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第29話

その日の夜、以前よく呑みに行っていたバーでケイと待ち合わせをしていた。 「良かった。来てくれて」 そう云って煙草を最後に一吸いすると、ケイは人当たりのいい笑顔で店員に会計を頼んだ。 店を出た後、何処へ行くのかというユーイの問いに、ケイはいつものホテルだと答えた。いくらか予想はしていた。今日が最後でいいと云っていたが、またこの男の趣味に付き合わされるのだろう。別に構わない。むしろ、サリュとのことで精神的に消耗していたユーイは、痛みで気を紛らわせたかった。今日はどんなプレイにでも耐えられる自信があった。 ホテルまであと少しというところまで歩いて来ると、ケイは矢庭に足を止めた。 「ここで人を待つ。ちょっと用事がある」 「待つ?誰を?」 「ここで客から『商品』を返却してもらう。そろそろ時間なんだよ。オーバーしたらちゃんと延長料金をもらわないと」 そう云ってケイはその場で再び、煙草に火を点けた。厳密に云えば、この路上は禁煙区域だが、深夜になるとそんなことを気にしている人間は何処にもいない。 ケイの煙草は外国製だ。細い指先に、細い煙草がよく似合う。ユーイに吸うかと彼は勧めてきた。ユーイは申し出に甘えて一本受け取り、火を点けてもらった。ちょっとぐらい仕事に付き合うのは別に構わないが、待ち合わせのバーで一息つくこともできなかったユーイにとっては、寒さが堪え始めている。今日呼び出した彼の真意が何なのかも、ユーイは気になっていた。 「いい服じゃないか」 ケイに云われてユーイはサリュからもらった服を身につけていたことを思い出した。 「その辺の学生が着てる安っぽいものじゃないな。質がいいのが見て分かる。すごく似合ってるよ」 「・・・もらったものだ」 「そんないいものをくれる知り合いがいるのか。俺の知らないところで、一体どんな奴を捕まえたんだ?」 その質問にユーイは答えなかった。 ケイの印象は笑顔だ。彼はいつも笑っている。怒っているところを見たことがない。 ケイは煙草を持っていない方の手で、顔にかかったユーイの髪を耳にかけ、側頭部辺りを撫でてきた。確かめるように指先で髪を梳く。 「君はいいな。こんなにきれいな髪で」 「は?」 相手が揶揄っているのかと思い、ユーイは不愉快さを露わにした。 「眼も真っ黒でとってもミステリアスだ。肌もきめ細かいし」 「冗談じゃない。この髪は扱いにくいんだよ。髪質が他の奴等と全然違う。この肌の色も好きじゃない。もう諦めてるけど、何処へ行っても国籍は?って眼で訊かれてる感じがして。腹が立つ。ずっとここで生きてきたのに、よその人間だと思われてる」 「中途半端な姿をしているより、いっそその方がいい」 そう呟いたほんの一瞬だけ、ケイの瞳が愁いを帯びた。この男の感情の波紋を、ユーイは確かに感じ取った。けれど瞬きをした後は、いつものどこを見ているか分からない、小狡さを含んだ軽薄な色に戻ってしまっていた。 「それにそういうのは個性だ。君にもっと柔軟性があれば、それも武器になったのに」 「武器?」 「というより、商売道具かな?」 「お前の紹介する仕事でか?莫迦も休み休み云え」 ケイは、彼にしては派手に笑った。何が可笑しいのかユーイには分からなかったが、この男と真に理解し合えることは今日もこの先も永遠にないだろう。そういう気がしていた。 「今夜は君に、この前の借りを返してもらわないと」 「え?」 「君をつけあがらせた。それは俺の責任だ」 ケイは短くなった煙草を路上に落とし、その場で踏みつけた。ユーイの上腕をしっかりと掴んでくる。冷然とした微笑に、爬虫類のような感情のない眼が光っていた。 「本当に俺は君のことを気に入っていたんだよ。だからあの上客をつけたのは(はなむけ)のつもりだった」 ユーイが振り解こうとした腕を、何が何でもといった様子でケイは離さない。プレイを始める時もそうだが、前触れもなく狂気じみた気配をこの男は醸し出してくる。 「俺は好意を無下にされるのが一番腹が立つ。世の中、何でも自分の思い通りにいくわけじゃないってことを少し学んだ方がいい。あんないい客、滅多にいないんだよ?」 「何云ってる?ふざけるな」 「ふざけないで欲しいのはこっちだよ。俺があの後どう始末をつけたと思ってる?君がよそで持て余した体を満足させて、いい服を着せてもらっている間に、俺は君が出した損害の穴埋めに駆けずり回ってた。治療費や慰謝料だけじゃ話はつかなかった。会社にまで来られたよ。今もあの客に『商品』を無料で貸し出してる。君は以前から色々問題を起こしてくれてたけど、今回だけは我慢ならない」 こんな時でもケイの笑顔は崩れない。いつも同じ表情で、穏やかな声色で、何が起きてもそれは変わらない。それなのに、どうして時々これほど怖いと思うのだろう。 若干ケイの方が身長が高いというだけで、腕力などにそこまでの差はない。本気で振り切ろうと思えばできる。ユーイが身を捩って腕を引き離そうとしたところ、もう片方の腕を別の誰かに掴まれた。持っていた煙草が地面に落ちた。 振り返ると、ユーイと同い年か、少し歳上くらいに見える面識のない青年が二人そこに立っていた。そのうちの一人がユーイの腕を掴んでいる。