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第10話
絶句しているユーイに向かって、サリュは至近距離で微笑みかけた。そう云いつつもその表情は大して悪いと思っているようには見えない。ユーイは直感でこの男は慣れているのだと思った。そういう相手を眼の前にして大騒ぎするのは、プライドが許さなかった。
「・・・別に、このぐらいは気にしない」
そう強がって視線を逸らすのがやっとだった。
落ち着け。ケイからされたと思えばいいじゃないか。そうだ。今のサリュのキスも、あの男とする時とほとんど変わらないぐらい淡泊だった。
ケイとのキスも、毎回ただされた、という事実だけで何ら感慨深いものは残らない。何回かしてみたが、ユーイの中に感動と云うほどの大層なものが湧いてきたことはなかった。ただ、ほんの一瞬、熱がうつるだけのことだ。舌を入れ込んできたり、咬んだりといったことも、お互いしない。本当に単純な皮膚と皮膚との接触なのだ。だからなのかも知れない。不快ではなかった。たまにルールを守らない客にされそうになる時とは違って、不潔だとは思わなかった。何故だかそれをされた後はいつも逆らえなかったけれど。初めてキスをした時も、ケイは今し方離したばかりのその口唇 で、客のところへ行って欲しいとユーイに告げたのだった。
「ねえ」
肩に触れられ、その感覚に体を震わせてユーイは我に返った。瞬きを何度かした。
突然の事態に混乱して余計な方向へ思考が向いてしまっていた。
一体何十秒間サリュの前で黙っていたのか。軽いショック状態に陥っていたと云える。ずっと彼に手首を握られたままだというのも気づかないぐらいだった。
「な、何?」
「大丈夫?何だかこの世の終わりみたいな顔してるよ」
「そんなことない、大丈夫」
「キスしてそんな顔されたの初めてなんだけど」
「本当に何でもない、平気、だから・・・じゃなくて、お前の、所為だろ、何なんだ急に」
「どうしたの?」
「どうしたのじゃない。何でこんなことする?」
サリュはちょっと両肩を上げて微笑んでみせた。
「気分かな」
「気分?お前、気分一つで見境なくああいうことするのか?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあどういうわけだ?」
「何怒ってるの?別に気にしないって今先刻 」
「気にしない、気にしないよ、あのぐらいは・・・その、よくあることだし」
その一言が余計だった。
「へえ、よくあるの?」
サリュは微笑みの余韻を残してそう訊ねてきた。だが先程までと違い、眼は笑っていない。何かがこの男のプライドに障ってしまったのだとユーイは勘づいた。二人の間に緊迫感を孕んだ抜き差しならない空気が、その一瞬だけ過 った。
「そう。なら、もう一回していい?」
サリュは訊いているのではなかった。それは宣言だった。この時、彼を突き放して拒んでいれば良かったのだ。そうすれば一時の間違いで終わらせることができた。ただ、ほとんど考える暇もユーイには与えられなかった。ユーイの方でも、一度了承したものを拒否するのも筋が通らないような気がしていて、抗う術も言葉も見つからずうっかり流されてしまった。
二度目は密度が違った。舌が口唇の間から入り込もうとしてくる。長いキスだった。途惑いや息遣いさえも呑み込まれ、今度は相手が本気だとユーイは覚 った。ひどく密着していて、呼吸をするものままならない。一度目の、単なる親愛の証としてもとれるキスとは全く違う。
こんなのは望んでいない。流されるな。受け入れるな。間違っても応えるな。
そんな理性の叱責と、体の軸を失いかけるような浮遊感のせめぎ合いで、自分でも分かるほど体は強張っていた。
何故なのか。相手はケイではないのに逆らえない。
サリュは、この体の奥にある何かをひたすら欲しがっている。そんなキスだった。
そうこうしているうちになし崩しに色々なところに触れられ、服の上を這っていた手がいつの間にかユーイのシャツの釦を外しにかかっていた。
