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 ゲストルームのベッドで眠る秋穂の表情は、少し穏やかになったようだ。  初めて出逢った日と同じように、細く軽い身体を抱き上げ、蒼白い肌にかかる髪に触れた。  《あの時》それまでに感じたことのない欲を身の内を感じた。 (俺は──それを慌てて胸の奥底に仕舞いこんだんだ)  自分でもそれが何かを理解する前に。子どもだった、あの時の自分は。その欲はこの四年間、何度も浮かんでは押し留めてきた。その度に少しずつ、自分が何を欲しているのか解ってきた。 (でも──)  冬馬は、秋穂の額にかかる髪の上に、そっと、唇を寄せる。しかし、すぐに離れて頭を振る。  秋穂の信頼を裏切りたくなかった。秋穂を傷つけると同じことを、したくはなかった。  今もまた、その《想い》を心の奥底に沈めようとするが、先程の出来事に気持ちが昂り、なかなか思うように静まらなかった。  冬馬が秋穂を抱き上げて出ていくと、壱也はとりまきを連れてその場を去った。  詩雨はソファに座り、ぼんやりと冬馬が出ていった方向を見ていた。 「し~うくん」  詩雨の暗い気持ちと相反した軽い声で名を呼ばれ、我に返った。声の主がこっちに歩いてくるので、詩雨は立ち上がり自ら近づいていった。 「し~うくん。会いたかったよぉ」  ぎゅっと抱き締められる。 「天音くん、朱音(あかね)ちゃん。コンサート終わったんだ」  兄・天音の肩越しに、姉の朱音も見えた。ふたりとも日本人離れした顔立ちだが、髪や眼の色は詩雨よりもずっと黒に近い。 「ひどいなぁ、詩雨くん。見てくれなかったの?」 「見たよ、ちょっとだけ──もう、やめろよ」  近すぎる頭を押し退けながら、さも迷惑そうに言う。 「冷たいなぁ。せっかく詩雨くんに会うためだけに、ボランティアしに来たのに」  海外でも名を知られているカンナ交響楽団(シンフォニー)は、この時期連日コンサートを行う忙しさだ。聖愛学園のクリスマスコンサートは、あくまでボランティアでほぼ音楽院の生徒が演奏している。本来なら柑奈兄妹が参加することはない。 「頼んでないし!」 「詩雨くん、ほんと冷たいっ!三月に家を出てから一回も会ってないのに。もう、家に戻っておいでよぉ」  更に力を入れて抱き締められる。 「いやいやいや、男兄弟でこれは、いろいろおかしいでしょ!」  バタバタする詩雨の頭を天音が大きな手で押さえ込む。そして、いつも結んでいる紅い紐に触れた。 「これ……まだ、してるんだ」  その低い呟きが聞き取れず、えっ?と聞き返す。  その時。 「相変わらずのブラコン振りですね、天音さん」  背後から冬馬の声がして、やっと天音が離れた。 「やあ、久しぶりだね。冬馬くん」 「お久しぶりです。朱音さんも」  朱音にも挨拶をすると、彼女は極上の笑みを浮かべた。 「冬馬はますますいい男になったわね」  冬馬は朱音のお気に入りだった。 「朱音さんは今日もお美しいですね。そのドレス、ちょっと眼の毒です」  彼女は大きく胸許の開いた、身体の線がはっきりわかってしまうようなドレスを、美しく着こなしていた。朱音は冬馬の肩に片手を置く。 「可愛いこと言うわね」  頬に唇を寄せようとして、 「朱音ちゃん、やり過ぎ」  と、詩雨に窘められる。彼女は肩を竦めた。 「秋穂は?ほっといていいの?」 「あ、ああ、うん」  曖昧に頷く。 「まだ、眼が覚めない。あとで飲み物と食べ物を持っていくよ。部屋を出ないように書き置きもしてきた」 「そ……う」  あんな状態の秋穂を冬馬が置いてきてしまうなど、なんだか腑に落ちない気がした。  冬馬は疲れた顔でソファに腰を下ろす。 「ああ、さっきはたいした騒ぎだったね」 「天音くん見てたの?」 「うん。ここに入ろうと思ったら、ね。冬馬くんは眼の前を通っていったけど、僕らのことは全然見えてなかったみたいだね」  冬馬は何も答えない。 「残念だなぁ。冬馬くんのお気に入りの石蕗秋穂くんとも、お話してみたかったのに。また今度紹介してね」  軽い口調に、その場の温度が二、三度下がったような気がして、詩雨は背後のソファを見ることができなかった。 「天音くんっ」  詩雨が怒った顔で天音を見ても、彼はにこにこするばかりだ。 「あ、そう言えばー、石蕗壱也くんのとりまきくんが一人、君たちの後をつけていったみたいだけど」 「え……?それって……」  詩雨が言いかけて口を噤む。後ろに座っていた男が自分の隣に立ち、天音と向かい合っていたからだ。 「冬馬……」 「でも、部屋はオートロックで、カードキーは俺が持っています」  焦りを隠して言う言葉は、自分に言い聞かせているようだった。 「冬馬くん、知らなかったの?ここ石蕗リゾート系列のホテルなんだけど」 「……忘れてた……」  動揺と怒り。石蕗リゾートの次期社長であれば、客室の鍵を開けることができなくはないかもしれない。あくまで笑顔の天音をひと睨みすると、冬馬は走りだした。 「トーマ!」  呼び止めるが振り向かない。そのまま見送り、詩雨も天音にきつい眼を向けた。 「天音くん!どうして、早く言ってくれなかったんだよっ。秋穂に何かあったら……」  秋穂と壱也の間に何があるのか、冬馬は何も言わない。でも先程の様子を見れば、察することはできる。 「んー?そうだね、あのコが、どうにかなっちゃえばいいかな、なんて。──僕が大事なのは詩雨くんだけだからね」 「え……」  この(ひと)は何を言っているのだろう。まるで楽しい話をしているかのように残酷なことを言うので、自分の耳がおかしくなったように思えた。天音の言うことは、時々理解できない。 「もし、あのコがいなければ、って思うこと──詩雨くんにも、あるだろ?」 「そんなわけ、あるかっ」  意味深な笑みを浮かべている天音に食ってかかろうとして、朱音に止められる。 「詩雨、天音のことは放っておいていいから。早く行きなさい」 「あ、うん」  朱音に急かされその場を後にする。部屋を出て辺りを見回しても、もう冬馬の姿は見えなかった。 「えーっと、オレ、これからどうしたらいい?」  答えが返るはずもないが、つい口から零れてしまう。 (っていうか、オレが行ってどうにかなるのか?)  しかし、冬馬のあの様子では何をするかわからない。 (とにかく、冬馬のところに、行くか)  詩雨はスーツの内ポケットから携帯電話を出して、冬馬に電話をかけた。 (──でない)

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