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第27話

「放せよ」 一言云うと意外にもサリュはあっさりと手を放した。腕力にかけてはこの男に敵わないのは最早明白だった。手首を押さえながら、ユーイは眼でサリュを非難し続けた。 「・・・淫乱だって云うならお前もだ。前に誤解するなって云ってたけど、そんなのに騙されるか。入学してから二か月ちょっとで、一体何人とデートした?お前を信用できない理由はそれだよ」 「俺を信用してくれないのは女の子と寝てるから?」 「女とは限らないんだろ」 ユーイが吐き捨てると、サリュは微笑んだ。その笑みが何を意味するのか、到底ユーイには理解できなかった。こういう状況で余裕たっぷりに微笑むことができるという眼の前の男の心理状態が恐ろしくさえあった。 「俺には小さい時、憧れてた人がいた。幼稚園の担任の先生だったよ。女の人だった」 唐突にサリュは話し始めた。唐突すぎて、ユーイには即、話の内容が理解できなかった。 「自分の中ではあれを初恋としてカウントしてるけど、実際はそんな大層なもんじゃない。優しくて若い女の人が好きだっただけだ。物静かな雰囲気で、いつもいい匂いがして、そういう女の人が初めてだったからかも知れないな。うちじゃ母さんは口うるさかったし、姉さん達は乱暴だったから。俺は先生の周りをしょっちゅう、うろちょろしてくっついて。彼女が担任を外れても、卒園までずっと好きだった。その先生に、大人になったら結婚しようって告白したんだ。卒園式の日だよ」 ユーイは顔を背けた。 「何の話だ?」 「でもね、彼女には婚約者がいた。学期を終えたら夏休み中に式を挙げるんだって云われたよ。それで初恋が終わった。その時の先生の言葉を今でも憶えてる。『あなたにも運命の人がきっと現れる。その出会いがいつになるかは分からない。でも、きっとこの人だ、って感じる瞬間があるはずよ』ってね。俺にとってはそれが君だったんだよ。君に出会うまでは長かった。たくさん恋愛をしたよ」 ユーイはさりげなく視線の先にあった掛時計を見た。ケイに会うために一旦家に帰って準備することを考えると、そろそろ切り上げなくてはならなかった。 「早く運命の人に出会いたくて、とにかく近づいて来てくれる相手とは全員付き合ってみた。手を繋げば分かるのか、キスをすれば分かるのか、それともセックスすれば分かるのか、どのタイミングでどういう感覚になるのか全然分からなかったから、とにかく色々な人とそういうことをした。もっとも、セックスを憶えたのは十三歳の時だけどね」 その言葉にユーイの注意は引かれた。 「十三歳なんて、まだ子供じゃないか」 「だってしてみたかったんだもの」 それ以外に全く理由はないという風にサリュは肩をすくめた。 「でも期待外れだった。その人、季節労働者の男の人だったんだけどね。三十代後半ぐらいだったかな。近所のぶどう園を手伝ってた。俺のこと見かける度に可愛いって云ってくれるからさ。それである時、ぶどう園に連れ込まれてキスされて。それからその人が寝泊まりしてる離れに連れて行かれた。俺のこと運命だと思うかって訊いたら、もちろんそう思う、って云ってくれて。それで人生で初めてセックスした。でも全然良くなかったよ、あの時は痛いだけだった。その人、終わった後も執拗かったんだよな。まあ、それで学んだよ。運命を勘違いしてる人間もいるんだなって」 完全に児童虐待の事案だ。だがサリュにその自覚があるとは思えなかった。サリュの顔に浮かんでいたのは、ペーパーテストのヤマを当て損なった中学生のような軽い落胆の表情だった。しかももう完全に過去のこととして処理している。 「まあでも俺も、高校生になった頃からかな、中には、この子は運命じゃない、って最初から分かってる相手を抱くこともあったよ。君みたいに寂しがり屋な子は他にもいるからね。同情だよ。そういう子に寄る辺ない眼で見られると、どうしても放っておけなくて。ノアを思い出しちゃうんだよ。抱き締めもせずに一人置いて行くなんてできない。それに俺、相手の方から寝台(ベッド)に誘われると断れなくてさ。気づかないふりをして誤魔化そうとしても、いざ雰囲気を作られちゃったり、泣かれたりすると無視できなくて」 「・・・もしかして、ラキとも」 サリュは笑って身振りで否定した。 「彼とは寝てない。彼はあれで意外に(したた)かだよ。あとよく勘違いされるけど、ミュラニーのことも何とも思ってない。彼女にはジギイがいるからね。仲良くはするけど何があっても一線は越えない。でも彼女の友達のマリーナとは寝たよ。前に君が拒否反応を示した時、彼女、すごく怒ってた。だから仕方なく事情を話したんだよ。