哲郎。 本当に、すまないね… お前の大好きな人を取ってしまった。 …そして、お前の手の届かない場所へ、あの子を案内してしまった。 でも、分かってくれよ…この子は、輝く原石なんだ。 そして、ここではない。 もっと…収まるべき場所を持ってる。そんな特別な人なんだ。 ピザを食べ終えたギャング団は、いつもの様に…俺の許可も無く、庭で遊び始めた。 「よ~い、ドン!」 元気いっぱいの豪ちゃんの掛け声で、哲郎と清助が家の周りをダッシュで駆けだした。 馬鹿みたいだけど、あいつらはこの家の周りをどっちが速く走れるのか…競争を始めた様だ。 そんな様子を縁側に座って眺めると、隣に座った大吉が”めぐちゃん“と呼ばれる、哲郎の親戚の女の子のおっぱいが大きい…なんて話を、永遠と俺の耳に届けた。 俺は、そんなあいつの猥談を適当に相槌を打ちながら聞いた。 こんな…他愛もない時間が、とっても楽しい。 「あ~!てっちゃんが一番だぁ!」 キャッキャと喜ぶ豪ちゃんを抱っこして持ち上げた哲郎は、あの子を見上げて言った。 「一番だったろ?だから、キスしてよ!」 なんと! 公開告白してフラれて、すっぽんに乱れた豪ちゃんにリミッターを外して濃厚なキスをしたら…あいつの中で、何かが吹っ切れたみたいだ…。 これは…由々しき事態だぞ…?! 「ふふっ!僕に勝ったらね?」 豪ちゃんはクスクス笑って、哲郎の腕からすり抜けた。そして、スタートラインに立ってぴょんぴょん跳ねながら、晋作を見て言った。 「晋ちゃん!見ててね?僕の方がてっちゃんよりも早いんだから!」 ふふ…! まさか… 「あぁ、てっちゃん。ボロクソだな!」 そんな晋作の言葉を鼻で笑った哲郎は、豪ちゃんの隣に立って姿勢を沈めて構えた。 「いくよ?よ~い、ドン!」 晋作の掛け声とともに、まるで忍者の地走りの様に体を沈めた豪ちゃんは、あっという間に哲郎を引き離して視界から消えた。 「ふぇっ?!」 「あ~…!やっぱり、豪ちゃんはすげえ!」 感心する晋作と清助を見ながら驚いて情けない声を出した俺に、大吉は首を横に振りながら注釈する様に教えてくれた。 それは、俺が知らなかった…あの子の一面だ。 「足の速さも、木登りも、豪ちゃんが一番なんだ。」 へえ… それにしても…めたくそ速え! あっという間にゴールに戻って来た豪ちゃんは、サッカー選手の様なヘンテコダンスを踊って、余裕のゴールを踏んだ。 「はっは~!てっちゃん!おっそ~い!だっせ~!」 キャッキャと喜んでゴール地点で哲郎を待っている豪ちゃんに、戻って来た哲郎は口端をニヤリと上げて、体を屈めて突進して来た。 「あ~~~!」 大絶叫する豪ちゃんを肩に乗せた哲郎は、そのままウイニングランの様に走って、庭の垣根に豪ちゃんの頭を擦り付けながら言った。 「なんだって?もう一回言って?豪ちゃん、聞こえなかったぁ!」 「んぁああん!やぁだぁ!チクチクするぅ!」 はは…何だかんだ、ここはいつも楽しそうだ… 「明日は…4時に遊覧船の乗り場に集合だよ?酒を飲むなら歩いて来るんだ。おっちゃん、分かった?」 清助の声に頷いて答えると、もうすぐ終わってしまう…まるで夏休みの様だった楽しかった時間を思い返して…ウルっと瞳を潤ませた。 なぜだろう… 自分の作ったギャング団のポルカが、頭の中をずっと流れて止まないんだ。 「じゃあな~!豪ちゃん、おっちゃん、またな~!」 そう言って帰って行く彼らの後姿を、もう見る事が出来ないなんて… 残念だ。 「あぁ…惺山…。可愛い人…」 豪ちゃんはそう言いながら、俺を両手に抱きしめて優しく頭を撫でてくれた。 「楽しかったんだ…あいつらと居るのが、楽しかったんだ…」 あの子の胸の中でそう言うと、豪ちゃんは俺の髪にキスして言った。 「…あのポルカを聴けば、この時間にいつでも戻って来れる。そして、この時のみんなに、いつでも会える。そうでしょ…?」 あぁ…ふふ… 「豪ちゃん…ギュってして…」 情けないって分かってる。でも…この子に抱きしめて欲しいんだ。 まるで、終わらない夏休みの様に感じていた時間は終わりを迎えて…こんな素敵な時間は、もう戻ってこない… だからこそ…思い出が出来て、哀愁の漂うノスタルジーが生まれるんだ。 「ふんふふふ~んふ~ふふふふふ~ん…」 俺の編曲をした”少年時代“を伴奏に、可愛い声で歌い始めるあの子に寄り添った。 俺の膝の上にトンボが止まって、クスクス笑ったあの子が指先に移して、俺を見つめて微笑んだ。 楽しかった… まるで、子供の頃に戻った様に… いいや、子供の頃、こんなに充実した時間なんて送れなかった。 毎日…毎日、楽器の練習に明け暮れて、友達と遊ぶ事さえ出来なくて、彼らの様に…日焼けする事なんて無かった。 それを…可哀想だと思う? それを、味気ないと思う? 豪ちゃんが言った。 影があるから光があると… 子供の頃…思う存分に遊べなかったから、今、とっても楽しいと思えるんだ。 