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第68話
揺さぶられる体と共に消えていく夢。
暖かく優しい世界が消え去り、俺の目の前に現実が突きつけられた。
「一っ!!」
沢に連れられて入った部屋。
色のない部屋。
その中でベッドに寝かされている一は、酸素の供給されているマスクをつけて、静かに寝ていた。
「起きろよ!おい!起きろってば!!」
ベッドに走り寄り、身体を揺さぶっても目を覚ますことはなく、俺は涙を流しながら一の身体にすがりついた。
「全…様。」
後ろから伸びた沢の手。掴まれた肩を揺らしてその手を払った。
「今は…二人きりに…」
俺の言葉に沢が一瞬反応したようだが、それを隠して一礼すると扉から出て行った。
「一、お前…俺を守るって言ったじゃないか!?俺を守るって…言ったのに…」
あれだけお前を憎み、呪い、嫌いだと言い続けていたのに…
ここが俺しかいない世界だったら、きっと泣き喚き狂っていただろう。
それでもここには沢がいる。そしてこの部屋に来る間に卿と呼ばれている男の使用人と思われる者達数人とすれ違い、挨拶もされた。他者のいる場で俺は俺の家の名を貶めるような行為をするわけにはいかない。
後継者として俺は、自分の事よりも家を最優先に考えるようにと幼い頃からそう育てられてきた。
こんな時でも俺は、未だに家の名に縛られているのか…
自嘲気味に笑うと、それでも少しは冷静さを取り戻して、一の顔を眺める。
思い出す昨日の事…まるで数ヶ月も前のような出来事。
「あれがお前との最後か…まったく…いつも好き勝手し放題で…俺はいつもそれに振り回されて…最後もお前は…俺を振り回すだけ振り回して…勝手に…身勝手に自分だけ…俺をこの世界に一人にして…一…行くなよ…行かないでくれよ…なぁ、一っ!!」
どんなに泣いても、涙を流しても一はぴくとも動かず、ただじっとそこに横たわっている。
それでもいい。
それだけでいい。
ともかく今はここにいる。
俺の目の前にいて、触れられて…
一の存在を身の内で感じ、俺は一との繋がりを感じて生きていける。
一…
心の奥深くに、その存在に、暖かいぬくもりに声をかける。
一はいつもと変わらない、少し意地悪そうな顔で微笑み、俺に安心感をくれる。
それだけで十分だ。
俺はようやく一と家族として向き合っている。
失ってきた時間を、これから取り戻すんだ。
「一…お前を守るよ…一…」
髪に触れた手が止まる。
柔らかいその感触が、俺の身体に触れた時のくすぐったさを思い出し、顔が真っ赤になっていく。
ふと、屋敷で言われた言葉を思い出していた。
「お前と再び番か…なぁ、俺な、沢に会ったよ。それで…沢と愛し合った。沖とはできなかった子供。お前とできた子はあの後すぐに沖に流されて…でな…まだ誰にも言っていないけれど…多分…沢との子供がいる…ごめんな、一。でももう、しない。沢とも、誰とももうしない。お前が目を覚ますまで俺は誰にもこの身体を触れさせない。だから…だから…さっさと目を開けて俺を抱けよ!なぁ、一!!」
勝手に涙が溢れ出して止まらない。拭っても拭っても、涙がシーツを濡らしていく。
「そんなに泣いたら、一はこの世界に未練を残してしまう。」
突然、背中から聞こえた声に振り向くと、そこには昨日別れた、屋敷で会った男が立っていた。
「あなたは…あなたが、卿…ですよね?」
会った時からこの声には聞き覚えがあった。そして昨日の沢への物言い。それらを合わせて考えて出た答えを突きつけた。それをまるでわかって当たり前だとでも言うように頷いた男に、俺は我慢できずに大声をあげた。
「あんたが!あんたが一に注射さえ打たせなければ…一はこんな事にはならなかったはずだ!!」
殴りかかろうとする勢いの俺から卿を守るように沢が俺と卿の間に立ち塞がり、ダメだと言うように首を横に振った。
