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第38話
もちろん、感情の行き違いもあった。
サリュとの生活に不自由があったとすれば一人きりでの外出を許してくれないことで、理由としては、
「また一人でいる時にどこかでケイと顔を合わせたら困る」
というものだったが、今更ケイが自分を探し回っているとはユーイには思えなかった。表通りで生きている限り、あの男と遭遇することはない。
体がもう少し良くなったらアルバイトをすると云っただけでも、サリュはいい顔をしない。何か欲しいものがあるのか、困っていることがあるのかと訊ねてくる。ユーイは自分の所持金というのをほぼ持っていなかった。食費も煙草代も取らず、細かいものは大抵その場で買ってくれる。カフェに行くのも吝嗇ったりはしない。ほとんど行動を一緒にしているので特別不便はないが、これは自尊心の問題だと思った、ただ家でサリュを待っているより有意義だし、家計の助けになるはずだと思うのに、サリュは神経質すぎると思っていた。
特に彼が撮影の仕事でいない週末の一日など、一人きりで部屋で過ごしているとユーイは取り残されたペットのような気持ちになる。だが何度説明してもサリュにはそのことが分からないようだった。このことについては云い争いにもなった。
ある休日の早朝に、珍しくサリュより先に眼が醒めたユーイは一人で外出した。焼き立てのパンが食べたくなり、すぐ近くのベーカリーに出かけて行ったのだ。サリュは前日、一日中カタログ撮影のアルバイトに出かけていて、帰宅したのは夜十時を過ぎてからだった。休日を返上してアルバイトに勤しみ疲れているサリュを、少しは労 ってやりたかった。ユーイは僅かに残った自分の所持金を持って温かいバゲットとレモンパイを買って帰り、二人の朝食にしようと思っていた。
帰宅すると起き出していたサリュに、何処へ行ってたんだ、といきなり怒鳴りつけられた。
「どうして携帯も持たずに一人で出歩けるんだよ?気が気じゃなかった」
ベーカリーは目と鼻の先なので、身軽でいたかったユーイは携帯電話を持って行かなかった。しかしまさかたった十分か十五分外出しただけで、こんな風に責められるとは思いもしなかった。
「俺がお前のことをどれだけ気にしてるか分かってるだろ?分かっててこんな風に出て行くなんて、俺の気持ちを無視してるとしか思えない。あんな目に遭ってまだひと月ちょっとだっていうのに、一体どういう神経してるんだよ?」
こんなことで言葉遣いが乱暴になるサリュに対し、ユーイもつられて口調が荒くなった。
「パンを買いに行っただけだ。こんなことで騒ぎ立てるな。大体、お前こそどういうつもりだ。俺をずっとこの部屋に閉じ込めておこうっていうのか?これでも少しは良くなってきてる。お前についててもらわなくても、前みたいに行動できるようになりたいんだ。呑みにだって行きたい。心配してるって云えば何でも通ると思うな。お節介が過ぎると迷惑なんだよ」
直後にユーイは、強い云い方をしてしまったことで後味の悪い思いをした。パンの入った紙袋をテーブルに置いてコートを脱いでいると、サリュが後ろで深い溜息を吐いた。彼は分かり合えないことを心底嘆くような表情で、力なく寝台に坐った。
「ユーイには俺の気持ちの大きさが半分も伝わってない。君が想像する倍以上はあるんだって、いい加減分かって欲しい。信用されない俺が悪いのか?あの日も、あんな風に出て行ったのは、俺の気持ちを信じてなかったからなんだろ?」
「・・・あの日って何だよ?」
「君にひどいことがあった日だよ。俺だって忘れられない」
優しい声で残酷なことを思い出させてくれる。サリュはユーイから視線をずっと逸らし続けていた。
「俺は君に受け入れてもらおうと必死だった。けど、君は全く俺を信用してくれてなかった」
「お前のことは信用してたよ。だからあんな目に遭った後、ここに来たんだ。・・・出て行った時は、まだ、お前の気持ちに応える自信がなくて」
「君は知らない人間に殺されてもおかしくなかった。あの時出て行かせなければ、そんな目には遭わずに済んだんだ。力尽くでも俺が引き止めていれば」
サリュにはユーイの言葉が聞こえていないかのようにそう云った。そして体を折り曲げるようにして前屈みになり、両手で顔を覆った。徐々に体が震え始めていた。しばらく彼は何も云わなかったが、やがて呻くような声で、
「俺はノアにも信用されてなかった」
と呟いた。少し様子がおかしかった。急速に彼の意識が内側へ収斂されていくのをユーイは感じ取っていた。ひどく痛々しい感じがした。この男の感情を正確には汲み取れなかったものの、あの日、自分を出て行かせてしまったということがこの男の中に強い後悔の念を残しているというのだけはユーイにも分かった。
「でも、俺は殺されなかったし」
