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第4話 赤の記憶

※一部暴力表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。  安いアパートのドアを開けると、錆びついた音がした。毎度毎度、竜の気に触る音だ。 「ただいま」  ワンルームの真ん中で膨れあがった布団がもぞりと動いた。 「んー……おかえり」  布団から目をこすりながら出てきたのは、明るい髪をした女だった。 「また化粧落としてないし」 「昨日のお客さん大変だったの。竜こそ、ちゃんと泥落としてきた?」  返事をしなかったのは、当たり前だという意思表示だ。  竜の母親、山崎寧の見た目は若々しさそのものだが、実年齢は見た目の10歳上だ。昔はキャバクラで働いていたが竜の妊娠をきっかけにやめた。今は別の店で直接接待をしない仕事をしているようだが、竜はよく知らない。 「今何時……って、まだ5時過ぎか。おかーさんは出勤までもうちょい寝るよ。夕ごはん、冷蔵庫入れてるから適当にあっためて食べて」  竜が着替えてから冷蔵庫をのぞくと、丼に盛ったご飯とそれに載せるらしき具にラップが掛けてあるのが見つかった。電子レンジに入れ、温まったのを丼物にする。電気を点けるのを忘れていたことに気づき、頭上から垂れている紐を引っ張った。「まぶしっ」と寧の声がしたが、竜は構わず手を合わせる。 「いただきます」  何時間か前に作られたであろう牛丼は、温め直しても十分美味しい。仕事終わりで空腹を極めているのもあるだろう。  竜はなんの気なしに久しぶりに会った同級生の顔を思い浮かべようとしたが、耳障りな笑い声だけが脳に響く。振り払うように祐司の顔を思い浮かべた。最後に見た、うろたえた顔しか思い出せなかった。  竜がコンビニに行かなくなってから3週間が経っていた。祐司と出掛けた日からは1週間とちょっと。つまり、祐司と1週間とちょっと顔を合わせていない。  空になった丼をシンクで洗い、電気を消してベランダに出る。  夕暮れに照らされながらイヤホンを着ける。あのバンドの曲を再生した。すぐに悲しげなアコースティックギターの音が流れてくる。  視線の先の夕焼けは、竜にあの日のことを思い出させた。すべてが壊れた、あの日を。  竜は元々の目つきや態度から、街を歩いているだけで血の気の多い輩に喧嘩を売られることはよくあった。それが日常になった頃には、竜は誰に習ったわけでもないのに喧嘩が強くなっていた。それ以外に自分の体を守る術を知らなかったからだ。  高校に入学して間もなく、竜はガラの悪い先輩に絡まれた。初めは相手にしなかった竜だが、その態度が余計に先輩の神経を逆撫でしたのだった。校舎裏で囲まれる日もあったが、母親の「高校はちゃんと卒業しときなよ」という言葉を胸に、ただその人たちが飽きるのを待っていた。  そのうち先輩たちは飽きたおもちゃを捨てるように、竜に絡まなくなった。  そしてその頃、竜には一人の友達ができていた。森下という男子生徒だった。森下は物静かでクラス内では目立たない存在だったが、出席番号が隣である竜に物怖じせず話し掛けてくれた。森下は他とは違って、どこか大人びた雰囲気をまとってる生徒だった。 「見た目や周りが言ってることなんかでその人と関わるかどうかを決めたりはしない。現にお前は、先輩に仕返ししてないんだろ?」  森下は文庫本に目を走らせながら、こともなげに言った。竜の人生で初めての親友だった。だから竜は森下にきつく忠告していた。 「もしお前が俺のせいで誰かに目をつけられたら、すぐに俺を切れ。あんなやつ知らない、関わりたくもないって言ってくれ。俺を助けようともするな、教師にも言うな」  そう言うと決まって、森下は困ったように笑うのだった。 「山崎がそう言うなら仕方ない。教師陣には言わないでおくよ。言っても悪い方にしか転ばないのは目に見えてるしね。でも、僕が目をつけられたときは自分でどうにかするよ」  森下は竜の言うことをよく分かってくれたが、一方でどこか線引きをしている部分もあった。 竜はその隙間がもどかしくて、いっそ離れてくれたらいいのにと思っていた。だが、森下といる時間は竜が退屈にしか感じたことのない学校生活を楽しいものにしてくれた。  