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第12話

寝台がすぐ傍にあるというのに、サリュはそこへ(いざな)おうとはせずユーイを壁側に立たせたままで行為に及んだ。 まるで神から賜った恩寵を確かめでもするかのように、サリュはユーイの服を脱がせ始めた。 そう云えばシャワーも浴びていない。こんな風に始まるものなのだろうか?本当にこのまま、自分は何もしなくていいのか? ユーイはされるがままの状態でただその場に立ち尽くして、たった一つしたことと云えば、これから始まる洗礼を受けるために、心の準備を整えたことぐらいだった。 最初は左の頬だった。その指はユーイの髪を耳にかけるふりをしながらその輪郭をなぞり、(うなじ)を這って、するりとシャツの釦を外しにかかってきた。誠意を込めた優しい手つきだった。開いた襟元から、柔らかくしなやかな指が入り込んでくる。温かかった。直に肌をとりとめもなく這い、その指先は肩や背、脇腹に及んだ。釦はほとんど外したものの、サリュはシャツを完全に脱がそうとはしてこなかった。そして耳許に顔を寄せ、ユーイの髪や肌の匂いを嗅いでくる。彼の吐息が鎖骨のあたりにかかり、ユーイはぞくりとした。(かす)かに甘い寒気だった。 ケイに頼まれてしていた仕事のことをユーイは思い出した。いきなり本番に入るのではなく、こういった行為から始めるのが好きな客は何人かいた。愛撫のつもりなのだろうが、ひどく鬱陶しかった。毎回、さっさと済ませろと思っていた。 そういう感情をサリュに抱かなかったのは、相手が顔見知りだからという安心感というよりも、この男の真率な態度にある気がした。警戒はしていたが、キスの時と同じく嫌悪感は抱かなかった。ただもちろん、気持ちがいいかといえばそうはいえなかった。恐れが全身に不感症の膜を張っていた。経験値の高いサリュが、どういう行動に出るか分からなかったので、ユーイは最初、必要以上に体を強張らせていた。だが不意に、思い詰めたような仕草で強く抱き締められ、鮮明な感覚がユーイの体に戻った。 抱き締められることにユーイは慣れていない。同級生と肩を組むことも、挨拶のハグもビズもしない。生まれた時からそれが当たり前の空気の中にいるのに、どうしてもその習慣が体に馴染まない。今も反射的に、サリュの体を突き放してしまった。 「ごめん、ちゃんと我慢する」 そう云ったサリュに、先程よりずっと余裕がないのが見てとれた。自分の体に触れていくうちにこの男の熱が高まっていくのを、ユーイは間近で感じ取っていた。人気者で引く手数多の彼が、自分の体に触れてこういう状態になっているのだと思うとユーイも悪い気分ではない。欲求を抑え込もうとしている眼の前の人間の姿に誠意を感じる。そのことが、体の奥にある緊張を徐々に弛緩させていった。 その時、わざとなのか偶然なのか、彼の指先がやや強めに胸の尖端をかすめてユーイは息を呑んだ。筋肉の微かな硬直を覚ったらしく、確かめるように指が同じ箇所を這う。敏感なだけで、気持ちいいわけではない。必死でそう思い込んだ。サリュは繰り返しそこに触れ、抓んで、指の腹で擦ってきた。本意ではないがその刺激が容易く下半身に波及し、ユーイの呼吸は乱れそうになった。だが爪を立てられた時は、流石に身を捩って抵抗した。すぐに拒否する意向は伝わったらしく、もう矢鱈と胸ばかりを刺激するのはやめてくれた。その代わりサリュは、ユーイの前に膝をついてベルトを外し始めた。 体の中心を咥え込まれた瞬間、感覚が急降下して、平静を見失いそうになった。 事前に相手から云われた通り、刺激が下半身に移るのと同時にユーイは眼を閉じていた。誰と何処で何をしているのかを忘れたかった。サリュの口の中の温度に合わせるかのように、次第に体が熱を帯び始めた。 こんなことをしに来たつもりではなかったのに。 明日から一体、どんな顔をしてこの男と会えばいいのだろう。振り切って逃げる暇はいくらでもあったというのに。この行為には何の報酬もない。この男に対し何の義理もないと云うのに。相手に根負けした自分の責任だ。・・・そうだ。理由は、口止め。こういった経験がないことを仲間内で云いふらされたりしないための。 思考が時折、快感に刺し貫かれて途切れがちになった。サリュは柔らかい口唇(くちびる)と舌で適度な圧力を加えながら竿を扱きつつ、時折鈴口を吸い上げるようにしてくる。決して声は出すまいと思っていたのに、唐突に意識が宙に浮いた。その瞬間、「あ」とも「う」ともつかない声が喉の奥から漏れ、思わずユーイは自分の手の甲を咬んだ。膝が流れそうになるのを何とか堪えた。 サリュの舌の動きが止まる。こちらの表情を窺っている気がする。