そしたら、俺がデートすれば君を許すって云うから」 「俺が女が苦手だってこと、マリーナに話したのか?」 「もちろん口止めしたよ。そのために彼女と寝た」 ユーイは溜息が出た。サリュは何も心配要らないという風ににこっと笑った。 「君と出会った瞬間恋に落ちて、自分で自分が信じられなかったよ。自分の感情を疑った。それで大学でも知り合った子達と次々にデートしてみたけど・・・ああ、男も試したよ。でも全部無駄だった。君と出会った時の鮮やかな感覚に勝るものはなかったんだ」 「やめろ。お前には相手が見えてない。そういう奴の云うことは信用できない」 ユーイのはっきりした拒絶の言葉に、サリュはよく分からないという顔をした。 「お前、今まで付き合った相手がどういう人間か、どういう気持ちなのか、真剣に考えたことなかっただろ。運命だとか、同情とか、口止めとか、一体何様だよ?全部自分の都合じゃないか。セックスするところまで云って、その日限りで捨てられたら、相手はどう思うんだよ?」 「その子も自分の運命の相手を探せばいい。もうこの年齢になれば割り切ってくれる子も多いよ。みんな大人なんだし。もちろん、みんながみんなってわけじゃないけど。すぐには理解できなくて執着してくる子もいたよ。何処に行くにもついて来ちゃったり、感情的になって刃物を持ち出してきたり。でも俺、根気強いから。分かってもらえるまで話は続ける。どうしてもだめなら警察を呼んで対処するから」 だめだ。話が通じない。もう会話をすること自体、無意味だ。そうユーイは思った。 「・・・お前、いっそ清々しいほどの自己中だな。周りに親切なのも、相手を思いやってのことじゃない。自分がそうしたいからしてるだけの話なんだよな。・・・もういい」 帰り支度を始める前に、ユーイは自分が使った食器を重ねてキッチンへ持って行った。 「どうしたの?」 「お前は勝ち組の人間だ。どんな人間からも好かれてる。俺なんかと違って」 サリュはユーイが帰ろうとしているのに気づき、笑顔を消した。ユーイは構わずに身支度を始めた。 「みんなが人気者のお前を見てる。お前にだったらきっと何をされても許すっていう奴は、それこそ何人もいる。でもそうやって恵まれてることに気づかずに、他人を使い捨てのサンプルか何かみたいに」 そこまで云って言葉が詰まった。昔のことが頭を(よぎ)ったのだ。 ある日を境に、それまで親しかった全ての人間が自分の周りからいなくなったことを。 何処にも居場所がなかった数年間を。 「・・・お前がちょっとでも他人の気持ちを考えられる人間なら、先刻、俺に云ったみたいな言葉は云わないはずだ。心の中で何をどう思おうといい。けどそれを口に出して云うべきじゃないってことがどうして分からない?」 「ごめん。よく分かった。本当に傷ついたんだね。謝るよ」 サリュは焦りを露わにし、急いでユーイの近くへやって来て、その場に膝をついた。 「でもこれだけは云っておく。運命の相手である君が見つかった今、俺は他の人間のことなんてどうでもいい。大事なのは君だけだ。今後も君のために他の相手を探す気はない。嘘を吐いたことや淫乱だって云ったことが許せないなら今、俺を殴って。気が済むまで。好きにしていいよ」 「・・・何云ってる」 「むしろ、殴ってくれた方がいい。君を傷つけた。無神経すぎたね。本当にごめん」 サリュは大袈裟な態度でこの場を誤魔化そうとしているのではなかった。許しを乞うその瞳に嘘は感じられなかった。 暴力を振るってもいいとこの男は云っている。思わず訊き返したくなった。本当に殴らせてくれるのかと。 その言葉が、ユーイにとってはこの上ない誘惑だった。 「・・・そんなことできないって分かってて云ってるだろ。モデルの顔に傷をつくるなんて大それたこと、普通に考えてやるわけない」 「そんなこといいんだって。本当に君の気が済むようにしてくれて」 「撮影所でも大学でも心配される。周りの人間に迷惑をかけるな」 「今云ったろ。俺は、ユーイ以外の人間はどうでもいい」 サリュはユーイの手を握った。 「何してもいいよ。その代わり許して欲しい。どうしたら、俺のこと好きになってくれる?」 発作的にこの男の首を絞めたいと思った。 だめだ。この衝動に身を任せたら終わる。また全てを失う。 これほど自分を求めてくれる人間が自分の前からいなくなる。 サリュの首を絞めたいと思うのは憎しみからではなかった。むしろそれよりももっと強い、渇きを癒したいと切望する、命そのものからの叫びのようだった。 怪物の咆哮が聞こえた。 だめだ、耳を貸すな。 そう思ったのも束の間だった。 次の瞬間、ユーイは手を放し、足許にいたサリュの肩を思いきり蹴りつけていた。

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