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第63話
「失礼します。」
どれほどの時間が経った頃だろうか、静かなノックの音と共に入って来た覆面の男は、俺の頬を流れる涙に気が付かない振りをしながら、腕につながる点滴に抑制剤と思われる薬を注入した。
「なぁ、これを少しだけ緩めてもらえない…よな。ごめん、何でもない…」
ピンと張った腕の痛みが痺れに変わり、そろそろ我慢も限界に来ていたが、沖の許しもないのに俺の鎖を緩めれば、この男が何かしらの咎めを、仕事を無くすかもしれない。そう思い直して俺はそっと目を閉じ、ため息を吐いて沖が来るまで我慢することを覚悟した。
「よろしいですよ。」
「え?」
その思いもかけない言葉に目を見開いた俺を気にするふうでもなく、カチャカチャと鎖を緩めていく。
ようやく、少し落ち着くことのできた腕を見上げてから、覆面の男を見てありがとうと言った。
「でも、沖に怒られるんじゃないのか?勝手なことをしてって。」
すると覆面の男はやおらその被っていたものを脱ぎ捨てると俺にこう言った。
「私は卿の使いの者ですので、お気になさらず。主人から全様に言伝を言いつかって参りました。」
「卿って…沖が言っていた一を番にしたいって言っていた彼の方?」
俺は仮面に隠れた男のことを思い出していた。
「はい、そうです。今は心配と焦りで心も身体も引き裂かれそうになっているかと思うが、我慢して欲しい。もうほんの少しの時を私に預けてもらいたい。その暮らしを変えられると信じて、私を信じて欲しい。最後に、あなたは再び一を番とすることができるか?今度は本当に心からの愛と共に…どうだ?…との事です。私は返事をいただくように仰せつかっておりますので、お返事をお願い致します。」
「返事…?」
俺の言葉に男が頷く。
今、言われた事を思い返す。卿とこの男の言う彼の方は、ともかく俺を助けてくれるつもりのようだ。だがしかし、その条件と思われるものが一と再び番に…しかも心からの愛と共に…そんなの無理に決まっている。俺には無理だ…例え沖がどんなにひどく理不尽なことを俺にしても、俺が一を心から愛するよりも沖の方を愛する方が楽だ。そう、例え今の一のように客を取らされたとしても、俺は沖を愛した方がいいと思っている。一が俺にした事を思えば愛するなんて、いや、許すことすらもできない話だ。だけど、俺は一と久し振りに会って懐かしさを感じ、今この状況では死なないで欲しいと思っている。この感情は何なんだろう?それにヒートだったとは言え、一に愛され、俺も愛しいと思い、一との子供が欲しいとすら望んだ。それでもやっぱり許せない…一を俺は…許しはしない…でも…
自分の揺れる気持ちを整理できないまま時間だけが経っていった。
「分かりました。」
いきなり、俺の思考に男の声が割り込んできて一瞬訳がわからなくなっている俺に、男は覆面を再び頭から被り直すと失礼しますと言って扉に向かって歩き出した。
「返事は?」
焦って言う俺に、男は振り返るとその時間が答えだと好意的に伝えておきますと言った。
「どう言うことだ?」
俺の問いに再び扉に向かおうとした男の足が止まり、ベッドに近付きながら話してくれた。
「卿が言っておりました。答えのない時間が過ぎるようならそれが答えだから帰って来ていいと。きっと全様はまだご自分の気持ちに整理をつけられないのだろうと。しかし時間はそれほどあるわけではない。人の一生とは思いもよらず短く儚いもの…この足を一歩前に踏み出したそこには、死が口を開いて待っているのかもしれない。そのかけがえのない自分の時間を相手の為に使い、その者を想う…そう、それがすでに答えなんだよ…と、そう言っておられました。そして、好意でもそうでなくても気になるからその者を頭の中から追い出せずにいる。人とは不思議なモノだと。」
「だったら、俺は一を嫌いだと言うことにもなるだろう?」
「そうですね。しかし…」
そう言って男は目が見えるくらいまで覆面をめくると俺を覗き込んで言った。
「全様はとてもお幸せそうな顔をしていらっしゃいましたよ…あ、こう言う事は言わないようにと卿から言われておりましたので、内密にお願い致します。」
パチンと片目をつぶった男に俺は久しぶりにふっと笑いが漏れた。
「それともう一つ…沖のどんな言葉にも心を持って行かれぬように。あなたはあなただけの方法で真実を知る事ができるはず。それだけを信じて待っていなさい…との事です。」
はっと、自分の身体の内で感じる一の存在を思い出す。こくんと頷いた俺に男は仮面を下ろすと失礼しますと言って扉から静かに出て行った。
「待つよ…一のことを信じて俺は待つ…だから一、死ぬなよ。死んだら俺を次の世でも抱かせてやらないからな…だから死なせないでくれ。どうか…俺の家族をもうこれ以上俺の前から消さないでくれ。」
何に祈っているのかもわからず、ただただ俺は一の生存だけを願った。愛でも憎しみでもなく、今はただ俺はこれ以上誰かを失いたくはなかった。
そんな俺の言葉を聞くように扉に耳をつけていた男がそっと離れた。そして、周囲を見回すと覆面を取り、足音も立てずに廊下を歩き去って行った。
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