それは、可哀想でも、味気なくともない… 強いて言えば…少年時代を、やり直して…そして、取り戻したんだ。 そして、それは…とても楽しかった。 「ねえ…」 豪ちゃんが再び俺にそう言って、そして、再び…言葉を飲み込んだ。 俺は、そんなあの子に寄り添って、ただ赤く染まる空を見上げた。 豪ちゃん、聞かないでくれ… 俺も、こんな時間から離れる事が…辛いんだ。 「…惺山、今日の夜ご飯は何が食べたい?」 ぼんやりと空を見つめ続ける俺に、豪ちゃんが顔を覗き込んでそう聞いて来た。だから、俺はあの子の頬を指先で撫でながら微笑んで答えた。 「味のしない…チャーハンと、野菜炒め…後は、トロける茄子の味噌汁…」 そんな俺の言葉に不服そうに眉間にしわを寄せた豪ちゃんは、俺のおでこを突いて言った。 「チャーハンの味を決めるのは、鶏がらスープだよ?」 …知ってる、前も聞いた。そして、前も思った。 その鶏がらスープの味が…薄いんだって。 「うん…」 あの子を見つめて、微笑んだままそう言った。すると、豪ちゃんはやれやれと言わんばかりにため息を吐いて言った。 「じゃあ、収穫に付き合って?」 「ほい!」 夕暮れ時の豪ちゃんの畑へやって来た… あんなに沢山実っていた茄子やピーマンは、まばらに枝に付く数個を最後に、もうお終いの様に…葉先を枯らし始めた。 代わりに隣の畝では、青々と葉を伸ばした、小松菜が実っている。掘り起こされた形跡のあるさつまいもの畝は、未だに地中に太い根を張って…まだまだ奥の方に、さつまいもが眠っている事を教えてくれた。 「あぁ…もう、茄子はこれで、売り切れご免だ…」 豪ちゃんはかろうじて育った茄子を収穫して、枯れ始めた葉を手のひらで優しく撫でて言った。 「とっても美味しかったよ。ありがとう…。」 テキパキと体を動かして隣の畝に移動した豪ちゃんは、小松菜を数本引き抜いて、茄子と一緒に籠に入れた。 そんなあの子の背中を見つめながら、しみじみと瞳を細めた。 豪ちゃんは、鶏も、野菜を育てるのも、料理を作るのも好き。 …ひとつひとつに意味を見出して、ひとつひとつに携わって…汗を流して、自分の身を捧げて…命を育てて、食べて、感謝する。 ”死“を恐れると同時に、君は丁寧に、味わう様に、生き様とする。 とても、素敵な人だ… 豪ちゃん、先生のフランスの家でも小さな菜園が作れると良いね… 「豪ちゃん…お母さんに挨拶しても良いかい…?」 あの子の背中にそう言うと、豪ちゃんは汗を拭いながら振り返って笑顔で言った。 「良いよ。」 あの子と一緒に勝手口から家に入って、仏壇の前に座った。そして、あの子にそっくりな母親の遺影を見つめて、にっこりと微笑みかけた。 「本当に…そっくりだ。」 そう言って、不思議そうに俺を見上げる豪ちゃんの鼻をチョンと叩いた。 両手を合わせて、笑顔のままのあの子の母親に、声に出さずに胸の中で話しかけた。 豪ちゃんのお母さん…俺に、猶予をくれてありがとうございます。この子は…本当に素晴らしい子です。きっと、美しい翼で自由に大空へ羽ばたく事が出来るでしょう。あなたが…命と引き換えに生み出した命は…奇跡だった。 俺の隣で両手を合わせた豪ちゃんが、じっと目を瞑ったまま言った。 「お母さん、僕を助けてくれてありがとう…。彼が助かる方法を…教えてくれてありがとう。僕を彼に会わせてくれて、ありがとう。僕を…産んでくれて、ありがとう…」 そんな涙声の言葉を聞いたら…込み上げてくる衝動を抑えきれずに、あの子を抱きしめて、声を震わせて言った。 「豪ちゃん…君に会えて、良かった…!」 俺の天使… 腐った俺を、自分を犠牲にしながら、丁寧に洗って、綺麗にしてくれた… 君は俺の天使… 誰が何と言おうと、それは変わらない! 「惺山…ふふ…」 豪ちゃんは、俺の胸の中で肩を揺らして泣きながら、クスクス笑った。そんなあの子の体を強く抱きしめて、何度も、何度も、あの子の耳の奥に届けた。 「君は…俺の天使。俺の天使だ…」 “悪魔”なんかじゃない… この子は、素晴らしい感性を備えた、天使の様な子供だ。 …ねえ、今までの死に行く人たちを、ことごとく救えなかったね。 それは事実だ。 でも、もう一つの事実を君は見落としてる。 彼らは、どうして君に優しくしたと思う…? ねえ…?どうして、君に優しくしてくれたと思う…? その、答えを俺はよく知ってる。 君の献身的な愛が…確かに彼らに伝わっていたからだよ。 追い返されても、無視されても、相手にされなくても、君はしつこく纏わり付いて…相手の懐に飛び込んで行くんだ。 そして、いつの間にか…相手の全てを、優しい愛で包み込んで行くんだ… そんな君を、天使と言わないで…何と呼ぶのか、俺には分からないよ。 「ねえ、僕が髪を伸ばしたら、お母さんと同じになるの?」 「はは…そうだな。そのくらい似てる。」 あの子と一緒に、暗くなった帰り道を歩いて進む。