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第15話

ホテルを出て眼の前の停留所に来ていた路面電車(トラム)に飛び乗った。車内で靴の踵を履き直し、上着の下でシャツの釦を留め直す。なかなかうまく釦が嵌められないので手許を見ると、指先が震えていた。自覚していたよりもかなり動揺していたらしい。自宅方面へ向かうつもりでいたが、ホテルの前から出ているのが反対方面へ向かう車両だということも忘れていた。気がつくと大学の眼の前だった。自分に対する苛立ちを抑えつつ、そこでユーイは車両を降りた。 目的はないがキャンパスの中へ足を踏み入れた。時間は午後三時を指している。とにかく誰かといれば平常心に戻れる気がして、見知った顔はいないかと眼で探した。結局、門を入ってすぐのところにあるベンチに腰を下ろして携帯電話を取り出し、何の目的もないのにラキを呼び出した。 煙草を取り出して火を点ける。入口近くの芝生で吸うのは規則違反だが、気分を落ちつけたかった。 その数分後、現れたのは何とサリュだった。 「こんなところで吸ってると怒られるよ」 そう云いながら、自分の携帯灰皿をユーイに差し出してきた。 ラキは最後の講義が残っているので、自分が代わりに用件を聞きに来た、とサリュは穏やかに云う。 あの負け犬、とユーイはラキに対して心の中で毒づいた。 「どうしたの?今日は君、三限で帰ったでしょ。戻って来たの?」 突然現れた彼と何を話していいのか分からず、ユーイはまごついた。思い悩んだ末、ユーイは口から出まかせを云った。 「・・・財布を失くした」 「えっ?」 ユーイはサリュの反応を見、それから更に辻褄を合わせるために、講義が終わった後も一人で大学の近くをうろうろしていた、何処で失くしたか分からない、定期券も一緒に紛失してしまったので、ラキに電車代を借りたかった、と大嘘を吐いた。 「・・・ジギイ達とは、連絡取れなくて」 「そっか。学生課には行った?拾得物の届け出がないか訊いておかないと」 「それなら済ませた」 ユーイは慌てて答えた。 「本当に紛失か?」 「えっ?」 「道端でスリに遭った可能性は?」 「ああ・・・どうだろ。ぼーっとしてて」 「すぐ警察に紛失届を出しに行こう。念のため、盗難届も出した方がいい。俺が付き添う」 「いい、そこまでしなくても」 「何云ってるの?こういうのは早い方がいいんだよ。何か金が必要なら俺が出すから。本当に災難だったな。今度からこういう時には、俺を一番に呼び出してくれていいんだよ。すぐ駆けつけるからさ」 そんなわざとらしい台詞がよく出てくるものだと思う。ユーイが顔を背けて何も云わないでいると少し寂しそうに、 「ラキとの方が、気が合うのかな」 と呟くのが聞こえた。 そんなわけがないだろう、あんな負け犬と。 とまでは口には出さなかった。 一度、校舎に戻って荷物を取って来ると云うサリュに対し、電話を一本かけたいのでこのままここで待っているとユーイは告げた。 再び一人になった時、ユーイは即刻電話でケイを問い詰めようと思った。 が、結局そうはしなかった。彼の行動を裏切りと呼べるほどの信頼関係を、自分達は築いていたのだろうかとふと考え直したのだ。第一、誰が何をしたかに関わらず、この仕事に関しては全て自分の責任だと思っていた。最初からそのつもりで始めた。今日のような出来事はいつ起きてもおかしくない。どれほど危うい境界に立っているのかは、以前から分かっているつもりだった。それに電話をかけてまで、わざわざケイが裏切ったという確証を得たくもなかった。 紛失届と盗難届をそれぞれ出し、帰路についた時には午後六時を過ぎていた。役所の遅々とした仕事を待っている間も、サリュは微塵も面倒臭がる様子を見せずに待っていてくれた。 「良ければうちに寄って行かない?」 用事が済んだ後の帰り道でサリュは云った。 「え?」 「何か食事を作るから。夕食、親父さんの帰りが遅い時はいつも一人で買って済ませてるんだろ?そういう日の方が多いって、前にうちに来た時云ってたからさ。今日はどうなの?」 