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Ⅵ-2

「痛……」 久しぶりに動きすぎたせいか、左足首に鈍い痛みが走る。まだ完全に治りきっていないのに余計に悪化したかもしれないなとシエラは唇を噛んだ。 「ここ……どこなんだ……」  誰にも見つからないように、人の姿を見かけるたびに隠れては進みを繰り返し、必死に逃げたせいでとうとう今自分がどこにいるのかわからなくなった。  自分がいた南の塔と違うのは、建物の装飾からわかった。客間の中や外に続く廊下の所々に飾られていた絵画や彫刻は闘いや兵士を:象:(かたど)った物が多く見受けられた。それに対してこの塔には花や女神などの優しい世界が広がっていた。  廊下の窓から覗く月夜の庭園は美しい花たちで一面彩られ、風が通るたびに甘い香気を放つ。  シエラはこんなに美しい景色を今まで見たことがなかった。山に咲く強い花とは違う。ここにある花たちは穏やかで優しい。同じ花なのにこんなにも違う。 「まるで俺とヴァシレフスみたいだ……」  近くで気配を感じ、シエラは慌てて高い天井を支える大きな柱の影に隠れた。肩に触れた大理石が冷たかった。  少しずつ人影が近付いてくる。足音の軽さから子供のように感じた。 「この城には子供もいるのか?」  シエラは好奇心から少しだけ音の主を覗き見た。音の主が持つランプの灯りが少しずつシエラに近付いてくる。廊下に伸びるシルエットは自分よりも細くて小さい。全身を白い布で纏っていてるせいで顔までは見ることができなかった。──だが、 ──チリンと鈴の音が響いた。  その音にシエラは本能的に体が動いた。警戒心を一瞬にして失い、誰に見つかるかもわからないのにその名を叫んだ。 「アネーシャ!!」  大理石の床にシエラの通る声が跳ね返り、高い天井にその名が木霊する。  アネーシャは褐色の大きな瞳を溢れんばかりに見開き、目の前に現れたシエラを真っ直ぐに捕らえた。足首に巻かれた鈴がまたチリンと弾んで鳴った。  向かい合ったままシエラは言葉を失った。  どうしてここにアネーシャが、どうして── 「お兄ちゃん……。本当に? シエラお兄ちゃんなの?!」  少女はシエラの傍に寄り、その全てを確認した。  よく知るその琥珀色の瞳、自分と同じ黒い艶髪と焼けた肌。最後に言葉を交わした時は今よりもずっと幼くて、小さくて、だけど獅子のように強い眼差しだけは変わらない。 「お兄ちゃん! 会いたかった!」  小さな体がシエラ目掛けて飛び込んできた。  シエラは少し痛む足のことも忘れて同じくらいの熱量と強さで抱きしめ返した。  小さな妹。さよならも言えず、突然いなくなったあの日からずっとこの日が来るのをシエラは何度も願い続けた。 ──そしてそれが今、叶った。 「アネーシャ、俺も会いたかったよ。ずっと会いたかった。あの日からお前のことを忘れない日はなかった、生きてたんだな。良かった、本当に良かった……」  腕の中で彼女は咽び泣き、もう何も言葉にならないようだった。  シエラの知らない長い年月、時間の中、幼い妹はどんな目に遭っていたのか、想像するだけでも胸が張り裂けそうだった。  妹の頭を撫で、優しく何度も頭に口付ける。シエラは自身の頬を勝手に流れる涙を拭うことなく目の前の幸福に深く浸った。 「──シエラ、見つけましたよ」  背後からいきなり強い力で肩を掴まれシエラは絶句した。  そこには今まで見たこともない形相のカリトンが腰に下げた剣をわざとシエラに見せつけるように冷たく揺らし、静かに立っていた──。

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