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第6話

町の中心に位置する大きな地下鉄(メトロ)の駅の目と鼻の先に、十階建てのコンドミニアムがある。築七年のこの建物は、界隈では最も新しい分譲住宅だ。その最上階にユーイは十五歳の時に両親と三人で移り住んだ。そしてこの自宅が、ユーイはあまり好きになれなかった。 確かに3LDKの間取りは、親子三人が暮らすのに充分な広さだったし、自室にあるウォークインクロゼットと父の同僚が譲ってくれた自分専用のテレビはそこそこ気に入っている。外へ一歩出れば、地下鉄の駅も路面電車(トラム)の停留所もすぐそこという好立地だ。 ただそれでも、ユーイは自宅に同級生を招いたことは一度もない。それだけ心を許せる友人がいなかったというのもあるが、この建物が放つ異質さに住んでいるユーイ自身が辟易していたというのが大きい。 この町にある建物は築年数九十年以上というのが普通で、築百五十、二百年の建物もざらにある。もちろん、その全てが現役で使用されており、町で一番古い教会に至っては築四百年以上とも云われているほどだ。当然修繕に修繕を重ねて維持されているわけだが、そういう長い時間を経たことによって醸し出される味のある雰囲気こそ、この町に暮らす多くの人々と同じくユーイが好むものであり、価値を置くものだった。同級生達は皆、古びた石造りの住まいに、開錠・施錠に微妙な塩梅を必要とするアンティークな風合いの自宅の鍵を持っている。一夕一朝ではつくり出せないセピア色の風景の中で、自分達が住む鉄筋コンクリートの無機質で真新しい住まいは奇妙に浮いていた。以前、ここには中庭を有した煉瓦造りの優美なフラットがあったらしいが、土地と建物の所有者が変わり、ユーイ達が住むコンドミニアムが建設された。住民の反対を押し切って無闇に開発が続く目前の地下鉄の駅に対するのと同じ、行き交う人々の冷ややかな眼差しが背中に痛い。 新しいものほどいいと云う外国人の父の価値観が、母やユーイには分からなかった。 「時間と手間がかかるからこそ、美しいものがある。それこそが私にとって贅沢と云えるの。便利、の一言で全て奪わないで欲しいわ」 母はよくそうぼやいていた。 互いに文化も価値観も異なる環境で育ったくせに、両親は一体、何を拠り所に将来を誓い合ったのだろうか。愛というやつか。甘すぎる。人の本質は変わらない。最初から何もかも間違えている。 とはいえ、昔から金銭的なことで苦労した経験は一度もない。そのことについては両親に感謝している。両親は多くの同級生の親たちと同じく共働きだったが、父の収入だけでも充分生活は成り立っていて、母は自分の自尊心のために仕事をしていた。故に彼女が出て行ったことでの経済的な損失というのはほとんどない、というのがこの二か月間で得たユーイの感想だ。あるとすればそれは父にとっての心理的な打撃に他ならないが、父は少なくともショックで労働意欲を失うタイプではなかった。母が出て行った後も変わらず仕事に邁進し、むしろ以前よりも忙しくしている。 外国人の父は大学在学中に交換留学でこの国へ訪れた。その際同い年の母と出会い、意気投合して結婚に至った。 その母は二年前から家庭外恋愛をしていた。何かと理由をつけて家に帰る頻度は減っていたが、彼女のほんの僅かずつの変化にユーイも父も気づくことはできなかった。一時(いっとき)の過ちではなく、相手とは真剣な付き合いをしていたようだ。 あれは、ユーイの高校の卒業式の日だった。 その日を待っていたかのように、母は父に離婚を切り出した。 式が行われた午前中は晴れていたのに、ダイナーで簡単な食事をして、自宅に戻る頃には街路樹を夏の生温い大粒の雨が激しく打ちつけていた。思い出してみればあの日、食事中も車の中でも、母はずっと無口だった。 「あの子も、もう大人よ。そろそろ、自由にして」 両親の話し合いに聞き耳を立てていたわけではなく、たまたま自室から廊下に出た際、リビングから漏れてきた母の声がユーイの耳に届いたのだ。 母のその一言が全てだとユーイは思った。 父との離婚を決意するそのずっと前から、母は息子である自分から離れたがっていた。随分前からそのことには気づいていた。 中学生の頃から、ユーイは母親とあまりうまくいっていなかった。母にとって自分は、理解できない、得体の知れない息子だった。 自室での休息もそこそこに、ユーイは職場の制服であるポロシャツを鞄にしまい込んで再び家を出た。 ユーイは大学入学を機に決まった額の小遣いをもらうのをやめていた。遅かれ早かれ、ケイの下でしていたような仕事は辞めることになると分かっていた。悔しいがケイの云ったことは正しい。いきなり無収入になったら困る。 