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第37話

「ごめんね。先週から、実家の都合で猫を預かってるんだ。大家には内緒で」 ジギイのいないところでサリュの自宅に行きたいと迫るミュラニーをあしらっているサリュを目の当たりにした時、他人事ではないのにユーイは密かに笑ってしまった。 「あら、素敵。私、猫ちゃん大好きなの。是非会わせて」 この図々しい女を引き下がらせるのはなかなかに難しいはずだ。 「うーん、元々気難しい猫ではあったんだけど、慣れてない環境にいきなり来た所為か、家族以外の人間が入って来ると攻撃するようになってて」 「それは他の人達の接し方が下手なんだわ。私なら大丈夫よ」 その長い爪で猫を取って食いそうだなと云ってやりたかったが、サリュがこの場をどう切り抜けるか、ユーイは後学のために見ておこうと思った。 「本当は穏やかな気性の猫なんだよ。それがあんな凶暴になって。・・・動物って人間のこと、何でも分かるんだな。今、実家が大変で・・・多分、それを感じ取ってるのかも知れない」 「え?ご実家、どうかされたの?」 「・・・実は、両親が」 サリュはそう云って言葉を詰まらせた。そして少し息を吐き、無理をして笑っているという風な演技をした。この男にそんな切ない顔をされて、我が儘を通せる人間がいるはずもない。ミュラニーは大袈裟に顔を同情で歪め、サリュの腕に触れた。 「大丈夫?いいのよ、云いたくないことは云わなくて」 「・・・シピを元の穏やかな猫に戻してあげたいんだ。たまに吐くんだよ。もう高齢だし、持病もあるしね。今はちょっとしたことが刺激になるみたいだから、ごめんね」 「謝ることないわ。元気出して、きっと元気な猫ちゃんに戻るわ」 ミュラニーがサリュから離れるのを待ってユーイはサリュに訊ねた。 「俺が猫?」 「うちに住んでることが周りにばれるのは困るんだろ。大丈夫だよ。実家に猫がいることは前にみんなに話してあったから、不自然じゃない」 「シピってその猫の名前?」 「そう」 「両親が大変っていうのは?」 「父さんは自宅のガレージを改装中らしい。母さんは壁紙を貼り替えてる」 どうやら日曜大工で大変だということらしい。 「可愛いペットを病気に仕立て上げて、心が痛まないのか?」 「吐くっていうのは本当だよ。毛玉をね。それにシピは可愛くない。俺には全然懐かなかった。変に頭が良くて、子供の俺を見下してたよ。俺が可愛いと思ってたのはノアだけ。あの猫のためにノアを納屋で飼わなきゃいけないなんて、ほんと腹が立つ。ノアじゃなくてあの猫が納屋に行けばいいのに」 そう云えばノアの世話は今、誰がしているのだろう。サリュの姉二人は既に独り立ちしているというし、結局何だかんだで両親が世話を焼いているのだろうか。 覚悟はしていたが、ユーイが勤めていた映画館のアルバイトはとっくにクビになっていた。事故に遭って入院していたと責任者には告げたが、理解してはもらえなかった。最後の給料は微々たるものだった。 そのことについては気にしなくていいとサリュは云ってくれた。まだ大学に通うだけで、ユーイが肉体的にも精神的にも精一杯だということをサリュは理解してくれていたし、そもそも生活費をユーイからとるつもりなど最初からなかったという。 「金なんか要らない。それより、ユーイがずうっとここにいてくれればいいんだよ」 そう云ったサリュの眼は、たまゆら正気と狂気のあわいで揺らいでいる気がした。ユーイは些か恐怖に近いものを感じていた。 働き口を失くしたユーイとは反対に、サリュは週末のどちらかは丸一日かけて撮影のアルバイトに行くことが増えた。ただ、どれだけ疲れて帰って来ても、彼がユーイに対し高圧的な態度に出たことは一度たりともなかった。 必然的に家にいる時間が長いユーイが基本的な家事をした。洗濯をして、乾いたものを畳み、必要な物はアイロンをかけた。サリュの姉が送ってきたという外国製の掃除機の使い方を覚え、ごみ出しの曜日を憶えた。料理はサリュの方が断然巧いので彼に任せたが買い物は引き受けた。日中、近場のスーパーに行くぐらいのことは一人でもできるようになっていた。