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第13話
よく考えてみれば同級生に体を触らせるぐらい大したことではない。そのはずなのに、ユーイの意識はサリュとのあの濃密な時間の中をしばらく浮遊していた。
あの行為が客相手ならこんな風にはならない。ごく最初の頃を除いて、仕事ではもう緊張などしない。ユーイが敷いた一線を、客が越えて来ようとすれば話は別だが、サリュにされたのはちょっとした愛撫と口淫だけだ。あれぐらい、どうということはない。
きっと相手が悪かったのだ。知った人間を相手にするなんて初めてだった。あの日は、あんなことをする覚悟もできていなかった。その所為だ。だって他にどんな理由がある?こんなにあの男とのことを気にするなんて。
それから一週間、ユーイは以前にも増してサリュを避け続けた。平静を装いつつも、サリュが近くへやって来る気配がした途端、さっと席を外す。以前は、携帯に電話がかかってきたとか、図書館に本を返却して来るなどと仲間に告げてさりげなくその場を離れていたが、今はそんな余裕はなかった。一見、仲間内の誰もユーイの変化になど気づいていないように思われたが、そんな態度を続けた四日目の木曜日、ニールに喫煙所に連れ込まれた。
「サリュとはうまくやれ。お前の方が損する」
とうとうそんな忠告を受けた。以前からユーイがサリュに対し、小さな抵抗感を持っているのを勘の鋭いニールだけは気づいていた。別にユーイがグループを抜けようがこの男は何とも思わないだろうが、ジギイの世話役である自分の雑用が増えるのは真っ平御免だと思っているのだ。
翌週の月曜日の夜、週初めだというのにいつものバーで集まりがあった。
ポーカーで負けたらコニャック一杯。それがジギイの決めたルールだった。
「もういい。これ以上呑んだら自力で帰れなくなる」
午後十一時。ユーイはソファ席にもたれながら、そう答えた。
「だめだ。これはルールだ」
ジギイはユーイが先天的に酒に弱いことを知っていて、こういう勝負を仕掛けてくる。負けの回数、つまり呑んでいる酒の量は同じでも、酔い潰れるのはユーイが先だ。とはいえ今日、ユーイはもう三連続で負けていた。何かおかしいとは感じていたが自分が酔っている所為なのかも知れないし、ジギイとニールは先程から何やら視線を交わしてにやにやしているものの、はっきりとした怪しい動きは見られない。ミュラニー達が店に来る前に、ジギイが自分を潰そうとしているのをユーイは察していた。吐くだけならまだいい。前後不覚になって女達の前で有り得ない醜態を晒すことだけは避けたい。
何かサインを送り合っているのかなどとジギイ達を追及しても、そんなこと軽く往なされてしまいそうだし、証拠もないのにいちゃもんはつけられない。今日は全くといっていいほど手札が揃わない。ほとほと運が悪いとしか云いようがなかった。ユーイは抜けたいと云ったが、ジギイはそれを許さなかった。
「十回勝負だって云っただろ。まだ半分終わったとこじゃないか」
ユーイにとっては地獄の継続を宣言されたのと同じだった。
ジギイの合図で、再びニールがカードを配り始めた。直後にジギイは、ミュラニーに電話をかけ始めた。この男は常に恋人の居所を把握していないと気が済まないらしい。
今は小康状態だったが、外は朝から雨が降ったり止んだりの不安定な天気だった。明日も平日ということもあって、集まったほとんどのメンバー達は雨を嫌って早々と引き上げて行った。ラキについては、この集まりどころか今日一日大学を休んでいた。
ミュラニーは今朝、大学に新しいオータムコートを着て現れた。若者達に人気のリーズナブルが売りのブランド店が、一流デザイナーとコラボレーションして数量限定で生産したものだと自慢げに云って廻っていた。誰もが知る若者の向けのポピュラーな店と、富裕層向けのハイブランドが提供するデザインという組み合わせはそれだけで、見た目や流行に敏感な女達の興味をそそり、発売前から度々話題に上がっていた。ミュラニーはそれを逸早く手にしたわけだ。
一応、彼女のコートは、ジギイがプレゼントしたもの、ということになっていた。販売初日である土曜日の午前七時、ジギイは恋人が欲しがっていたコートを手に入れるため、雨が降りしきる中にも関わらず、店の前の列に並び開店を待った。これだけ聞けば、ほんの僅かではあるがこの男を見直すところだ。
だがジギイは朝食を食べて来なかった。そのため、早朝にも関わらず店の近所に住んでいるニールを電話で呼び出しサンドイッチを買って来させた。その後もしばらく二人で立ち話をしながら開店を待っていたが、ここで二人は持ち前のの性格の悪さを発揮した。彼等は唐突にラキを呼び出し、大急ぎでやって来た彼に、
