33 / 41

第34話

十二月に入ってからすぐのある週末、ユーイはサリュが撮影のアルバイトに行っている間に、一人帰り支度をした。自分が借りていた服や敷布(シーツ)などを全て洗濯し、できる限り部屋を整えてサリュを待った。いつものように買い物を終えて帰宅したサリュは、ユーイの恰好を見て落胆した表情を浮かべた。 「帰っちゃうの?」 「俺にも一応家がある」 「そうか、そうだよな。・・・流石に、親父さんが心配するか」 「それはいい。けどもう二週間以上、ただで置いてもらってる」 「そんなこと気にしなくていいのに。俺はむしろ、いてもらってると思ってるぐらいだ」 「ありがとう」 初めてユーイはサリュに向かってきちんと礼を云った。本心からだった。 「お礼なんていいよ。君に頼ってもらえて嬉しかった」 ユーイは床に置かれた買い物袋の中を見た。その一個のビニール袋の中にサリュの愛情を感じた。果汁一〇〇%のりんごジュースが入っていた。ユーイが好んでいる銘柄のいちご味のヨーグルトも。馴染みのパン屋の紙袋も。全て自分のために買って来たに違いない。サリュにしてもらったことで有難迷惑だと思ったことなんて一つもなかった。全部本心から嬉しかった。これから彼を失うだろうと思うと、胸が張り裂けそうだった。 真実であっても全て語られるべきではない、という諺がある通り、本当のことを云う必要があるだろうか、とユーイはずっと考えていた。サリュにあの日起きたことを知らせて一体何の意味があるだろう。怪我のことは、喧嘩をしたとでも云って誤魔化せばいい。サリュはきっとそれ以上追及してこないはずだ。けれど誠意を持っている人間に対し、嘘で返すというのはどうなのか。話してくれるまで待つとこの男は云ってくれた。きっと真実を話してくれると思って待っているに違いないのに。 何より自分を好きだと云ってくれた時の彼の真剣な眼差しを思うと、自分が恥ずかしくなる。あの透明感溢れる瞳にこの身が相応しいとは思えない。自分は汚い人間だが、せめて助けてくれたこの男にだけは誠実でありたい。 「でも帰るって決めてるなら教えてくれれば良かったのに。せめて最後に食事をして行って。トマトと挽肉が安かったからファルシを作ろうと思ってて」 「サリュ」 ユーイはサリュの視界に入り込んで顔を見上げた。 「・・・帰る前にちゃんと話をしようと思ってた。聞いて欲しい」 「・・・分かった。ちょっと待ってね。これを冷蔵庫に入れちゃう」 恐らく自分はサリュの手料理をもう食べることはないだろう。サリュの作る料理は本当に美味しかった。口を怪我している自分のために材料を細かく切ったり、柔らかくなるまで煮たり、そういう手間を一つも面倒臭がることなくやってくれた。彼がキッチンのカウンター越しに微笑みかけてくる度に、ユーイの胸に温かさが宿った。 サリュはレモンを入れた炭酸水と灰皿をユーイの前に差し出し、自分も腰を下ろすと煙草を取り出して火を点けた。 「お待たせ。それで、どうしたの?」 「お前にずっと謝りたかった。怪我のことでお前に面倒をかけたってだけじゃなく・・・あの日、お前の首を絞めたりして、本当に悪かったと思ってる」 「あんなの」 サリュは笑った。全く気にしていないという態度だった。 「あれは俺の所為だ。君に嘘を吐いたんだから」 「お前を殺してもおかしくなかった」 「そうだったかもね。でも君に殺されるなら本望かも」 サリュは軽い調子でそう応えたが、ユーイとしてはそれに合わせるわけにはいかなかった。 「・・・俺は普通じゃないんだよ。ああいうことが時々したくなる」 「ええと、それは、SM趣味ってこと?」 「それだけならまだいい」 結局この話をケイは最後まで理解してくれなかった。自分の暴力を、行き過ぎたSM行為の延長だと考えていた。今になって思えば、あの男は真剣に話に耳を傾けてなどいなかったのだと思う。 「昂奮しても理性があるのが人間だ。だから普通はみんな、限度を弁えてるし、ましてや合意してない相手にそういうことはしない。俺にはそれができない。いつこの前みたいになるか、自分でも分からない」 サリュは訝しげな表情で眼を合わせてきた。 「どういうこと?」 「ああいう風になると、スイッチが切り替わったみたいに良心がなくなる。第三者に止められない限り、ずっとそのままだ。ものが見えにくくなって、耳も遠くなる。ほぼ記憶もない。自分じゃなくなる。何でなのか分からないんだ。もうずっと昔からこうなんだよ。多分、生まれた時から」 「・・・俺の首を絞めた時のことも、憶えてない?」 ユーイは頷いた。 「うっすらと憶えてるところもある。でももう、そういうことをする時はほとんど体を乗っ取られてるんだ。だから感覚があまりはっきりしない。眠りに落ちる直前みたいにぼんやりしてて、止めなきゃって思うけど、閉じ込められて出られない」 「乗っ取られて、って」 「俺の中には化け物がいる」 ユーイは炭酸水を一口飲んだ。長く喋るのは得意ではない。それでもサリュには全てを知ってもらいたかった。今になって、これは自分勝手な考えかも知れないとも思った。