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5 ☆☆
ゲストルームのベッドで眠る秋穂の表情は、少し穏やかになったようだ。
初めて出逢った日と同じように、細く軽い身体を抱き上げ、蒼白い肌にかかる髪に触れた。
《あの時》それまでに感じたことのない欲を身の内を感じた。
(俺は──それを慌てて胸の奥底に仕舞いこんだんだ)
自分でもそれが何かを理解する前に。子どもだった、あの時の自分は。その欲はこの四年間、何度も浮かんでは押し留めてきた。その度に少しずつ、自分が何を欲しているのか解ってきた。
(でも──)
冬馬は、秋穂の額にかかる髪の上に、そっと、唇を寄せる。しかし、すぐに離れて頭を振る。
秋穂の信頼を裏切りたくなかった。秋穂を傷つけるあの男と同じことを、したくはなかった。
今もまた、その《想い》を心の奥底に沈めようとするが、先程の出来事に気持ちが昂り、なかなか思うように静まらなかった。
冬馬が秋穂を抱き上げて出ていくと、壱也はとりまきを連れてその場を去った。
詩雨はソファに座り、ぼんやりと冬馬が出ていった方向を見ていた。
「し~うくん」
詩雨の暗い気持ちと相反した軽い声で名を呼ばれ、我に返った。声の主がこっちに歩いてくるので、詩雨は立ち上がり自ら近づいていった。
「し~うくん。会いたかったよぉ」
ぎゅっと抱き締められる。
「天音くん、朱音 ちゃん。コンサート終わったんだ」
兄・天音の肩越しに、姉の朱音も見えた。ふたりとも日本人離れした顔立ちだが、髪や眼の色は詩雨よりもずっと黒に近い。
「ひどいなぁ、詩雨くん。見てくれなかったの?」
「見たよ、ちょっとだけ──もう、やめろよ」
近すぎる頭を押し退けながら、さも迷惑そうに言う。
「冷たいなぁ。せっかく詩雨くんに会うためだけに、ボランティアしに来たのに」
海外でも名を知られているカンナ交響楽団 は、この時期連日コンサートを行う忙しさだ。聖愛学園のクリスマスコンサートは、あくまでボランティアでほぼ音楽院の生徒が演奏している。本来なら柑奈兄妹が参加することはない。
「頼んでないし!」
「詩雨くん、ほんと冷たいっ!三月に家を出てから一回も会ってないのに。もう、家に戻っておいでよぉ」
更に力を入れて抱き締められる。
「いやいやいや、男兄弟でこれは、いろいろおかしいでしょ!」
バタバタする詩雨の頭を天音が大きな手で押さえ込む。そして、いつも結んでいる紅い紐に触れた。
「これ……まだ、してるんだ」
その低い呟きが聞き取れず、えっ?と聞き返す。
その時。
「相変わらずのブラコン振りですね、天音さん」
背後から冬馬の声がして、やっと天音が離れた。
「やあ、久しぶりだね。冬馬くん」
「お久しぶりです。朱音さんも」
朱音にも挨拶をすると、彼女は極上の笑みを浮かべた。
「冬馬はますますいい男になったわね」
冬馬は朱音のお気に入りだった。
「朱音さんは今日もお美しいですね。そのドレス、ちょっと眼の毒です」
彼女は大きく胸許の開いた、身体の線がはっきりわかってしまうようなドレスを、美しく着こなしていた。朱音は冬馬の肩に片手を置く。
「可愛いこと言うわね」
頬に唇を寄せようとして、
「朱音ちゃん、やり過ぎ」
と、詩雨に窘められる。彼女は肩を竦めた。
「秋穂は?ほっといていいの?」
「あ、ああ、うん」
曖昧に頷く。
「まだ、眼が覚めない。あとで飲み物と食べ物を持っていくよ。部屋を出ないように書き置きもしてきた」
「そ……う」
あんな状態の秋穂を冬馬が置いてきてしまうなど、なんだか腑に落ちない気がした。
冬馬は疲れた顔でソファに腰を下ろす。
「ああ、さっきはたいした騒ぎだったね」
「天音くん見てたの?」
「うん。ここに入ろうと思ったら、ね。冬馬くんは眼の前を通っていったけど、僕らのことは全然見えてなかったみたいだね」
冬馬は何も答えない。
「残念だなぁ。冬馬くんのお気に入りの石蕗秋穂くんとも、お話してみたかったのに。また今度紹介してね」
空気読めないふうを装った軽い口調に、その場の温度が二、三度下がったような気がして、詩雨は背後のソファを見ることができなかった。
「天音くんっ」
詩雨が怒った顔で天音を見ても、彼はにこにこするばかりだ。
「あ、そう言えばー、石蕗壱也くんのとりまきくんが一人、君たちの後をつけていったみたいだけど」
「え……?それって……」
詩雨が言いかけて口を噤む。後ろに座っていた男が自分の隣に立ち、天音と向かい合っていたからだ。
「冬馬……」
「でも、部屋はオートロックで、カードキーは俺が持っています」
焦りを隠して言う言葉は、自分に言い聞かせているようだった。
「冬馬くん、知らなかったの?ここ石蕗リゾート系列のホテルなんだけど」
「……忘れてた……」
動揺と怒り。石蕗リゾートの次期社長であれば、客室の鍵を開けることができなくはないかもしれない。あくまで笑顔の天音をひと睨みすると、冬馬は走りだした。
「トーマ!」
呼び止めるが振り向かない。そのまま見送り、詩雨も天音にきつい眼を向けた。
「天音くん!どうして、早く言ってくれなかったんだよっ。秋穂に何かあったら……」
秋穂と壱也の間に何があるのか、冬馬は何も言わない。でも先程の様子を見れば、察することはできる。
「んー?そうだね、あのコが、どうにかなっちゃえばいいかな、なんて。──僕が大事なのは詩雨くんだけだからね」
「え……」
この男 は何を言っているのだろう。まるで楽しい話をしているかのように残酷なことを言うので、自分の耳がおかしくなったように思えた。天音の言うことは、時々理解できない。
「もし、あのコがいなければ、って思うこと──詩雨くんにも、あるだろ?」
「そんなわけ、あるかっ」
意味深な笑みを浮かべている天音に食ってかかろうとして、朱音に止められる。
「詩雨、天音のことは放っておいていいから。早く行きなさい」
「あ、うん」
朱音に急かされその場を後にする。部屋を出て辺りを見回しても、もう冬馬の姿は見えなかった。
「えーっと、オレ、これからどうしたらいい?」
答えが返るはずもないが、つい口から零れてしまう。
(っていうか、オレが行ってどうにかなるのか?)
しかし、冬馬のあの様子では何をするかわからない。
(とにかく、冬馬のところに、行くか)
詩雨はスーツの内ポケットから携帯電話を出して、冬馬に電話をかけた。
(──でない)
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