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第31話
足先から入り込んだ冷気が背筋に走る。
寒さの所為で体が震えているのだとユーイは思い込んだ。喉が渇いて仕方がない。体を動かす度に体のどこかしらが痛んで、満身創痍とは正にこのことだと一人思う。
ほぼ部屋から引きずり出される形でホテルを後にした。しばらくは捨て置かれた道端の石段から動けなかった。強引に服を着せられたが、部屋の片隅にでも転がっていってしまったのか、靴は片方しか履かせてもらえなかった。
このまま居ても凍えてしまうと思い、少し前に思い歩き出したものの、深夜でタクシーは見つからないし、既に路面電車 の終電は出ていた。全身の痛みで普段通りには歩けない。それでもユーイは一歩ずつ歩を進めることにした。途中、ショーウィンドウを覗いて身形だけは整える。顔はなるべく髪で隠した。
頭がぼんやりしていたが、とにかく行き倒れになるわけにはいかないという思いだけで歩き続けた。
これで自分の間違いを正して、自分の責任をとったことになるだろうか。
父のいる自宅には、どうしても帰る気になれなかった。父が仕事でいない可能性もあったが、わざわざ電話をかけて確かめる気にもなれなかった。
知られたくない。
失望と落胆、不安、軽蔑。
女友達を殺しかけたあの時のように、またあんな眼で見られるぐらいなら、無関心でいてくれた方がずっといい。
とはいえ、この体が自分一人の手に負えないことは分かっていた。シャワーを浴びたかったが、指は骨折しているだろうし、眩暈がする。背中が燃えるように熱いが、傷がどうなっているかちゃんとは確認できていない。
こうなってみて、自分には誰一人頼れる人間などいないということに改めて気づいた。
当然だ。もう何年も、上っ面の付き合いしかしてこなかった。他人に一切興味を持たず、面倒にも首を突っ込まず、人間関係の上澄みの中だけを泳いで生きてきた。家族とさえ、そんな関わり方しかしてこなかった。誰も好きにならない。そう決めて何年間も生きてきた。何もかも全部自分の所為だ。こんな自分を本当に気にかけてくれる人間などいない。
もし今、死んだとしても、誰も。
破れたトップスの間から風が入り込んできて、その部分をじっと見つめた。
何処をどう歩いたのか、道中の記憶が曖昧だが帰巣本能が働いたかのようにユーイはサリュのフラットの前まで来ていた。
どうせならあの男の真意を確かめてから死んでやろうと思った。あの誠意が本物か偽物か。口ではあんな大仰な愛を謳 っていたけれど、面倒を持ち込まれると覚 った途端、門前払いをするに違いない。きっとそうされるだろう。文句は云わない。
そしたら自分はもう、何の心残りもなくこの世の中に絶望できる。
建物の外のブザーを押す。出るまで押すつもりだった。何度目でサリュが出たのか、数えていなかった。
「・・・サリュ」
絞り出すように名前を呼ぶと、一瞬の間の後、外のゲートのロックが解除された。
這うように無機質な階段を上がり、部屋のインターホンを押した。壁に寄りかかって体の痛みに耐えていると、扉が開いた。
明らかに寝ていたところを叩き起こされたという感じだった。間の抜けた表情に心が休まる。どっと安心して、疲労感に呑み込まれそうになった。が、サリュの方はユーイの顔を見た途端覚醒したらしく、肝を潰されたような顔をした。
「どうしたんだ、その傷」
答えようとしてできなかった。眩暈と共に視界がぐらりと揺れた。何とか戸口で踏み止まった。
「・・・水が欲しいんだけど」
掠れた声でそう頼んだ。深夜に訪ねて来て飲み物を要求をするなど、常識外れを通り越して正気を疑われるとは分かっていた。だが、例の悪魔達に体を使われている最中も、先程死を思った瞬間も脳裏を過 ったのはこの男のことだった。
灯りの下に佇んだ自分は相当ひどい有様だろう。今ならどんな聖人の崇高な表情も歪ませることができるはずだ。体中から尿と精液の染みついた非常に不快な臭いを放っていたし、髪の一部は乾いた精液でもつれて指一本通らない。服は汚れているか、破られているかのどちらかで、靴も片方履いていない。暴力に晒された顔面は人間のそれではなくなっているのではないか。口唇も瞼も鉛のように重い。どこもかしこも血がこびりついていて、眼も当てられない状態だ。
それにも関わらずサリュはすぐに家の中に入れてくれた。
「そこへ坐って」
サリュはユーイを寝台へ誘 った。ありがたかったが、今の自分は人生の中で一番汚いと思う。
「体が汚れてるんだよ。寝台を汚したくない」
「そんなのどうでもいい。怪我してるんだから楽にしろ」
体の痛みでコートを脱ぐのに苦心していると、すぐにサリュが手伝ってくれたが、シャツに滲む血に気づいたのだろう。そこで彼の手の動きが一瞬止まった。
「救急車を呼ぶ」
「嫌だ。やめろ」
「悠長に朝まで待ってかかりつけ医に行く気か?緊急事態だろ、どう見ても」
「救急車は高い」
「何云ってるんだ。そんなの俺が払う。いくらかかったって構わない」
サリュはすぐに寝台の脇にあった携帯電話を手に取った。
「いや、その前に水が欲しいんだったよね。ごめん、慌ててた」
