6 / 38

2 ☆☆

 梅雨明けの声をまだ聞いてはいないが、空はすっかり夏だった。夏休みに入った聖愛学園は、教室も寮も閑散としていた。  冬馬は寮棟を出ると、一番近い門に向かっていた。寮棟に並行して向日葵の花壇が続いていて、風が黄色い花を揺らしていた。 「トーマ!」  後ろから駆け寄る足音がして、ポンと背中を叩かれた。 「詩雨。どうした──補習でも?」  無論、冗談だ。悪戯っぽく笑う。 「まさか!寮のダチのとこ。ほら、秋穂と同じ階の。冬馬は秋穂のとこだろ?」 「ああ」  ふたりは並んで歩き始めた。 「秋穂は家に帰らないんだ?夏休み中?」 「ああ、たぶん──いや、どうだろうな」  言葉を濁す。何か知ってて言えない、そんな感じだった。 「秋穂はさあ……なかなかオレに慣れてくれないよね。って言うか、冬馬だけにしか、かな」 「いろいろあるんだよ……俺からは言えない」  表情が曇る。こうして見ると大人の男のようだ。 「ふうん。冬馬にはいろいろ話すんだな。オレが秘密基地(あそこ)で冬馬たちを見た時、もうずっと昔から一緒にいるふたりって感じだったよ。でも、会ってからひと月くらいしか経ってなかったんだろ?それなのに──なんか、妬ける」  一旦口を噤む。その後を言うか言うまいか迷っているような感じだ。 「……それに……秋穂のこと話す冬馬って、いつも優しい表情(かお)してるっつうかぁ……今までに見たことのないような……」  詩雨にしては歯切れの悪いしゃべり方だった。その視線は足許の石畳を彷徨っている。前髪で翳って、冬馬からはその表情は窺えない。 「なに言ってるんだ。お前にも優しいと思うけど?」 「…………」  詩雨は弾かれたように冬馬を見る。その顔には、やっぱ、言わなきゃ良かった、と書いてある。 「──そう言えばさぁ」  突然話題を変える。今までの会話はなかったことにした。 「知ってる?高等部にいる秋穂の知り合い」 「──え?」  詩雨にしてみれば、話題を変えるためにふと思いついたことを言っただけなのだが、思いのほか冬馬の顔に動揺が浮かんだ。 「さっきのダチのとこに行くと、たまに見かけるんだ。高等部の制服を着たヤツが秋穂の部屋から出てくるの──って、冬馬?」  何処まで話を聞いていたのか、冬馬は途中で立ち止まっていた。険しい顔で寮棟を見ている。 (……時々、アキの部屋でアキとは違う匂いを感じることがある……。気づいていたけど、考えないようにしてた……)  詩雨が言ったことで、もやもやしていた何かが形になってしまった。 (なんか、ざわざわする)  黒いTシャツの、胸の辺りをキュッと掴む。 「おーい、トーマ、どーしたのー?」  罪作りな男は罪のない顔で、眼の前で手を振っていた。  冬馬はふっと小さく息をついた。 「なんでもない」  再び並んで歩きだす。 「一昨日(おととい)練習(レッスン)棟で、弾いてただろ?」 「ん?」  今度は冬馬が話題を変え、詩雨が怪訝そうな顔をする。 「窓を開けたままだったな?ピアノの音が聞こえて──お前が弾いてるって、すぐわかった」  そう言いながら、夏の陽に煌めく金の髪に手を差し入れた。 「けっこう遅い時間だったな」 「──天音(あまね)くんたちのいる家で弾きたくなかった」  何処か気まずげな笑みを浮かべる。  天音は、柑柰家の長兄だ。詩雨には姉もいる。三人とも父親の作ったカンナ交響楽団(シンフォニー)に籍を置く。兄弟仲は悪くない。むしろ良すぎる程だ。それでも、詩雨の心の中にはわだかまる何かがあるのを、冬馬は知っていた。 「アキはお前のピアノを初めて聞いたんだけど。優しい音色だね、って言ってた」  音楽に対して一見不誠実そうなこの男が奏でる音色は、実は優しく、音楽への愛情に溢れている。 「俺も──好きだよ。ずっと、今も昔も変わらず」  いつも言っているだろう?と、その眼が語る。詩雨がさっと視線を外す。その白い頬に朱が走った。 「ところで──なんで最近、オレの髪触るの?」  冬馬の手は先程からずっと詩雨の髪を撫でていた。 「あー……気持ちいいから?さらさらしてて?」  何故か疑問形。自分でも解っていないのか。詩雨は口を尖らせているが、実は冬馬に触られるのが嫌ではなかった。 「アキの髪はまた違うな──柔らかでふわふわした感じ──かな?」 「げっ、秋穂の髪にも触ってるのかっ」  きゅっと胸が痛む。最近ついたこの癖は、秋穂の髪に触れたいという無意識から始まったのではないかと、詩雨は今確信した。 (……ったく、この男は……っ)  天から地に突き落とされた気分だ。詩雨は自分の髪に触れている男の手を思い切り抓った。

ともだちにシェアしよう!