手には、茄子と小松菜の入った籠と、その上に無造作にポンと置かれた、不思議な機械。 豪ちゃんの家を出る前、大急ぎであの子が部屋の中から持って来た物だ。 「これは、何の機械なの…?」 首を傾げながら、機械を指さして豪ちゃんに尋ねた。すると、豪ちゃんは俺を見上げて肩をすくめて言った。 「これは、孵卵器…卵を孵化させる時に使うんだ。一定の温度を保って、たまに卵を転がしてくれる。これ、惺山にあげる。」 孵卵器… 俺が、パリスの卵が孵化する前に、居なくなると…踏んでいる。さすが、勘の鋭い豪ちゃんだ… 苦笑いをしてあの子を見つめて、未だに明言を避ける。 俺はきっと…いつ行くのかも…何時に家を出るのかも…君に伝えられない。 最後の最後まで…目を背けたまま過ごしたいんだ。 君と離れなくてはいけない現実を、見ないまま…過ごしたいんだ。 「…何て名前にするの?」 俺の顔を覗き込んで、豪ちゃんがそう聞いて来た。 ふふ… 「さあ…まだ、決めてない。」 俺は、あの子を見下ろして頬を上げて笑った。すると、豪ちゃんは俺を振り返りながら、クスクス笑って言った。 「なぁんだぁ!」 そして、俺の腕に抱き付いて、腕を絡めて、甘える様に頬ずりした。 そんな右手に感じるあの子の重みと、温かさに、胸の奥がチクリと痛くなって、じっと紺青色に染まった空を見上げた。 あぁ…頭の中で、どうしてか…“タランテラ・ナポリターナ”が流れて、お話の終わりを、急ピッチで進めて行くよ。 もうすぐ、終わるよ?って…テンポを上げて…どんどん付いて行けなくなるんだ。 どうか、鳴りやんでよ… まだ、この天使の傍に居たいんだ… 「…さあ、ご飯を作ろうかな?」 いつもの様に豪ちゃんは、する必要のない腕まくりを半そでの袖でして、台所に立ってやる気をみなぎらせた。 そんなあの子にクスリと笑って、俺は率先して言った。 「お米を持って来ようね…」 そして、物置に置いた米の袋を持ち上げて、すっかり軽くなった袋を片手で運びながら、込み上げてくる笑いを止めもせずに、あの子に言った。 「あはは!もう、無くなりそうだぁ!」 「ふふっ!兄ちゃんのせいだぁ。」 いいや、ギャング団が腹ごしらえをするせいだ。 ここに豪ちゃんがいる=うまいもんを食わして貰える=そうだ、あそこへ行こう… そんな思考回路なんだ。 手際よく料理を始める豪ちゃんの後ろで、可愛い背中を見つめたまま、口元を緩めた。 何度、ここに、こうして立って、この後ろ姿を見つめたかな… パシャリ… 「ん?なに撮ったの?」 そう聞いてくる小さな背中に、とぼけて言った。 「ん、何も…」 「ふふ、へえ…」 こんな写真…ひとりの時に見たら…俺は立ち直れるかな? 君に会いたくなって…泣くのかな…? 笑っていた口元がいつの間にか一文字に震えて、微笑んでいた目から涙が溢れると、慌ててあの子の傍を離れてピアノの部屋へ逃げた。 まだだ…まだ、離れた訳じゃない。 なのに…どうして、こんなに辛いんだ。 涙を拭いながら、目の前に突き付けられる現実から目を逸らす様に首を横に振って、ふと、ピアノの部屋を眺めて肩を落とした。 「あぁ…散らかったままだったな…」 ピアノの部屋、床一面には、俺がばらまいた五線譜が溢れていた… ため息を吐きながら、乱雑に散らばった五線譜をしゃがんでかき集めた。すると、五線譜の端に書かれたメモを見て、クスリと笑った… ”大吉の親父に肉のお礼…“ “豪ちゃん、学校休んだ。健太に報告” “森…山…惺…山…”その隣に…あの子の描いた、絵がある… 麓に森が広がった…大きな二つの山の間に小さな星が煌めいている…そんな情景が名前の中にある…それが、俺… 「ふふ…豪ちゃ…ん!」 君の全てが、思い出になるのかと思うと…胸が苦しいんだ。 君と離れて、君と会えない日々が続いて、いつか…君が思い出になる。 そんな日が来る事が怖い。 だから…考えたくないんだ… 君と離れる決心を付けたはずなのに、俺は未だに…君の傍にいたいと願ってる。 こんなに弱い俺は、君に…いつ帰るのかなんて言えない… 涙を拭って、あの子の描いた絵を手のひらで撫でた。そして、大事に折り畳んで、胸ポケットにしまった。 無造作にかき集めた楽譜の束をひとつにまとめて、段ボールに押し込んだ。そして、無駄に疲れた気分になって、ピアノに腰かけてため息を吐いた… 「はぁ…」 始まりがあれば…終わりがある…それは必然だ。 ふと、ピアノの上に置かれた、何も書いていない五線譜を見つめた。 「あ…そうだ…」 そう呟いて、思い立った様に書き始めた。 「ピアニッシモ…きわめて弱く…」 楽譜の強弱記号と、音符の名前…意味…演奏記号…を書いて、纏めてあげよう。 後は…俺からの、プレゼント。 “You Are My Sunshine”を編曲した…惺山バージョンを置いて行ってあげる。 いつか君と演奏する事を願って…バイオリンの楽譜だけ置いていくよ。 これは俺と演奏をして、ハーモニーを作ってやっと完成する物だ。 