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第22話

十一月も何日か過ぎると、いつの間にか雨はほとんど降らなくなっていた。 その日もユーイはアルバイトに向かうために、大学から映画館への道を歩いていた。 今日は金曜日で、公開前から話題になっている大作映画の封切りの日だった。だが昼間の人員に欠勤者が出てしまい、出勤時間を繰り上げて欲しいと責任者から電話連絡が入っていた。きっと館内が混み合い始めているのだろう。制服は新品のYシャツを職場に用意しておくので、授業が終わり次第、一刻も早く来て欲しいと云われた。いつも着ているポロシャツより、長期雇用の社員達が着ているYシャツの方がずっとしっかりしているし、見栄えもいい。今日だけだとは思うが、あの制服を着てみたくて求人に申し込んだ身としては、久々にやる気が出た。 学生が多く行き交う界隈を過ぎ、駅前の大きな通りに出る。もうあと二週間もすれば、町全体をクリスマス休暇直前の賑やかしい雰囲気が町を彩り始める。 ハロウィンの空気をやり過ごすのは簡単だった。それらしいものから、ちょっと眼を逸らしていればいいだけだ。この国でのハロウィンの訴求力は然程(さほど)高くない。だが、クリスマスはそうはいかない。町全体が煌びやかなイルミネーションの渦に呑み込まれてしまう。そこかしこからクリスマスキャロルが流れ、教会からは讃美歌が聞こえる。誰も彼もが年末前の一大イベントを心待ちにしている。 来月の初旬には、大学も休暇に入る。サリュのような地方からやって来ている学生達は、実家に帰って家族で休暇を過ごすに違いない。ユーイは母のいない広い部屋で、父と過ごす気詰まりな長い休暇のことを考えると、今から気が重かった。 眼の前を横切って行った親子連れが、トイショップの扉を開けて入って行った。早々とクリスマスプレゼントの下見でもするのか、それともこの時期が誕生日なのか。 ふと、子供の頃は、と思う。子供の頃は冬の訪れが好きだった。 ユーイの誕生日は一月なので二か月ほど浮ついた気分で過ごしていたものだ。どんなプレゼントをクリスマスと誕生日にそれぞれもらうか、それは毎年真剣に考え、夜も眠れぬほどだった。それは子供時代の自分にとって何を差し置いても重要なことに思えた。あの時、欲しいものは全部、トイショップのショーウィンドウの中に並んでいた。 今、欲しいものは、と考える。 一瞬、母の存在が浮かんだような気がした。 そんなわけはない。けれどその時気づいたのは、十八年一緒に暮らした実の母親の顔が既に(おぼろ)げになっていたことだった。最後に会った時から、まだ数か月しか経っていないというのに。 ユーイ自身が誰かにプレゼントをあげたことがあるのはたった一度だけ。小学校に上がってすぐのことだったと思う。 両親に絵をあげた。二人の似顔絵をそれぞれ一枚ずつ描き、初めてレターセットを買いに行って、手紙を書き絵に添えた。薄いオリーブ色の便箋と封筒だった。当日、それを手渡した時の両親は喜んでいたように思う。 何故そんなことをしたのだろうか。今なら両親が抱いたであろう、その時の有難迷惑な気持ちが分かる。いい大人が、子供の描いた下手な絵や手紙など、本気で喜ぶわけがないのだ。年明けに資源の回収が始まったある日、仕事に出る前の母が手にした半透明のごみ袋の中に、見憶えのあるオリーブ色の封筒が入っていた。封を留める時に使ったクマのシールがビニール越しに見えた。 ショックだったというよりは納得したような気分だった。あの絵も、クリスマスの当日以降一度も家の中で見かけることはなかった。 物思いを振りきるようにわざと一本奥の道へと逸れた。表通りから僅か(ワン)ブロック隔てただけで、明るい喧騒が遠くに聞こえる。この辺りから徐々に、特に観光客などは足を踏み入れるべきではない雰囲気が漂い始める。ここはまだいいが、奥へ進めば進むほどビザを持たない移民や生活困難者の姿が目立ち始め、犯罪も横行している。地元に住んでいるユーイもそこまで足を運んだことはない。精々、表通りから(ツー)ブロック先までといったところだ。ケイとよく呑みにいったバーもその界隈にある。 ケイの存在が頭の中をかすめた、その矢先のことだった。 「やっと見つけた」 人気(ひとけ)の少ない路地で唐突に後ろから声をかけられ、ユーイは体を震わせた。その声を忘れるわけがない。 「久しぶりだね」 振り返ったところにケイが立っていた。地味なグレーのスーツの上にロングコートを羽織って、まるで堅気の人間のような物腰の柔らかさをその身に纏っている。 「電話、出てくれないんだもの。そろそろ探しに行こうかと思ってたところだよ」 そう云いながら以前のように不躾に髪に触れようとしてきたので、ユーイは素早くその手から逃れた。 「やめろ」 「どうしたの?」 「あんなことしといて、一体、どういうつもりで声かけてきてる?お前、俺にぶん殴られても文句云えないんだぞ」 ユーイの辺りを気にしない剣幕に、ケイは些か面喰った様子だった。表通りを歩く数人が、怪訝な表情で道の奥にいる二人に視線を向けて通り過ぎて行った。 「歩きながら話そう。君が怒ってるのは知ってる。けど、頼むから話だけでも聞いてよ」 ケイはユーイの背を押し、連れ立って歩き出そうとした。