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第32話

その言葉通り、サリュはフラットに着いた後もユーイの怪我の具合だけを心配し、あれこれ訊いてくることはなかった。帰宅後、ユーイは着ていた服を見て溜息を吐いた。 「・・・もらったばかりの服をだめにした」 デニムはまだ使えるが、引き裂かれたトップスはもう元には戻らないだろう。サリュの好意を、彼にとっては埒外の世界で取り返しのつかないものにしてしまった。人から物をもらったことなんてものすごく久しぶりだったのに。傷の痛みに更に重い罪悪感が重なる。 「気にすることない。今度は一緒に服を買いに行こうよ。もっと君に似合うものを買ってあげる」 サリュはユーイの着替えを用意しながらそう云った。 その後でサリュは(おもむろ)にぬるま湯を琺瑯の盥に注ぎ、それを寝台の下に持って来た。そして寝台にビニールを敷き、更にその上にバスタオルを敷いて、ヘッドボードが足許にくるようユーイに横たわって欲しいと告げた。フェイスタオルを柔らかく丸めてユーイの首の下に当ててくる。 「頭をマットレスより上に出してくれる?・・・そうそう」 「・・・これ何?」 「髪を洗うよ。さっぱりしたいでしょ?」 突然のことだった上に、寝台での洗髪などユーイには経験がなかったので初めは途惑った。 「背中が少しつらいかもしれないけど、なるべく手早くやるからね。頭に傷がなくて本当に良かった。明日、ドライシャンプーを買って来るから」 ユーイの体は診察後、看護師によってある程度清められていたが、顔や髪はそのままの状態だったので、確かに何とかしたいとは思っていた。 介護職を目指しているのかと思うほど、サリュは髪を洗うのが上手で顔や耳にお湯が一切入らなかった。ビニールを広く敷いていたので寝台も全く濡れていない。タオルで拭い終わると、髪が引っかからないよう注意して髪を梳かし、ドライヤーを当ててくれた。 「手を怪我してるんだから、何もしなくていいからね。ゆっくり眠って。とりあえず明日明後日は、週末で休みなんだし。何か欲しいものがあったら云うんだよ」 サリュは寝台をユーイに開け渡し、自分は簡易マットを敷いて床に寝ると云った。ユーイは自分の方が床で寝ると遠慮したが、傷に障るといけないからとサリュは頑なに寝台を譲った。 「おやすみ、ユーイ」 おやすみ、と小さな声で応えた時、小学生の頃のサマーキャンプを思い出した。 誰かの家に泊まるなんて、何年ぶりだろうか。 薄闇の中でも映えるテラコッタ色の天井に、外からの燈が射している。 とても不思議な気分だった。普段、心の外側で考えていることがきれいに剥がれ落ちて、まっさらな素の(まる)い心に戻った気がした。これほどこの男を頼ってしまった後では、後から何を要求されても文句は云えない。それを分かっているからこそ、今の自分の感情にユーイは途惑っていた。 こんな風にサリュに身を任せることが嫌ではなかった。 この男の思考にはついていけない。確かにそう思っていたのに、他でもないその人物の優しさに頼って、今この場で安心しきっている自分が信じられない。打算的な気持ち、たとえば今だけサリュを利用しようなどという気持ちは微塵もなかった。 少しおかしくたっていい。 こんな自分を好きだとはっきり云ってくれるこの男と親しくなりたかった。 本当はずっと前からサリュのことが気になっていた。出会った時から。 何も云わなくても、この男だけは特別な気がしていた。けれどそう感じているのは自分だけなんじゃないかと思うと、口惜しくて寂しくて、気にならないふりをした。サリュは人気者だったから。顔が良くて、話がうまくて、誰にでも優しい。そんな理由で取り囲んでいる連中とは違うんだと思わせたくて、わざと興味のないふりをした。 自分を雁字搦めにしていた鎖から解き放たれて、やっとここへ来られた。そんな気がする。 この男の何に惹きつけられているのか、今もっても分からない。 けれど自分の本能というべきか、魂というべきか、そういった言葉では云い表せない感覚が初めからこの男に働いていたのは確かだ。 食べ物の匂いで眼が醒めた。朝になると、既にサリュは起きていて、キッチンで食事の準備をしていた。