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第35話
軽いノックの音と共に失礼しますと入ってくる若い男。
夢の中でそれは沢になり、俺はその手を掴もうとする。
「私は全様の想い人ではありませんよ。」
やんわりと掴んだ手が離され、耳元で囁く沢とは違う声。
はっと目を覚まして、それが俺を愛して裏切り、それでも夢に見るほどに愛しい男でないことにがっかりしつつ、気まずい思いを顔に出さぬように横を向く。しかし、そこにいるはずの俺よりも重傷だった一の姿はない。
「一様は他の部屋でお仕事中ですよ。だから…今のことは私と全様の二人だけの秘密です。」
そう言ってふふっと笑うと、沖は点滴と包帯をかえて、俺の前に簡易のテーブルを置き、朝食を並べ出した。
「俺、食べられな…あれ?拘束具がない?」
自分の顔や手を触り、子が産まれるまでずっと付けておくと一が言った拘束具の全てが取り払われていることに気がついた。
「あのような大怪我をして、呼吸も辛い状態での拘束は親子共に危険な状況に陥る可能性がありましたので、私が医師として外させて頂きました。」
「でも、じゃあ何で点滴?」
自分の腕から伸びる管の先を見つめる。
「痛み止めやその他諸々の薬などが入っております。一様はαという特殊な身体をお持ちの為、治癒能力が高いのですが、Ωの全様はそういうものもかなり低くていらっしゃいます。ですので、油断は禁物。暫くは薬の投与と安静でお身体をお治しください。」
自分が一よりも劣っているという事実をこんなところでも突きつけられ、Ωという存在の弱さに愕然とする。
「俺は…Ωはそんなに弱い存在なのか?」
尋ねるというより口の中で自分に問いかけた言葉に沖が答えた。
「Ωは弱いですよ?αとは雲泥の差です。ですから番としてαの庇護の下でしか生きられないのです。一人で生きようとしてもまずは生活できません…もしも番持ちでないΩが会社でヒートになったら仕事どころか、周囲を巻き込む大惨事を引き起こす可能性があります…抑制剤もピンからキリですからね。例えば全様が飲んでいらっしゃった最高級のお薬は、普通のΩには到底手が出ません。」
「じゃあ、Ωは何の為にこの世に産まれたんだ?したいこともできず、自分のこと一つままならないこんな性は一体何の為にあるんだ?」
少しお静かにと言って、俺の背中を沖が優しくさする。
「そのような難しいことはお体が治ってから存分にお考えください。今は…朝食を食べるような気分ではなさそうですね…ならば少し身体をお休めください。」
そう言うと、沖が細い注射器を手に取った。
「何?沖、何それ?」
怯えた声で沖に尋ねる俺に、にっこりと微笑みながら沖が近付き嫌がる俺の腕を取る。
「現実を離れ、夢の世界に連れていってくれるお薬ですよ。」
チクッと針が刺さり、ジュワーっと冷たい液体が腕を冷やしていく。
「やだ…やめ…ろ…」
言葉は続かず、俺は混沌とした渦の中に引き摺り込まれていった。
「現実よりもひどい夢はありはしませんよ。悪夢も起きさえすればただの夢…起きられれば、ですけどね。全様、おやすみなさい…良い夢を…」
パタンと扉が閉まる音と共に俺の意識も閉じた
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