確かに前回、彼の部屋で料理の食材について会話をした折、そんなことを云ったかも知れない。 「今日は、多分、遅くなる・・・はず」 「じゃあ、食べて行ったらいい。財布がないんじゃ、帰りに惣菜の買い物もできないだろ」 ユーイが躊躇いを見せると、サリュは苦笑して、 「大丈夫。何もしないよ」 と云った。 「あと先刻から気になってたんだけど、シャツの釦が外れてる」 ユーイが自分の胸元を見ると、上から二番目の釦がなくなっていた。その下の釦に至っても完全に緩みきって、今にも外れそうにだらしなく垂れ下がっている。上にカーディガンとコートを羽織っていたこともあり、そこまで意識がまわらなかった。 「気づいてなかったの?どこかで引っかけて外れちゃったんじゃない?」 サリュは近づいてきて、ユーイのシャツに触れ、釦をしげしげと眺めた。 「うちに似たような釦が置いてあったと思う。つけてあげるよ」 「は?裁縫なんか、するのか?」 「糊でくっつけた方がいいならそうするけど?」 ユーイはちっともおかしいと思わなかったが、サリュは勝手に一人で笑っていた。 サリュをお節介だと思う気持ちもあった。けれどこの夏の陽射しのように眩しい男から、いくらかの安心感も得ていた。恐ろしい目に遭った後の顔見知りの優しさは身に沁みる。 キスはしない。挿入行為もしない。 ケイの下で働く時、ユーイが出した条件はこの二つだった。いくら同類のケイの頼みでも、こればかりは生理的な嫌悪感からくるもので決して妥協できない部分だった。毎回相手にする客には、ケイを通じて条件の確認をしていたくらいだった。 実はユーイがこれまで相手にした客はそれほど多くない。いちいち数えてはいなかったが、多分十人を超えるか超えないかといったところだ。限度を知っている相手であれば、鞭でも縄でも拒まなかった。あまり巧くはないが口での処理もしてやれる。精液や尿をひっかけられるのも、その後でシャワーを浴びることができるなら問題ない。転がされたり、引きずられたり、犬猫の真似事をさせられたことだってある。別に恨みはしなかった。 けれど自尊心が傷つくのにどうしても慣れなかった。立ち直るのに時間がかかった。だからケイにいくら云われても、こういう心境を拭いきれない自分が、条件をなくすなんてできるわけがないと思った。 特に今日相手にしたような、あんな人を人とも思っていない輩とそんなことをしなければならないなんてぞっとする。魂が持っていかれそうだ。 それにアナルセックスは慣れるまでは非常に苦しいし、痛いと聞いていた。そんな苦痛を、誰が好き好んであんな見知らぬ変態相手に耐え忍んでやらなければならないのだ。 けれど、ケイにも客達にも、ユーイのそんな心の裡や理屈は、まるきり理解できないようだった。ケイはユーイがそのうち他の『商品』達のように、キスも挿入行為もじきに受け入れるだろうと思っている節が見えた。なし崩しに自尊心を金に替える若者達を、彼は多く見てきたのだろう。だが、ユーイは最後までそういった行為には応じなかった。それが自分を否定しなかった男への、唯一の反抗だった。  部屋に着くと、サリュは好きにくつろいでくれとユーイに告げてキッチンに向かい、信じられないほど短時間でブイヤベースを作ってくれた。料理と一緒に並べられた明るいロゼの色が料理に合っている。バケットにチーズが揃うと、レストランのディナーに見劣りしない食卓が整った。 ユーイは手料理に飢えていた。前回ここを訪れた日以来だ。家ではほとんど料理をしない。 「普段、一人の時はテイクアウト?ユーイはどんな料理が好きなの?」 「ハンバーガー。あとよく食べるのは映画館のポップコーン」 「何それ、中学生じゃあるまいし。栄養偏るよ。たまにならいいけど、基本はちゃんと作られたものを食べないと」 「大学のランチルームやカフェで店員が作ったものを食べてる」 「ユーイ」 「俺の勝手だ。俺だって、自分でできるならやってる」 サリュは我が儘を云う弟を諭す兄のような表情になった。

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