27 / 41

第28話

その体を床に突き倒すと馬乗りになり、手加減なしに喉を絞めつけた。サリュが一切抵抗しなかったので、ユーイの力でも充分彼を征服することは可能だった。 ぞくぞくした。 怪物が背後から胸に手を差し入れてきて心臓を鷲掴みにした。その瞬間、ユーイの意識は体から遠ざかっていった。首を絞めている手の感覚も曖昧になり、夢の中を漂うような靄がかった陶酔感が頭に流れ込んだ。狼狽える間もなく、柔らかく冷たいゼリーに自身の全てが包まれていく。現実の体は、もう代わって別の生き物が支配している。ユーイは先程と同じ景色を冷たいゼリーの中からぼんやりと途切れ途切れに見ているが、手は出せない。 止めることなどできない。逃れるなんてできない。ずっと昔からこうだった。 閉じ込めようとしても無駄だ。 耳の奥にそんな音が聞こえた。 昔から一旦、(たが)が外れると歯止めが利かなかった。 小学生の頃、ユーイは蝶の虜だった。きれいだと思った。 ある日、一匹の蝶がひらりと眼前を通過した瞬間、あれを捕まえなければ、と思った。その意志決定は本能的なものだった。速く飛べるわけでもなく、致命的な毒を有しているわけでもないのに、他の生き物を煽惑するようなその動きが実に美しいと思った。 同級生達と一緒に、すぐに一匹捕まえてみた。彼等と同じように翅の模様ぐらいは観察したが、その後離してやるということはしなかった。捕まえた以上、もうこれは自分のものだ。美しいまま手許に置く方法はないかと考えていると、理科の教師が標本の作り方を教えてくれた。その方法を簡単にメモしたノートを携え、帰路についたところ、自宅近くの公園の隅で蜘蛛の巣を見かけた。 抗しがたい欲求が湧いてきて、虫かごの中にいた蝶を蜘蛛の巣にかけた。糸に足や体が絡んで藻掻く蝶が美しかった。蜘蛛が罠にかかった獲物に気づき、それを捕食するまでユーイは観察していた。 自分が真に欲していたものがそれだということに気づいた。 美しいものを手許に置きたいのではなく、美しいものが苦しむ姿、死ぬ前の断末魔、抵抗を見たい。 何かが体の奥から湧き上がるような昂奮だった。もう一人の自分は顔を背けようとするが、現実の自分を止めることはできない。 そんなことをした天罰だろうか。それからしばらくして、蝶と間違えて捕まえた蛾の鱗粉で皮膚のかぶれを起こし、それ以降、蝶に対する執着は失われた。 あの時、藻掻く蝶から叫び声が聞こえた気がした。 今もあの時と同じ、狂熱ともいうべき昂奮が背中を覆って嗜虐心を焚きつけていた。 サリュの様子を窺う余裕などなかった。そもそもユーイの視界は安定していない。 十数秒ぐらいしたところでサリュが手に触れていることに気づいた。限界を伝えているのだと思う。だがそれを、今のユーイは何とも思わない。ゼリーの中にくるみ込まれ、見ているようで見ていない。むしろ相手の苦悶の表情に、危機感が湧くどころか、ゼリーの外側にある体の熱量が上がるのを感じた。 半開きの口の中で唾液が光っている。そこから詰まるような呼吸が漏れる。相手の口を塞ぐために、自分の口唇を乗せようと顔を近づけた。 その時、不意に携帯電話の着信音が耳に届いた。 遠くから聞こえてきたように感じたそれは、意外にもすぐ脇のテーブルの上で人工的な光を放っている。それを眺めている内に理性が戻ってきて、はっと自分の手許を見た。 ユーイは瞬時に状況を理解した。何が起こったのか、いや、自分が何をしたのか。手の中にサリュの体温が残っている。 サリュは紅潮した顔を苦しげに歪めながら咳き込んでいた。 「サリュ、ごめん、ごめん、死ぬな」 正気に戻ったユーイがそう呼びかけたところ、サリュは刹那、眼を合わせて笑った。確かに笑った。やっぱりこの男はおかしい。この状況でそんな表情ができるなんて。 「大丈夫。生きてる」 そう云う彼の声や態度は非難の色を帯びていない。ぐったりとしながらも、肩を揺さぶるユーイの手を、愛おしそうに触ってきた。気まずくなって、ユーイはその手を引っ込めた。 「初めて名前を呼んでくれたね」 咳き込みながらも嬉しそうなサリュの言葉に、ユーイは混乱しつつも涙が出そうになった。 この男は間違いなく、いかれている。けれどこんな自分を今、一番求めてくれているのもこの男だ。そして最も親切なのも。彼に何度も助けられたことは間違いない。そんな相手にこんなことができる自分は、いかれているどころではないのではないか。二年間、セラピーに通ったのに、何の意味もなかった。 やはり治ったわけではなかったのだ。これは一生ついてまわる。自分が死なない限り、あの怪物も息絶えることはない。 ユーイは立ち上がり、顔を隠すようにして上着と鞄を掴んだ。 「ユーイ?待って、行かないで」 サリュはまだ調子を戻せないでいる。傍にいるべきなのだろう。彼がこんなことになったのは、他でもない自分の所為なのだから。 今ではサリュの誠意を信じ始めていた。だが、自分自身のことはまるきり信じられない。この体の中にいる怪物を飼い馴らすなんてことは絶対にできはしない。自分は誰の傍にもいられない。 「頼むから、俺を()っといてくれ。好きだなんて云うな」 相手に向ける言葉がそれ以上見つからなかった。呼吸の仕方を忘れたように苦しかった。 ユーイはサリュの顔も見ないまま、転がるように部屋を出た。 一度だけケイの首を絞めようとしたことがある。 理由は憶えていないが、魔が差した瞬間があったのだ。軽く躱されてしまった。目打ちのような針で、手の甲を突かれてユーイは正気に戻った。ケイは、こんなのはよくあることだと笑っていた。プレイの最中に行き過ぎた行為に走る客はしょっちゅういるし、夜道で見知らぬ誰かに後ろから殴りかかられることもある。そういう場面に遭遇した時の自らの守り方を彼はユーイに教えてくれた。一番簡単なのはこれだと云って、渡してくれたのがあの防犯アラームと催涙スプレーだった。 ケイのような男といるのは、ユーイにとって居心地が良いものだった。水嵩は足りないが、(ぬる)い湯に浸かっているような心地良さを感じていた。 当然、最初はあの男を信用などしなかった。 ケイはユーイのことを理解しようとも、気遣おうともしなかった。そして無理に変えようともしなかった。自分以外の生き物を押し込んでいる体を、そのままでいいと云ってくれた。そうやって否定されないということが、イコール自身を肯定されていることだとユーイは思っていた。それに完全には理解し合えなくとも、他人に云えないものを抱えている面では同じという、仲間意識を持ってもいた。持っているものが近いというだけで、最初から親近感が湧いた。 初めてケイにキスをされた時は、未経験だということが分からないように振る舞ったつもりだったが、多分ばれていたと思う。キスをしたことで心が触れ合ったような気がした。無意味な行為だとは思えなかった。だから同じことを、客とはしたくなかった。 いつか自分は、ケイと本当のセックスをするのだと思っていた。だってキスをしたのだから。 ケイに、客のところに行ってくれと云われる度、本当は嫌だった。 たまにあの男を、本気で殺したいと思うこともあった。

ともだちにシェアしよう!