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第18話
翌日の帰り、誘われてもいないのにユーイはサリュの後ろをついて帰った。途中までクリケット部のメンバーが四、五人でサリュを取り囲んでいたが、彼からクラブに入る代わりにミュラニーを含めた女友達数人の電話番号を教えると云われると、目先の欲望に負けて全員風のように姿を消した。
別れ道まで来た時、サリュはユーイの方を振り返った。
「どうしたの?帰らないの?」
「・・・仕事、あるのか?」
「今日はないけど、課題をやらなきゃ」
サリュはにこやかにそう答えた。
「・・・一緒に」
ユーイはそう云いかけたものの、しまいまではっきりとは云えなかった。
「うーん、でも君のとってない科目の課題だよ。それに一人の方が集中できるんだ」
ユーイは自分のことを莫迦だと思った。そもそも一緒に帰ろうと云われたわけでもないし、これといった用事があるわけでもない。それなのに、図々しく人の家に上がり込もうとするなんて、また食事をたかるつもりなのかと思われるではないか。第一、この男には嫌いだと昨日、はっきり云われているのに。
ユーイが踵を返そうとしたその時、
「でも、珈琲ぐらい飲んで行く?」
と、明るく訊ねられた。不思議だった。それだけで眼の前が明るくなる自分がいる。
この同級生に対し、油断してはいけない、心を許し過ぎてはいけないと思うのに、一度関わってしまうとこちらの方から求めたくなるような魅力をこの男は持っている。
昨日、ラキについて話した時のことがユーイは気になっていた。基本的にサリュはいつも優しく、親切だった。そんなサリュに対し、あんな風に攻撃的な言動を取ったことへの罪悪感がずっとつきまとっていた。その所為で今日一日、サリュとは碌に話もしていない。マリーナのことについても昨日、あれからサリュが何かしらの形で取り繕ってくれたに違いなかったのに、その礼も云えていなかった。
「ちょっと待ってね。散らかってるから」
鍵を開けて先に部屋へ入ったサリュは、靴を脱いですぐ床に広げてあったものを手早くしまい始めた。床に敷き詰められた絨毯の上に大きなファイルが何冊も広げてあったり、積み重なったりしている。
「アルバムか?」
「うん、そう。実家に置いて来たんだけど、俺の部屋をホームステイの学生に貸すんだってさ。片付けたいからって、有無を云わさず送られてきた」
見ると寝台の上にも一冊、開きっぱなしのポケットアルバムが置いてあった。上着を脱いでハンガーにかけたユーイは、何とはなしにそのアルバムを眺めた。開かれたページは写真がところどころ抜けている。残っていた写真のうちの一枚が気になり、ユーイは訊ねた。
「犬、飼ってたのか」
ユーイの方を振り向いたサリュは、一瞬微かに眼を瞠った。寝台の上にも一冊、アルバムを置いたということを失念していたようだ。
「ああ、うん。ノアっていうんだ」
そう云って抱え込んだアルバムをまとめて箱型のスツールの中に入れ、蓋をしてからユーイの方へ確認しにやって来た。
「俺が拾って来た犬だからかな。ほぼ俺にしか懐いてないんだよ。たまにやむを得ず、姉さん達には世話を頼むこともあるんだけど、両親は絶対見てくれないから。親はノアを飼うことに反対なんだよ。だから家の中には入れてやれなくて、敷地内の納屋でノアのことは世話してる。うちにはずっと猫がいるから、両方は飼えないって云われて」
それから愛おしそうにその写真を透明ポケットのフィルム越しに触れた。
ユーイは犬を無条件に可愛いと思ったことがない。興味がないため、サリュが飼っていたというその犬の犬種も判別できなかった。飼うなら断然猫だと思っている。けれど、ユーイの家では母が動物アレルギーだったため、ペットを飼う飼わないの話が一度たりとも出たことはなかった。
「捨て犬だったのか?」
