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第14話
十月ももう終わりというところで、久しぶりにケイから電話がかかってきた。二時間ほど時間が欲しいと云う。指定された日にちは、たまたま映画館の勤務がない日だったので、ユーイは特に事情も訊かず了承して電話を切った。
当日もはっきりしない天気だったが、ユーイは荷物が増える煩わしさからいつも傘を持たずに出かける。レインウェアは好まない。大抵は濡れて帰ることになる。
ケイに指示されたカフェの店内で雨に濡れたフードを脱いで待っていると、面識のない三十代後半ぐらいの痩せた男が現れた。彼は、ケイに紹介されて黒猫を見つけろと指示された、と冗談めかして云った。
溜息が出た。もうこういうことをする気はなかったのに。辞めてもらうと云っておきながら何のつもりかと思う。第一、今日はケイと会うつもりで来たのであって、仕事をするつもりで来てはいない。
「ケイのところをクビになっちゃったんだって?それじゃ困るよね。俺が力になれれば嬉しいんだけど。君の条件はちゃんと聞いてから来たよ」
ブルネットの髪をした、一見上品そうな男だった。彼は懐から紺色の財布を取り出し、
「はい、先に渡しておくね」
と云って紙幣を五枚、ユーイに握らせてきた。その金額に気持ちが動いたことは否定できない。ユーイの映画館でのふた月分の給料を超えていた。
大学生活も二か月を過ぎて気づいたことだが、今になって映画館の責任者が云っていたことは正しかったと思った。予想していたより大学の課題は厳しく、以前から固定されている週二回のシフトをこなすので精一杯だった。おかげで今月の給料は大して出ていない。父は時折思い出したように、昼食代は足りているかと云って金を渡してくることがあるが、渡すタイミングも金額もまちまちだった上に、何より自分の年齢を鑑みると親に金を無心するのは忍びなかった。
自分のような扱いづらい『商品』でもいいのかと訊ねてみると、男は柔和な表情で、
「そういうのが可愛い」
と答えた。
「本当に黒猫みたいだね。今日は最初だし、痛くしないからおいで」
しっかりとした持ち手と、張りのあるプルシャンブルーの傘に細い雨が音もなく降り注ぐ。最初、男は傘を持たないユーイを招き入れようとしたが、ユーイは動かなかった。簡単には愛想を振りまく気にはなれず、相手の顔も碌に見ようとしない。男は気を悪くした風もなく、開いた傘をそのままユーイに差し出した。
「すぐそこに車を用意してるから」
「知らない大人の車には乗らない。小学生でも知ってる」
「オーケー。じゃあ歩こう。傘はどうぞ」
あっさりと了解した男は自分が濡れるもの構わず、理解ある様子で先を歩き出した。時折ユーイを振り返りながら、ケイがいつも指定するホテルへ向かった。そもそも車に乗るほどの距離ではない。ホテルは歩いてすぐのところだ。
途中、ブティックのショーウィンドウに映った自分の姿をユーイは横目で見た。黒眼黒髪で、服装も黒っぽいものばかり着る自分が黒猫という暗号で示し合わされるのは確かに頷ける。だが仕事前に自分が髪を真っ赤に染めて、蛍光カラーの服を着て現れたら彼等は一体どうやって自分を見つけ出すつもりなのだろうか。
ケイが指定するホテルは一か所しかない。どんな客が相手でも、ホテルだけは変わらない。ケイの顔が利くのと、居場所の把握が容易であること、それに備品を壊さない限り、室内をいくら汚しても咎められないことが理由だという。
部屋代を現金で先払いした男は、釣りを全額ユーイにくれた。
「いつも、こんなにもらわないけど」
「じゃあ、いつもと違うことをしてあげる」
その言葉の意味を即座には理解できなかった。単に羽振りのいい客だと思っていた。この男が、以前、ケイが自分に紹介しようとしていたパトロン候補なのだろうか。
部屋の扉を閉めるなり、男の態度は豹変した。ユーイの肩を掴んで寝台に押し倒し、一刻も早く邪魔なものを取り払いたいという様子で、荒々しくシャツを引き千切ろうとしてくる。それでもユーイは動じず、初めは彼のしたいようにさせていた。そういう趣向なのかと思っただけだ。大していい服を着ているわけでもない。自分の襟元にある飾りネクタイを解くのに男が苦心していると覚 ると、見かねて自分から外しにかかったほど、ユーイは疑いを持っていなかった。男は外したそのネクタイでユーイの手首を拘束し、覆い被さってきて体中を舐め回した。だがその舌が首から顎に、更に口唇 に触れようとしてきたため、素早く顔を背けた。
「おい」
一度目は男の耳に届かなかったらしく、ユーイは再度呼びかけなくてはならなかった。
「ちょっと、誰にもそんなことさせてないから」
