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第40話

サリュは帰省する前日の夜、唐突にユーイを連れ出してピクニックに行こうと云った。ピクニックと云っても、フルボトルのワインを持って、冷凍のカナッペをいくつかランチボックスに詰めて、大きなウェルシュブランケットにくるまって、ただ芝生の上に転がっていただけだった。せめて星空が見えていればロマンチックだっただろうに、雲に隠れたぼんやりとした月しかその晩は見えなかった。 けれどその夜の一枚のブランケットの下での密やかな会話を、ユーイは忘れないと思った。 「・・・そういうわけで、今度少しだけ写真を撮らせてもらえるんだ。試し撮りだけど」 「へえ、良かったな」 一緒に暮らすようになってから知ったことだったが、実はサリュはモデルではなくずっと写真を撮ることの方に興味があった。知り合いを通じて、ファッション雑誌の撮影をしているスタジオの見学に行ったところ、本人にとっては不本意なことにその見た目から注目を浴び、何やかんやとその場にいた大人達に云いくるめられ、その場にいたブランドの人間によってあれよあれよという間に彼はモデルにされてしまったのだった。 「大学を卒業したら、知り合いの会社に来たらいいって云われてる。広告の会社なんだけど」 「そこで写真を撮らせてもらえるのか?」 「分からない。多分、最初は関係ない仕事がほとんどだと思う」 「まず、自分用のいいカメラを買わないとな」 「もう随分使ってないのがあるんだけど・・・」 自分には縁のない世界の話だが、ユーイはサリュが彼のやりたい方向へ人生を歩み始めたことを純粋に応援した。憧憬を感じていた。将来の夢など、実のところユーイはこれまでほとんど考えたことがなかった。何となくでもやってみたいことの一つでもあれば、もう少し人生が面白くなるのかも知れない。けれどこの時は、サリュと生きることが何よりも大事なことで、それ以外は考えられなかった。 夜、毛布の下では携帯電話のライトだけが頼りだった。将来の夢について話してくれたこの時間だけでも、充分自分へのクリスマスプレゼントになっているとユーイは思っていた。サリュの傍にいて話を聞いているだけで、どんなに外気に晒されても胸の芯が温かく感じられた。 「学生のうちになるべく下積みしておきたいな。ユーイは何も心配しなくていいからね。君一人ぐらい俺が何とかする」 「卒業してもこんな生活続ける気なのか?」 「ずっと一緒にいようって云っただろ」 サリュは寝返りを打ち、両腕の中に腕の上でユーイを見つめた。 「一緒に帰らない?俺の実家に」 唐突に彼はそう云った。 「もしユーイが良ければ、一緒に来て欲しい。家族に紹介するよ。実はちゃんと列車の切符は二枚買ってある」 ユーイはびっくりして最初、何と云っていいか分からなかった。 「突然云うなよ、そんな」 「うん、だから無理にとは云わないけどね。切符は払い戻しできるし」 「家族に云ってないだろ?急に友達を連れてったら迷惑になる」 「友達っていうより、俺の運命の相手だもの。そう云って紹介する」 サリュはただただ微笑むばかりだった。 「・・・俺、一体その場でどんな顔してればいいんだよ」 「だってずっと二人で生きていくつもりなら、お互いの家族にはいつかは絶対会うんだし、だったら早いうちに会って欲しいなって。それとも俺が先にユーイのお父さんに会いに行った方がいい?」 「何でそうなる」 「あ、そうだ。ユーイ、子供は好き?」 「は?」 「ちゃんと働いていればさ、いつかは俺達だって人の親になれるんだよ。里親になるのだって俺はいいと思ってるんだよね」 「ちょっと待て。色々話が飛躍しすぎてる。第一、まだ学生なんだし・・・そこまで急がなくたって」 直後にユーイとサリュの視線は繋がった。 「まあね。でも、俺の覚悟を知ってもらうにはどうしたらいいかなって、これでも真剣に考えてるんだよ」 「・・・とにかく、一緒に帰るっていうのは急すぎる」 ユーイは顔を背け、起き上がってワインのボトルに手を伸ばした。 