食事の後はテーブルを拭き、食器を流して食洗機に入れ、キッチンを整える。その間に、サリュは珈琲を淹れてくれる。二人で珈琲を飲む落ち着いた時間が何よりユーイは好きだった。 サリュとの生活は楽しかった。一人にして欲しいと云われたことは一度もなかったし、またユーイの方も一人になりたいと思ったことはなかった。面白い映画を友人から借りたから一緒に観ようと云って、つまらないB級映画を観させられたり、観光客しか行かないようなスポットに気紛れに連れて行かれたりと、二人で何かすることに関して、サリュは非常に積極的だった。映画や買い物のほか、ビリヤードも教えてくれた。ずっと足が遠のいていた休日の朝市(マルシェ)では、驚くほど新鮮な野菜や果物に出会えた。サリュは普段あまり贅沢をしなかったが、こういうところでほんの少しいいものを買って来る。 決して一人だったらしないことをする、行かない場所に行く。そういう経験の後、ユーイはいつも心地良い疲れを覚えた。 ただ、一緒に暮らし始めたからといって、特別サリュの人間性が変わったということはなかった。 ユーイの荷物をコンドミニアムから持って来た僅か三日後、サリュは撮影所で知り合ったヘアメイクスタッフの女性と寝台(ベッド)を共にして帰って来た。サリュはわざわざそういったことを口にするわけではないが、取り立てて隠しもしない。 以前、携帯電話を見たことに関しては謝って欲しいとユーイが怒った時、サリュは、 「分かった、ごめんね。心配だったからしたことなんだ。でもこれから二人の間に隠しごとはなしにしない?俺の携帯電話も見ていいから。メッセージでも写真でも何でも好きに見て」 と云ってその場で自分の携帯電話を手渡すと、ロック解除の暗証番号を教えてきた。サリュがその日、誰と何をしたのかは大体それで分かる。他にも、自宅にあるものとは別のシャンプーや石鹸(サボン)の香りを平気で纏って帰って来るし、サリュの服にはよくファンデーションや女物の香水の残り香がついている。加えてそういう時のサリュからは匂い立つような色気の余韻が立ち昇っているのだ。 ユーイが自分でも驚いたのは、そのことに関して内心ほっとしているということだった。 サリュに下手に操立てでもされて欲求不満に陥られては忍びない。たとえ聖人君子であっても、体の仕組みから云って、出すべきものは出さなければならない。だが今のユーイにはどうしてやることもできない。体の傷は処置すれば時間と共に治るが、心の傷はそうではない。日中はほとんど症状に悩まされることはなかったが、ふとした時に悪夢は突然やってくる。相変わらず薬を手放せない毎日だった。 サリュは普段、ユーイの体には必要がある際に軽く触れるに留めていた。少しでもユーイから緊張した気配を感じ取ると、すぐに察して距離をとる。彼は寝台はずっとユーイに譲ったまま、自分は少し離れたところに床に折り畳み式の簡易マットを敷き、冗談でも一緒に寝ようなどとは云わなかった。まるで婚前交渉を禁じられている信心深い青年のようだった。 けれど一つだけ例外があった。最初にここへ来た日から、ユーイの濡れた髪を乾かすことだけはサリュの仕事になっていた。シャワーを浴びて出て来ると、サリュは必ずドライヤーとブラシを用意して待ち構えているのだ。 「別に自分でできるけど」 「だめ。これが俺の一日の癒しなんだよ」 「ペットのブラッシングじゃあるまいし」 「あ、確かにそんな感じに近いかもね」 その言葉にユーイがブラシを奪おうとすると、 「冗談だよ。ほんとにきれいだなって毎回思ってる」 と心を込めた声で云った。 一度、髪が長くなり邪魔に思ったため、ユーイは美容室の予約をとろうとしたことがあった。サリュは大反対した。頼むから切らないでくれと何度も懇願された。その必死さに危うくユーイはヘアカットを断念しそうになったが、それでは自分の社会生活を犠牲にすることになる。 「お願いだから切らないで」 「女じゃあるまいし、いつまでも伸ばしてられるか」 「分かった。じゃあせめて俺の信用してる美容師に頼もう」 サリュは撮影所のスタッフに紹介してもらった美容師にいつも髪を切ってもらっていた。サリュが電話で頼み込むとその美容師の女性は、サリュの友達ならということで彼女の持つ店に招待してくれた。 