冗談じゃないと思った。そこまでやるつもりはない。サリュほどの男なら他にいくらでも相手はいるだろうに、何故。
その時、開けていた窓から空を打つ音が聞こえてきた。音花火だ。その音に、サリュも一瞬顔を上げた。やっとのことで口唇が離れ、ユーイはすかさず身を引いた。獲物が逃げたことにサリュは、あっ、というような顔をした。
「いい加減にしろ。そういう趣味はないって云っただろ」
叫ぶように云って声でサリュを突き放した。思っていた以上に息が上がっており、取り乱した声になってしまった。心臓が早鐘を打っている。
恐らく、音花火は少し離れた競馬場からだ。普段は打ち上げないが、今日は国際競走の日だった。この地区からは少し距離がある上に、ユーイ自身は全く競馬に興味がないので毎年無視しているイベントだが、ポスターなどは街中を歩けば嫌でも眼にすることになる。国内外の観光客も観に来るような、かなり大きなイベントなので派手にやっているのだろう。
「残念。邪魔されちゃった」
サリュは微塵も悪びれずにそう云って残念そうに笑った。
ユーイは自分を莫迦だと呪った。この男に対して、隙を見せたのが間違いだった。キスだけで済むわけがないのだ。彼の性的指向と経験値を分かっていながら、何故、のこのこやって来てしまったのか。だが、一昨日の夜のような赫然とした感情は湧いてこない。怒りと呼ぶにはあまりにエネルギー不足、というよりマイルドな、途惑いや羞恥というだけでは説明のつかない何かがユーイの中に渦巻いていた。これまで感じたいかなる感情にも当てはまらない。ただ、とても息苦しい。そして冷静でないのは確かだった。
「こういうこと、したことはないの?」
「あるよ。けど、まさかここでお前からされるとは思わないだろ」
ユーイは怒りを装っていたが、その裏にあるのは恐れだった。サリュがキスについて云っているのか、それ以上の経験についてまで訊いているのかは、正直云って分かっていなかった。
「ふうん、経験あるんだ?誰と?」
「関係ないだろ、女とだよ」
「女の子と?どうやって?苦手なんでしょ。自分の母親にも触れないって云ってたくせに」
ぐらりとユーイの脳内が揺れた。ああ、余計なことを喋ってしまった。気を許しすぎた。酔っていたのもあって、知らないうちにこの男に絆されていた。サリュは勘が良く、人をくつろがせる技に長けている。まんまとその雰囲気に呑まれてしまった。サリュはユーイの眼から爪先までを舐めるように観察してきた。
「その様子だと経験あるって云っても、キス止まりって感じだね。いざという時、本当に女の子を満足させられるの?」
相手の声が笑っている気がして、ユーイはかっとなった。だがサリュに掴みかかろうとした瞬間、テーブルの縁に近いところに置いていたワイングラスに腕がかすり、うっかり倒してしまった。一瞬ひやりとしたが、グラスが転がり落ちることはなかった。既にほとんど中身は入っていなかったが、それでもいくらかは零れた。せめて先程まで呑んでいた白ワインだったら良かったのに、零したのは新しく注がれた赤ワインの方だった。
若干冷静さを取り戻したユーイはグラスの動きを見届けた後で、サリュの襟元から手を放した。こんなところにはいられない。憤りを込めて、足許に置いていた自分の鞄を掴んだ。
「帰る」
「え、怒った?」
「わざわざ訊くな。当たり前だ。お前、本気で謝る気なんかなかっただろ。完全に揶揄って、面白がってる」
「面白がってなんかいないよ」
「黙れ、そして二度と俺に話しかけるな。眼も合わせたくない」
「ちょっと待って。そんなの嫌だよ」
「いいから退 け」
サリュはユーイの動線を塞ぐように前に立った。
「俺、ユーイのこと、好きだもの」
耳を疑うような言葉に思わず相手の方を見た。十一%のアルコールが今更脳にまわってきて、刹那、気が遠くなった。
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