そのため、ユーイは大学に入学する少し前から近所の映画館で週二回、一日三時間程度の勤務を細々と続けていた。そのほとんどは煙草代や酒代、カフェ代でなくなってしまうので、本当はもう少し出勤日を増やしたい。金が欲しいのもあったが、今ではそれよりも家を空ける時間を多くしたかった。ここ最近、父が家で放つようになった陰鬱で孤独な雰囲気に呑まれたくなかったのだ。そのためもう少し多く働きたいと責任者に申し入れたが、学生は試験や課題が多いだろうからあまりたくさんシフトは入れられないと断られてしまった。 玄関を出たところで少し間を置いて思い直し、再び室内に戻るとジャケットを裏地のしっかりしたものに替えて出直して来た。 十月も一週目を終えたあたりから唐突に寒くなった。当然、もうどこにも夏の気配は残っていない。確実に季節は晩秋を迎え、更にその先に控える冷たい初冬の気配を漂わせている。 金曜日、夕方の映画館は混み合うのが常だ。特に六時以降は一際(ひときわ)、カップルの入館者が増える。 古い映画館に集う暑苦しい男女の中に、ユーイはサリュの姿を見つけた。 ほぼ同時にサリュの方でもユーイの存在に気づいた。 昨日、大学で話した時と変わらない、親しげな表情で彼は近づいて来た。よく見ると見覚えのある女を連れている。この前ユーイと二人でカフェテリアにいた時、数人で話しかけて来た派手な女達のうちの一人だった。 「ここで働いてるの?」 何故かとびきり嬉しそうにそう訊ねてくるサリュを、ユーイはやや不審に思いながら素っ気なく答えた。 「たまにだよ」 「会えるなんてびっくり。今日は何時まで?」 「九時。チケットを見せて」 ユーイは提示された二人分のチケットに手で切れ目を入れて返した。 「ありがとう」 サリュはにこやかに、充分に間をとってユーイの眼を見ながらそう云った。それに対しユーイはさっさと次の客へ視線を逸らし、特に反応はしなかった。 その映画が終わる頃、ユーイは売店コーナーにいた。仕事に追われ、サリュ達がシアタールームから出て行く姿は見つけられなかった。 サリュからの電話があったのは、正に九時ちょうどだった。駅近くのバーで待っているから来ないかと云う。指定されたのは、いつもジギイ達と呑みに行っているのとは別の店だった。長いことこの界隈の近くに住んでいるが、足を運んだことのない店だ。 そこは落ち着いた路地の一角にあり、店の外には一見しただけでは分からないような小さな看板に、これまたぼんやりとした小さな燈が灯っているだけだった。 店に着くとカウンターの奥の席からサリュが名前を呼びかけてきた。薄暗い店内の中で、彼の姿だけが皓然として見えた。 「何で呼んだ?」 着くなり無愛想にユーイは訊ねた。 「電話で話しただろ?一緒に呑もうと思ったんだよ」 「だから何で?」 「あんな風に偶然会うこと、なかなかないから。だから嬉しかった」 ストレートな感情表現に、ユーイはまごついた。こいつ酔ってるんじゃないか、と思った。 サリュが隣席に鞄を置いているのを見て少し安心した。彼と一つ分席を空けて坐ることができる。ユーイは自分の荷物を足許に置き、鞄が置かれた席の横に坐った。ジンジャエールで割ったパナシェを注文している最中、サリュは鞄を持ち上げて、席を詰めてきた。防波堤があると思っていたのにそれを取り払われてしまい、ユーイは内心狼狽(うろた)えた。あまり人と近づいて話すのは得意ではない。話題を探すために、さりげなく辺りを見渡した。 「・・・女は?先刻(さっき)、一緒にいた」 「ああ、帰ったよ」 「一人で帰らせたのか?」 「ちゃんと家に送ったよ。この近くだしね。それからここに来た」 「玄関先で一悶着あっただろ」 ユーイはわざと知った風な口を利いた。 「何で?」 「そこまで来といて男友達と呑みに戻るなんて云われたら、普通の女は絶対納得しない」 「ああ、大丈夫。ちゃんとやるべきことはやってから来たから」 自分で仕掛けた話だったのに、その返答にユーイは言葉を失った。やるべきこと。意味深な表現ととってしまう。思わず腕時計を見た。映画上映開始が六時前。終わったのが八時。今は九時半で。 「食事は映画の前に済ませてたし」 「それにしたって」 「本当に大丈夫だって」 サリュは笑ってそう云うが、九時ちょっと過ぎに解散するデートなど、デートとは呼べないのではないか。 「・・・随分物分かりのいい彼女だな」 「別に彼女じゃないよ。映画に付き合っただけ。ジギイに紹介された子だから断れなくて」 サリュは若干前屈みになってユーイの顔を覗き込むようにしてきた。 「それより来てくれて安心した。ユーイには嫌われてるんだと思ってたから」 「どうしてそう思う?」 「何となく。