ひとりじゃ、弾き切れない。 「ふふ…俺は、ほんと…意地悪だな。」 ポツリとそう呟きながら、あの子の為の五線譜を纏めてクリップに留めた。 そして、一番初めのページに“きらきら星から…可愛い鶏ちゃんへ…”なんて書いて…クスリとひとりで笑った。 「惺山…ご飯出来たよ…」 片付いたピアノの部屋を見渡しながら、眉を下げた豪ちゃんがそう言った。 「ほ~い!」 俺は、いつもの様にそう言うと、ふと、ピアノに座り直して…あの子を見つめた。 豪ちゃんはそんな俺を見つめると、何かを察したように、クスクス笑いながら台所へ戻って行く。 そんな様子をニヤニヤしながら見つめて、五線譜の束を裏返しにした。 そして、あの子が戻ってくるまでピアノを弾いて待った。 そうだな…何が良いかな… 思い立って弾き始めたのは…”調子の良い鍛冶屋“ どうも、俺はこの曲が好きみたいだな。 小気味の良い旋律を丁寧に踏みながら、俺の隣に腰かけたあの子を見つめて、にっこりと微笑みかけて言った。 「あ~ん…」 「ん、もう…!」 そう言って頬を赤くした豪ちゃんは、嬉しそうに瞳を細めて、俺の口に野菜炒めを運んでくれる。 「はい…あ~ん…」 「あ~ん、モグモグ…ふふ、美味しい!」 そう、今日もいつもと変わらない、薄味の野菜炒めだ。 だけど、それが良い。 この子の作る野菜炒めが…大好きだ。 「…それは、なんて曲なの?」 あの子がそう聞いて来るから、俺は指先を細かく動かしながら教えてあげる。 「調子の良い鍛冶屋だよ。」 「ふふ!ははは!!確かに、調子は良さそうだね?」 クスクス笑ってあの子がそう言うから、短調に転調させて言った。 「…これは?」 「あっふふ!調子の悪い鍛冶屋になったぁ!」 目じりに涙を溜めながら、ケラケラ笑うあの子の笑顔を見つめて、じんわりと胸の奥が熱くなってくると、再び転調させて元に戻して言った。 「回復した!」 「あっふふ!もう、おっかしい!」 君は俺の太陽…俺を照らして、温めてくれた… 音楽は楽しい物…そんな、俺が忘れてしまっていた大切な事を、思い出させてくれた。 誰かと比較して、誰かを貶して、自分が抜きに出てやる…なんて、そんなガツガツした気持ちで、美しい物を創造する事は出来ない… 体の奥から湧いて来るワクワクするような興奮と、うっとりとトロけてしまいそうな感動…思わず笑顔になってしまう様な楽しい音色は、そんな物から生まれない。 生みの苦しみ…なんて言葉が創造の世界では当然の様に使われるけど、君を見ていると考えてしまうよ。 苦しむ必要が果たしてあるのか…って。 楽しく生み出す事が出来るのなら、その方が良いと思えてしまう。 それは今までの巨匠たちを否定する訳でも、努力を続けるものを否定する訳でもない。 ただ、豪ちゃんという事実を知ってしまった俺は…そう思ってしまうんだ。 可愛く微笑むあの子の笑顔を見つめながら“調子の良い鍛冶屋”を弾き終えた俺は、首を伸ばして、あの子に口を開けて言った。 「あ~ん…」 「はぁい、あ~ん…」 ポリポリ… 今日もキャベツは多少の歯応えを残して、いつもと同じ仕上がりだ。 そんな安定した料理を提供してくれるあの子に…リストの超絶技巧をお見せしてあげよう。 ”ラ・カンパネラ“を弾き始めると、豪ちゃんは俺の手元を見つめたまま、口を開きっぱなしにした。 「あぁ…惺山…素敵!」 知ってる。 俺はピアノで話す人で…ピアノで、君を誘惑する男だ。 うっとりと俺に見惚れる豪ちゃんの熱い視線を感じながら、格好よく見える様に伏し目がちにピアノを弾いていく。 「はぁ~…!」 そんな語尾にハートの付きそうなため息を受け取りながら、曲の終盤を迎えると、体全部を使って、あの子に情緒を込めた”ラ・カンパネラ”を聴かせてあげる。 「あぁ…凄い…」 そうだろ…? それは、全身を痺れさせる様な旋律と、音色の、絶妙なハーモニーだ。 「キャーーーーー!惺山!格好いい!」 そんな豪ちゃんの黄色い声援を受けながら“ラ・カンパネラ”を弾き終えた俺は、首を伸ばしてあの子に口を開いて言った。 「あ~ん…」 「ん、もう!…んん、もう!!」 顔を真っ赤にした豪ちゃんは興奮した様子で、俺の口の中に大量のチャーハンを詰め込んで言った。 「すっごい、格好良かったぁ…!もっと、聴かせてよ…。あなたのピアノを…僕に聴かせて…?」 あぁ…ふふ。 あなた色に染めてってか… 「もちろん、良いよ?モグモグ…」 口にチャーハンを入れながら弾き始めたのは…”愛の夢“。 再び、リストだ。 女を落とすなら…リストを聴かせたら良い…なんて、迷信だと思ってた。 でも、豪ちゃんを見ていると、あながちそうでもなさそうだ。 俺の隣で、ずっと瞳を潤ませて頬を赤くしているんだもの… 激しい音色を出した後の、優しい音色は…DV男の様だけど… 君の激情とも似ているね…? そんな、激しくも優しい…そんな、美しい曲。“愛の夢”です。 