雲行きが怪しくなったのは2年生に進級した頃だった。  竜は同級生に絡まれるようになっていた。発端はよく覚えていないが、どうせ目つきか態度が引き金だっただろう。  同級生たちは暴行を加えてくることは少なかったが、代わりに嫌がらせが酷かった。同級生たちにどんな態度を取られようがどうでもよくなってきていた竜は、気にしないことに尽力していた。先輩のときと同じく、同級生たちは余計に燃え上がった。そんな彼らを竜は、単純で馬鹿なやつらだと心の中で見下していた。  北風が姿を見せるようになった頃、竜は煙草の火を近づけてきた男子生徒を殴った。その生徒はグループのリーダー的存在で、鼻血を流すその生徒を取り巻きたちが慰めていた。その姿に思わず竜は吐き捨てた。 「気色悪りぃ」  リーダー格の男子に屈辱の色が見えたが、竜は気にしなかった。それよりも森下のことが気になった。このことを言ったらどうするか。自分から離れるか。  森下は竜よりも気にしていない様子だった。 「聞いた聞いた。なんか理由があったんだろ」 「それは、あいつらが煙草の火向けてきたからだけど」 「あっちが悪いじゃん。人を殴る竜は見たくなかったけど、煙草の痕残ってる竜のほうが見れない」 「森下は優しいな」 「あはは、そうかも」  次の日の放課後、竜は校舎裏に呼び出された。  行ってみるとそこには、いつものいじめっこグループの面々がいた。見慣れた5人が険しい面持ちで立っている。リーダー格の鼻はすぐには治らなかったのかガーゼが貼られていて、なんとも間抜けな面だった。 「昨日はよくも殴ってくれたな」  リーダー格に続いて取り巻きが騒ぐ。 「駿介くんに鼻血なんか出させやがって!」 「治らなかったらどうすんだよ!」 「慰謝料払えよ!」  いつも通りの雰囲気なので、竜は真面目に聞いていなかった。  彼らが竜の地雷に触れるまでは。 「お前の母親、水商売してるんだってな」  竜の目の色が変わった。それを見たリーダー格はにやりと笑って続ける。 「母親が男に媚び売って稼いだ金で学校来てんだもんな。どうだ、俺がお前の母親指名してやろうか? 学費の足しにはなるだろ。色々サービスしてもらうとするさ」  竜の怒りは限界に達しそうになっていた。しかしここで殴りかかってはいけない。人数どうこうの話ではなく、学校に行かせてくれている母親に顔向けができない。俺は高校を卒業する。そして母さんに楽な生活をさせてやるんだ。そう決めて入学しただろ。我慢するんだ。黙っていればきっとこいつらは飽きて去っていく。自分に言い聞かせ、ギリギリの理性で殴りかからないよう我慢していた。  その様子を見たリーダー格は取り巻きの一人に指示を出した。指示された一人は一度姿を消し、誰かを連れて戻ってきた。  ぐったりとしているその人は、森下だった。 「森下!」  竜が呼び掛けると、森下はゆっくりと顔を上げた。痣だらけの顔だった。 「やま、ざき……手は出すな……僕は大丈夫、だから……」  取り巻きの一人の膝が森下の腹に入った。森下は咳き込む。 「山崎くん、親友を助けたいならお願いしてよ。僕が代わりになります、僕を殴ってくださいって。俺たちも鬼じゃないから、お願いしてくれたらちゃんと解放してやるよ」  リーダー格がそう言っている間にも森下は殴られ、蹴られ、傷つけられている。竜に選択肢はなかった。 「俺が……代わりになります。俺を、代わりに」  森下のうめき声が聞こえた。顔から血が出ている。血の元は口か、鼻か、それ以外か。分からない。  分からない────どうしてあいつがこんな目に合わなきゃならない。どうして母親が悪く言われなければならない。俺が何かしたか。初めはお前たちの言いがかりじゃなかったのか。理由があるなら教えてくれ。俺の何がいけなかったんだ。もうやめたい。高校なんかどうでもいい。母親や親友が傷つけられなきゃ卒業できないっていうのか。ならやめてやる。ここは何も生まない。なら、壊したって誰も何も言わない。  竜の中で血が駆け巡った。拳を握りしめ、にやついたリーダー格の頬を目掛けて思い切り腕を振り切った。間抜けなガーゼが外れ、鼻血が噴き出した。取り巻きたちは唖然としていた。それらも間抜けな顔だった。容赦なく殴る。現状を把握して殴りかかってきた奴らもまとめて相手にする。竜は無我夢中で拳を振るった。