「そう。道端に捨てられてたんだよ、ノアは。学校帰りに道草を喰っていて、たまたま見つけた。道路際に放置された黒い袋が動いてるから不審に思ってね。鳴き声が聞こえてきて、袋を破って開けたら生ごみと一緒に犬が入れられてたんだ。べたべたでものすごい臭いで、あのまま放置されてたら、多分あいつは窒息してたよ」
「それはひどいな」
「それで連れて帰った。家族には戻して来いって云われたけど、そんなひどいところに戻せると思う?だから諦めきれなくて、体を洗ってやって自宅の納屋で世話してたんだよ。ランチの残りを餌にしてたもんだから、拾ってからしばらくは痩せたな」
「家族にすぐばれただろ?」
「うん、隠してたけどみんな分かってたね。飽きっぽい俺のことだから、そのうち音を上げて放り出すだろうって見てたんだと思うよ。ノアは意味もなくよく吠えるし、お坐りと待てを憶えるのにもすごく時間がかかった。あんまり賢くないんだ。でもさ、莫迦な子ほど可愛いってやつだよ。あいつには俺しかいない。ユーイもノアを実際に見たら、きっと気に入ると思う。ボール遊びが好きでね、近所の公園によく行くんだよ」
ペットとはそういうものなのかとユーイは想像を働かせた。
「一緒に撮った写真とかはないのか?」
二人が見ていた写真はノア一匹だけのものだった。若干ピントがずれている所為か、少し古い写真に見える。ユーイはページをめくろうとしたが、サリュはアルバムのページを手で塞ぐように押さえた。
「ノアの写真はこの一枚だけ」
口調は柔らかかったが、詮索を拒むような動作だった。ユーイは気まずくなり、あくまで犬に対してだけ興味があるという風に装った。
「・・・俺は動物を飼ったことがなくて」
「そっか」
「何歳の時から飼ってるんだ?」
「六歳だったかな」
ということはもう十二年以上は生きていることになる。ユーイは犬の平均的な寿命をよく知らないが十年前後だと思っていた。だがボール遊びができるぐらいということは、犬種によってそのあたりは違うのだろうか。十二年も納屋で世話をせざるを得ないなんて、サリュの両親はどれだけ犬嫌いなのだろう。
サリュはアルバムを閉じた。それからユーイの顔を見て微笑んだ。
「犬は好き?」
「どっちかと云えば猫がいい」
「確かに、ユーイは猫っぽいかも」
サリュは最後のアルバムを他と同じように先程のスツールの中にしまい込んだ。
ただ、ペットの話をしただけだった。
それなのに、何故だかこのことが、ユーイの意識の中にいつまでも澱のように残った。後から思えば、これがこの美しく明るい男の狂気のかけらを初めて見た瞬間だった。
「そう云えばユーイ、財布は見つかった?」
びくりとした。そんな嘘を吐いたことなどすっかり失念していた。ユーイは首を振った。
「そうか、やっぱり盗まれたのかも知れないな。元気出して」
そう云って励ますように肩を叩いてくる。
「なあ、今日の夕食はどういう予定?」
「今日はいい」
サリュに予定を訊かれたユーイは、厳密にはまだ誘われていないのに早まってそう答えた。
「あの、家に残り物がある・・・から」
「そうか。今度また一緒に食事しよう。ユーイと一緒に食べると楽しい」
明るく云われた何気ない一言だったのに、ユーイは軽く胸が潰れそうになった。一緒にいて楽しいなんて、誰かに云われたことはこれまで一度もなかった。
「・・・嘘吐けよ」
「え?」
「俺みたいな性格の悪い人間、嫌いになるのが普通だ」
テーブルの上に灰皿を見つけたユーイは部屋の主に許可も求めずに煙草を取り出して咥えた。サリュが点火器 を探り当てる仕草をしたので、その前に自分で火を点けた。サリュは微かに溜息のようなものを漏らした。
「ラキのこと?」
ユーイの視線を受けて、サリュは云いにくいことを口にする時特有の間を取った。
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