最初に会った時からそんな気がしてた」 ユーイがここへ来たのは、ほんの少しこの男に探りを入れるためだった。 いけ好かない男というのが、初めて会った時からのサリュに対する印象だった。容貌に至っては飛び抜けていて、社交性が高く、グループの外にも仲間がたくさんいて、ゲームでもスポーツでも負け知らず。博愛主義で誰にでも優しい。そんな人間がいるわけがない。いて堪るかとユーイは思った。絶対裏がある。胡散臭い。この男と出会った時から、そういう風にしか思えなかった。 だがもし自分がこの男のことをよく知らないだけで、本当は信頼に値する人間だとしたならば。思っているほど警戒心を必要としない相手だとしたならば、この男に近づく意味はあるかも知れない。こうして呑みに誘って来るぐらいだから、この男の方では自分のことを敬遠していないと見える。 ユーイは最近のジギイの態度が気に入らなかった。彼が自分を邪険に扱う態度が、いつニールやそれ以外の仲間に波及するかと思うと気がかりで仕方がなかった。だから今夜のサリュの誘いに乗った。 ジギイはサリュにだけは手を出さない。他の人間は手足の如く使うが、サリュのことだけは一目置いている。というか、認めざるを得ないのだ。もし、首尾よくこの男と対等に渡り合える立場を手に入れたなら、ジギイも自分に対する態度を多少は改めるかも知れない。そんな打算がユーイの中にあった。 媚びる気はない。初めから友好的に振る舞う気もない。まずはこの男が自分にこうして声をかけてきた本当の目的を知る必要がある。相手の裏が読めない限り、下手に近づきすぎるのは良くない。 勘の良さをひけらかすような発言に、ユーイは憮然とした態度を取った。 「自分が万人から好かれる人間だとでも思ってるのか?」 「やっぱり俺、嫌われてる?」 面と向かってそんなことを訊かれて頷けるはずもないだろう。 そう云い返そうとした。けれど顔を上げた刹那、ユーイは思いがけずこの男の不安そうな眼の色に遭遇した。言葉に詰まった。サリュはユーイを見ていなかった。自分のグラスの水面に実直な視線を注いでいた。自分の反応を見るのを怖がっているのかも知れない。反射的にユーイはそう感じた。そのため何となく、ユーイもサリュの顔をはっきりとは見られなかった。横目で、隣に坐る男の金色の睫毛が揺れるのを盗み見た。サリュとこれほど距離を詰めて話したのはこれが初めてだ。 不覚にもユーイはこの男の屈託のなさと、無視できない外見的な美しさを間近にして若干惑わされつつあった。相手の質問に、どう返答すべきか迷いながら酒の入ったグラスを口に運ぶ。 「嫌いとは云ってない」 「じゃあ云い方を変える。偽善者で、八方美人で、あざといって思ってるんだろ」 ユーイはどきりとした。 「そこまで思ってない」 「いいんだって。そういう風に云われるの慣れてるし」 「人を悪者に仕立て上げるのはやめろ。大体お前、俺にどう思われようがどうでもいいんだろ。この前学校で、俺のことのけ者にしたくせに」 「え、いつ?」 「ジギイとミュラニーが喧嘩した日だよ。俺がいつもの集まりでつまらなそうにしてるって、云いがかりつけてきて、しかもその後、俺の入れないような話ばっかりみんなとして」 後半、まるで仲間に入れないことを嫉妬している子供のような云い方になってしまった。思っていることを正確に言葉にするのは苦手だ。それに普段、碌に友達と喋らない所為もある。 サリュは不思議そうな眼でユーイを見ていた。照明を落とした店内でも彼の瞳が目立つことは分かる。大きく澄んでいて、本当は日の下で見ると真夏の空のような青い色をしているのだ。 「あと何で、そんなにたくさんの女と寝ようとするんだ」 相手の魅力と自分の言動の幼さに動揺して、関係のないところにまでユーイは話を飛び火させてしまった。実は先程、映画館でサリュと一緒にいたのは、この前カフェテリアで約束を取りつけてきたのとは別の女だった。その後ろに控えていたのが今日連れていた相手だ。そういうことに躊躇いは感じないのかと思ってしまう。 ユーイの言葉に、サリュは笑いを漏らした。彼が何か云う前にとユーイは言葉を継いだ。 「云っとくけど妬んでるんじゃない。相手に不自由しないってのも分かる。けど、あまり女遊びが激しいと、いくらお前でも周りから色々」 ユーイの話を聞きながらサリュは嫣然と微笑み、手を伸ばしてきてユーイの呑んでいるミモザ色のグラスを持ち上げた。ユーイが口をつけていた部分を眼で確認し、その部分に自分の口唇を重ね合わせて酒を少し呑んだ。 「おい」 「女とは限らないよ」 この男の外貌を無視できないように、その言葉もまた無視できないものだった。軽く衝撃を受け、体が硬直しかけた。

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