自分がダメージを食らおうとも、何も感じなかった。殴って、蹴って、また殴った。 「山崎!!」  掠れた叫び声が竜を呼び戻した。遠くで、森下が竜を見ていた。それは間違いなく、恐怖を灯した目だった。 「もう……やめてくれ。そいつら全員、気を失ってる」  森下は泣いていた。常に落ち着いていて、何にも物怖じしなかった森下が。掠れた声でただ「やめてくれ」と頼んでいた。 「────ごめん、森下」  不思議と竜の両目からは何も出てこなかった。そのとき、単純で馬鹿だったのは自分の方だったことに気づいた。  半年以上経った今でも、竜は夕暮れに照らされた森下の顔をはっきりと覚えている。竜を恐れるあの目。親友を失った瞬間だった。  その後、竜は『5人を病院送りにした不良』のレッテルが貼られると共に停学処分になった。先方の親に形だけの謝罪をし、竜は学校を去った。  寧に謝ると、彼女は竜を抱きしめた。 「あんたは頑張った。あたしの言葉が重荷になってたんだね。ゆっくりやっていけばいい。あんたが戻りたかったら戻ればいいし、そういう気になれなかったら好きなように生きたらいい。あたしのために頑張らなくていいんだよ。子どもにできるだけたくさんの選択肢を与えるのが、親の仕事だから」  森下とは会えなかった。もう一度ちゃんと謝ろうと思ったこともあったが、合わせる顔がなかった。何より、切ってくれと頼んだのは自分だから。竜はけじめのつもりで森下の連絡先は消した。  学校に行かなくなってから1ヶ月ほどして、竜は働くことを決めた。自分でも雇ってもらえて、できるだけ給料のいい仕事を探した。夜勤なら割高だが、年齢という壁が邪魔をした。罪悪感を抑え、竜は履歴書に18歳と書いた。きっと18歳になっても働いている。1年分の嘘くらい、と。  仕事の行き帰りの道中では必ずイヤホンを着けた。そうしていれば、自分が働いている理由も忘れることができた。  そんな中出会ったのだ。自分のことを何も知らない祐司に。 「────って感じ。今はどうしてるか知らないけど籍だけ置いてるらしい。担当の学年じゃないから詳しくは知らない。でも山崎くんの親は、山崎くんの好きなようにさせるつもりみたい」  週明け一番、祐司は藤野に山崎竜について尋ねた。彼の名前を聞くなり藤野は珍しく声を低くして、昼休みに話すと約束した。 「じゃあ、山崎くんは戻ろうと思えばいつでも戻ってこれるってことですか?」 「停学期間は終わってるから手続き上はね。でも周りの目もあるし、今年の卒業も難しいからもう諦めてるんじゃないかな」 「中退ってことになるんですか」 「そうかもね、分かんないけど」 「森下くんはどうしているんですか」 「朝田先生今日積極的だね、やっとオレに興味出てきた?」 「藤野先生じゃなくて森下くんのこと教えてください」 「分かってるよノリ悪いな〜。別に、どうってことないよ。遠くに引っ越したけどそれも親御さんの転勤か何かだし。元気に学校行ってるはずだよ」 「そう、ですか」 「ちなみに、山崎くんをいじめてた生徒たちはいじめが明るみに出てどっか行ったよ。そっちはあの事件が原因だけどほとんど自業自得……って言ったら、冷たいかな」  土曜日に会った生徒たちも竜のことは気の毒に思っているそうだし、他の生徒も山崎くんっていつ帰ってくるんだろうくらいにしか思っていないらしい。彼を疎ましく思う人や目の敵にする人はもういなくなっている。竜はいつでも帰ってこれる。 「……って、そんな簡単なことでもないか」  本人の気持ちは。 「ん? なんか言った?」 「いえ、何も」  藤野は怪訝な顔をして、組んでいた腕をほどいた。 「こっちからも聞いていい?」  いつものにこにこ顔なのに、祐司にはやけに鋭く見えた。藤野はいつになく真面目に質問した。 「生徒から聞いたんだけど、土曜日に朝田先生と山崎くん、一緒にいたんだってね。君たち、どういう関係?」  冷やかしの言葉でないのは明らかだった。だからこそ本当のことを返したかったが、祐司は未だに答えを見つけていなかった。  しかしひとつだけ、はっきりしていることがあった。 「山崎くん……竜は、俺の片想い相手です」  藤野の目が丸くなった。祐司はどこか、してやったという気分になった。

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