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第33話

「今日はキャビオの煮つけを夕飯に作るからね。退屈だろうけど、なるべく早めに帰るから」 サリュは大学に行っていても、昼過ぎになると必ず電話をかけてきた。 以前は一人でいる時間が何よりも気楽なユーイだったが、今ではサリュが帰宅する時間が近づくとそわそわする。話し相手が戻って来るのを待ち詫びている自分がいた。最初の何日かは遠慮こそしたものの、不思議と共同生活による疲れが募ることはなく、むしろ充足を感じるようになっていた。 サリュと一緒にいる時は、傷の痛みが軽くなる気がする。 「わざわざ夕飯の予告のために電話して来なくていい。・・・どうしてもって云うなら、メッセージでもくれれば」 「声が聞きたいんだよ。ちゃんと部屋にいるよね?だめだよ、勝手に帰っちゃ」 サリュは用事があるからというより、ユーイの居所を確かめるために電話をしてきている風があった。 だがこの心配は杞憂だとユーイは思った。実は、一人で出歩くことが怖くなっていたのだ。 部屋の窓を開け放ち表の様子を眺めていた際に感じたことだが、外からの刺激に対して異常に過敏になっていると気づいた。音がやけに大きく耳に響く。車のクラクションや建設工事の音、見知らぬ若者達の笑い声がいちいち胸の奥に響いて心臓が割れそうだった。 何をびくびくしているんだ。何も怖いものなど、ここにはないじゃないか。きっと室内で過ごす静かな時間に慣れすぎた所為だ。これではいけない。顔の傷が治ったらすぐにでも大学へ戻らないといけないのに。 まずは第一歩と思い、夕方に階下のポストに郵便物を取りに行った。久々に外の冷気を全身に感じる。 そうか、この建物にはセントラルヒーティングがないから。 そんなことを思いながらサリュに借りたセーターの袖を捲りつつ、階段を下りて行く。人の気配はなかった。誰にも会わないままポストの中の郵便物を回収し、踵を返そうとしたその時、見知らぬ住人がロビーの扉を開けて入って来た。住人は挨拶をしながら固まっているユーイの傍を通り過ぎ、自分の部屋のポストを開いて何も取り出さずに閉めた。挨拶も返さずその場に立ち尽くしているユーイを、彼は怪訝な眼で一瞥するとさっさと階段を上がって行った。ユーイはその後もしばらくその場から動けなかった。 部屋に戻った途端、何の前触れもなくあの夜の記憶が蘇ってきた。室内から酸素が抜かれたかのように息ができず、死にそうな思いをした。後からそれが過呼吸だったと知った。 これでは普通の生活ができなくなる。 眼の前が暗くなりかけて、だめだ、と踏みとどまった。 こんなことではこの先、生きていけない。 自分は生きて、まずサリュに恩返しをしなくてはならない。そのためには自分で自分のことができるところまで、まず回復しなければ。 体が少し動くようになると、ユーイは家の中の家事を少しずつ手伝って、微力ながらもサリュの負担を減らそうとした。 財布の中身はあるだけサリュに渡した。サリュは最初受け取ろうとしなかったし、彼が金など欲しているとはユーイも思ってはいなかったが、今、自分が渡せるものはそれしかなかった。 受け取らなければ出て行く、とユーイが云うと諦めた様子で金を受け取った。そして封筒を一枚取り出して来るとユーイの金を全てその中に入れ、テープで留めて抽斗(ひきだし)にしまった。それきりその封筒が抽斗から出てくることはなかった。 医師の診断通り、二週間を過ぎて顔の腫れが治まってきたので、傷痕は残っていたが単位のため大学に戻ることを決めた。サリュは無理しない方がいいと云うが、これ以上室内にいる生活を続けていてはいけないと思った。単位を落としてしまうし、何より内に籠る期間が延びるほど焦燥感が募っていった。それに一人で部屋にいると、気を紛らわすものがなくなった途端、不安になるのだ。 「外に行った方が気が紛れるし、余計なことを思い出さずに済みそうなんだ」 と、ユーイが申し出るとサリュはそれなら大学へ戻ってみようと云ってくれた。 だがユーイは、音が耳に響くことや過呼吸で倒れたことを一切サリュには打ち明けていなかった。ただでさえ体の傷のことで心配をかけているのに、自分の精神面のことまで心配させるわけにはいかない。 強がりを通しながら大学に到着し、一時間も経たないうちにユーイはトイレで吐いた。泣きたいほど情けなかった。 嘔吐の合間にサリュには講義室へ戻るよう云ったが、彼は頑としてユーイの傍を離れなかった。 「単位を落とすのが嫌なのは分かるけど、もう少し休んでもいいんじゃない?怪我のこと、教授に打ち明けてみるとか。鬼じゃないんだ。怪我の診断書を持って行けば、今期はレポートとかで対応してもらえるかも」 サリュの云う通りだと思うし、心配されるのも無理からぬことだとは思ったが、だからといってまた家にいる生活に戻ってはいけないと思う。これでは社会不適合者の烙印を押されてしまう。あんな奴等にされたことの所為で。それにここで逃げたら、過去の莫迦な自分が犯した(あやま)ちの責任もとったことにはならない。それに自分がいつまでもこんな風では、サリュも落ち着かないだろう。 翌日、ユーイは大学を休み、サリュがいない間に行きつけのセラピーへ行って、それらしい不調を訴えて睡眠薬と、精神安定剤を処方してもらった。そのぐらいは慣れたものだった。何を用いようが、この恐怖心に負けるわけにはいかない。町のどこかにあの男達がいて、どこかでばったり出くわすのではないかと思うと、一人で出歩くのは確かにまだ怖かった。だが否が応でも以前の環境に戻してしまえば、最初は辛くとも体がそのうち順応してくるはずだ。ユーイはそう考え、あえて自身に負荷をかけ続けた。 そうして熱を出した。まだ心身の傷が癒えきっていない体で、無理をし続けたことがいけなかったのだろう。大学に戻って三日目のことだった。受講中、何となく体の変調には気づいていたが、フラットへ帰った直後、急激に熱が上がった。 夕食ができたとサリュに告げられて立ち上がったところ、ひどい立ち眩みがした。その頃には既に体の節々に痛みが走り、寒気にも襲われていた。 細々と食事を摂り、その後で風邪薬を探しにかかった。だが結局見つからず、救急箱の在処を訊いたことがきっかけでサリュに体調不良がばれた。しかも風邪薬は切らしているという。 ユーイに横になっているよう告げると、サリュはすぐにコートを着込んだ。一番近い薬局は七〇〇メートルほどのところにあり、閉店は八時だった。この薬局は一分たりとも受付を余分に開ける気がないことで有名だった。携帯電話が示した時刻は七時五十四分だった。 「まだ間に合う。薬を買って来る」 「もう明日でいい。あと十分もない。下手したらもう半分シャッターを閉めてるかも」 「走れば間に合う。シャッターを押し上げてでも受付に滑り込むよ」 サリュは何でもないことのようにそう云い、任せて、と云って部屋を出て行った。 束の間の眠りに落ちながら、ユーイはどうしたらこの男の優しさに報いることができるかずっと考えていた。

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