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第35話
「何だって?」
「好きだったんじゃないの?その友達のこと」
「・・・何云ってる?」
「君は好きだったんだと思うよ。その友達のことも、中学の時の女の子のことも。多分、恋だったんじゃないかな」
サリュの言葉に、ユーイは表情を曇らせて首を振った。
「意味が分からない」
「その子達のこと、自分のものにしたかったんじゃないの?みんなに注目されるような目立つ子ばっかり好きになるんだね、ユーイは」
諭すような声だった。まるで目をかけている後輩に指導をする時のような。
「一人目の女の子のことだけど、友達のほとんどが彼女のこと好きだったんでしょ?きっと可愛かったんだろうね。それでいてバスケット部のキャプテンに任命されたってことは、実力もあるわけだ。スポーツができて可愛い子なんてモテるに決まってる。好きなのに彼女との間に最初から格差があって、更に手が届かなくなることが口惜しかったんじゃないの?」
思いもしなかった方向から切り込まれて、ユーイは思考が追いつかなかった。
「高校時代の友達だって性格は悪かったかも知れないけど、それでも人気者だったわけでしょ?君がその彼のことを嫌いなのは愛情の裏返しだったと思うよ。君はいじめに加担することで良心を犠牲にしてるのに、彼は特別何の犠牲も払ってなかった。彼にとって自分が沢山いる仲間のうちの一人に過ぎないってことがつらかったんだ。同性だから君の気持ちに気づいてくれるわけないし、気づいてもらえたとしても拒絶される可能性の方が高い。心を煩 わされてる分、相手のことが嫌いになる。殺したくなるほどね。君の気持ち、俺にも分かるよ。もし俺のものにならないなら、死ねばいい。この手で殺したい。君のこともよくそう思ってるから」
さらっと怖い告白をしてくれる。狂気は日常に潜んでいるものだ。目つき一つ、息遣い一つ、言葉の端々に。
「まあ早い話、君は好きになる子を独占したくて仕方がなかったってことだよ。でも残念なことに彼等は君の運命の相手じゃなかった」
それは自分だから。
サリュはそう云いたげに笑みを零した。
それじゃあケイのこともそうだったのだろうか。あの男の言葉が軽薄で上っ面ばかりなのは分かっていた。こちらの話を全く聞いていないことも知っていた。それでもこんな自分を理解してもらえるのはあの男しかいない。そう思い込んでいたから手を切れず、自分の体をずるずると犠牲にしていた。いつまで経ってもあの男に抱いてもらえない鬱憤を晴らすために客を半殺しにしていたというのか。
「・・・そんなの信じられない。あれが恋なんて。・・・そういうのって、もっと」
「もっと?」
「何ていうか、普通は甘い・・・甘いっていうか、優しい気持ちになるものだろ。・・・なったことないけど。そういうものなんじゃないのか」
「可愛いこと云うね」
「莫迦にするな」
「そういう人の方が多いのかも知れないけど、君は違うんだから仕方ない。人間の心は複雑だし、愛情の形は人それぞれだからね。ユーイは絶対Sだし、その上素直じゃないし不器用だし。でも好きな子をいじめたくなるなんて、子供でもよく聞く話じゃない?」
「・・・小さい頃、虫をいじめてた。蝶を捕まえて、羽をむしったり、蜘蛛に食べさせたり」
「俺だって蟻 の巣に棒を突き刺したり、水を注ぎ込んだりして遊んでた。虫を踏み潰すことにだって何の罪悪感も持たなかった。子供ってのは残酷だよな」
サリュは自分の炭酸水を飲み、笑顔でユーイを見据えた。
「君は確かにちょっと変わってる。記憶が飛んじゃうっていうのは困るから、専門家の助けを借りたいなら、それもいいと思う。付き合うよ。でもちょっと深刻に考えすぎてる部分もあるかも。もっと俺を頼ってくれていいよ。別にそんなことで君を嫌ったりしないから」
「そんなこと、って、一歩間違えば俺は犯罪者だったかも知れないんだぞ」
サリュは肩をすくめた。
「たとえ君が犯罪者だったとしても、何か精神的な疾患があったとしても、君が俺の運命の相手だってことに変わりはない。俺はユーイにだったら、殴られても蹴られても首を絞められてもいいと思ってるしね。君が何をしたって嫌いにはならない。君の救いになることだったら何だってするよ。それが君の話したかったこと?」
「・・・嫌いにならないって本当か?」
「もちろん」
即答したサリュは、やや前のめりになって両肘をテーブルの上についた。
「俺はむしろ君に好きになってもらうのに、何をしたらいいか知りたいぐらいなんだよ」
その表情にユーイは若干、不気味さを感じた。けれど、この笑顔がきっと最後になる。微かに椅子が軋んだ音がした。
「もう一つ話すことがある。それを聞いたらお前の考えは変わるかも知れない」