昼間、云い争ったことや首を絞めて殺しかけたことをこの男は何とも思っていないのだろうか。それともそんなことが持ち出せないほど自分の見た目がひどいのか。
水のグラスを持って来たサリュが、途中まで不安げな顔をしていた。渡す直前で、無理に微笑んだ。何とか安心させようとしている笑みだった。冷静になろうとしているのだろうか。この男のこんな表情は見たことがない。
「大丈夫」
傷に触れないよう注意しながら優しく肩に触れてきた。
「病院に行けばすぐ楽になるよ。一緒に行こう」
優しい声に安堵感が込み上げてきて、ユーイは脱力してしまった。不覚にも泣きたくなった。
「病院に行ったら、親父に連絡がいく?」
「状況によると思うけど、嫌ならそれは俺が請け合うよ」
そう云ってサリュは携帯電話を手に取った。彼は出血多量の怪我人がいると伝え、場所を伝えると最後に急いでくれと一言告げて電話を切った。
「少し大袈裟に云っておいた方が急いでくれる」
そうか、と応じたつもりだった。
「ユーイ、ユーイ?」
「・・・え?」
「寝ちゃだめだよ。ちゃんと気をしっかりもって」
その必死な声に、自分が気を失いかけていたことを知る。ユーイは額を押さえ、ぐらつく脳と視界を何とか鎮めようとした。
「・・・下着を貸してくれないか?」
ユーイは俯いたままサリュに訊ねた。
「え?」
「買いに行きたかったけど・・・もうこの時間じゃ、店が閉まってて」
こんな情けない頼み事をしたくはなかったが、病院に行くとなると他の人間に下着を着ていないことを知られる可能性があったので、頼まざるを得なかった。
例の客は、行為の後でユーイの持ち物を物色する男二人をみっともないと云って牽制した。その代わり、床に落ちていたユーイの下着を拾い上げると、匂いを嗅ぎ、頬擦りして懐にしまい込んだ。
「お金をあげるよ。これで傷を何とかしたらいい」
床に倒れて動けなくなっているユーイの眼の前に、ひらりと一枚の紙幣が落ちてきた。
「それからこれがタクシー代。もう電車がないからね」
更に最初の半額の紙幣が一枚、その後で、その三分の一の額の紙幣が落ちてくる。それは下着代だと云われた。最後にチップだと云って小銭が頭の上に何枚かばらまかれた。下着代より安かった。
「お金はそう簡単に手に入らないんだよ。前回たくさんあげたでしょう?」
「・・・これっきりだって、約束しろ」
ユーイは咳き込みながらやや体を起こして相手を見上げた。
「もう絶対、俺の前に現れるな」
「現れるわけない。君、まだ自分に価値があると思ってるの?」
財布をしまいながら、客の男は嘲笑を漏らした。
「それはもうこの二人が食べ尽くしちゃったもの。料理を食べきった後の皿に興味はないよ」
救急車は十分とかからずに到着した。車内にいたスタッフが、ふっと顔を背けたので相当臭いがきつかったのだとユーイは思う。それからサリュを見た。この男はまるでそんな様子を見せなかった。たった今、会ったばかりの人間が顔を背けたくなるぐらいひどい状態だというのに、ずっと傍にいて、この体に触れてくれていた。何故この男にはそんなことができるのだろうか。
救急外来の医師は体のかなり広範囲に傷があることを知ると、やはり全ての服を脱ぐように云ってきた。サリュに下着を借りておいて本当に良かったと思った。そのままレントゲン撮影まで行われた。
病院での診察で、多数の打撲、裂傷、右手の中指は亀裂骨折、薬指は捻挫をしていると云われた。頭を打ったことによりしばらくは頭痛があるかも知れないが、視神経や指以外の骨などに異常は見られないということでほっとした。頭痛と眩暈、顔の腫れが引くまでは二週間ほどかかるらしい。
何が原因だったのかを医者に話さなくてはならない段になって、サリュには診察室の外に出てもらった。警察沙汰にはしたくなかったので、合意の上のハードなセックスが原因だと医者に話すと、彼は個人的な領域に入り込む際の最大限の配慮を示しながら、パートナーに虐待は受けていないかと訊ねてきた。どうやら付き添って来たサリュが、セックスパートナーだと思われているようだった。彼はただの友人であって、これは別の人間にやられたものだ、事件性はない、脅かされてもいない、誰かを訴えるつもりもないと云うと医師は溜息と共に、
「大人だからそういうのは自己責任だけどね、まあ若いとはいえ、ほどほどにしなさい」
と云って診察を終えた。
サリュが戻って来てから、抗生剤を投与され、一日入院をするか帰宅するかを訊ねられた。ユーイが躊躇っていると傍にいたサリュが、
「帰りたくないなら、俺のフラットにおいで」
と一言声をかけてくれた。救われた思いだった。
サリュのフラットに戻ることにした。傷の手当てをしてもらい、痛み止めの処方を受けて、病院を出た。既に夜が白々と明け始めていた。町全体が冷えきっている。ユーイの足先にも、今にも霜が下りそうだった。携帯電話を見ると、気温は五度だと示していた。
タクシー乗り場に向かう道中、ユーイはサリュに訊ねた。
「何で帰りたくないって分かった?」
「何となく。お父さんに心配かけたくないんだよね?」
「・・・何があったか訊かないのか?」
「訊きたいよ。でも、ユーイが話してくれるまで待つ」
やはり無理に微笑んでサリュはそう云った。
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