「はぁ…僕、惺山が好きになっちゃったぁ…」 は…? 聞き捨てならないな…それはどういう意味なの…? あの子の顔をジト目で見つめると、豪ちゃんは惚けた瞳のまま、俺にスプーンを向けて言った。 「惺山、あ~んして?」 「あ~ん、モグモグ…」 今日のチャーハンも野菜炒め同様、薄味で、あの子の味を出している。 満足の出来栄えだ。 「…そろそろ、手が疲れた?」 豪ちゃんが、俺の顔を覗き込んでそう聞いて来るから、あの子を見つめて微笑んで言った。 「いいや、“幻想即興曲”だって弾けるくらい、ぴんぴんしてるよ?」 そう言って弾き始めたのは…ショパンの“幻想即興曲” 絡まる旋律が…いと美しいのじゃ… 「あわあわあわあわ…」 鍵盤の上を走って抜ける俺の手を見つめてそう言うと、豪ちゃんは息をのんで、じっと演奏に聞き耳を立て始めた。 はは…気に入ったんだ。 やっぱり、この子はショパンが好き。 「気に入ったの?」 あの子の顔を覗き込んでそう聞くと、豪ちゃんは俺の手元を見ながら、アワアワして言った。 「あっああっ…!間違っちゃうからぁん!こっち見ないでぇん!」 はは…! 舐めるな… こんなの、ノールックで俺は弾けるんだから。 豪ちゃんを見つめてにっこりと微笑んだ俺は、そっと顔を傾けてあの子の顔を覗き込んだ。そして、俺の手元をビクビクしながら見つめる豪ちゃんに、チュッとキスをして、そのまま舌を入れたキスをする。 この行為に…何の意味があるかって? ただのデモンストレーションさ。 俺にはこんな事、ちょろいって…あの子に教えてあげたんだ。 「ん…もう、ちゃんと聴きたかったのに…」 “幻想即興曲”を弾き終えた俺に、頬を真っ赤にしてそう言った豪ちゃんは、ムスッとふくれっ面をしながらも、まんざらでもなさそうにもじもじと体を揺らして、喜んでいる様子だ… 「さあ、次は何が聴きたい…?君のリクエストなら何でも聞いてあげるよ。」 「きらきら星を、弾いて…?」 俺の肩に手を置いたあの子は、嬉しそうに瞳を細めて俺の顔を覗き込んでそう言った。 ふふ…可愛い… 「良いよ…。君と、俺の曲だね…?」 そう言って、豪ちゃんに再びキスをした俺は、”きらきら星変奏曲”を弾き始めた。 あぁ…豪ちゃん。俺の肩に乗せた、君の頬が涙で濡れて行くのを感じるよ。 でも、今は、気が付かない振りをするね… だって、君の為に…情緒を込めて弾いているんだ。 楽しかったね…素敵だったよ… 君の才能が開花した瞬間さ。 驚くなんて、そんな生易しいものじゃない…もっと、パンチのある衝撃だ。 君が、表現の翼を手に入れた瞬間だもの。 「うっうう…うう…」 そんな可愛い君の泣き声も一緒に音色に織り交ぜて、この”きらきら星”を君へ… いつの間にか溢れた涙が、俺の頬に伝って落ちて行くよ。 それも…全て…音色に込めて… 「はぁ…どうだった…?」 ”きらきら星変奏曲“を弾き終えた俺は、柔らかい髪に頬ずりしてそう聞いた。すると、あの子は俺を両手で抱きしめて言った。 「愛してる…」 あぁ…嬉しいね… 「俺も、愛してるよ…」 「おい!うるさくってテレビが聴こえないだろ!も、夜なんだから、ピアノ弾くな!蛇が来るだろ!」 そんな、健太の終いの言葉にクスクス笑って、ピアノの蓋を閉じた。そして、豪ちゃんに餌付けの続きを催促した。 「豪ちゃん…あ~ん!」 「ふふ…はぁい、あ~ん…」 始まりがあれば…終わりがある…それは自然の理。 必然なんだ。 そして、終わりがあれば…始まりがあるのも…また、然りだ。 そうだよね…豪ちゃん。 豪ちゃんと一緒にお風呂に入って、いつもの様にクイズを出した。 でも、今日も豪ちゃんは、何でもフォルテッシモで貫こうとした… 「なぁ~にが…フォルテッシモだぁい!だよ…。全く!明日は、4時に遊覧船乗り場に集合なんだろ?兄ちゃんはそれまで寝てるから!絶対に、起こすなよっ!」 俺と豪ちゃんが風呂から出ると、目の前の廊下で健太が布団を敷いて、せっせとシーツの微調整を行っている最中だった… 文句を言う小言は健在だが、彼の視線は熱心にシーツのしわを探して、彼の大きな手は、そんなしわを必死に撫でて消していた。 どうせ起きた時にはグチャグチャになっている敷布団のシーツを、こいつは毎日、毎日、寝る前に神経質なほどに丁寧に、こうして調整しているんだ。 やっぱり、健太は、豪ちゃんに負けず劣らず…少し、変わってる。 そんな健太の様子に、いたたまれなくなった俺と豪ちゃんは、急いで服を着た。 寝床が整ったのか…健太はゴロンと布団に寝転がると、携帯を何度もチェックして、ため息を吐きながら言った。 「はぁ…怖いんだよ。すぐに返信しないと…怒るんだ…」 あるあるだな… 俺なんて、既読無視を繰り返したら、リストカットされて、写真を送り付けられた事がある。 思い出したでも、玉が縮み上がる… …女はあらゆる方面において、気を抜けないんだ。 「ねえ、兄ちゃん。惺山の携帯で撮った写真を、兄ちゃんの携帯に送っても良い?」 