ユーイはケイと出会った時から昨日までのことを全て話した。自分がどんな人間で何をしていたか、ケイに頼まれて自分が何をしていたか、彼に従っていれば自分の中の悪性を飼い馴らすことができるのではないかと考えていた時期があったこと、愚かにも彼の最後の頼みを聞き入れてしまったこと、何の保証もないのに、彼に裏切られることはないと思っていた自分の傲慢さ。サリュの感情が徐々に変化していくのを、ユーイは見てとることができた。途中、サリュが目許を隠すように額に手を当てたが、ユーイは完璧に感情を入れずに話すことができた。自分の身に何が起きて、ここへやって来たのかを事細かに話す時さえも。残酷な事実を起きた通りに淡々と述べ、声一つ震わせなかった。最後には笑ってさえみせた。
「俺がどんな人間かってことが分かっただろ?騙された気分だろうな、本当に」
自嘲気味にユーイはそう云った。
全てを話した後、しばらくサリュには何の反応もなかった。
追い立てられる前に出て行くべきだと思い、ユーイは席を立った。
その時サリュが重い空気を動かしにかかった。椅子から立ち上がり、ユーイに近づいて来たかと思うと、突然、頬を平手で打ってきた。体格差を考えて拳にはしなかったのかも知れないが、一切の手加減が感じられなかった。まだ傷が癒えきっていない体に対しては、あまりにも容赦のない一発だった。床に倒れ込むところまではいかなかったが、衝撃が強すぎて蹌踉 めき、ユーイはテーブルの端を掴んだ。
「どうしてそんなことしてた?」
サリュは低い声でそう云うと、ユーイの襟元を掴んで揺さぶってきた。その加減のなさが、サリュが変貌したことを物語っていた。
「売春行為も同然だろうが。そいつは最初からお前の体を売って稼ぐつもりだったんだよ。それぐらいすぐ分かっただろ。どうしてそんな奴とずるずる付き合ってた?」
「あいつは最初優しかったんだ。普通の大人だと思ってた」
「その仕事を頼まれた時点で、おかしいって気づくだろ。何で断って逃げなかったんだよ?」
「友達になろうって云われたから」
ユーイは感情が昂り、もう少しで涙を流すところだった。
「・・・・困ってるところを見過ごせなかった。役に立ちたかった」
「莫迦なのか」
「俺だって仲間が欲しかったんだよ。ケイしか、本当のことを話せる奴がいなかった」
「そいつの名前を二度と口にするな。もう一発殴りたくなる」
サリュはユーイを突き放し、気持ちを落ち着けるためか、背を向けて窓の方へ行ってしまった。
先刻 までと人が変わったようだった。これ以上ないぐらいサリュが激怒していることを感じ取り、ユーイは恐怖で身動きがとれなかった。この男は海のように愛情深く太陽のような明るさを持っているが、その反面、闇と毒気が強すぎる。憎悪と怒りを全身に漲 らせたサリュは恐ろしかった。空気すら破壊しかねないその尖ったエネルギーに全身を貫かれ、ユーイはその場に凍りついていた。
「何で俺に何も話さなかった?今の話を、どうしてあの日、俺から逃げずに話してくれなかった?知ってたら絶対、そんな奴のところには絶対行かせなかったのに」
「お前を殺しかけた上にそんな話しようなんて思えるわけないだろ。それに、会うのはあの日が最後だって云われてたんだ。行かないわけにはいかなかった。お前の云う通り、俺が莫迦だったんだよ」
「そいつが好きだったんだろ?」
黙すれば認めたという印象を与えるということが分かっていながら、ユーイは眼を逸らして閉口していた。
「そいつが相手だったなら、まだ分かる。顔も知らない奴等にやられたなんて」
サリュはそこで一度言葉を切った。
「・・・早く警察に行くべきだった」
サリュは堪えきれなくなった様子でユーイから眼を逸らした。
この態度が正しい、とユーイは思う。この男をこんなおぞましい世界に引き入れてはならない。分かってもらおうなどとしてはいけない。自分のような生まれついての悪魔と関わってはいけない。
出て行ってくれと告げられる前に、ユーイはこの場から立ち去らなければと思っていた。
この男のような人間にはそう出会えるものではない。サリュのおかげで自分は生きることに絶望せずに済んだ。こんな体でも、もう少し生きていける気がする。
「騙して悪かった。でもお前のおかげで助けられたよ」
最後のつもりでそう云ってユーイは立ち上がり、荷物とコートを手に取った。
玄関に向かおうとしたその時、サリュはもう一度ユーイの腕を捕まえてきた。掴まれたのがちょうど傷痕の上だったため、実際の痛みはほとんどないにも関わらず、体が過剰反応して荷物を落とした。
その僅かな隙にサリュはユーイの体を引き寄せてキスをしてきた。しかも容易くは離れようとしない。
ユーイは戦慄した。混乱し、不安と恐怖に苛まれた。頭がおかしくなりそうだった。こんな風に体を掴まれて、息もできないほどキスをされていることが恐ろしかった。相手がサリュだと頭で分かっていても、もう以前のようには感じられない。怪我をしていたこの二週間に限らず、サリュがこれほど強い力でユーイの体に触れてきたことはなかった。
