2 / 3

第2話

 翌日。淳が目覚めると一成はシャワーを浴びていた。顔を合わせたくなかった淳はその隙に逃げるように部屋を出た。  ちゃんとお金は置いてきた。六万円に、ホテル代を上乗せして。部屋の料金がわからなかったので果たしてあれで足りたのか不安だが、手持ちがそれしかなかったので仕方ない。  黙って出ていくことが失礼にあたるのか、売春なんてしたことのない淳にはわからないが、とにかく一成に会いたくなかった。  恥ずかしかったのだ。堪らなく。  昨夜のことを思い出すと顔から火をふきそうになる。  もちろん後悔はしていないけれど、自分の言動の数々を思い出すと転げ回りたくなるほど恥ずかしい。あんなことをした後で、冷静になった状態で一成と顔を合わせるのは無理だった。  だから淳はお金だけ残してホテルを後にした。体は非常にだるかったが、どうにかこうにか自宅のアパートまで辿り着くことができた。  シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。体はくたくたで、まだ眠り足りなかった。夜はバイトなので、それまでゆっくり休むことにした。大地にお金を貸すために働き詰めだったが、もうその必要はないのだ。シフトを減らしてもらおう。  そんなことをつらつらと考えている内に、淳は眠りに落ちていた。  すっかり忘れていた大地へ別れの言葉をメッセージで送ったのはその次の日のことだった。  目を覚ましてスマホを確認し、大地からの着信を見てメッセージを送り忘れていたことを思い出したがもうバイトに行かなければならない時間だったので後回しにして家を出た。バイトが終わって帰ってきたのは深夜だったので、翌日の朝、大学に行く前に漸く送ることができたのだ。  大地の連絡先は消した。もう会うこともないだろう。貸したお金は返してもらえなかったけれど、もうどうでもよかった。  気持ちを切り替え、淳は大学に向かった。  講義を終えて移動している途中。 「おいっ」  いきなり腕を掴まれぎょっとした。 「っ……大地……」  憮然とした顔でこちらを見下ろす大地がそこにいた。 「な、なんで……」 「いいから、ちょっとこっちに来い」  腕を引っ張られ、人気のない場所へと連れていかれる。騒ぎにしたくなかったので、淳はおとなしく従った。 「大地、どうしてここに……」 「どうしてじゃないだろ? お前こそどうしたんだよ、急に別れるなんて」 「え……」  大地の言葉に淳は唖然とする。  そんな淳に、彼は笑顔で言った。 「もしかして、俺があの女に言ってたこと本気だと思ってるのか?」 「は……?」 「そんなわけないだろ。あんなの、ただの冗談だって」 「…………」  そんな言い訳を、淳が信じると思っているのだろうか。そもそも、冗談だとしても許せることではない。  不愉快に顔を顰める淳を見て、大地は手を合わせて謝った。 「ごめん、冗談でも言っていいことじゃなかったよな。なあ、謝るから機嫌直してくれよ。あの女とももう会わない」 「…………」 「俺が好きなのは淳なんだよ。これからも傍にいてほしいんだ。だから、別れるなんて言うなよ」  彼の言葉に、淳の心が動かされることはなかった。  好きだという言葉も、なにもかも、もう一切信じることはできない。 「無理だよ、大地」 「なんでだよ、淳……っ」 「もう、大地のこと信用できない」 「っ……」 「大地とは二度と会わない。俺、もう行くから」  その場を離れようとする淳の腕を、大地が強く掴んだ。 「痛っ……」 「待てって。まだ話は終わってない」  そう言って、大地は淳を抱き締めた。  途端に、淳の肌がぞわっと粟立つ。 「なっ、なに!? 離して……っ」 「俺が今まで抱いてやらなかったから、だから不安にさせちまったんだよな?」  耳元で囁きながら、大地の手が淳の腰をまさぐる。 「ひっ、や、やだっ……!」 「俺、男なんて抱いたことないから自信なくて。ごめんな。でも、これからは抱いてやるからさ」  嫌だ離してと淳が暴れているのに、大地は淳の抵抗など本気ではないと思っているようで、構わず体に触れてくる。  前は確かに嬉しかった。大地に手を握られたり、抱き締められたりすると胸がドキドキして、きゅうぅっと締め付けられた。  でも今は、嫌悪感しかない。 「淳、好きだ……」  大地の舌が首筋を舐め上げた瞬間。 「気持ち悪い!!」  嫌悪感がピークに達し、淳はそう叫びながら大地の体を突き飛ばした。  拒絶され、呆然としていた大地の顔が、徐々に怒りに歪んでいく。 「はあ? お前、こっちが下手に出てやってんのに……」  淳は踵を返しその場から逃げ出した。 「クソッ、待てよ……!」  大地が追いかけてくる。  淳は必死に足を動かした。ろくに前も見ていなかったので、曲がり角で人とぶつかってしまう。 