こうして生きてここにいる、そう云うつもりだった。
「ノアがそうだった。ある日、突然納屋からいなくなって。二日経って、道路で死んでるのが見つかった」
独り言のようなサリュのその言葉に、唐突に二人の周りが暗然とした空気に包まれた。
「三日目の朝、『昨日、裏の道路に犬の死骸があったらしい』って母親が話してるのを聞いて、すぐにその道路を見に行ったよ。ノアだったらどうしようって思って・・・でも、死体なんて見つからなかった。噂なんてあてにならないと思ったけど、念のため周辺の家に訊いて回ったんだ。そしたら、犬の死骸を片付けたって云う老人に会った。現場の斜向かいの家に住んでて、その人はたまたま庭にいた時、事故が起きたのを目撃してたんだ。俺が写真を見せたら、この犬に間違いないって云われた」
サリュは一度、言葉を切った。
「下らない莫迦な観光客が運転するスポーツカーに轢かれて死んだんだよ。ノアの墓は、その老人の家の庭に造られてた」
ユーイはコートを椅子に掛け、黙ってサリュの話を聞いていた。
「何でこんなところにいるんだって思った。あいつを見つけて、あれだけ愛して、一生懸命世話していたのは俺なのに、何で俺の知らない間に殺されて、他人の家に埋められてるんだ、って、そう思ったよ。あいつはあんまり頭のいい犬じゃなかったけど、それまで勝手に敷地から出たことなんかなかった。毎日、必ず明日もこの納屋に来るってノアには云い聞かせてたのに。毎日毎日ずっと世話をしてたのに。何でいなくなったんだ。ずっとあそこにいれば、死ぬこともなかった」
狂気の引鉄は突然引かれるものだ。
ユーイはサリュの話に対し、たかだか犬などとは少しも思わなかった。
何て危ういところに、日々、自分達は立っているのだろう。一つ間違えば簡単に狂ってしまうものを自分達は持っている。
言葉をかける代わりにユーイはサリュの腕に触れた。彼が泣き出してしまわないように、過去に呑まれてしまわないように引き止めたかった。
これが、この男の唯一の弱点かも知れないと思った。一瞬で完璧な正気を引っくり返してしまえるほどの記憶の闇。
「俺がノアの代わりになる」
気づいたらそう云っていた。そう云って手を差し伸べなければ。自分もこの男を救わなければ。かつて、サリュには何でもしてやりたい、と云ったその言葉は今でも生きていた。その気持ちに嘘偽りはなかった。ユーイのその一言が、サリュの心に安堵を宿したらしい。正気の光がその眼に宿った。
その時、ユーイの中に力が宿った。
それはかつて死にかけたからこそ得た力だったのかも知れない。
ユーイはそれまで、自分からサリュにキスをしたことがなかった。躊躇いがちに、これでいいのか、と確かめるような気持ちで相手の口唇 に自分のそれを合わせてみる。まだ外気に晒された自分の体が冷たいのが分かった。相手からされるのとはまた違った感情が芽生えてくる。
何かに耐えるかのような瞳で、サリュはユーイを見つめてきた。彼が唾を飲むのが分かった。
「どうしよう、君を殺したくなってきた」
「いいよ、今殺しても」
サリュの言葉に対し、ユーイはさらりとそう応えた。ものすごく自然だった。自分はこの男に殺されるために今まで生きてきたのかも知れない。
相手の言葉でその本気を確認できたような気がして、ユーイは嬉しかった。愛情が高まった時、ふと、その感情が死と繋がることをユーイは知っている。好きだから殺したくなる。全て自分のものにしたくて。そのことに違和感はなかった。そんなことは不可能だともう分かっているけれど。誰かを本当に自分のものにすることなどできはしない。
「でも呼吸をして、動いてる君をずっと見ていたいとも思う。せっかくこうやって二人でいられるようになったのに」
少しサリュは間を空けた。反応を見るような眼だった。
「それに、まだ君を抱いてない」
この言葉にユーイは口ごもった。
「・・・それは」
「ごめん、冗談だよ。忘れて」
立ち上がったサリュに何か云いたかったが、何と声をかけていいのか分からなかった。この時はまだどうしようもなかった。寝台 に傾 れ込んでもその先、自分が何もできないことは分かっていた。
サリュは何を思ったのか、戻って来て今度は彼の方からキスをしてきた。小鳥が啄ばむような軽いキスだった。それでも、言葉を重ねるより、こうする方がずっとお互いの考えていることが分かる気がした。
サリュはユーイが買って来たパンを見て、
「ありがとう、温かい」
と云った。
「俺が大袈裟だったんだ。怒鳴って悪かった。頼むから、やっぱり家に帰る、なんて云わないでね」
サリュは心底自分の非を認めるような態度を示した。この男の眼の前からいなくなることで、彼の正気を失わせてしまうかと思うと、ユーイはもう勝手に何処かへ行こうとは思えなかった。
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