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第17話

翌日、ラキと顔を合わせた途端に昨夜の憤りが再燃してきた。 ランチルームでラキと居合わせると、ユーイは食事のトレイを持ったままわざと彼にぶつかって行った。紙コップに入っていたラキの飲み物がいくらか零れたようだ。 「おい、ちょっと」 堪らずラキが声を出した。 「とろいんだよ」 ジギイはそんな様子には眼もくれなかったが、ニールはユーイに同調してくすくす意地悪く笑っていた。ラキは傷ついたような、信じられないような表情でユーイを見てくる。 その時、更に後方からやって来たサリュがラキに話しかけてきた。ラキは縋るような弱々しい笑顔を浮かべ、サリュと会話をしている。それが更にユーイの苛立ちを誘った。 それまでも、ごくたまにユーイはラキをいじめたくなることがあったが、実害が及ぶ行為に及んだのはこの日が初めてだった。今朝は偶然を装って足を踏みつけ、素知らぬふりをしたばかりだ。ラキが話しかけてきても、あからさまに無視をした。普段のユーイなら返事ぐらいはしている。この日は掌を返したようにラキに対して攻撃的になった。 お前の居場所なんか、とっくにこのグループにはない。それなのに、自分の扱いを理不尽に感じながらも、意地で留まっている諦めの悪さがユーイは気に入らない。ただ周りが変わることを黙って期待しているだけのくせに、ただ助けを待っているだけの臆病者のくせに。生意気にも自尊心を足蹴にされて傷ついたような視線を向けてくるなんて。お前にそんな権利はない。 その日の午後、講義の帰りにユーイは突然サリュに捕まった。一人で廊下を歩いていたところを、曲がり角から現れた手に腕を掴まれ、壁側に押しつけられたのだ。そうは云っても軽い悪ふざけのような感じでびっくりさせられたというだけだったが、予想もしていなかったことだけに、小動物のような悲鳴を上げてしまった。 「ごめん、そんなに驚くなんて」 サリュも若干虚を衝かれたような表情をしていた。辺りには講義を終えた学生達が多く行き交っている。大きな声を出したことが恥ずかしく、ユーイはサリュに構わず歩き出した。 「ユーイって可愛い声出す時があるよね」 「用があるなら普通に呼び止めろ。何なんだ、急に」 ユーイは出し抜けに腕を掴まれたこともそうだが、軽々と自分の体を捕らえて拘束した彼の腕力に驚かされていた。単純にこの男と力比べになったら勝てないだろうと予感した。 「相変わらず無愛想だなあ。仮にも二度部屋に来て色々した仲なのに」 「黙れ。用件を訊いてる」 「シャツの釦を縫い終えたって云おうと思って。いつ取りに来る?」 微塵も反感を見せずにそう云ってきた。どうしてそう、自分のような人間に対して開けっ広げな態度をとれるのか、ユーイには分からない。 「・・・学校に持って来いよ。急いでるから、じゃあな」 「あ、ねえ」 サリュが再び横へ並んで来たのを受け、ユーイはあからさまに溜息を吐いた。 「ユーイさ、今日、ラキをいじめてるでしょ」 相手のその言葉に内心どきっとしたが、そんな様子はおくびにも出さず、ユーイは歩き続けた。 「何だよ、今更」 「君らしくない。他のみんなは前からだけど、君はそんなことしなかった」 「あいつは負け犬だ。ストレス発散に使われてるのに、抵抗もしなければ逃げもしない。そういう立場になるよう、自分から仕向けてる。俺がジギイ達と同じことして何が悪い?」 「君はジギイや他の連中とは違う。云いたくもないこと云って、したくもないことするものじゃないよ」 「したいからしてる。いいストレス発散だ」 「やめなよ。そんなこと云うユーイは嫌いだ」 思わず顔を上げて、並んで歩いていたサリュの顔を見た。ほぼ同時に二人は立ち止まった。道端で見ず知らずの人間が泥酔して転がっていたとしたら、恐らくこんな眼をして通り過ぎると思う。そういう視線をサリュはユーイに向けてきていた。