部屋着を着た豪ちゃんは、そう言いながら健太の背中に覆い被さった。すると、健太は鬱陶しそうにあの子を背中から落として、頭を引っ叩いて言った。 「嫌だぁ!気持ち悪いもん!絶対、嫌だぁ!」 酷いな…おい。 「なぁんだぁ!」 突然火が付いた豪ちゃんは乱暴者の様にそう言って、健太の上に跨って、あいつの手元から携帯電話を取り上げた。そして、ジト目で見上げる健太を見下ろして、これ見よがしに声色を作って、彼女から来たメールを読み上げ始めた。 「健ちゃん…本当にあたしの事好きなのかな…?ただ、エッチがしたかっただけなんじゃないの?酷い…悲しいよ。だって!…うわ、めんどくせ!」 「こ、こんにゃろっ!」 怒った健太は、腹の上に乗った豪ちゃんをゴロンと転がして、上に覆い被さって言った。 「謝れっ!兄ちゃんに謝れいっ!せいっ!せいっ!」 「んぁああ!」 大きな健太の体の下でもがく様は、レイプされているかの如く…卑猥だ。 「こらこら…も、止めなさい…また、キリが無くなるから…」 そう言って豪ちゃんを健太の下から引きずり出すと、もれなく健太に頭を引っぱたかれて、髪が乱れた。 でも、こんなの…もう、慣れっこだ… なんとも思わない。 「はいはい…」 ギャンギャン怒り始める健太を宥めて、息巻くあの子を抱きしめたまま無理やり台所に連れて行く。 「お水飲んで…?もう、寝るよ?」 「…ふぅふぅ…はぁい!」 いきり立った豪ちゃんは、返事もそこそこに、受け取った水をがぶ飲みして、まるで最後っ屁の様に健太に言った。 「に、兄ちゃんは…ハズレばっか引いてるね!」 「…ん、なぁんだぁ!」 案の定…健太が口を尖らせて布団の上で、体を身構えた。それを見た豪ちゃんは、慌てた様に、ダダダダ…っと寝室に逃げ込んで行った。 …やられるな… 俺は瞬時に察した。 …これは、末っ子の本能だ。 豪ちゃんが逃げ込んだ寝室の襖をこじ開けようとする健太と、そんな力に必死に抵抗して、襖を押さえる豪ちゃん…そして、そんな、下らない攻防を目の前でぼんやりと眺める…俺。 徐々に開き始める襖を眺めながら、末っ子の勘は当たるんだ。と、確信を得ていると、目の前の健太が隙間に足に力を入れて、踏ん張って言った。 「どりゃぁああ!」 その瞬間、ガタンと物凄い音を立てて…徹の実家の襖が外れた。 「あぁ…やったな。破壊行為だ…」 淡々とそう言って、寝室に飛び込んだ健太が豪ちゃんに飛び掛かる背中を見送りながら、コップの中の水を一杯飲んだ。 「こんにゃろ!こんにゃろ!ごめんなさいしろっ!」 「んぁあああん!いやぁだぁああん!」 そんな声を聞きながら、壊れた襖の梁を眺めて、何とか直らないか…手で押さえてみる。 …無理だ…木が割れた… 馬鹿力を出したな…全く。 「ほら、健太…メッセージが来てるかもしれないぞ?早く、早くチェックしないと…!健ちゃん…あたしの事、遊びだったの…?が始まるぞ。良いのか…?終わりの見えない問答を繰り返したくないだろう…?」 俺は健太の背中を叩きながらそう言った。すると、あいつは、豪ちゃんのちっぱいをむんずと掴みながら俺を見上げて言った。 「はっ!どうせ、嘘だろ!?」 あぁ…そうだな… 「それは分からないさ…。でも、もしかしたら、来てる可能性もあるだろ…?健ちゃん、あたしの体が目当てだったの…?から始まって、死んでやる…になる前に、手を打たないと…後々、面倒だぞ!」 そんな言葉に顔をしかめた健太は、半泣きであいつの頭を引っぱたき続ける豪ちゃんの頭を一発叩いて、俺に言った。 「ああいうのは、どうしたら良いんだ!」 ああいうの…? それは、彼女からの鬼の様なメールの事か… 「…そういう事をしない女もいる。ただ、そういう事をする女は…とことんする。この状況が無理なら…早めに別れた方が良い。合わなかったんだ。無理に続けようとしないで、早めにお別れしなさい。でも、絶対に…小林先生には戻っちゃ駄目だぞ?」 老婆心だ… 俺の言葉に表情を曇らせた健太は、急に背中を丸めてぼそぼそと小さな声で言った。 「…も、面倒臭い…」 そうだろうな! お前の様にいつも千疋屋のチョコレートパフェを味わっている様な男には、安いチョコパフェや、テーマパークに売っている様なパフェもどきなんて、面倒で、味気なくて、つまらなく写るんだろう! 「…健太、次に行け…そして、次は安易に手を出すな…。良いな?その日のうちにセックスするな。最低1か月は様子を見るんだ…。お前はイケメンだから、きちんと伝えておく。これは帝王学と同じだ。」 あいつの前に座った俺は、トクトクと語り始めた… 「良いか?お前はイケメンだ。だから、いろんな女が寄って来る。イケメンに声を簡単に掛けてくる女は…大抵、地雷だ。地雷は避けろ。やけにスキンシップの多い女は避けろ。つけまつげの付け方が汚い女は避けろ。露出の多い女も然りだ。声を作る女も駄目。