「すぐに戻るつもりではいるが、どうしても外せない用事ができた。万が一自分達がここを離れている間に店が開いてしまったら、このコートのサイズ4を必ず買っておいて欲しい」
と云い残して列に並ぶ役目をラキに任せ、その場を離れた。そしてそれきり戻らなかった。彼等の会話を聞いている限りでは、どうやらニールの家で過ごした後、他の友人達を次々に呼び出し、遊技場へ遊びに行ってしまったようだ。肌寒い雨の中、ずっと並び続ける準備などせずに現れたラキは、その所為で風邪をひいてしまったのだ。コート代はジギイから返してもらえたらしいが、それ以外に彼に何の見返りもなかったことは云うまでもない。翌日曜もラキは療養していたはずだが、全快しなかったと見える。
恐らく気分だけで云えば寝込んでいるラキも、今の自分と同じぐらい最悪に違いないだろうな、と吐き気を抑えながらユーイは思った。
その時、カードを配るニールの腕を素早くサリュが掴んだ。ジギイは一向に電話に出ないミュラニーに焦れた様子で無闇に店内を見まわし、隣で起きているそのやりとりには気づいていない。サリュは戯れるような表情でニール顔を近づけ、何かを耳打ちした。途端にニールの顔色が色を失い、恐ろしいものを見るような眼をサリュに向けた。
「どうした?」
電話を切ったジギイが妙な間に気づき、二人に声をかけた。ニールの表情が急激に変化したことにも、この男は気づいていない。
「次、始める前にトイレ行って来るって云ったの。カード配らないで待ってて」
にこりとサリュはジギイに向かって答えた。そして席を立って店の奥へ向かう。
間を置いてから、煙草を買いに行って来ると告げてユーイも席を立った。トイレに行くと、サリュが手を洗っていた。彼はユーイが追って来るとは思っていなかった様子で意外そうな、親しみの込めた眼をユーイに向けてきた。
「ニールに何云った?」
ユーイの問いに対し、サリュは肩をすくめた。
「警告した。『次それやったら怒るよ』って」
「何だそれ」
ユーイは大理石の手洗い場の縁に触れ、サリュの横顔を覗き込んだ。
「あいつらがカードに何かしてたって云うのか?」
「知らない。はったりだもの」
サリュは平然と答え、水道を捻って水を止めた。ユーイは唖然としてただ彼を見つめる。
「でもあの様子だと何かしらやってたみたいだね。最初の二回は普通だった。けど、その後急に三連続で君だけが負けるなんておかしい。君だって何か変だとは思ってただろ。本当はそこまで君はまだ酔ってない。違う?」
ユーイにとってはニールよりも、眼の前のこの男の方が余程油断ならなかった。サリュは鏡越しにユーイを見てにこりと笑った。
「君は大袈裟に演技すると嘘がばれるタイプだ。ソファにぐたっとしたところがちょっとわざとらしかった。それまでは本当に騙されてたよ。一歩も歩けないのかなって」
「そこまでになるぐらいだったら、無理矢理にでも店を抜けて帰ってる」
「俺のフラットはここから近いし、本当に酔い潰れてたら泊めてあげようかと思ってたんだけど」
その言葉に含みを感じないわけにはいかない。あの出来事は先々週の日曜日、と云えば、やや時間が経過しているような気になるが、僅か八日前に起きたことなのだ。サリュには避けないよう約束をさせられていたものの、やはり先週はずっとまともに向き合うことはできなかった。ちょうどあの出来事から一週間目の昨日に至っては、暇も手伝って、一日中あのことばかり脳内で反芻してしまっていた。
「・・・大きなお世話だ」
それから眼を逸らして体の前で腕を組んだ。
「礼を云って欲しいのか?」
「え?」
「ニールを止めた」
サリュは再び笑顔を見せた。この男の態度は、以前と少しも変わらない。それがユーイの気に入らないところだ。
「誰にでも悪い癖があるって云ってたのは君だろ?俺には二つ悪い癖がある。一つは友達に頼まれると断れない。二つ目は頼まれてもいないのに好きな子のことは助けたくなる」
好き、という言葉にユーイは反応した。眼を上げてしまった。それ以上何も話せなくなった。
サリュは鏡の前で少し前髪に触れてから、ユーイの方を向いた。
「だから今回のことも気にしなくていい。別に感謝して欲しくてしてるわけじゃないから。でも約束だけは守って欲しいな」
「・・・約束?」
「俺を避けないで」
当たり前だが気づかれていた。ユーイは気まずくなって視線を落とした。
「ニールは手先が器用だし、ゲームの時は注意した方がいいかもね」
ニールが一人でいかさまをやるとは考えにくい。ジギイが何か指示したに違いない。
それよりこの男は『今回のことも』、確かにそう云った。
今回のことも 。
前回のことも、今回のことも、気にするな。そう云いたいのか。
ユーイはそれ以上何と云っていいか分からず、結局サリュより先にトイレを出て行った。
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