「っわ……ご、ごめんなさい……!」  足を止めるわけにはいかず、すぐに離れて走り去ろうとしたが、その前にぎゅうっと体を抱き竦められた。  驚きに、変な声が漏れてしまう。 「ひぇ……!?」 「よかった、見つけられた」 「えっ……」  聞き覚えのある声に、淳は硬直する。  僅かに体を離し、蕩けるような笑顔でこちらを見下ろすのは、一成だった。 「な、な、なん、なんで……」  混乱し、パクパクと口を開閉する。  そうこうしている間に、大地の声が背後から聞こえてきた。 「おいっ、淳!」  淳はびくりと肩を竦ませる。 「こっちに来い! 話はまだ終わってないだろ」 「は、話すことなんて、もうないっ……」 「ふざけんなよ、勝手なこと言いやがって」  大地はイライラした様子で吐き捨てる。  こんな風に憤る彼を見るのははじめてだった。今までは淳が従順だったから苛立ちをあらわにすることがなかっただけなのだろう。 「ねえ、あれ誰?」  大地を指して、一成が淳に尋ねた。  大地は一成の存在に気付き、彼を見てその美貌に僅かに目を瞠る。だがすぐに気を取り直し、一成を睨み付けた。 「お前こそ誰だよ。そいつは俺の恋人なんだよ、離れろ」 「違うっ! もう恋人じゃない、別れるって言った!」  淳は反射的に否定する。淳はもう、なにを言われようと大地の恋人ではいたくない。 「だからっ、それはお前が一方的にそう言ってるだけだろっ。俺は納得してねーんだよっ」 「俺のこと、自分の都合のいいように利用したいだけのくせに! 俺のことなんて、最初から好きじゃなかったんだろ!」  感情が高ぶって、淳は大声で言い返していた。  彼に反抗したのははじめてだ。嫌われたくなかったから。好きだったから。ずっと一緒にいたかったから。だから大地の言うことならなんでも聞いた。  でも、もう淳には、彼を思う気持ちなどない。 「もう大地のことなんて好きでもなんでもない! 二度と顔も見たくない!」 「なっ……」  淳の激しい拒絶に、大地は気色ばむ。 「淳は別れたいって言ってるのに、しつこく言い寄ってくるなんて」  一成のよく通る美声が、氷のように冷ややかに大地を嘲笑する。 「みっともない男」  一成の冷徹な瞳に見据えられ、大地は鼻白む。 「っ……はあ? そんなブサイク、興味ねーよ。別にどうでもいいっつーの」  虚勢を張ってそう言い捨て、大地はそそくさと立ち去っていった。  淳はほっと胸を撫で下ろしたが、間近から不穏な空気を感じ、びくっとする。  見ると、一成が無表情で大地の後ろ姿を目で追っていた。 「は? ブサイク? あいつ今、淳に向かってそう言ったのか?」  地を這うような低い声で、ぶつぶつと呟いている。 「い、一成……?」  声をかけると、一成は淳に向かってにっこりと微笑んだ。 「淳、少しここで待っててくれる? 俺、ちょっと用事を済ませてくるから」  大地の後を追おうとする一成を、淳は慌てて止めた。よくわからないけれど、止めなくてはいけない気がした。 「ままま待って! 行かないで!」  一成の腕にしがみつき、必死に言い募る。 「一成、お、俺を捜してたんだよね? ね? だったら、用があるのは俺だよね? あの、ここだと落ち着いて話せないし、早く移動しよう?」 「淳……。そうだね。あいつのせいで淳を待たせるなんて嫌だし」  そう言って、一成は進行方向を変える。  大地が立ち去った方向とは逆に向かって歩きはじめる一成に、淳はほっと肩の力を抜いた。 「顔は覚えたし、今度でいいか……」  そんな呟きが聞こえた気がしたけど、多分気のせいだろうと淳は自分に言い聞かせた。  外に停めてあった車に乗せられ、連れていかれたのは高級マンションの一室だった。一成の自宅だというその部屋は、外観に相応しく広くてお洒落で彼にぴったりだ。  大きなソファに、寄り添うように並んで座る。落ち着かないので淳は離れたかったが、腰に回された腕にがっちり押さえられ離れられない。  一成は淳の頭に頬擦りしている。恥ずかしいのでやめてほしいが、言い出せない雰囲気だった。  代わりに別のことを口にする。 「そういえば、どうして大学がわかったの?」  淳は自分の名前しか彼に教えていない。大学生だということも、一成は知らないはずなのに。 「淳が寝てるときに学生証見たから」 「ああ……」  淳は納得した。  鞄に入れていた学生証を見たのだろう。勝手に見られたというのに、淳はそれを特に気にすることもなかった。  それよりも、どうしてわざわざ一成が淳を捜して大学へやって来たのかが気になった。 「あっ、ごめんっ、ホテル代、やっぱり足りなかった?」  理由に気付き、淳は謝った。  あんなに豪華なホテルだったのだ。やはり手持ちの分だけでは足りなかったのだろう。 「ま、待ってて、お金下ろしてくるから。