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第4話

男の舌が、熱を放っている鞭の痕を這う。直後に、やや強めに首筋を咬まれた。 散々痛みを与えられた後にも関わらず、ユーイの体はその両方の刺激に敏感に反応する。だが完全に拘束された体は、僅かにしか動かせない。毎度のことながら、この男はよく毎回こんな複雑な縛り方ができるものだと感心してしまう。自分だったら手錠や結束バンドを使う。相手の自由を奪うだけならその方が簡単だからだ。 ユーイの相手は半年前に知り合った歳上の男だった。通っていたインターナショナルスクールのOBだ。学生課の職員に紹介されて、彼に進路相談をしたことがきっかけだった。 男はケイと名乗った。苗字も聞かされたはずだがもう覚えていない。学校を通さず、個人的に会ったその日から、ひと月に一度の割合で今のような関係が続いている。 「オリガミってやつをやってると、手先が器用になるとか?」 「どっちかって云うとあやとりじゃない?」 事が済むと、解いた縄を丁寧にしまいながら、ケイは明るく話した。彼はユーイに似た眼と髪の色を持っている。だがそのどちらもユーイよりは淡い。 ケイの父親も、ユーイの父親と同じく東にある遠い島国の出身だった。そして母親だけがこの国の生まれなのも、二人の共通点だった。ケイは十歳まで父親の国で暮らしていたらしい。 「あやとりだったら昔よく姉貴の相手をさせられたな。あと、人形遊びの相手も。まあ、俺はあやとりの紐で人形を縛るのが面白かったわけだけど。何度姉貴の悲鳴を聞いたことか」 ケイの云うことを話半分に聞きながら、ユーイは自分の背中に振るわれた鞭を観察した。 「これ欲しい」 鞭を眺めながらそう云ったが、ケイは手を伸ばして返すように身振りで示した。それを鞄にしまい込んだ後、溜息を吐いた。 「君に苦情が入ったよ」 「そうか」 「先週の水曜の客だよ」 「だと思った」 「君には辞めてもらう」 今度はユーイが溜息を吐く番だった。脱いだ服の中から煙草を探し出そうとポケットをまさぐり、見つけたところで口を開いた。 「元々雇われてるつもりはなかった。頼まれたから手助けしてただけだ」 「もう大丈夫だ。いくつか、新しい『商品』を手に入れたから」 ユーイは煙草を咥えたままちらりと相手を見てから、点火器(ライター)で火を点けた。 「ふうん。じゃあ、もう心配要らないな」 「この世界は信用が全てなんだよ。学生の君には分からないだろうけど。君の行為で俺の信用が傷つけられるのは困るんだ」 している悪徳とは裏腹な、この男の分別くさい物柔らかな話しぶりに腹が立つ。いつも彼は理路整然として優しい。 「どうでもいいけど、鞭で滅多打ちにして欲しいって云ってきたのは向こうの方だ。苦情を云われる筋合いはない」 「いつも云ってるだろ。物には限度がある。相手がやめてくれって訴えてたのに、続けたのは何でだ?」 ユーイは煙草を片手に持ったまま、肩をすくめた。 「ちょっと熱が入り過ぎちゃったんだよ。珍しく、顔が好みだったから」 「前も同じことがあったよな。その時はどんな理由だった?」 「すごく優しくされたから気に入った」 「気に入った客ばかり、どうして親の敵みたいに痛めつける?」 「そういう客にはサービスしたくなる。こう見えて仕事熱心なんだ」 ケイは険しい顔でユーイの眼に視線を当てた。軽口を叩いて誤魔化せる話でもないらしい。けれど雨でぬかるんだ泥のような記憶の中身は重く、ユーイ自身でさえよく思い出せない。 「これが俺の性癖なんだよ。いい加減分かれよ」 「サドの客相手にも決して評判がいいとは云えないよね。君はどっちの役でもできるって最初云ってたけど、はっきり云ってどっちも中途半端だ。先々週、常連客の股間を蹴り飛ばしたって聞いた時は冗談かと思った。あんなの前代未聞だよ」 「あれは正当防衛だ。最初はあいつだって俺の条件をちゃんと守ってた。けどあの日は、いつもより金額が多いと思ったら、始まった途端顔中を舐め回してきた上に、いきなりべったべたにローション垂らしてきて、下に突っ込んでこようとしたんだぞ。あれぐらい当然の報いだ。しかも、『浣腸薬もコンドームも用意してたけど、もういいからしよう』って。何がいいんだ。ふざけるな。完璧なまでに何も分かってなかったじゃないか」 ケイは優しげな顔に似合わず下品な笑い声を立てた。 「今時、爵位を持ってる家のお嬢様だって隠れて誰かに尻ぐらい触らせて小遣いを稼いでる。彼女達はそれでも価値があるけど、君は男なんだから金が欲しいと思ったらそのぐらいしなきゃ。それに君は色々理由を並べ立ててるけど、俺からしたら君は何も差し出さずに相手を痛めつけたいだけなんじゃないかって思えるよ。いいとこ取りをしたがってるというか。でもそれは許されない。仕事には我慢がつきものだし、人生では節制が重要だ。相手の快楽を引き出すためじゃなくて、自分の性欲やストレスを発散するためにやってるならそれはただの暴力だからね。今云った三人は、もう二度と君は御免だって」 「それ説教のつもりか?俺はお払い箱なんだろ?だったらもう()っとけよ。俺だって、好きでやってたわけじゃない」 携帯電話をいじり出したユーイの隣にケイは腰を下ろしてきて、宥めるように頭や背中を撫でてくる。しばらくそうしていたかと思うと、彼は前触れなしに尻の割れ目に指を押し込もうとしてきた。ユーイは即座に立ち上がって迷惑そうに相手を睨みつけた。 ケイとの関係を表す的確な言葉がユーイは見つからない。恋人ではないし、セックスフレンドでもない。この歳上の男とは情を交わしたことなど一度もない。こうして彼に体を貸してやることはあるが、ケイは縛ったり鞭で打ったりと弄んだ後は勝手に自慰をして果ててくれる。たまに口淫をしたりされたりはあっても、挿入行為に至ったことはない。興味がないのだと云う。 付き合いが長くなれば多少の情も湧いてくる。ユーイはケイにだけは口唇(くちびる)へのキスを許していた。だからと云って急にこういうことは受け入れられない。ユーイは背後を守るように正面から相手を見た。 「急に何?」 「性格がきついのはともかく、せめてそこが使えればね」 ケイは嘆息を漏らした。 「そういうことをしたいってお前、一度でも云ったことがあったか?」 「俺じゃなくて、客に使わせたら喜んだだろうなって話だよ」 ケイは怪しい副業をしている。倒錯的な指向を持つ客に、若い男を商品として斡旋していた。本業はちゃんと表の世界にあって、それで身を立てていた。小さな会社だが、本の装丁のデザインを行う会社を立ち上げ、そこそこ巧くやっているようだった。結婚が決まったばかりで、ボランティア活動や後輩達の進路相談にも積極的に携わっている。正にそうやって表の仮面をつけた時の彼と、ユーイは出会った。

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