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4 ☆☆

 ──外は夕闇。雨足は激しさを増し、嵐を思わせる。  しかし、吹き抜けの、広いリビングには、その激しい雨の音は聞こえない。  かわりにピアノの音。  黒く耀くグランドピアノの前に座り、鍵盤の上に白く繊細な指を滑らせる。見ている者の心まで蕩かすほど愛おしげな顔で弾いている。  ショパンの『子守歌』を優しく奏で『雨だれ(レインドロップ)』を優雅に響かせる。楽しくなってきたのか、クラシックだけではなく、J-POPから童謡までジャンルもバラバラで弾き続ける。 「楽しそうだな──お前のピアノ聴くの、久しぶり」  耳許で冬馬が囁く。まだ濡れた詩雨の髪に指を差し入れる。  中三の頃、詩雨は苦しそうにピアノを弾いていた。 (──いや、もうずいぶんと長いこと、悩んでいたようだったな……)  何がきっかけだったのか、高等部進級を機に、一切のピアニストとしての活動を辞めた。父親の率いる交響楽団も抜け、学校の籍もカンナから聖愛に移した。それどころか、家からも出て寮に入った。 「嬉しいよ──そんな風に楽しそうに弾く詩雨が見れて。出逢った頃みたいだ」 「そうだな。小さい頃は、ただピアノを弾くのが楽しいだけだった。何者でもないオレが、何にも縛られず、ただ楽しく弾いていた。今は、あの時と一緒だ──」 (──冬馬が、すごいって褒めるから。初めて聴かせた時から。ずっと、オレのピアノが好きだって言うから。だから弾いてたんだ──ただ、冬馬ひとりに聴いてほしくて──)  どんな想いが過ったのか、片方の眼に涙が浮かぶ。冬馬は彼の髪に触れていない方の指先で、その涙を掬い上げた。 (──かつてこの男は、天才少年と持て囃されていた。そして、その容姿と相まって、本人の意思とは関係なく周囲に動かされてきた。ただピアノが好きなだけの少年は、あの頃とても苦しんでいたんだ──)  一瞬冬馬の脳裏を掠めたあの頃の苦しげな音。しかし、それはすぐに今聴こえてくる音に掻き消されていく。  冬馬は、ピアノを弾く詩雨の後ろ姿が滲んでいくのを悟られまいと、悪戯っぽく笑った。そして、自分の肩にかけてあったタオルで、詩雨の髪をがしがし拭き始めた。 「うわっ。なにっ」  びっくりして、いったん指を止める。 「お前、肩までびっしょりなんだよ。せっかく風呂入って着替えたのにっ。ちゃんと拭けっ」  乱暴に拭いた後は優しく手櫛で解く。詩雨は気持ち良さそうな顔で、そっと鍵盤に指を落とし優しく奏で始めた。  ふと、自分の奏でる音に紛れた、微かな音に気づく。  自分からそれを捨てても、かつて天才ピアノニストと呼ばれた男──音には敏感だった。  視線だけで音の行方を探すと、階段の上に秋穂が佇んでいた。瞳を大きく見開き、どこか動揺の色が窺える。  冬馬は気がつかずに譜面台にあった紅い紐を手に取った。いつも詩雨がつけている組紐。手櫛で整えた髪を慣れた手つきで結い始める。 (──見ている)  詩雨は顔を傾け、動けないままの秋穂と視線を合わせ、口の端を少し上げる。  ──今まで見せたことのない、挑戦的で妖艶な笑み。  詩雨の髪を弄っている冬馬には見えていない。 「昔、よくこうやって結んで貰ってたなぁ」  その表情とは裏腹な明るい声。 「そうだな。お前ひとりで結べなくて」  幼い頃を懐かしむ優しい声が、詩雨の耳許をくすぐる。 「わっ、三つ編みまでしてある。冬馬は意外と器用だよな」 「意外は余計だ」  綺麗に結い終わった髪をポンと優しく撫でる。 「この紅い紐、子どもの頃からずっとしてるな」 「この紐は──」 「アキ」  言いかけたところで、ぎこちなく階段を下りてくる足音が、冬馬の耳にも届いたらしい。  自分の髪を撫でる手が、背中に感じる温度が、遠ざかっていく。 (──行くな……っ!)  心の声は届かない。  少し離れたところから聞こえる冬馬の声音は、自分に向けられるよりも深く優しいもののように感じた。 「アキ、髪濡れてる。なんで、みんなちゃんと拭けないんだ」  自分にしたように、冬馬が秋穂の髪を拭く。  どろどろとどす黒い何かが、胸の中で渦を巻く。 「……この紐、おまえがくれたんじゃないか……」  小さく呟き、冬馬が結った紅い紐に触れる。 (──オレ、今どんな顔してるんだ……)  艶やかな黒いピアノに映り込む、自分の顔を見たくはなくて、ぎゅっと眼を瞑る。  眼を閉じたまま、難曲と言われるショパンのエチュードを弾き始めた。今までとは打って変わった、荒っぽい音。  ──練習曲(エチュード) 作品十第四番は、『激流』とも呼ばれていた。

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