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梅雨明けの声をまだ聞いてはいないが、空はすっかり夏だった。夏休みに入った聖愛学園は、教室も寮も閑散としていた。
冬馬は寮棟を出ると、一番近い門に向かっていた。寮棟に並行して向日葵の花壇が続いていて、風が黄色い花を揺らしていた。
「トーマ!」
後ろから駆け寄る足音がして、ポンと背中を叩かれた。
「詩雨。どうした──補習でも?」
無論、冗談だ。悪戯っぽく笑う。
「まさか!寮のダチのとこ。ほら、秋穂と同じ階の。冬馬は秋穂のとこだろ?」
「ああ」
ふたりは並んで歩き始めた。
「秋穂は家に帰らないんだ?夏休み中?」
「ああ、たぶん──いや、どうだろうな」
言葉を濁す。何か知ってて言えない、そんな感じだった。
「秋穂はさあ……なかなかオレに慣れてくれないよね。って言うか、冬馬だけにしか、かな」
「いろいろあるんだよ……俺からは言えない」
表情が曇る。こうして見ると大人の男のようだ。
「ふうん。冬馬にはいろいろ話すんだな。オレが秘密基地 で冬馬たちを見た時、もうずっと昔から一緒にいるふたりって感じだったよ。でも、会ってからひと月くらいしか経ってなかったんだろ?それなのに──なんか、妬ける」
一旦口を噤む。その後を言うか言うまいか迷っているような感じだ。
「……それに……秋穂のこと話す冬馬って、いつも優しい表情 してるっつうかぁ……今までに見たことのないような……」
詩雨にしては歯切れの悪いしゃべり方だった。その視線は足許の石畳を彷徨っている。前髪で翳って、冬馬からはその表情は窺えない。
「なに言ってるんだ。お前にも優しいと思うけど?」
「…………」
詩雨は弾かれたように冬馬を見る。その顔には、やっぱ、言わなきゃ良かった、と書いてある。
「──そう言えばさぁ」
突然話題を変える。今までの会話はなかったことにした。
「知ってる?高等部にいる秋穂の知り合い」
「──え?」
詩雨にしてみれば、話題を変えるためにふと思いついたことを言っただけなのだが、思いのほか冬馬の顔に動揺が浮かんだ。
「さっきのダチのとこに行くと、たまに見かけるんだ。高等部の制服を着たヤツが秋穂の部屋から出てくるの──って、冬馬?」
何処まで話を聞いていたのか、冬馬は途中で立ち止まっていた。険しい顔で寮棟を見ている。
(……時々、アキの部屋でアキとは違う匂いを感じることがある……。気づいていたけど、考えないようにしてた……)
詩雨が言ったことで、もやもやしていた何かが形になってしまった。
(なんか、ざわざわする)
黒いTシャツの、胸の辺りをキュッと掴む。
「おーい、トーマ、どーしたのー?」
罪作りな男は罪のない顔で、眼の前で手を振っていた。
冬馬はふっと小さく息をついた。
「なんでもない」
再び並んで歩きだす。
「一昨日 練習 棟で、弾いてただろ?」
「ん?」
今度は冬馬が話題を変え、詩雨が怪訝そうな顔をする。
「窓を開けたままだったな?ピアノの音が聞こえて──お前が弾いてるって、すぐわかった」
そう言いながら、夏の陽に煌めく金の髪に手を差し入れた。
「けっこう遅い時間だったな」
「──天音 くんたちのいる家で弾きたくなかった」
何処か気まずげな笑みを浮かべる。
天音は、柑柰家の長兄だ。詩雨には姉もいる。三人とも父親の作ったカンナ交響楽団 に籍を置く。兄弟仲は悪くない。むしろ良すぎる程だ。それでも、詩雨の心の中にはわだかまる何かがあるのを、冬馬は知っていた。
「アキはお前のピアノを初めて聞いたんだけど。優しい音色だね、って言ってた」
音楽に対して一見不誠実そうなこの男が奏でる音色は、実は優しく、音楽への愛情に溢れている。
「俺も──好きだよ。ずっと、今も昔も変わらず」
いつも言っているだろう?と、その眼が語る。詩雨がさっと視線を外す。その白い頬に朱が走った。
「ところで──なんで最近、オレの髪触るの?」
冬馬の手は先程からずっと詩雨の髪を撫でていた。
「あー……気持ちいいから?さらさらしてて?」
何故か疑問形。自分でも解っていないのか。詩雨は口を尖らせているが、実は冬馬に触られるのが嫌ではなかった。
「アキの髪はまた違うな──柔らかでふわふわした感じ──かな?」
「げっ、秋穂の髪にも触ってるのかっ」
きゅっと胸が痛む。最近ついたこの癖は、秋穂の髪に触れたいという無意識から始まったのではないかと、詩雨は今確信した。
(……ったく、この男は……っ)
天から地に突き落とされた気分だ。詩雨は自分の髪に触れている男の手を思い切り抓った。
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