恥ずかしくて死にそうになる。けれどここまできて今更引き返せないことも分かっている。 サリュからはワインと仄かな甘い香水の匂いがしていた。 硬くなった性器を再び口の奥深くに捉えられ、ユーイは腰が抜けそうになった。体の内側に溜まった情欲の蜜を求めるようにサリュの舌がのた打ち回っている。 サリュは熱心な口淫ですぐにユーイを導いてくれた。他人にそんなことをされてもタイミングのようなものが合うわけがないと思っていたのだが、サリュの勘がいいのか、自分が経験不足なのか、達するのにさほど時間はかからなかった。 壁際に立った状態で何もしがみつけるものがなかったため、ユーイはサリュの肩を鷲掴みにした。何故か突然、懐かしさに襲われた。高い位置に掲げられるのが怖くて、父の肩にしがみついた、あの時の感触。 閉じた瞼の裏が光を帯びるように真っ白になった瞬間があった。直後には全てが終わっていた。眼を開いたユーイは、口を拭うサリュの喉仏が上がるのを見逃さなかった。 サリュは立ち上がると、ユーイの乱れた服を元に戻してくれた。 その時に気づいた。サリュの下半身は明確に彼の中の欲望を露わにしていた。 一方的な行為ほど後味の悪いものはない。口でするだけなら自分にも経験はある。他にどうすべきか分からず、ユーイはサリュの性器に触れようとした。 「今のは俺がしたかっただけだから。こっちは自分で何とかする」 サリュはユーイを押し止めて、その手を軽く握った。 「させてくれてありがとう。今したことは忘れてね。明日から顔を合わせても避けないで」 「・・・こんなことしておいて、簡単に忘れろとかよく云えるな」 「憶えててくれるの?」 サリュはその方が嬉しいのだという期待を態度で見せた。 「間違えても憶えていたいわけじゃない。お前、まさかと思うけど他人にこのこと喋るなよ。今日ここに俺が来たことも、誰にも云うな。もし万が一ばれるようなことがあったら」 「俺は困らないけど君は困る。そういうことだよね」 それからまるで共犯者に向けるような笑みを浮かべて、眼を合わせてきた。 「・・・まさか、強請(ゆす)る気じゃないだろうな」 「とんでもない。そんなこと考えてもいないよ。君は僕の願いを叶えてくれた。ありがとう。友達だと思ってくれてるから、俺の頼みを聞いてくれたんだよね」 「・・・友達?」 「君は俺のこと、すごく好きってわけじゃないだろうけど、一応仲間の一人として認識してくれてるのかなって今思った。だって何の見返りもないのに、友達でもない奴のこんな頼み、普通は聞く気にならないでしょ」 正にこの男の云う通りだった。大した信頼を置いているわけでもないのに、何故逃げられなかったのか。拒絶できなかったのか。 ユーイはサリュの言葉に対し、何も答えられなかった。 友達?確かに大雑把に括ればそう呼べるのかも知れない。違和感は拭えなかったが、この言葉の持つ明るい響きをはっきりとは拒めない。 ユーイは今度こそ帰り支度を整えて、玄関扉の前で靴を履いた。そして先程云ったことを念押しするのも忘れなかった。 「誰にも云うな。分かってるよな」 「こう見えて口は堅いんだよ」 「・・・ほんとかよ」 「簡単なことだよ。お互い誰にも云わなければいいだけなんだから。みんな秘密の一つや二つひた隠して生きてる」 サリュはにこっと笑った。 「そうだな。十二歳の男の子が家の中で未だに母親とキスしてようが、家の中でスカートを穿いていようが、それを云わなければ決してクラスメイトに知られることがないのと一緒だよ」 サリュはたとえ話としてそんなことを云ってみせただけだったのだろう。だがこの時のユーイは、面前にいるこの男は何か特殊な力を持っていて、自分の脳内の抽斗を全て垣間見ているのではないかと半ば茫然と思った。 正に小学生の時のユーイは母親からそういう風に愛されていた。子供に対する愛情をまるで誰かに見せつけるかのようにキスをしてくる。頬擦りをしてくる。玄関先だろうが道端だろうが関係ない。いつ同級生に見つかるかと、毎回ひやひやしていた。何度も母の腕から逃れようとしたが、そうすると愛情を拒否したと怒りだし、その日一日機嫌が悪くなるので無闇に突き放すこともできない。謝るまでその日の食卓にユーイの皿は並ばない。叩きつけるような怒りの物音が頻りに家の中に響き渡る。だからユーイに選択肢はない。いつもただ人形のように母に抱き締められていた。小学校に上がる直前まで、ユーイの髪は今よりもっと長かった。本当は娘が欲しかった母は、ユーイの髪を梳かしたり編んだりすることで足りない何かを補っていたのかも知れない。

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