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第21話
家に帰ってから気づいた。
サリュに対し、もうここには来ない、二人では会わない、友達の一人として付き合っていこう、そう宣言して立ち去らなければならなかったのに、恥ずかしさのあまりそんなことを云うどころではなかった。莫迦だった。あれではただで奉仕をして帰って来たのと同じことだ。サリュはいきなりあんなことをされて、今頃どう思っているのだろうか。
羞恥心に勝てず、翌日は大学を休んだ。雨が降っていた。秋の終わりの冷たい雨だった。
誰も起こしになど来ないので、うっかり惰眠を貪ってしまい、昼過ぎに起きた時には頭痛がしていた。映画館のアルバイトにだけは行かなくてはならない。貴重な出勤日を無駄にするわけにはいかなかった。
キッチンで珈琲を淹れていると携帯電話が鳴った。
着信画面を見て躊躇った。サリュだった。昼休み中なのだろう。着信に出ないまま、放置してみる。またかかってきた。これはいつかと同じ展開になるな、と諦めて、二回目でユーイは電話に出た。
「今日はもう来ないの?」
「・・・ちょっと今日は頭痛がするから」
「大丈夫?今日は仕事の日じゃないの?」
「・・・何で知ってるんだよ」
「前に映画館で会った日も金曜日だったからさ。曜日が決まってるのかと思って」
やはりこの男は昨日のことを全く気にしていないらしい。いつもと変わらない明るさに不平等感が募る。
「仕事には行く。別に一日休んだぐらいで電話なんかしてこなくていい。もう切るぞ」
「待って」
急にサリュの声のトーンが変わった。切実な雰囲気を帯びていた。
「昨日は、ありがとう」
その言葉にユーイの全神経が集中した。電話を持っていた腕の筋肉が少し震えた。
何と答えていいか分からず黙っていると、サリュは更に続けた。
「でも君は今になってものすごく後悔してるんじゃないかなと思って。それで気まずくて休んでるのかなって」
正にその通りだった。思い出すと火を噴くほど恥ずかしい。自分では慣れているつもりでいたのだ。それがこの体たらくとは。
「ねえ、前にも似たようなこと云ったけどさ、俺を避けないでよ」
「避けてるわけじゃない。今日は本当にたまたま調子が悪くなっただけだ」
「ほんとに?いきなり友達をやめるなんて云い出さない?」
「そんなつもりはない。・・・けどさ」
「もう二人では会いたくないか」
全て見通しているような静かな声にユーイは返す言葉を失った。
「ユーイさ、俺のこと好き?」
「はっ?別に好きじゃない」
流石に今の云い方はないかとユーイはすぐに思い直した。今は顔が見えないのだから、その分声色や言葉の選び方に気をつけなければいけない。
「あの、お前はいい奴だと思う。けど、恋愛感情は持てない。悪く思うな」
「だよね。分かってた。でも、じゃあ昨日、何であんなことしたの?」
「・・・何かしなきゃと思ったんだよ」
ユーイはシャツを直してくれたことだけでなく、財布のことを心配してくれたり、食事を作ってくれたり、これまでサリュが自分のためにしてくれた一連の行いを挙げた。
「一方的に世話になってばかりなのは、性に合わない。・・・だから」
「あれ、今までのお礼か何かのつもりだったの?それなら別の形で示して欲しかったよ。他にいくらでも方法はあっただろ」
今更そんな云い方をされるとは思わず、ユーイは気分を害した。嬉しかったと云って抱き締めてきたのはお前じゃないか。第一、あの行為がどれだけ大変だったと思っているのだ。
「何だよ?お前だって、俺に同じことしただろ」
「そうだよ。俺は君が好きだからね。でも君は俺のこと、好きじゃないんだろ?なら、昨日は我慢してやってくれたってこと?俺が喜ぶと思って、恩返しのために仕方なしに?」
百パーセントそうとは云いきれなかった。彼の気持ちには応えられないと分かっていたが、思いがけずあの行為を少し愉しむ自分がいたことも事実だ。
「・・・気に入らなかったなら悪かったな。お前、ああいうことが好きで、慣れてるんだと思ったから」
「気持ちの伴わないセックスは好きじゃないし、そんなものには慣れてない。第一、君は娼婦じゃないんだ。好きでもない相手に軽はずみにあんなことすべきじゃないよ」
娼婦、という言葉にユーイは心臓を掴まれた思いだった。
「君は俺を誤解してる」
どこか悲しげな響きを持ってそう云われた。雨の所為か、サリュの声まで湿り気を帯びている気がする。
昨日、自分の何を知っているんだとこの男に突っかかったが、それは自分も一緒だったと気づいた。自分は外側だけでこの男を判断していた。この男の持つ誠実さに気づいていたくせに、大事なところでそれを忘れた。自分が短絡的に考えすぎていたのかも知れない。サリュから真剣な気持ちは打ち明けられていたのだから、あんなことはすべきではなかった。期待を持たせていると取られても仕方ない。
ユーイは観念して溜息を吐いた。
「分かったよ、お前の云ってることが正しい。悪かった。お前を誤解してたんだよ。俺だってそんな初 じゃないし、あのくらいはしてやれるからいいかなと思ったんだ。実際、やった後はお前も喜んでたし」
「そう、俺も莫迦なんだ。君が本気じゃないって分かってるのに、あの後もずっと嬉しかった。君をもっと好きになっちゃった」
何度目かの告白だった。その声は澄んでいて、陶酔と渇望と相手に振り回されることへの諦めが滲んでいた。
「だから、今日君の姿が見えなくてすごく不安だったんだ」
「・・・明日は行くから。いつも通りにしてろよ」
「俺とも普通に話してくれる?」
「多分、できると思う」
電話を切ってから、ユーイはしばらく抽出し終えた珈琲の黒い水面をじっと見つめていた。
娼婦のようなものなのかも知れない。
ユーイは、自分が他人に与えられるものは体だけだと思っていた。それが唯一で、かつ最上のものだ。自分の内側など誰にも見せられないから。だからせめて外側にある体を使って誰かと繋がりたい。優しくしてくれて、ちょっとでも自分の何かを求めてくれる相手になら、多分、昨日のようなことはできたと思う。
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