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第16話
「俺だって最初は料理なんか全然好きじゃなかったよ。でも誰かのために作って喜んでもらえたら嬉しい。俺だって一人だったら作らないもの」
癪ではあったがサリュの言葉にユーイは内心、納得した。考えてみるともう随分長い間、誰かのために何かしたいと思ったことがない。最近では人に貢献するなんて面倒なことだと考えていた。誰かに使われる材料になるだけだと思っていた。ラキのように消耗する気はない。
いや、違うか。自分だってケイの役に立ちたいと思っていた。今考え直してみれば、驚くほど純粋な動機であの仕事を始めた。ケイが困っているのを見過ごせなかった。思えばあの男が自分の身の安全を本当に保障してくれるかなど分からないのに、口約束だけで応じてしまった。
どうしてか。冷静になった今なら、それがどれほど危ないことだったかが分かるのに。
ユーイはさりげなくサリュを見た。
たとえば。
あくまでたとえばの話だが、もし相手がサリュなら、自分がしてやれることは何だろうかと思う。何をしたらこの男は喜ぶのか。
もし、好きだというのが本当なら、客と同じことをしてやればこの男は喜ぶということか。
そう云えば、この男とのキスは何故かそれほど嫌ではなかった。まだあの時は、この男を完全に信用などしていたわけではなかったはずなのに。
その時、斜向かいにいたサリュと視線がぶつかり、ユーイは慌てて眼を伏せた。
この部屋のテーブルは丸く、そこに椅子が四脚並べられていた。前回来た時、サリュは向かい合わせになるようにテーブルセッティングをしていたのに、今日はより近い席に坐っている。よく考えれば不自然なのに、食事を始めるまで気づかなかった。ユーイの真正面には今、ワインボトルとウォーターピッチャーが置かれている。
まあ、とにかく。せめて、こんな風に世話になった時には、礼の一つでも素直に云うべきじゃないのか。
「・・・お前の料理は美味いよ」
「良かった。ユーイにそう云ってもらえるのが一番嬉しい」
きちんとした礼の言葉を云わなかったばかりか、またサリュから何かを受け取ったような気にさせられた。笑顔を浮かべる彼から僅かに視線を逸らすと、ちらっと左肩に赤い筋が見えた。外にいた時、サリュは上にカーディガンを羽織っていたため気づかなかったが、今は鎖骨が見えるボートネック一枚だった。それはかなり濃い色の痣だった。
「その痣、どうした?」
ユーイが指し示した痣をサリュは服を寄せて隠した。
意味深長な間が空いた。訊いた直後にはっとした。もしかして、と思った。サリュは少し困ったように微苦笑し、食事を続けている。思っていた通りだ。
以前ここに来て例の行為に及んだ際、サリュの肩を思いきり掴んだ記憶がある。あの時は自我を保つために、どこかへ力を分散させようと必死だった。加減ができていたとは思えない。ユーイは食器を置いて、眼を伏せた。
「あのさ、それ、もしかして・・・俺が」
「うん、まあ、でも大丈夫だよ。もう治りかけてる。普通は一週間くらいで消えるものなんだけど」
「悪かった」
「謝らないで。俺が君に頼んだことだったんだから。それにこれ、消えて欲しくないんだ」
大事なものをしまうようにサリュは再びその痣に触れた。
あの日の出来事が嫌でも呼び起こされた。穏やかに晴れた日で、陽光が部屋の奥まで射し込んでいた。サイクリングやピクニックをするなら、正にあの日だった。あの爽やかな日と、自分達の爛れた行いのちぐはぐさを、帰り道、肌で感じた。
首筋にサリュの口唇が触れた感覚を思い出して、ユーイは食事の最中に体が反応してしまいそうだった。
せめて食器は洗うと申し出たが、サリュのフラットには最新の食器洗浄機が完備されていた。
「じゃあ、軽く流して、ここに入れてくれる?その方がきれいになる」
分かったと返事をしてユーイは仕事に取りかかった。ほんの少しだけ、肩の荷が下りた。
「ああそうだ。その間にシャツの釦を縫うよ。脱いで」
食事後のテーブルを拭きながら、サリュはごく自然にそう云った。
「・・・あのさ」
「どうかした?」
「何か・・・代わりに着るもの」
