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第66話

それからは一瞬の出来事だった。 大きな扉の前に着くと沖がやおら注射を手に近付いてきた。 「何で?」 怯える俺の腕を背後から男に押さえられ、沖が注射針を皮膚に押し付ける。 「やだ…もう嫌だ…」 何を打たれているのかわからない恐怖から、無意識に涙が頬を伝う。 沖がそれを見て、思いのほか優しい顔で微笑み、流れた涙を舌で舐めとるとそのまま唇を合わせた。 「しょ…っぱい…」 「それがあなたの味ですよ…これはただの眠り薬…あぁ、ほらもう効いて…」 その後の言葉は闇の中。 俺には一瞬目を瞑っていただけの出来事だったが、実際にはすでに数時間が過ぎていたようで、目を覚ました部屋は赤く染まっていた。 「あ、夕日か…」 ずっと太陽の光を見ないで過ごしていた俺は一瞬ドキッとしたが、その赤が窓から入ってきた太陽の光だとわかってほっとする。 「起きたか?」 聞き覚えのある声に振り返ると、そこには覆面をつけた男が立ってこちらを見下ろしていた。 「あなたは…」 「あぁ、お前達の屋敷でお前に会った者 だ…分かるか?」 こくんと頷くとそうかと言いながらベッドに腰掛けた。 ギシっと軋むベッドの音に、びくっと身体が反応する。 手は出さないと沖は言っていたが、俺の身体に残るヒートの熱がまだ冷めきってはいないようで、この男に恐怖を感じた。 抑制剤を打ったはずなのに… 腕に残る針の跡を見て震えている俺を男が心配して近付いてきた。 「どうした?」 伸ばされた手から逃げるようにずり下がる。 「おい、危ないぞ!」 ぐっと掴まれた腕から拡散して行く熱。ベッドから落ちそうになった俺を胸に抱き、俺を見下ろす目。 覆面の内から見える瞳にどうしようもない恐怖を感じ、俺は男の胸を拳で叩き、抵抗した。 「やめないか?!あぁ、くそっ!」 ばっと覆面をとった男は雄の顔を曝け出し、俺を組み敷いた。 「いいか…私にその気はない。お前の匂いも私には匂わない。だから大人しくするんだ…さもないと、このままお前を抱かなければいけなくなる。」 「怖…い…やだ…怖い…」 「わかっている…だが、私はお前を傷付けることはしない…大丈夫だ。」 身体を離そうとする男から逃れようと、一瞬の隙をついてベッドから落ちようとする足を掴まれた俺は、床に上半身が落ちた格好でうつ伏せになった。 「助け…て!沖ーーーー!」 どんなに虐げられていても、ヒートの時の俺にとって唯一の存在である番の沖の名を叫ぶ。 「薬じゃない自然のヒートか…抑制剤は持ってきていなかったはず…あぁ、まったく!」 男が俺をベッドに戻そうと腕を掴むが、俺はそれを嫌がって、相手を引っ掻き、噛みつき、必死に抗う。 「こうなったら…おい!!入って来い!!」 扉が開いた先には懐かしい顔。一瞬、その恐怖すらも心の奥に姿を消し去って、俺はただじっとその顔を見つめていた。 「さ…わ…?」 こくんと頷いて沢が部屋に入って来ると、俺を押さえつけていた男の手が離れて、ベッドから降りた。 「まったくえらい目にあった…沖には手を出さないと約束したが、これはあいつにも予測し得なかったこと…まぁ、私がしても…おい、そんな目で睨むなよ。だから呼んでやっただろ?精々、自死させないように気を付けて、ヒートを治めてやれ…子は、できたらできた時だ。だが、噛むなよ!そこまでは私もまだ認めるわけにはいかない…いいな、沢。」 頷いた沢が俺に近付いて来る。 「沢…本当に?本当に、沢なのか?」 頷いて俺をベッドに優しく戻すと、俺の手を取り、その手を自分の頬に当てる。優しい目に俺が映り、沢も俺の目に映る自分を見つめるように顔が近付いてくる。 「おい!私が出て行くまでくらい我慢しろ!それと、沢は喉が潰れて声が出ないからな。」 「声が…?!」 近付く顔が止まり、沢が問いに答えるように頷く。 「まぁ、掠れ声くらいは出せるから生活に支障はないと思うが…私は今夜はこのまま帰る。どうせ話にならんだろうしな。沢、明朝には話のできる状況にしておいてくれ。ではな。」 そう言って片手を上げた男は扉の向こうに姿を消した。

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