サリュに誠実でありたいと思う反面、ケイに裏切られたから、今度はサリュに理解して欲しいと思っている自分がいることに気づいた。全てを知ったら拒絶されるに違いないのに、どこかでこの優しい男に期待している。 「子供の頃はそんなことがあっても喧嘩や、悪ふざけで済んだ。でもこの歳になったら、誰かを殺してもおかしくない。・・・昔みたいなことは起こしたくないのに」 「昔って?」 「前に、女友達を失神させたって話をしただろ。十三歳だった」 サリュは眼を見開いた後で、微かに腑に落ちた様子を見せた。 「何であんな騒ぎを起こしたのか今でも分からない。性格の良い同級生だったよ。授業で一緒になることが多くて、自然に話すようになった。バスケットチームに所属してて、女子の中でも人気者で・・・友達ってほどじゃないけど、気軽に勉強のことを訊いたり、冗談を云い合ったりする仲だった。俺の周りの友達はみんなその女が好きだったよ」 ユーイは自分の煙草がもうなかったので、サリュに頼んで一本もらった。サリュはユーイが普段吸っている銘柄より、少し重い煙草を吸う。メンソールも入っていない。けれど今のユーイにはないよりましだった。 「・・・次の年にその女友達がバスケットチームのキャプテンに選ばれたって話を聞いたんだ。事件を起こしたのはその日だよ。チームの練習が始まる前に、中庭に呼び出して・・・そこから憶えてない。首を絞めて彼女が倒れた後で教師が通りかかって、それで救急車が呼ばれた」 「彼女、どうなったの?」 「死にはしなかったけど、泡を吹いてた。後から聞いたけど痣もひどかったって」 「その時のことも、やっぱり憶えてないの?」 「何も。呼び出した理由も曖昧なんだ。でもそんなんで本人も相手の親も納得するはずない。もう少しで訴えられるところだった。けどうちの親が謝り倒して、弁護士を間に入れて、何とか示談で済んだよ。正確な金額は聞かされてないけど、多分、治療費の他に慰謝料みたいなものも払ってると思う。俺はセラピーに通うのが条件だった。学校には事件の日から一度も行ってない。半年間、ホームスクーリングを受けた後、今住んでるコンドミニアムに引っ越して来た。以前住んでた場所から十キロもない距離だったけど、両親もこの辺で仕事してるし、全く関係のない町に移るわけにはいかなかったから。母親は俺の学区が変われば何でもいいみたいだった。高校は一時間かけてインターナショナルスクールに通ってたよ。事件のことを知ってる同級生と万が一にでも鉢合わせることがないようにって親が決めたんだ。・・・あの騒ぎを起こしたことで家族を振り回すことになった」 「・・・でもさ、それって事故みたいなものだろ?君が云ってたじゃないか。十三歳なんて、まだ子供だって。何かあったんだろ?たとえばその女の子に何か気に障ることを云われて、かっとなったとか」 「あの女は何もしてない。その一回きりなら俺だって何かの間違いだったって思えたかも。でも、俺は性懲りもなく高校に入ってからも似たようなことをしてたんだよ。入学してすぐ友達ができたんだ。ジギイみたいな奴だったよ。顔が良くて目立つタイプで既に何人か友達を引き連れてた。けど、中身は最低だった。強い奴を集めて、格下の同級生達をいじめて、学年でも幅を利かせてて。俺は割とそいつに気に入られてたけど、一緒に行動してる以上、誰かをいじめないといけない場面があって」 「君もいじめに加担したの?」 「そうしないと嫌われると思ったから」 悪い奴だと分かっていたけれど、毎回自分には笑顔で話しかけてきてくれていた。だから逆らえなかった。また誰かの笑顔を失うのが怖かった。忘れかけていた罪悪感が頭をよぎる。標的を見つけた時のかつての友人の歪んだ瞳を、ユーイはまざまざと思い出した。 「・・・後悔してる。同級生の何人かには今でも絶対恨まれてるはずだ」 「けど、新しくできた友達に嫌われたくなくて必死だったんだろ?誰だって嫌われるのは怖いよ。やりたくてやってたわけじゃないんだし」 「違う。あの時は気分が良かった。やり過ぎたことだって一度や二度じゃない。仲間が多かったから誰かが止めに入って表沙汰にならずに済んでただけだ。おかしいだろ。普通なら慎重になるべきなんだ。前科があるようなものなんだから」 「思春期なんてみんな複雑だよ。君はちょっと人より過激なだけだ。悪い方向に感化されるのだって、よくあることだよ」 「・・・一緒にいたその友達のこと、死ねばいいのに、ってずっと思ってた」 ユーイは灰皿の上で煙草を弾くと、部屋の片隅に眼をやった。 「友達面しながら裏では殺したくて仕方がなかった。俺はそいつに嫌われたら終わりなのに、あいつはそうじゃなかった。あんなに性格が悪かったのに、仲間が多かっただけじゃなく恋人までいたんだ。そいつには絶対敵わないって分かってたから、他の弱い人間をいじめて憂さ晴らしをしてた。八つ当たりできる人間がいなかったら俺はあいつの首を絞めてたかも知れない。今考えても異常だよ。毎日友達を殺すことばかり考えてる高校生がいるか?」 「好きだったからでしょ」 サリュは煙草を揉み消しながら、ユーイに問いかけた。

ともだちにシェアしよう!