だがユーイはケイに近づく気はない。警戒心を露わにしてその場に踏みとどまった。相手が少しでも動けば更に身を引く構えだった。 「ねえ、君が怒ってるのは、この前の客のことだろ?あれはうちの上客だ。前に君に紹介しようとしてた人だよ。君の面倒を見てくれるって云うから。条件が多い子でも構わないっていう話だったし、かなり羽振りが良かったと思うけど」 「いくらもらっても、あんなのごめんだ。ひどかった。警察沙汰にしてやれば良かったよ」 「そんなに?何されたの?」 「しらばっくれるな。お前、あの客に俺を売ったんだって?あれがどういう奴だかお前も分かってたはずだぞ。あいつはお前のところで『商品』を買うのは初めてじゃないって云ってた」 「そうだよ。でもあの客は毎回、買った子を大事にするって云って帰って行くから」 「大事にする奴が三回もお前のところになんて来るか」 ユーイはそれきり眼を逸らした。ここまでが限界だった。ケイにはいつも眼で負けてしまう。会話も早めに切り上げた方がいい。ユーイはケイの声にも弱かった。何を云われているかに関わらず、受け入れざるを得ないような気にさせられる。 「相当怒ってるんだね」 ケイは比較的静かな声で云った。 「当たり前だ」 「本当に申し訳ない。俺の責任だ」 ケイは俯いてそう云った。少し間を置き、躊躇いがちに言葉を探している気配が窺えた。 「俺がちゃんとしてなかった。君に必要なことを云わずに悪かったと思ってる」 「必要なことって何だよ?俺を売ったってことを云わなくて悪かったって?」 「俺は君の金銭事情を知ってる。お父さんに頼りたくないんだよね。だから助けたかったんだ。俺の『商品』じゃなくなっても、君が特別な友達だってことに変わりはない。でも君はまだ学生で、世の中のことをよく知らない。こういうことに慣れた気になって、金に困って、よそで変な奴等に引っかかったらと思うと心配だった」 「・・・もういい。お前とは二度と会うこともない」 これ以上話したらまた情に絆される。ケイを振りきって、ユーイは再び表通りに出ようと決めた。 「待って」 「これから用事があるんだよ。遅れるわけにはいかない」 「分かった。じゃあ日を改めよう。それが最後でいい。もう一度何処かで会えない?」 うんざりしてユーイは相手を振り返った。 「何のために?」 「お詫びをしたい。怖い思いをさせて悪かった。あの客をいい人物だと思い込んでたんだ。君とこんな風に別れたくないんだよ。俺達、全く同じ仲間とは云えないけど、そこそこ似てるだろ?俺は今でも君が気に入ってる」 「そんな嘘、信じると思うか?」 「嘘じゃないよ。云っただろ。君は俺の友達だ。可愛い後輩でもある。君は他の『商品』達とは違う」 縋るような光を眼に湛えたまま、無理に薄く笑ってケイはユーイとの距離を詰めて来た。そっと指先に触れようとしてくる。 「・・・触るな」 「頼むよ。ずっと会いたかったんだ」 この男の頼みを、ユーイが断ったことは一度もない。押しに弱いのはとっくにばれている。絡め取ろうとしてくる相手の指先を、ユーイは振り払えなかった。この男に対する疑いが晴れたわけではないのに。 「・・・俺以外にいくらでも『商品』はいるだろ」 「君じゃないとだめなんだよ。仕事とは違う。ずっと君のことばかり考えてた」 痛ましさを感じさせるような物云いは狡いと思う。淡い茶色の瞳が以前と同じように、ユーイを見つめてきた。一見縋っているようだが、その視線には逃れられない力がある。彼は指先を捕まえながら、もう片方の手でユーイの頬にも触れてきた。冷たいようで温い。指の腹で口唇(くちびる)に触れられた瞬間、次に仕掛けられる行為をユーイは(さと)ったのに、近づいてくる相手を避けようとはしなかった。 節操がないのは自分が一番よく分かっている。けれど、例の軽く触れてくるような短いキスをしてくるのだろうと思っていた。 だがケイはあっという間に口唇の間から舌を入れ込んできた。以前、ほんのちょっと舌を入れられたこともあったが、戯れに過ぎなかった。あの時は単純に揶揄われているだけだった。今回は違う。時間をかけて舌が上に下にと這って、絡みついてくる。この男にこんなキスをされるとは思わなかった。身を竦ませてみたがもう遅かった。一か所許したら、そこから全身に絡みついてくる蔦みたいだ。いや、蛇か。一度捕まったら逃げられない。心臓も肺も脳もこの男の舌にもっていかれそうになる。 どうせなら、辞めてもらうとを云い渡したあの日、別れ際にこうして欲しかった。 この男が良い人間でないことぐらい、疾うに理解している。けれど、たとえそうであっても彼の頼みを無視することなどできなかった。 いつも、この男の自分に対するひとかけらの誠意を探していた。あると思いたかった。この体を縛って散々に鞭を振るっても最後の一線を越えようとしなかったのは、どこかで躊躇っているからだと思いたかった。 「・・・だめだ、本当に今日は、忙しいんだよ」 口唇が離れると、以前と同じように逆らえない自分がそこにいた。 こういうのは悪い癖だと思いながらも、ユーイはこの男の最後の頼みを聞こうと決めた。 「けど、来週の金曜の夜なら」

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