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第23話

週末は欠勤したスタッフの穴埋めのために映画館の勤務に駆り出された。 翌週は課題の締切や相変わらずのジギイ達との呑みに付き合い、やっと水曜日に今月の映画館のアルバイト代をもらった。それほど高い給料をもらっているわけではないので、毎回、職場で手渡ししてもらっている。 帰り道、いつも通りかかるカフェの店先に、オールドビーンズの珈琲が数量限定で置いてあった。この店で常時取り扱っている品ではなく、他の店でも見かけたことはない。 数年豆を寝かせてつくるもので、酸味が少なくマイルドな味わいだと聞くが、ユーイは聞いたことがあるだけで飲んだことはない。よく見てみると、普通の珈琲豆よりもずっと値段が高かった。 一度くらいは、と思うが少し躊躇ってしまう。 だがそこでサリュの顔が浮かんだ。 あの男なら、こういうものの価値も知っていそうな気がする。 その時、店員が店先の甲板を片付け、眼の前の売り場を片付け始めた。閉店時間なのだ。ユーイは慌てて、一つだけオールドビーンズの袋を手に取ると、会計を済ませるために店内へと入った。 ここ数日、サリュとは何とかうまくやれていた。 殊更仲良くするようになったというわけではない。半径一メートル以内に彼が近づいても、気にしなくなったというだけのことだ。人前で必要以上に親しみを露わにされるのが苦手だというユーイの意向をサリュは感じ取り、尊重してくれていた。 たまに講義で隣に坐ることもあるし、くすっと笑えるようなメッセージをもらう時もある。グループでの課題について話したり、ランチルームで談笑する際はたまに眼が合うと微笑まれる。だがそれ以上踏み込もうとはして来ない。 サリュはユーイの嫌がることはしない。それでいて、いつでもこちらが親しみを見せればそれに応えてくれる。 彼は全ての友人と親しくフラットに付き合い、どんな話題であっても合わせることができた。異性に関しては、一人一人の名前をきちんと憶えていて、彼女達を傷つけない断り文句を驚くほどよく知っていた。フェミニストだとは云っていたが、女にはとことん優しかった。ノリはいいが興奮しすぎることはなく、怒るべき時はただ悲しげにしていた。 サリュを見ていると彼は生まれながらにして、湧き出てくる優しさや包容力の分量が、自分やその他大勢の人間と違うのだということをユーイは都度思い知らされた。 翌日、大学でユーイはサリュに珈琲豆を手渡すタイミングを見計らっていた。 できれば周囲に誰もいない方がいいのだが、常に大勢に囲まれているサリュ相手にこれは難しかった。殊にこの日は、ミュラニーがいつまで経ってもサリュの元から離れなかった。 痺れを切らしたユーイは「物分かりが良くて優しい男より、ちょっと強引な方が女には受けがいいらしい」というありもしないデータをネット記事で読んだと云って、遠回しにジギイに発破を掛けた。 やっとのことでジギイがミュラニーを連れ去ってくれたと思った矢先、今度はラキが間に入って来た。他に対等の付き合いをしてくれる相手がいないラキはここ最近、サリュのフラットに行く回数が増えたらしい。課題をやったり、ゲームの話をしたりしつつ、たまに夜遅くまでいるらしい。そしてそのラキを押し退けて、今度はフットボールチームの主将達のチーム勧誘が始まった。 とうとうユーイは同じ教室内にいるのに、わざわざ携帯のメッセージでサリュを呼び出す羽目になった。 呼び出した廊下の隅で、周囲に仲間がいないことを眼の端で確認しながら、ユーイはサリュに珈琲を手渡した。と、云うより押しつけた。 「これ」 「え?」 「・・・やる」 ユーイは開けるよう眼で促し、後は黙っていた。サリュは何事かと紙袋を見つめ、中身を取り出した。 「オールドビーンズって書いてある。これ、高かったでしょ?」 「別に、そんなでもない」 「え、これくれるの?」 またしても気恥ずかしさから、ユーイはうまく表情をつくれないまま頷いた。 「・・・お前ならそういうのも詳しいかと思って」 ユーイはサリュを少し見上げてから、また眼を逸らした。サリュは単純に喜んでいた。 「ありがとう。嬉しいよ。でもどうしたの急に?」 どう云うべきか。これこそがちゃんとした返礼だと云った方がいいのだろうか。 でも、それだけではなく。 「明日うちで、これ、一緒に飲もうか」 ユーイはぱっと顔を上げた。 サリュのその言葉が足りないところにぴたっとはまった気がした。確かに、『あげたい』というよりも『一緒に飲みたい』という気持ちの方が強いかも知れない。誰かと何かをしたいと思ったのは久しぶりだった。 「今日はこれから撮影所の仕事があるからだめなんだけど」 サリュは軽い気持ちで始めたモデルとしての仕事が今もたまに入ってくるらしかった。そのほとんどは週末なのだが、ごく稀に平日呼ばれることもあるらしい。 ただ、明日となるとユーイは夜にケイとの約束が控えていた。 「・・・あの」 「あ、そうか。明日は金曜日だから映画館の仕事が入っちゃってるのか」 「いや、先週末にシフトの代わりを頼まれてたから・・・明日は休みなんだけど」 「そうなの?じゃあ明日にしよう。ユーイと飲むまで封は開けないから」 サリュの笑顔は無邪気だった。こんな笑顔を見ていると、この男に警戒心など持てない。そんなものを抱く方がいやらしい人間のような気がしてくる。 それにサリュに渡した珈琲を飲んでみたいとも思う。先刻彼から云われた通り、珈琲豆にかける金額としては少し高くて、自分の分までは買おうと思えなかった。 ケイにメッセージで指示された時間は遅いし、珈琲一、二杯、話しながら飲む時間ぐらいはある。 「じゃあ、明日」 その後どうこの場を締め括っていいのか分からず、手持ち無沙汰にしていると、 「ねえ、ユーイ」 とサリュから呼びかけられた。 「誰か他の仲間を誘った方がいいかな?」 「・・・別に、珈琲ぐらいなら」 そこへサリュの名前を呼ぶ声があった。ユーイの言葉を遮ったのはラキだった。 「ごめん、話してる途中だった?あの・・・ジギイから図書室に資料を返しておけって云われたんだけど、もしサリュも返却したい資料があるなら、今もらおうかなって」 「一人じゃ大変だろ。一緒に行く」 あれほどやきもきしてやっとサリュを捕まえたのに、拍子抜けするほど彼はあっさりとユーイの眼の前からいなくなった。 「じゃあユーイ、明日」 サリュが軽く肩のあたりに手を上げたので、ユーイもつられて手を挙げた。そんな風に彼に応えるのはとても自然なことのように思えた。だがサリュが背を向けた後、ユーイは自分の手を見、素早く下ろした。 その時、ラキと一瞬眼が合った。 あまり彼が向けてくることのない視線だった。 意図がよく分からないのでユーイはじろっと睨みつけてから、教室へと踵を返した。

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