いくら払えばいい?」  立ち上がろうとする淳を一成が止める。 「違うよ」 「えっ……?」 「これ、返すね」  そう言って、一成はテーブルに置いてあった封筒を渡してくる。中には、淳が彼に払ったお金がそのまま入っていた。 「え、ど、どうして……?」 「このお金、ホテル代だったの?」 「え……一成に、その、だ、抱いてもらう代金の六万と、ホテル代のつもりで……」  淳の言葉に、一成はきょとんとしている。 「なんで淳が払うの?」 「え、だ、だって……」 「いくら? って俺が淳に訊いたのに」 「えっと……それは、いくら払える? ってことだよね?」 「そんなわけないでしょ。俺が淳を買うつもりだったんだよ。なんでそんな勘違いしたの?」 「だ、だ、だって、一成が、俺なんかに、お金払うなんて……思わなかったし……」 「どうしてそんな風に言うの? 何回も好きって言ったのに、もしかして信じてなかった?」  もしかしてもなにも、お金で買った相手のそんな言葉を真に受けたりしない。  淳の表情から考えてることを察したのか、一成は言う。 「あのね、そもそもタイプじゃなかったら声なんかかけないよ。淳を抱きたいって思ったから声をかけたんだよ」 「…………」 「あと、信じてもらえないかもしれないけど、買ったのは淳がはじめてだから」  確かに一成ならば、わざわざお金を払わなくてもセックスの相手など簡単に見つかるだろう。だからこそ、淳は自分が払う側だと勘違いしたのだ。 「あの路地がそういう場所だってことは知ってて、偶然そこを通ったら淳を見つけて、誰かに取られる前にって思って焦って声かけたんだ。とにかくきっかけがほしくて」 「…………」 「淳に言ったこと、全部ほんとだよ。淳が起きたら改めて告白しようと思ったのに、シャワー浴びてる間にいなくなってるんだもん」 「そ、それは、ごめんなさい……」 「昨日も大学に行って、捜したけど淳は見つからなくて……」 「そ、そうだったの……?」  昨日は大学には行っていないので、無駄に捜させてしまい申し訳なく思った。 「でもよかった。またこうして淳に会えて」  甘く微笑み、一成は淳を抱き締める。 「好きだよ、淳。俺と付き合って」  真摯な眼差しを向けられる。  けれど、淳はそれを信じられない。一成が大地のような人間だとは思いたくはないが、出会ったばかりの彼の言葉を鵜呑みにはできない。大体、一成のような美形が平凡な淳と付き合いたいなんて思うはずがない。  淳は疑わしげに一成を見つめる。 「もしかして、俺のこと家政婦代わりにしようとしてる?」 「どちらかと言うと、俺が淳の世話を焼きたいかな。淳のパンツ手洗いしたいし、俺の作ったもの淳に食べさせたいし、もちろん『あーん』でね。毎日一緒にお風呂に入って淳の体の隅々まで洗いたい。俺がいなくちゃ生きていけないダメ人間になってほしいな」 「…………」  うっとりとした顔で言われて若干引いた。でも、これも淳を騙すための嘘かもしれない。 「お、俺に高い壺買わせようとしてるとか……」 「できれば俺が淳に色々買ってあげたいな。……お揃いの指輪とか」  怪しげな笑みを浮かべ、一成は淳の左手の薬指を意味ありげに撫でる。  なにも言えずに硬直している淳に、一成は苦笑した。 「いきなりこんなことを言われても、信じられないのは無理もないよね。俺達はまだ出会ったばかりだし。きっかけがきっかけだし」 「はあ……」 「でも、本気なんだ。もう、淳を離したくない」 「え……?」 「あの男にはああ言ったけど、淳に別れたいなんて言われても、俺は絶対別れるつもりはないんだ」  そもそも付き合ってないけど。  心の中の突っ込みが、一成に伝わるわけもなく。 「だからね、俺の気持ちを信じてもらうために、淳が俺から離れられなくなるように全力で頑張るから」  その頑張りは限りなく間違っている気がする。 「とりあえず、今日からここで一緒に暮らそうね。大丈夫だよ、淳のお世話は全部俺がするから。着替えも食事もお風呂もトイレも……」 「…………」 「ふふ。楽しみだなぁ」  一言も同意していないのに、なぜかどんどん話が進んでいく。  呆気にとられて反論もできない淳の体に、一成の掌が這う。 「まずは体からだよ。俺から離れられなくなるように、たっぷり可愛がってあげる」 「あんっ……」 「淳の気持ちいいところ、たくさん教えてもらったからね」 「やっんん……っ」  一成の指は的確に淳の感じる箇所を弄ってくる。 「時間はいっぱいあるから、じっくり俺の気持ちを教えて、信じさせてあげる。だからゆっくり俺のこと好きになってね」  愛おしげに見つめられ、淳は彼を拒めなかった。拒んだところで、逃げられる気もしなかった。  一夜限りのはずの関係が、どうしてこうなったのだろうと、遠い目をしながら彼の口づけを受け入れた。

ともだちにシェアしよう!