掛時計は午前十時半を指している。サリュはなるべく音を立てないよう気を遣ってくれていたし、カーテンも閉め切ったままだったが、ユーイは自然に眼が醒めてしまったのだ。背中の傷を庇って寝ていたためか、全身の筋肉が痛んで起き上がれなかった。仕方なくうつ伏せのまましばらくキッチンを眺めていると、皿をトレイに乗せてカウンターを横切って来たサリュと眼が合った。 「おはよう」 「・・・お、はよう」 「今、食事ができたところだよ。リゾットだから、少し冷ましたら寝台に運ぶね」 「いい。そっちに行く」 「無理しないで横になってて。ああ、そうだ。先に顔を拭こうか。やってあげるから」 ユーイが遠慮する間もなく、サリュはバスルームへ引っ込んだ。そしてハンドタオルを持って来ると、小さめのボウルにキッチンでぬるま湯を注ぎ、それでユーイの顔を拭うと云ってきた。熱すぎず、冷たすぎず、気持ちが良かった。優しい手つきで、なるべく傷に響かないようにサリュは注意を払ってくれていた。 サリュは睫毛が長く、幅の広い二重で、きれいな眼をしていた。注いでくる視線は以前と変わらなかった。以前ほどこの男に近づかれることに抵抗がなくなっている自分に気づく。 「・・・あんまり見るなよ、ひどい顔してるんだから」 「そんなことない。大丈夫、すぐ治るよ」 「昨日、病院とかでかかった金は、ちゃんとまとめて払う」 「金なんかどうでもいいよ」 「大事なことだろ」 サリュは一度ユーイと眼を合わせてから、顔を拭いていたタオルをボウルの水に浸した。 「確かに俺だって大した貯金や手持ちはない。でも君のためなら明日からストリップ劇場の受付でバイトしたっていいし、何なら電話で親に嘘を吐いて金を無心しても、心は痛まない。そんなことを気にして、遠慮するのはやめろって云ってる。それから君が話す気になるまでは何も訊く気はないけど、その傷が誰かの所為だとしたら、俺は絶対そいつを許さない」 真剣すぎて痛いほどの誠意がユーイの胸に突き刺さった。心配のために彼はあえて厳しい顔でそう云っていた。 本当のことを知ったら彼はどう思うだろう。売春まがいのことを繰り返し、ある時、金を持ち逃げしたためにその制裁を受けた。そんなことを云えるはずがない。 顔を拭き終わると、サリュはグラス一杯の水と小さなボウルを持って来た。 「口をゆすいだら少し頑張って食事をしようか。ちょっとでも栄養を摂らないとね」 食事の前にユーイはバスルームを借りた。薄手のタオルを一枚借り、それをたっぷりと水で濡らして下半身を拭った。本当ならシャワーでしっかりと汚れを洗い落としたかったが、肩は上がらないし、両足にも傷がある。 雑に何度も扱かれた所為か、ペニスに少し擦りきれたところがあるらしく痛みが走った。昨日起きたことを思い出さないようにしばらく意識を逸らしていると、扉の向こうでサリュが呼ぶ声がした。 翌日も、更にまたその翌日も、サリュはユーイを部屋に置いていてくれた。 父に怪我のことを知られたくない上に、まだ一人で身の回りのことができないユーイにとっては本当にありがたいことだった。サリュはユーイが遠慮しないよう何でも進んでやってくれ、一度たりとも金のことは口にしなかった。 自力で風呂に入れるようになるまでは、サリュがユーイの髪を洗い、体を拭い、背中の傷が膿まないよう丹念に薬を塗った。病院の再診にも大学を休んで付き添ってくれた。ユーイは自分の家に帰るべきだと何度も思ったが、顔の傷痕が腫れあがり、数日間は物がよく見えなかった。そんな状態で父に出くわしたら、傷の理由を問い詰められるのは眼に見えていた。本当はサリュにも顔を見られたくなかったが、世話をしてもらっている以上そうもいかない。彼はリゾットやスープなど、食べやすいものを飽きないように工夫して作り、ずっと留守番をしているユーイが退屈しないよう、有料チャンネルのトライアルに申し込んでくれたり、コミックや映画を友人達から借りて来てくれたりした。 顔の痛みと腫れでナーバスになっていると、 「君はいつだってきれいだよ」 とサリュに云われたのでユーイは思わず笑ってしまった。笑うと顔の筋肉が刺激されて痛かった。少し涙が出た。

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