まるで時間を超えて他人になってしまったようだった。行為そのものが問題なのか、相手がラキであることが問題なのかまでは訊けなかった。その両方なのかも知れない。居心地の悪さと後ろめたさから、ユーイは視線を逸らした。 「・・・そんなこと云いにわざわざ?」 動揺を堪えるために、肩にかけていた鞄をかけ直し、耳のピアスに意味もなく触れる。何でもない仕草をしていなければ、ショックを受けていることを見破られそうだった。 そこへ声がかかった。ミュラニーの友人のマリーナだ。彼女はユーイの名前を呼んでおきながら、サリュの顔を見つめながら近づいて来た。普段はミュラニーが怖くて積極的な行動には出られないが、彼女のように密かにサリュに思いを寄せている女はたくさんいる。彼女は最高の笑顔をサリュに向けてから、単に愛想を振りまくといった感じでユーイの方を向き、図書館の印がついた本を差し出してきた。 「ニールが渡しといてくれって」 差し出されたのは数日前、課題のためにユーイが校内の図書館から借りた本だ。同じ講義をとっているニールに又貸ししていたのをすっかり忘れていた。今日はランチルームで顔を合わせているのだから、その時直接渡してくれれば良かったのにと思った。 ジギイはどうだか知らないが、ニールはユーイが女友達を避けていることに、何となく勘づいている。こういうことを仕掛けられるのは初めてではなかった。 マリーナは両肩の出過ぎたニットに、矢鱈(やたら)と短いデニムパンツを合わせて、ブーツを履いている。赤い髪をさっとかき上げると邪魔になりそうな長めのピアスが現れた。 彼女のどこを見ていいのか分からず、礼もそこそこにユーイはなるべく本の端の方を掴んだ。 マリーナにすれば、ちょっと男友達を揶揄(からか)ってやろうという魂胆だったのだろう。彼女は手を引く寸前、本の下で指を伸ばしてきた。その長い爪が、ユーイの指の間を撫でるように触れた。 刹那、ユーイの中に悪寒が走った。まるで熱いものにでも触れてしまったように、手を翻して後ろへ下がった。本が背表紙を下にしたまま落下し、大袈裟な音を立てた。ページの間に挟んでいたプリントが衝撃で抜け落ちている。 「え、何?」 マリーナの眼が鋭く光ったのが分かった。動揺の程度が普通でないことを彼女は目敏く覚っていた。ほぼ拒絶と云っていい反応を示され、プライドが傷ついたようだった。 「何なの、一体?何してんの?」 そう云ってから彼女はサリュの方を見た。 「今の態度見た?」 視線を向けられてサリュは一瞬途惑いを見せた。彼にしてみれば会話に横槍を入れられただけでなく、突然その女がヒステリックに豹変し始めたのだから無理もなかった。 「何なの、人を汚いみたいな」 「・・・悪い」 ユーイは相手の顔を見ないまま、おざなりな謝罪の言葉を述べた。無論、それで彼女の機嫌が収まるわけがない。女の劈くような声が耳障りだった。 「マリーナ、ちょっとこっち来て」 サリュが割って入り、女の視界にユーイが入らないようにした。彼女の肩を抱いて方向転換させ、来た道を戻りながら云い聞かせるように何かを話している。少し離れたところで何故か謝るような仕草をサリュがしていた。 ユーイから見えるマリーナの横顔はまだ不機嫌だったが、その表情から徐々に先程までの鋭さが消えていくのが分かった。仕方ないわね、といった感じで髪をかき上げ、謝るサリュに何か一言云った。満更でもない様子だった。もう彼女はユーイのことなど眼中にない。どこへ行くのか、二人は連れ立って再び歩き出した。 マリーナの背に手を添えながら、サリュはさりげなくユーイの方を振り返って微笑みかけてきたが、その表情が何を意味するのかユーイには分からなかった。 間もなく、次の講義開始を知らせるブザーが鳴り、ユーイは慌てて走り出した。何だか、とても情けない思いだった。その日はそれきり校内でサリュに会うことはなかった。

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