彼女はユーイの髪をざっと眺め、少し手で掬って髪質を確かめると、魔法のような手つきで素早くカットを開始した。仕事柄、様々な人種のモデルの髪を切るというその美容師はユーイが出会った美容師の中で最もカットが巧かった。近所の格安の理容室などとは全くの別物だった。急に予定を組んでもらったので、カラーリングはできないとのことだったが、そんなものはしなくていいとサリュが横から割って入ってきた。やや長さのある前下がりのショートヘアで、襟足はタイトにカットされていた。一時間もかからずにヘアカットは終了した。 「サリュからリクエストされた通りに切ったからね。文句は受けつけないよ」 と云ってその美容師は片付けを始め、少しサリュと話をした後、外部の仕事があるからとあっという間にいなくなってしまった。 「最高。ほんと、よく似合ってるよ」 確かにヘアスタイルに悩んでいたことが嘘のような仕上がりだった。 長年の悩みから解放されたこともあり、ユーイの心は少し軽くなっていた。 更にその日の帰りは、サリュが連れて行ってくれたブティックで少し値段の高い黒のニットを一枚買ってくれた。 破れたトップスと血と精液の滲んだデニムは、いつの間にかサリュによって、ひっそりと捨てられていた。恐ろしい日のことを思い出させないように気遣ってくれたのだと思う。 サリュはユーイの三倍近く服を持っていて、しかも一つ残らず上質なものだったので、彼の服を借りられれば一番良かったのだが、残念なことにサイズが合わないものの方が多かった。 「少しずつ質の良いものを揃えていこうね」 と、サリュは新しいニットを着たユーイを満足げに見つめた。 本当はもう一軒、ブティックを回る予定だったが、映画館の前でユーイが足を止めてポスターを眺め始めたので、サリュは何か観たいのかと訊ねてきた。 「いや、別にいいんだけどさ」 「ユーイは映画が好きなんだね」 「・・・他に趣味もないし」 「映画館で仕事してたぐらいだもんね。いいよ、入ろう。ユーイが観たいのを観ようよ」 サリュは遠慮するユーイに構わず館内に(いざな)った。 映画を特別好きだと思ったことはない。ただ、テレビで映画を観る父の後ろ姿を幼い頃からよく見てきた。両親はそれぞれ自分だけの領域というものを持っていた。母は仕事、父は映画だった。母の仕事のことは分からなかったが、父の観ていた映画には自分も引き込まれる瞬間があった。その時間だけは現実の醜い自分を忘れることができた。一番手近な現実逃避。だから何となく自分でも多くの映画を観るようになったのかも知れない。 チケットカウンターの前まで来た時、ユーイはサリュの手が自分の背中に触れていることに気づいた。 サリュの顔を横から見上げる。特別何かを意識している様子はない。 日々、サリュに頼ることばかりが多く、心苦しさを感じている反面、ユーイはこの環境を手放したくないと思うようになっていた。 自分を肯定してくれる人間と一つ屋根の下にいられるという環境は、ユーイにとって心に滋養を与えられることだった。それまでは他人からの否定や拒絶を恐れるあまり、無関心を望んでいた。本心では違ったが、自分の中にいる怪物のことを思うと、自己否定を繰り返さないわけにはいかなかった。そんな風にずっと一人で生きなければならないと思っていたユーイが、自分の存在をまるごと許してくれるサリュを受け入れたいと思うのにそう時間はかからなかった。 改めて考える。この男がいてくれなかったら、自分はどうなっていただろうか。受けた傷の深さに耐えきれず、今も奈落の底を這うような毎日を送っていたと思う。あるいは死んでいたかも知れない。 サリュはいくらでも待つと云ってくれた。けれど、そこまで辛抱しきれないのは、実はユーイの方だった。 体の中に溢れかえるこの熱と衝動が愛の証だと云うのなら、早くそれを表現したい。 この男に触れたい。この体温に応えたい。 けれど、どうしてもあと一歩のところで応えられない。まるで見えない力で制限されているように、体が動かない。憎むべき心の傷が、呪縛となって全身に絡みついている。

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