手首を縛られているので肘で相手を突き放し、即座に体を起こして睨みつけた。
「俺の条件を聞いてるって云った」
「聞いてるよ。でも守るとは云ってない。それにもう忘れた」
相手の眼は昂奮で充血し始め、潤んで異常な光を放っていた。先程までと同じ人物とは思えない。表情が違いすぎる。
ユーイはすぐさま左のポケットに手を入れ、けたたましい警告音を発する防犯ブザーのスイッチを押した。相手が怯んだ隙に、ポケットに忍ばせていた催涙スプレーを噴射しようと、もう片方のポケットを探る。だが出てこない。焦って体中を確認したが、常にデニムの右ポケットに入れているはずの護身用の武器はどこにもなかった。
「もしかしてこれを探してる?ケイが云ってた通り、物騒な代物を身につけてる」
見ると、男の手の中にユーイが探していた催涙スプレーはあった。
しかしそれと同じくらい衝撃だったのは、ここでケイの名前が出たことだった。この客は、ユーイが身に着けている武器についてケイから聞いていたのか。どういうことかと思った。一応、ケイの方で客の身分証のコピーと『商品』の扱いに関する同意書を控えているが、いざという時は自分の身を守れるようにしておけと云ったのはあの男だ。それを気づかない間に、何も知らないはずの客に取り上げられていたということが、ユーイに嫌な予感を植えつけた。
男はユーイの上着のポケットから警戒音を発しているブザーを取り出し、床に落として踏み砕いた。安物のため、壊すのは簡単だった。直後にいきなり鳩尾に衝撃を喰らって、ユーイは床に崩れ落ちた。声も出せなかった。
「君は知ってるかな。ケイのところは『商品』の貸出が基本だ。あいつは自分のやってることを表沙汰にされたくないし、『商品』を使い物にならなくされたら困る。だから客側に相応のペナルティを課したルールを設けてる。でもね、俺は普通の客と違う」
ユーイは痛みで呼吸ができなかった。立ち上がれない。膝をつき、片手で上半身を支えながら、もう片方の手で抱え込むように腹を守っていた。
「俺は買取専門なんだよ」
「・・・買取?」
「ケイのところで買うのはこれが三回目かな。たまにだけどね、『商品』の在庫を見せてもらいに行って、気に入ったのがあれば買い取る。別に新品じゃなくていいんだ、使えれば。君のことは事前に写真と動画で見せてもらった。もったいないと思ったよ。君はいいものを持ってるのに、引き出せてないんだもの。だからケイに君を売ってもらった」
最後、信じられない言葉が耳に届いた。一瞬、ユーイは痛みも忘れて相手の顔を見上げた。
何?買取?売ってもらった?
「ちまちま小銭を払って他人からものを借りるのは俺の性に合わない。あいつの云い値で話をつけてきたよ。だからもうあそこでの貸出時のルールは君には適用されない。君個人のルールも俺には関係ない。君はもうケイの『商品』じゃない。俺の玩具だ」
咄嗟にふざけるなと云い返したかった。だが今日の呼び出し方にしろ、先程のブザーのことにしろ、ケイに裏切られたという可能性は大いにあった。ユーイはこれ以上ない不愉快さと憎悪に近い感情で相手の男を睨みつけた。
「ああ、すごくいいね、その顔」
その表情にユーイの背筋は凍った。
気持ちが悪い。早くここを出て行かなければ。
蹌踉 めきそうになるのを堪えてユーイは立ち上がった。が、そこで髪を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられた。
「今日は優しくしてあげようと思ったんだけど、気が変わった。・・・君みたいに、お高く留まったガキをめちゃくちゃにするのが俺の趣味なんだよ。ここを出る時は普通に歩いて帰れると思うな」
手首の拘束は粗く、既に自力で自由を取り戻すことができていた。だがこの男から容易に逃げられるとは思えない。痛みもあり、体勢も悪かった。
ユーイは体の力を抜いて、相手を見つめた。シャツの残りの釦を外し、下半身の革ベルトも解いて前を開ける。自分から相手を求めるように手を伸ばすと、客の男はその様子に獲物が降参したと思ったらしい。
圧しかかってくる相手に分からないように、ユーイはそろそろと自分のベルトをデニムのループから引き抜いた。完全にベルトが抜けると直後に相手を突き飛ばし、それで男の顔面を殴りつけた。ちょうど顔の中心に、ベルトの金具が命中した。男は衝撃のため屈み込んだ。激痛に苛まれながら立ち上がろうとしたところに、容赦なくもう一撃喰らわす。その隙を利用してユーイは自分の持ち物を鷲掴みにすると、飛ぶように部屋を後にした。
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