遠くから若者達の笑い声が聞こえる。瓶がぶつかり合う音も。何処かで誰かが歌を唄っていた。 ユーイは自分に腹が立っていた。これほど一途な愛の言葉をもらって応えられないなんてひどすぎる。優しい言葉一つ返せない。この体には温かい血が一滴も流れてないみたいだ。後ろでサリュも体を起こしている気配がした。 「・・・(ユイ)」 その声に反応して振り返ると、サリュはくつろいだ笑みを浮かべていた。 「ちゃんと発音したかったんだ。君の名前。ユ、イ。これ、正確に発音できてるかな?」 サリュは真っ直ぐにユーイの眼を見る。 「どうしてもみんな発音しやすいように伸ばすよね。でも俺はちゃんと分かってるからね。ユーイ、じゃなくて、ユイ・・・唯。君のお父さんの国の言葉で『たった一つ』って意味だよね。調べたんだよ」 唯。その声が脳内にこだまする。 もうずっと昔にその名前を呼ばれていた。けれど父がつけたその名前を、母はうまく発音できなかった。母に気を遣わせないよう父は二人でいる時だけ、本当の発音で呼んでくれていたが、そのうち二つの名前は入り混じり、父は息子の名前を呼ばなくなり、いつしか紙の上でしかその名前は確認できなくなった。もうこの国にいる限り、本当の名前で呼ばれることはないと思っていた。 俄に動悸に襲われたように胸が苦しくなって、ユーイはサリュに抱きついた。息を呑むような反応があった。 約束通り、サリュはユーイの欲しがっていたものをくれた。もう寂しくなかった。 この男が多少狂っていたからと云って、何だというのだ。狂気を孕んでいない人間などいない。サリュが多情な人間だったとしても構わない。この先何があろうとこの男と共にいる。 ワインを半分ほど呑んだところで、冷たい冬の雨が降ってきてしまった。この時期に雨が降ることなど珍しいので、この時は運が悪いと思った。ユーイは雨が降るかも知れないと思っていたのだが、サリュに急かされてフラットを出た所為で傘を持って来ていなかった。まるで邪魔をするために降ってきたような雨は、フラットに帰りつくまでの道中で、どんどんひどくなってきた。 「だから、雲行きが怪しいって云ったのに」 「いいじゃないか、こういう散歩も」 サリュの声があまりにも清々しいので、ユーイは悪態をつく暇を奪われた。全て計画通りにいった時のような明るさがサリュの表情にはあった。交差点で立ち止まり、不意に彼は訊ねてきた。 「俺、おかしいかな?」 ごく自然な口調だった。 「自分でいかれてるって思う時あるよ。君がこれだけ近くにいるのに、何もかも欲しくなる。自分の体に取り込みたくなるぐらい。君の全部を奪って何処にも行けないようにしたいって思う。自分でも怖いよ。いつか俺自身が君を不幸にしたらどうしようって不安になる」 「そうか?俺は今、結構幸せだと思ってるけど」 ユーイの言葉に対し、サリュは一瞬いつものように優しく微笑みかけてきた。けれどすぐにその表情は変わり、もう我慢できないという風に躊躇なくキスをしてきた。口唇は雨で濡れていた。外でキスをしたのはユーイの人生の中で、これが初めてだった。夜の闇と雨に紛れて人目は気にならなかった。人通りの多い時間帯でもない。口の中に残るワインの芳香と、サリュの唾液を呑み込んだ所為で、ユーイの頭はくらくらした。 汚れた体も血の跡も、全てこの雨が浄化してくれる。 今夜、サリュに応えようと思った。 この深い愛に今夜、返礼できないとしたら、自分で自分が許せない。 とはいえ、あと少しで彼が数日間、家を空けるということがなければ、そしてワインを呑んでいなければ、多分こんなに早くは体を開く気にはなれなかっただろうと思う。この日、性愛の匂いを雨の匂いでひた隠して思いを遂げた。 部屋の灯りも点けず、濡れた体を拭うこともしないまま、二人は互いの体をまさぐった。靴を脱ぐのでさえ、焦れったかった。雨に濡れた口唇も指先も、二人の全てが溶けて混じり合い闇夜に消えそうな夜だった。

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