「ああ、じゃあそれでいい?」
サリュが指したのはキッチンにかかっていた黒いエプロンだった。
「・・・何のプレイだよ?」
「冗談だって」
サリュはクローゼットからスウェットを取り出し、ユーイに軽く投げてきた。ユーイはキッチンの影に隠れてシャツを脱いだ。やはり客に掴みかかられた時の引っ掻き傷のような痣が、腕にも胸にもあった。こんなものをサリュに見られるわけにはいかない。
ちらっとサリュの方を見たが、彼はユーイの着替えを覗き見るなどという悪趣味なことはせず、部屋の隅にあった箱型のスツールの中から裁縫道具を取り出していた。
シャツをサリュに託した後、ユーイはキッチンを見まわし、サリュがいつも美味しい料理を作っているコツがどこかに隠れているのではと眼で探った。だがそれらしいものは何も見つからなかった。
一人暮らし用の部屋の割に、キッチンは狭苦しくなかった。単純に設備がいいだけでなく、まめに掃除もしているようだった。雑然としがちな調味料のラックもきちんと磨き上げられている。蓄積した汚れや埃などはなく、先程料理をした形跡があるだけだった。
考えてみると自分にはある時期を境に、お互いの家を行き来するほど仲の良い友人の存在というものが、すっぱりと抜け落ちている。徐々に疎遠になったのではなく、あるところから切り取られてなくなっている。だから他人の家で過ごすに当たっての、礼儀というものがなっているのか正直自信がない。初めてここを訪れた時も緊張したし、今も無理にキッチンなんかに入ってはいけなかったのかも知れないと後から思った。そもそも、身一つで来て、ただで食事を提供してもらった上に、服まで直してもらって帰る自分がとても厚かましい気がした。
変な嘘を吐くものじゃないな、と思いながら食器を洗っているところへ、電話がかかってきた。鳴ったのはサリュの携帯電話だった。
「ああ、ラキ?」
電話に出たサリュの声に、ユーイはぴくりと反応した。サリュはシャツを縫う手を止めて、しばらく会話をしていた。少ししてから、ちょっと待って欲しいと云って受話口を手で塞ぐと、ユーイに声をかけてきた。
「これからラキが来るんだけど、大丈夫?」
「ラキ?何で?」
「昨日、ここに忘れ物をしたらしいんだよ。手土産にワインを持って来てくれるってさ」
「昨日も来たのか?」
ユーイの確認に、サリュは不思議そうな顔をした。
「そうだけど、どうかした?」
ユーイは急速に苛立ちが込み上げてきた。はっきり云って面白くなかった。
「いい。そういうことなら俺は帰るから」
「え、何で?」
ユーイは聞こえないふりをして、残っていたシンクの中の食器を濯いだ。サリュは受話口に向かって、後でかけ直すと告げて一旦電話を切った。
「ねえ、どうしたの?」
「用事があるのを思い出した」
「嘘でしょ?そんな急に」
「嘘じゃない。食事は助かったよ。恩に着る」
「ちょっと待って。・・・もしかしてラキが嫌なの?」
「・・・放っとけよ」
ぶっきらぼうに云ったのは、ラキ自身がどうのこうのということとは別だった。正直、その理由にユーイは自分自身でも驚いていた。
今、この空間に他の誰かが来るということが、またそれをあっさり受け入れようとしているサリュが、気に入らなかった。どうかしていると思った。自分の部屋に誰を呼ぼうが、この男の自由だ。サリュが人気者で、誰に対しても優しいことは知っていたし、賑やかなのが好きなのだということも前に云っていた。
「ラキはいい奴だよ。同じグループじゃないか。仲良くやろうよ」
「あんな負け犬」
ユーイは吐き捨てるように呟いた。
「お前があいつと仲良くしたいなら勝手にやればいい。俺には関係ない」
その声は自分が思っているよりも荒々しかった。こんな云い方をしている理由が自分でも分からない。どうしてこんな嫌な云い方をしてしまうのか。ただでさえ、この男には借りがあるというのに。ユーイは勝手に一人で怒って、サリュの部屋を後にした。
フラットを出てから、サリュのスウェットを着たまま出て来てしまったことに気づいた。
苛立ちと罪悪感と自己嫌悪がいっぺんに襲ってきた夜だった。
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