「何か礼をする。今度俺が働いてる映画館に来る時は云えよ。従業員割引でチケットを取ってやる」 「ありがとう。でも割引より、君と観る方がいいんだけどな」 この男はこうして揺さぶりをかけて、こちらが根負けするか口を滑らすのを待っているんじゃないだろうか。ユーイはもう一度、温度に注意しながら紅茶を口に運んだ。 「女と行け。それに、俺に女友達を紹介する話はどうなった？」 本気で訊いたわけではなかった。話を誤魔化したついでに、以前相手が云っていた口約束を思い出したのだ。サリュは面白い話でも聞いたという風に笑い声を立てた。 「あんな話信じてたの？そんな気ないよ」 「は？」 「最初からそんな気なかったって云ったんだよ」 サリュと眼を合わせた瞬間、ただならぬ緊迫感が胸に広がった。一瞬、自分の非を指摘されたのかと思ったほどだった。ユーイは口唇から離したカップをソーサーの上に置いた。 「ちょっと待て。嘘吐いてたってことか？」 「お前が好きなのにどうして他の誰かを紹介しなきゃならないんだよ？」 素早い切り返しだった、お前、と云われたのは初めてだった。ユーイがサリュをそう呼ぶことはあっても、サリュがそんな言葉遣いをしたことは今までなかった。 「そうだよ。嘘を吐いた。あの時そう約束しておけば、触らせてくれると思った」 「何だそれ」 沈黙が流れた。 サリュは真顔だった。瞬き一つしなかった。その大きな瞳はまるでユーイを取り込もうとしているかのような強い光を放っている。 女を紹介するかどうかなど、実際のところどうでも良かった。それより、そんな嘘を吐いてあんな行為に及んだにも関わらず、ここまで平然としていることがユーイには信じられない。 それなのに、何故自分の方が間違いを犯している気になるのか。 あるところでサリュはやっと柔和な表情に戻って視線を落とし、紅茶を一口飲んだ。 「いい子達を知ってるって云ったのは嘘じゃない。初(うぶ)で可愛くて、男達を較べたりしない性格の良い女の子の友達は何人かいる。でも一人だって君に紹介する気はない」 それからティーカップを置くと、クエッチを指先で抓んで口へ運んだ。 「あんなことしておいて、好きじゃないって？俺に恋愛感情は持てない？」 サリュはユーイが行った返礼について云っている。あの日のことを持ち出されるとユーイの足場はぐらついた。先程から自分は、サリュにもらった服を着て、ずっとテーブルの手前に突っ立ったままだ。今になって、試着なんかするんじゃなかったと後悔した。 「あの時、慣れてるなって思ったんだよ。行為自体ははっきり云って然程上手じゃなかった。でも男を相手にした経験は何度かあるってことが、あれで分かった。何処で教え込まれたのか知りたいもんだよ」 「動画の見様見真似だ」 「その割にはわざとらしさがなかった。大体さ、いくら借りがあるからって普通は同級生のを咥え込もうなんて思う？元々、男好きなんでしょ」 「違う」 「それに、君はプライドが高くて言動がきつい反面、すごく寂しがり屋だ。本当は誰かと心を通わせたくて堪らない。だから頼られたり、強く踏み込んで来られると断れない。期待に応えれば、好きになってもらえるかもって思っちゃうんじゃない？だから相手のペースに呑まれて流される」 尚もユーイは否定しようとした。だがサリュが立ち上がったため、喉の奥に言葉が引っ込んでしまった。威圧されたような緊張感が走ったのだ。 「そうじゃないって云うなら、最初ここに来た時、どうして俺に迫られて断れなかったの？あの時は今以上に俺のことを何とも思ってなかったのに。体を縛ってたわけじゃないんだ。男を相手にするなんて冗談じゃないっていう人間だったら、何が何でも逃げ出してるはずだよ」 云い訳ができない。洗い出される。 圧倒される。この男の持つ言葉にも、眼力にも、沈黙にも、笑顔にも。 「淫乱だからだよ。元々の性根が」 「・・・お前」 「今のは言葉が悪かったね。傷ついた？でもね、口ではその気がないって云いながら、ああいうことをしたりさせたりする人間が淫乱じゃなくて何なの？」 ユーイはほとんど放心状態だった。この男は自分がこれまで何をしてきたかなんて知らないはずだ。打ち明け話なんて誰にも、何一つしていない。なのに、どうしてこんなにも自分のことを知っているのか。 震えるな。抵抗しろ。言葉を取り戻せ。時間はかかってもいい。 ユーイは自身を叱咤して、ようやっとのことで眼を上げて相手を見た。 サリュのような観察眼を持っていないことや、弁が立たないことがもどかしかったが、云われてばかりではいられない。この男が優しいなんて、誰が云い出したのか。冗談ではない。愛を囁いた直後に、人を淫乱呼ばわりする男だ。 「そうだよ。男を相手にした経験はある。けどだったら何だ？どんな相手を何人相手にしたか知ってるわけでもないのに、淫乱なんて、どうしてそこまで云える？」 サリュは肩をすくめた。大して悪いと思っているようには見えなかった。 「ごめん、云い過ぎたね。根拠のある話じゃない」 「それで済むか。お前は勝手に騙された気分になって、その腹いせにそんなこと云ってるんだろ。てっきり自分が俺の初めての相手だと思ったのに、そうじゃなかったから。詐欺に遭った気分だったってはっきり云えよ」 「違う、騙されたなんて思ってない」 喰ってかかったユーイに対し、サリュは泰然と構えていた。そして彼はテーブルから離れてユーイに近づいて来た。手を伸ばせば触れられる距離だった。 「君はすごくきれいだった。もちろん、今も」 そう云って悪びれもせず真正面からユーイを見つめてくる。 「君に経験があるって分かっても一ミリも失望なんてしなかった。夢みたいだと思った。あの時、君と本気で付き合いたいって思った」 こんな台詞に惑わされるな。相手は百戦錬磨だ。ユーイはその視線を振り切って、相手を見ないようにわざと体を向けた。 「人を淫乱呼ばわりしといて何だ今更」 「君が俺のものにならないから悪いんだ」 理不尽すぎる言葉だった。呆気にとられたユーイの隙を突いて、サリュは手を掴んできた。両手でユーイの掌を包み込んでくる。 「君を変えたい。過去は変えられないけど、もう誰にも君に触れて欲しくない。もう他の誰かに優しくされてもついて行かないで。俺と一緒にいよう」 「お前、ほんとにおかしいぞ」 「君が俺の前からいなくなったら、その時こそ本当におかしくなるかも知れない」 切実さと狂気が入り混じっている。ユーイは力尽くで手を振り切ろうとしたができなかった。