同性の友達が極端に少ない女、悪口ばかり言う女、逆に良い事しか言わない女も危ない。」 「酷い!」 そんな豪ちゃんの非難の言葉なんて…俺は聞かない事にする。 こいつは、自覚のない経験値の少ないイケメンなんだ…。 誰かが教えてやらないと…同じ過ちを繰り返してしまう! 俺の言葉にフルフルと体を震わせた健太は、シュンと下がり切った眉をそのままに、俺に縋って聞いて来た。 「…じゃあ…どこで女の子と出会えば良いんだ…」 「友達の紹介だ!」 「嘘つきぃ!」 豪ちゃんが俺の足を引っ叩いてそう言った… 「そんな事ない。友達の紹介だったら、何となく人となりと所属する雰囲気が分かるだろ?それで少しは予防出来る。年上の先輩に年上の女を紹介してもらえ。22歳以上で、結婚を視野に入れていないお姉さんに可愛がってもらったら良い。ただ、俺の言った言葉を忘れるな…。”何か手伝おうか…?“この一言を絶対に忘れるな…!」 熱を込めて健太にそう伝えると、あいつはウルウルと瞳を潤ませて何度も頷いた。 「…年上のお姉さんなら、浮気は2回までなら許してもらえる確率が高い。お姉さんを本命にして、2回まで浮気してみろ。そして、相手の女がヤバかったら、お姉さんに縋りついて何とかしてもらえ!そうして、経験値を積んで女を見る目を養うんだ!」 「惺山!兄ちゃんに、変な事教えないでぇん!」 「…分かった。やってみる…!」 悲壮感の中に微かな活路を見出した様な目をした健太は、俺の目をしっかりと見つめてそう言って頷いた。 こいつは、曲がりなりにも豪ちゃんの兄貴… きっと、今話した事を、忘れる事無く、貫徹してくれる事だろう。 健太は破壊した襖を申し訳程度に立てかけて、寝室から立ち去った… 「…僕、さっきの話…聞かなかった事にするぅ…。だってぇ、惺山の事、最低屑野郎って思っちゃったんだもん…」 健太に捲られた服を直しながら、豪ちゃんが笑顔でそう言った。 …おいおい…飛び火するなよ… 俺はもうすぐ君から離れるんだぜ…?屑野郎なんて…思って欲しくないね。 燻った笑顔で俺を見つめる豪ちゃんをジト目で見つめて、俺はカクカクと不自然な動きをしながらあの子に強い口調で言った。 押せ押せだ… 「あ…あんな話、口から出まかせだよ。あぁでもしないと、健太は気持ちが治まらないって…そう思って、嘘の話をしたんだ…。…そ、それに、そもそも、豪が要らない喧嘩を吹っ掛けるからこんな事になったんだ。そうだろ…?要らない一言を言うのを、止めろよ…見損なうぞ?豪…」 そんな俺の言葉に、目をまん丸にした豪ちゃんは、ヒシっと俺に抱き付いて、胸にスリスリと頬ずりしながら惚けた瞳を俺に向けて言った。 「ん、だってぇ…だぁってぇん!ごめぇん…!怒んないでぇ!ん、せいざぁん…大好きぃ!」 ほっ…!ギリギリ…セーフだ!! 全く、この兄弟喧嘩は、俺という盾を手に入れた豪ちゃんの暴走によって、ニトロの拍車をかけるんだ。 だから、いつも以上に酷くやられる。 「フン!もう無しだかんな!」 額にかいた冷汗を誤魔化しながら、何事も無かった様に豪ちゃんと一緒に布団の上に寝転がった。ふと、しきりに襟元から中を覗いて、健太にむんずと掴まれたちっぱいを気にするあの子を見つめて、首を傾げて言った。 「…なに、痛かったの?」 「ぐすっ…痛かったぁ…」 あぁ…ふふ… 「どれどれ…見てあげよう…」 そう言ってあの子の服の裾を捲り上げて、真っ白な素肌を舐める様に見た。 健太に乱暴に掴まれたせいか…色白のせいか…豪ちゃんのちっぱいの周りに、くっきりとあいつの手の跡が赤く残っていた。 「あぁ…可哀想に…赤くなってる。」 そう言って手のひらで撫でてあげると、かすかに反応したあの子の乳首がジョジョ立ちして行った… あぁ…可愛い! そんな様子を間近で見つめながら、赤くなったちっぱいの周りを手のひらで撫でて、たまに指先で乳首を弾いてあげた。 「ん、だぁめぇん…」 なぁにがだ! 「…そうだ。豪ちゃん…惺山が、今から痛い所を舐め舐めしてあげるね…?」 豪ちゃんの細い腕を両手で強く掴みながら、あの子の上に覆い被さった。そして、身体を屈めて、赤くなってしまったちっぱいの周りをペロペロと舌の先で舐めた… 「あぁん…ら、らぁめぇん…ふっ…はぁはぁ…んん…」 ピンと乳首が立つのを目の前で見ると、なんとも堪らない気持ちになって…そのまま、舌の腹で弾力のある乳首をねっとりと舐めてみた。 「んんっ!あぁあん!」 ほほ…!可愛い! 体をのけ反らせて小刻みに震えるあの子を見つめて、立て掛けただけの襖を指さして言った。 「豪ちゃん…聞こえちゃうよ…?」 「んんっ…ん、も…もう…」 頬を真っ赤にしたあの子が、口元を抑えて俺を潤んだ瞳で見つめるから、俺はあの子の乳首を執拗に舐めて吸って、弄んでみる。 「はぁはぁ…んぁ…ふっ…」 必死に喘ぎ声を堪えて、体を捩らす豪ちゃんが…堪らなくエロイんだ。 