獲物を捉えるような、だがどこか事務的で、面倒臭そうな眼でこちらを見ていた。サリュほどではないが、二人とも端整な顔立ちをしている。だがその眼は虚ろで、無感動で、表情がない。白痴美というやつだ。 ケイと入れ替わりに、もう一人の青年がユーイの腕を引き寄せ、シャツの下のベルトを掴んだ。彼等二人の間に挟まれるともう身動きがとれなくなった。 ケイは彼等の更に後方を見遣ると、 「ああ、やっと来た」 と、呟いた。後ろから、誰かがやって来たのだ。 その人物こそがケイの待ち人だった。あの羽振りのいい、いつかの客が夜闇に紛れて現れた。傍らには彼よりも遥かに体格のいい男を一人と、それよりは劣るがユーイよりは腕に覚えがありそうな男をもう一人、用心棒のように従えている。ユーイはその場で、自分が逃げられないことを覚った。 「こんばんは」 既に青年二人に取り押さえられているユーイに向かってその客は丁寧に挨拶をしてきた。 「時間過ぎてますよ」 ケイが笑みを含んだ声で淡々と告げる。 「ほんと、いつも時間に厳しいな。この道、車入れないんだよ。歩いて来たら時間喰っちゃってさ」 「まあ今日はサービスにしておきますよ。じゃあお約束通り、この子と、こっちの二人、ここでチェンジということでいいですね?」 ケイはユーイと青年達をそれぞれ指しながら客に訊ねた。既に客とケイの間では、何かしらの約束事が交わされているようだ。 「面倒だからこの二人にこの黒猫ちゃん、ホテルの部屋まで連れて行かせてよ」 「この子達じゃなくても、後ろのご友人方にお任せしたらどうです?」 ケイは大人数で移動して目立ちたくないのはもとより、無駄な手間と時間が惜しいと見えた。だがあくまで表情には出さずに渋った。 「だめだよ。こっちの二人には、ぎりぎりまでその子に触るのは我慢してもらう」 それからその客はユーイの方に視線を向け、無遠慮に頭に触れて髪をかき上げてきた。 「久しぶりだね。俺のこと、憶えてるかな?」 ユーイはそれには答えず、相手を睨みつけた。相手の顔面にはまだほんの少し、あの時のものと思われる赤黒い痣が残っている。 「別に大声を出してもいいんだよ。そのぐらい抵抗してくれた方が燃えるんだけど」 ユーイは黙っていた。今、腕を掴んでいる若い男二人から運良く逃れられたとしても、この客の傍らに控えている体格のいい男二人が黙っているとは思えない。この客自身も、そしてケイも、足止めをしてくるだろう。六対一ではどうしようもない。 ユーイは抵抗するのを諦めた。素直に従った方がまだ安全だと判断した。物分かりのいいふりをしたからと云って彼等が手加減して扱ってくれるとは限らない。だが下手に抗って彼等を刺激したら、それこそどうなるか分からない。この客は正に、そういう反応を『そそる』と取る輩なのだから。 彼等はユーイを取り囲み、拘束している状態が外から見えないよう、目的のホテルまで移動した。 自分がどうなるのか、ユーイには想像がつかなかった。だがひどい目に遭う予感はしていた。ケイはそこまで酷薄な行いをする男ではないが、他の男達はどうだろう。 そして通行人やホテル内ですれ違った他の客がこの状況に気づいてくれないかとも願ったが、静まりかえった深夜の町のどこにも、ユーイの救いはなかった。目的の部屋の前まで来ると、青年達はあっさりとユーイを手放した。それと同時に、客から金を受け取ったケイも颯爽と身を翻した。 「じゃあ、俺はここで」 ユーイは信じられない気持ちでケイを見た。後ろでは、客の連れである男の一人がカードキーを通して部屋を開けにかかっている。ケイはユーイと眼が合うと、僅かな憐憫を含んだ眼をして近づいて来た。 「自分はあの子達とは違うって思ってた?」 ケイは先程の青年達が立ち去った方向を示して訊ねた。 「本気で自分は『商品』じゃないって思ってた?最初に俺が君の我が儘を聞いた所為で、そういう勘違いをさせちゃったんだね。俺が君で遊んでたのはちょっとした気紛れだったんだよ。だって君は俺と同じ混血(ミックス)で、高校の後輩で、何て云ったらいいかな、そう、同族みたいなものだったから。ちょっと甘やかしすぎたとは思ってた。あれこれ条件を云える立場だなんて誤解させたまま、客のところに行かせたりしてたのは良くなかったよ。ちゃんと躾ける機会を逃してた。それが俺の間違いだったんだ。でも、もう今となってはどうでもいい。お客さんにちゃんと償ってね。体で」 その時になって初めてユーイは、この男を本気で怒らせてしまったのだということと、彼に、自分に対する情などひとかけらもなかったということを理解した。自分をこんな形で裏切る男の顔をこれ以上見ていられなかった。彼の最後の誘いに応じたのは、本音のところでは自分を拾ってくれたこの男の誠意を信じたかったからだ。けれど、そんなものは初めからなかった。碌でもない人間を信じていた自分の見る目のなさを、この場で嫌というほど思い知った。 この男が自分を否定しなかったのは、その方が彼にとって都合が良かったからだ。あるいは、どうでも良かったのかも知れない。 失望を拭いきれないままでいると、ケイの気配が消え、部屋の扉が開く無機質な機械音が聞こえた。

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