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Ⅵ
鍵の掛かっていない客間の扉を静かに内側から開くとシエラはその向こうに続く廊下の先を覗き込んだ。
どこが突き当りかもここからでは確認出来ないほどに廊下の奥は広く続いていて、あっというまに迷子になりそうだった。
──迷子になっても構わない。
シエラの使命はヴァシレフスから逃れ、隠れること。今夜は特に。
逃亡すれば矢で射抜かれるのかもしれないが、今のシエラはそれよりもヴァシレフスの宣告が何よりも恐怖でしかなかった。
あの怒りに任せたままあの夜と同じ目に遭ったら自分の体は今度こそバラバラになってしまいそうで恐ろしかった。あの時視界の隅で見たヴァシレフスの逞しいものにシエラは内心悲鳴が出そうだったのだ。
「まぁ、実際はそれどころじゃなさすぎてもう……」
先日の夜のことを思い出すと羞恥と恐怖で体が震えた。初めてのことだらけで全く頭が追いついていないところにどんどんヴァシレフスが攻め入ってきて怖いのに……
ジワリと胸の奥が熱を持つ。
シエラは慌ててかぶりを大きく振り目を醒ます。
「隠れないと」
シエラは自分に言い聞かせて客間からの脱出を計った。
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シエラの不在はすぐにヴァシレフスの知るところとなった。
夕刻、カリトンが食事を持って部屋に入った時には既にシエラの姿は無く、客間のある南の建物を数人の従者で一部屋ずつ隈なく探したが、どこにもシエラの姿はなかった。
カリトンは全ては己の責任だとヴァシレフスの足元で深々と頭を着いたがヴァシレフスは決してそれを責める事はなかった。
「あの怪我だ、逃げられるわけがない──それに」
それ以上を口にしなかったヴァシレフスの顔を恐る恐るカリトンは覗き見たが彼の真意を読み解くことは出来なかった。
夜通しシエラ捜索は続いた──。
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「なんだか南のほうが騒がしいわね、何かあったのかしら」
西の塔で寛ぐアレクシアは読み掛けの文献から顔を上げ、南の塔の窓から時折覗くトーチの炎に目をやった。そしてすぐにピンときた。
「ああ、あの小さな子が逃げたのね」
「小さな子──?」
楽しそうに一人微笑むアレクシアに向かって彼女の従者であるアネーシャは尋ねた。
アレクシアの近くで床に座り込む彼女の手元にはシルクで出来たトガが広げられ、主人のために一針ずつ丁寧な刺繍を施している最中だった。アレクシアは彼女の刺繍が大好きだった。繊細で緻密でそれでいながら仕上がりは壮大で。まるで彼女の強く美しい心がそこへ宿るようだった。
「ヴァシレフスがね、珍しく星見の言葉を信じて運命を連れて来たの。見た事もない琥珀色の瞳をした綺麗な子。ああ、アネーシャにも少し似ているわ。真っ黒な艶髪なんて同じかもしれない」
「それは女の方ですか?」
普段は一切大きな声を出さないアネーシャが突然興奮気味にアレクシアに詰め寄る。少し驚きならもアレクシアは冷静に彼は男だと告げた。
アネーシャはあからさまにがっかりした様子で再び静かに刺繍に向かった。
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