豪ちゃんの足の間に体を入れて、腹に当たるあの子の勃起したモノを体で押しつぶす様に、ねっとりと腰を動かして、ニヤニヤと笑いかけてあげた。 「あぁ…ん、だめ…ん、はぁはぁ…気持ちい…」 可愛い… 「なぁんだ…。もう、痛くなくなったの…?」 クスクス笑いながらあの子のプニプニのお腹を舐めて、パンツと半ズボンをゆっくりと下げた。そして、目の前に映る窪みに舌を這わせて、吸い付く様にキスしてあげる。 「ん~!らめぇん…惺山…」 興奮した豪ちゃんが俺の髪を掴んでくるから、俺はすぐにあの子の手を掴んで、強く握りしめた。そして、ウルウルと瞳を揺らすあの子を見つめながら、可愛いちっぱいの上に置いて、意地悪く言った。 「ほらぁ…自分で触って…」 「ふぅふぅ…はぁはぁ…」 トロけた瞳で俺を見つめたあの子は、言われた通りに自分のちっぱいの上の乳首を弄り始めた。 あぁ…!かんわいい! 快感に体を捩り始めたあの子を見つめながら満足げに微笑んだ俺は、半分だけ下げたパンツと半ズボンの上からあの子の硬くなったモノを撫でてあげた。 「んん…!んはぁ、はぁ…」 すぐに敏感に反応するのは、この子が感性でセックスするから…。 もしかしたら、言葉攻めだけでもイッてしまう可能性を秘めてる。 「豪、気持ち良いの…?こんなにおっきくして…」 「ふぅふぅ…はぁん…ら、らめぇん…」 俺の言葉に瞳を潤ませるあの子を見つめながら硬くなったあの子のモノを握って扱くと、今にもイキそうなくらいに体をのけ反らせて震える美しい体の曲線を眺めて、勃起する。 堪んない… この子は、とっても可愛いから…視覚で俺を興奮させるんだ。 「あぁ…気持ち良さそう…」 あの子の体に覆い被さって、堪らずそう言って可愛い頬にキスをする。そして、ズボンの中に手を入れて手探りであの子のモノを握って掴むと、悲鳴を上げて腰を震わせるあの子を見つめて…意地悪に笑った。 「豪…キスして…」 俺は、硬く目を瞑ったあの子の耳元で、そう囁いた。 すると、うっすらと開くあの子の瞳から、涙が一筋流れて落ちた… 泣くなよ…萎えるだろ… 自分の気を逸らす様に、目の前の可愛い唇に貪り付いた。 口の端から漏れて行くあの子の吐息と、生ぬるい涙を頬に感じながら、愛してるって…体で伝える。 この細い体も…この腕も…この足も…全部。 俺の物だって…言ってくれよ。 「好きだって…言ってよ…」 離したくない唇に、執拗に何度もキスをして、あの子の全てを包み込みながら、嗚咽が漏れて来そうな自分の喉を絞って、必死にあの子を見つめてそう言った。 「大好き…惺山…あなたが大好き…」 うっとりと瞳を細めて、そう言った、君の…笑顔が、大好き… 「愛してるよ…豪ちゃん。俺の天使…」 何度、キスしても足らない位に…俺の腕の中の君が…愛しくて堪らないんだ。 どうして…こんな最愛の人と、離れなければいけないの… 「はぁはぁ…んんっ…!」 あの子の中に自分のモノを沈めて一つになると、激しい激情と…慈しむ愛を…交互に与える様に、優しく両腕に抱きしめて、あの子の中を好き勝手に動き回る。 気持ちいい…! 「豪ちゃん…気持ちいい…」 あの子の耳を食みながら、苦しそうに顔を歪めるあの子を見つめて、恍惚の表情を浮かべて腰をゆるゆると動かす。 豪ちゃんは俺の背中を抱きしめて、だらしなく開いた口から、喘ぎ声とも、悲鳴とも言える…音色を出した。 ねえ…光があるから影が分かる様に。 死に恐怖を抱けば…生きる事を尊ぶ事が出来るの…? だとしたら…君と離れる事の意味は何…?何の為に与えられる物なの… すぐに、傲り昂る自分を戒める為なの…? それとも、君と居られる時間を…限りなく、幸せに思える様になの…? 「あぁ…豪、豪…可愛い。大好きだよ…。君は俺の全て、俺の夢。俺と…君は、ふたつでひとつだよ…。忘れないで…愛してるって…忘れないで…!」 あの子を強く抱きしめてそう言うと、豪ちゃんはしゃくりあげて泣きながら、何度も頷いて俺の背中を強く抱きしめた。 愛してるよ…それは、今まで、誰にも感じなかった感情だ。 君の可愛さにも…君の健気さにも…君の才能にも…骨抜きなんだ。 会えない訳じゃない… 先生のもとへ行けば、この子とは必然的に繋がりを断たずに居られるんだ。 そうだろ…惺山… うるせえよ…分かってるよ…しつこく言わなくても、俺は分かってる。 俺は、分かってる… 「…襖を直す?」 「直らない…。だって、襖を止める梁の部分が、ベキッて壊れちゃってる…健太のせいだ。」 あの子を抱きしめてそう言うと、クッタリと甘えて俺の体にうずくまって行く豪ちゃんの髪の匂いを嗅いで、お日様の良い匂いに口元を緩めて微笑んだ。 愛してるよ…俺の天使… 俺の、バイナリー。 俺の…全てであり、これからは、俺の人生そのものだ… 腕の中で寝息を立て始めるあの子を両手に抱きしめて…堪らない幸せの中、眠りについた…

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