一体どういうつもりなのか。
もう自分に用はないはずだ。運命の相手などいなかったことがこの男にも分かっただろう。ショックでおかしくなっているのだろうか。無理もない。運命だと思っていた相手が薄汚い男娼だったなんて。そんな下の下の存在のために誠心誠意、毎日世話を焼いていたなんて。
そこである考えに行き着いた。途端にぞっとして全身が冷たくなった。
ユーイは思いきり身を捩って抵抗し、サリュの口唇を咬んで、無我夢中でその腕の中から逃げ出した。
サリュの口唇には血が滲んでいた。必要以上に強く彼の体を押しやってしまい、罪悪感に駆られた。しばらく指先が震えて、荷物に手を伸ばすこともできなかった。
「・・・何でこんなことする?」
ユーイは訊ねた。
「行かせたくないから」
「だからどうして?」
「気が変わった」
ユーイは注意深くサリュを見た。気が抜けなかった。
もしかしてこの男は、最後にこの体を使おうとしているのかも知れない。
そんな懸念がユーイの頭を過っていた。
既に汚れきっている体だと分かった以上、サリュがもう自分を気遣う理由はない。あの客に最後に云われた通り、この体に以前のような価値はない。虚脱感の入り混じった絶望が襲ってきた。
不意を突いて、裸足で出て行く覚悟で今逃げ出すべきか。この男に本気で掴みかかられたら、多分抗いきれない。荷物とコートを拾うという動作だけでもそれなりに時間がかかる。
それとも、もうこの男のしたいようにさせてしまおうか。
そうしてもいいのかも知れない。一時でも満足してもらえるのなら、少しはこの男に返礼をしたことになるのかも知れない。
ユーイは俯き、半ば諦めつつも弱々しく呟いた。
「・・・お前には恩がある。俺を助けてくれた。だから何でもしてやりたいって思う。でも、こういうことはやめて欲しい」
「分かった。もうしない」
意外な返答だった。
「でも、君には帰って欲しくないんだ」
「そういうわけにはいかない。第一お前、もう俺のことなんかどうでもいいだろ」
「何で?」
「何でって」
「どうでも良くなんかない。君のことが好きだってずっと云ってるじゃないか。いい加減憶えてくれよ」
ユーイは困惑に満ちた眼でサリュを見つめた。
「今先刻、俺を殴ったばっかりで何云ってる?お前、俺に幻滅したんだろ」
「確かに殴ったよ。でも幻滅したからじゃない。君が自分自身を傷つけてたことに俺は怒ったんだ」
動揺するユーイをよそに、サリュは平静を取り戻しつつあった。言葉にも彼の持つ空気にも、僅かではあるが柔らかさが戻りつつあった。
「俺はいつだってユーイの味方だよ。君が何をしたって大抵のことは許せる。でも、君が自分を危険に晒したり、雑に扱ったりすることは許せない。先刻のことだけど、君は騙されてたり、無理矢理連れて行かれたりしてたわけじゃないよね。自ら危ないところに行って危ない人間と付き合ってたんだ。それに対して俺は怒ってる」
その言葉通り、確かにその眼はまだ怒っていた。だがそこに軽蔑は込められていない。
「おいで。顔を冷やそう。痛かっただろうけど、俺は謝るつもりはないよ」
サリュはキッチンに行き、冷凍庫から保冷剤を一つ取り出した。
「・・・怒ってるけど、嫌いにはなってない、ってことか?」
「そうだよ。当たり前でしょ」
サリュは保冷剤を薄手のタオルで巻くと、留めるためのクリップを抽斗から取り出した。
一体、この男の愛情の深さはどこからくるのだろう。運命だと思い込むだけで、こんな力が人間には宿るものなのか。だとしたら、この男の初恋の相手はとんでもない魔法をかけたんじゃないだろうか。
「だめだ、帰る」
ほぼ視線を上げずにそう云った。コートと荷物を床から拾い上げる。
「何、もしかして怒ってるの?」
「違う。これ以上お前の世話になるわけにいかない。ずっと泊めてくれて助かった。・・・アルバイトはもうクビになってるだろうけど、新しい仕事が見つかったらすぐに金を返すから」
「ちょっと待て。云っただろ。金なんかどうでもいい」
「今までありがとう」
一緒にいて楽しかった。普通の友達とは云えないが、好きだと云ってくれて嬉しかった。もうずっとそんな言葉は云われていなかった。ケイを除けば。そこまで云おうかと思ったが、感情をあれこれ云うのはみっともない気がしたし、何より自分の中に未練が湧きそうで嫌だった。
急いで靴を履こうとしたその時、矢庭に後ろから荷物を奪われた。
「帰さない」
サリュは何の躊躇いもなしにユーイの鞄の中身を全部床にぶちまけた。
「何でもしてやる。俺とここにいろ」
半ば昂然とそう云いきって、最後に空になった鞄を床に落とした。解けて離れそうになった糸を手繰り寄せるような感があった。
一体何をするのかとユーイは散らばった私物を見つめ、顔を上げた。
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