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最終話 猛獣の正体

 暗がりから現れた影に祐司が軽く手を挙げると、影の主は顔をしかめた。おそらく祐司には気づかれないようにしたのだろうが、隠しきれていなかった。 「久しぶり」 「……っす」  竜はバツが悪そうに祐司の隣に並んだ。祐司は距離がやけに遠いのが気になったが、何も言わずに飲み掛けの缶コーヒーに口をつけた。  沈黙とぬるい風が二人の間に流れる。祐司は背中が汗ばむのを感じた。 「はい、これ」  祐司が自分が飲んでいるのと同じものを差し出すと竜は逡巡したが、祐司が一押しすると渋々受け取った。ゆっくりと栓が開けられる音がした。  祐司は竜を視界に入れないように前を向いていた。駐車場は閑散としている。静かだ。 「遅かったね」 「……すいません」 「今日の話じゃないよ」  竜は何か言い掛けたが、声が掠れて消えた。祐司はまだ前を向いている。  沈黙に耐えかねた竜が口を開いた。 「あの、この前はあんな帰り方してごめんなさい」 「うん。びっくりした」 「……すいません」  車が1台、コンビニの前を通った。また静かになった。  祐司は努めて視線を動かさずに言った。 「竜の事情、聞いたよ」  竜が息を飲む音がした。祐司はコーヒーを一口飲み、隣に目を向けた。竜の瞳が怯えを映している。祐司は構わず続けた。 「君をいじめてた奴らを殴って、停学になったんだってね」  竜の怯えの色はますます濃くなっていく。瞳孔が開いたのがはっきりと見て取れた。 「学校に戻れとか夜に働くのは駄目だとか、そういう説教くさいことは言わない」  祐司は藤野に事情を聞いたときから腹を決めていた。 「俺も竜に隠してることあるし」  もう気づかれているかもしれないけれど。  怯えが消えない猛獣の目を見つめる。祐司はこの目が好きだ。何も隠さないこの目が。だから祐司も何も隠さない。そして、竜が何者であろうと祐司は好きでいることをやめない。そう決心した。 「俺、教師してるんだ。竜が行ってた高校で」  胸につっかえていたものが取れた気がした。もし本当のことを言って竜が離れてしまっても、それでもいいと思っていた。ただ今は、彼に嘘をつきたくなかった。 「あの日寄ってきた高校生たちは俺が教えてる生徒。あいつらから大体の話は聞いたし、職場の先輩も話してくれた。俺は竜を責めるつもりはないよ。竜が自分で選んだことだから」  竜の瞳には怯えが半分、もう半分は祐司の次の言葉を待っている。 「それに──竜は十分傷ついたから」  何も話してくれなかったことが悲しかった。  何もできなかった自分に腹が立った。  祐司は竜の両肩を掴み、精一杯、自分の心の中を言葉に載せた。 「起こったことは聞いたけど、竜の気持ちは聞いてない。俺は知りたい。竜が感じたこと、抱えてるもの全部」  猛獣は消え、代わりに竜の瞳が潤んだ。  竜は震えた声で話しはじめた。 「自分が傷つくだけならよかった。それだけなら我慢できたのに、あいつらはそれじゃ満足しなかった。母さんは汚い言葉で罵られて、森下は俺のせいであんなことになって、最後は俺が全部悪かったんだ。俺が、俺が耐えてさえいれば何も壊れなかったのに。家に引きこもってたら死にたくなるし、このままじゃ駄目だって仕事はじめても年齢のことを嘘ついてるのが申し訳なくて。仕事仲間はみんなよくしてくれたけど、どっかで後ろめたかった。俺はあれから一歩も動けない、他の人は進んでくのに俺だけ置いてかれて、もう────」  竜は壁にもたれてずるずるとしゃがみこんだ。そして、膝の上で組んだ腕に顔をうずめ、蚊の鳴くような声で呟いた。 「────つかれた」  祐司は竜のすぐ隣にしゃがんだ。色の明るい髪を撫でると、竜は嗚咽を漏らした。それは次第に大きくなり、最後には子どものように泣いた。祐司は黙って、竜の頭を撫でていた。  祐司は空になったコーヒーの缶をゴミ箱に放り込んだ。竜もそれに倣って缶を捨て、枯れた声で話し始めた。 「はじめは自分のことを何も知らない人と話すのが単純に楽しかったんです。俺を見掛けた人は大抵見た目を怖がって近づいてこないんですけど、祐司さんは普通に話し掛けてくれた。イヤホンのことは恥ずかしかったですけど、それ以上に嬉しかった」  目を腫らした竜はすっきりした顔で微笑んだ。 「俺が教師ってのを隠してたのは、前に付き合ってた彼女に『つまらなくなった』って言われたからなんだ。竜に壁を作ってほしくなくて。嘘つかなくても、竜は普通に話してくれるのにね」  馬鹿だよね、と祐司は緩やかに自嘲の笑みを浮かべた。 「俺ら二人とも、馬鹿ですよね」  竜がおかしそうに笑うので祐司もつられて笑った。時間がゆっくり流れていた。 「馬鹿ついでに言ってもいい?」 「なんですかそれ」  祐司は笑いすぎて目に涙さえ浮かべた竜の顔を見た。言葉が自然に口から滑り出た。 「好きだよ。俺、竜が好き」  コンビニから漏れる蛍光灯の光に照らされた竜の頰が、みるみるうちに紅く染まった。 「どういう、意味で」  往生際悪く、竜はそっぽを向いて手で顔を隠した。声はぶっきらぼうだが、仕草のせいで何も隠せていない。 祐司は竜の腕を優しく掴み、横に退けた。身体を強張らせる竜の唇に、前と同じように自分のを重ねる。竜はきつく目をつぶっていた。 「こういう意味。まだ分からない?」  お互いの心臓の音が聞こえてきそうだった。竜は耳まで赤らめ、顔をしかめた。何も知らない人が見たら睨んでいるようだが、祐司には竜の言いたいことが伝わった。 「……分かります」  二人はもう一度唇を重ねた。  何も隠さない純粋さだけが、そこにあった。

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