「退けよ!退けよ、沢!」
沢の体を押しのけようとする俺に向かって卿が諭すように話し出した。
「私に怒りたい気持ちは分かるが、これは賭けだったんだ。私は沢を道で拾い、お前達の話を全て聞いた。そして、沢に助けて欲しいと請われた。そこであの屋敷に行かれるように手配をして、一を買うようになった。あ、私は一には一切手を触れてはいないよ…そして一から今回の計画を聞いた。しかしそれは無謀すぎる計画だった。そう、私の危惧した通り、一は死を待つだけの身となってしまった。それでも一は君を助け出せればいいと私に願ったんだ。自分はどんな事になろうとも、全さえ助かればそれでいいんだと。」
「それじゃあ、注射の事は一が言ったんですか?自分に打って欲しいと…」
「あぁ、3本も打ったら死ぬかもしれないからやめろと止めたのだが、沖の目はそれくらいしないと誤魔化せない。そう言って頑としてきかなかったんだ。」
思いもかけない話にずるずると体から力が抜けて床にへたり込む。
「こちらに…」
沢の手を借りて、置いてあるソファに座ると、温かい紅茶が置かれた。
その久しぶりの香りに手が伸びて、一口飲む。
温かさが体中に広がり、フワッとした香りに癒される。
「美味しい…」
俺を見つめていた卿が、テーブルを挟んだ向こう側のソファに座り、俺と同じように紅茶を飲んだ。
「さて、一はこうなってしまった。自分で望んだこととは言え、関わった私としては君達を助けたいと思っている。だが、それには一つ条件があるんだ…昨日も君の部屋で言ったね?」
卿の話にこくんと頷く。
「一と再び番に…心からの愛と共に…」
あぁ、そうだと卿が満足そうに頷くと、紅茶を飲んだ。
「私は色々な事をしてきたんだが、未だに愛のキューピッドにだけはなった事がなくてね…今回はとてもいい機会だと思うんだ。」
なんとも言いようのない話に、返事ができずに俯いた。
「でも俺には番が、沖がいます。それで一と番になれと言われても…」
「そうだね…」
そう言って天井を見上げる卿が閃いたとでも言うようにぱっと顔をほころばせた。
「まぁ、彼はああ言う状況だし…君の気持ちが一を受け入れるのなら、私もそれで良しとしよう。そのうなじに彼の歯を立てて、その一瞬だけでも君と彼を番としよう。そう、この家の中だけの秘密の番契約だ。さて、全君…君はあの彼を心からの愛で番とするかい?」
卿の閃きに頭の整理がつかず、首を横に振る。
「時間を下さい!俺はこんな状態でも一を心から愛せると言えない!家族としては大事だし愛している…でも、それはあなたが望む愛とは違う。どうか、俺の心がそれに答えを出すまで待って下さい!」
「ふぅむ…君は随分と正直な…心なんか私には見えないのだから、都合良く答えてしまえばいいものを…」
「俺は一に嘘をつきたくないんです!俺はずっと一を無視して過ごして来ました。番となってからも、Ωと家族にバラされた事を恨み、ただ憎くて嫌で嫌いで…だから、俺が一の事を本当はどう思っているのか、一は俺をどう思っていたのか、考えてきちんと自分の心に答えを見つけたいんです。俺達にはもう時間がない…だったら尚更後悔したくない。自分とそして、一の心に向き合って答えを出したいんです。」
はぁと卿がため息をついて、残りの紅茶を飲み干すと立ち上がって服をさっとはたく。
「分かった。君のその気持ちに私も応えよう。だが、私は待てても彼はその命の灯火がいつ消えてもおかしくはない状態だ。それこそ後悔せず、自分の気持ちに答えが出せるよう祈っているよ。私は何かある時までここには足を踏み入れない。沖がここを必死で探しているようだからね。しばらく私は沖を相手に追いかけっこを楽しむ事にしよう…さて、君もそれでいいね?」
卿が沢に向いて尋ねた。
コクっと頷いた沢に良しと微笑むと、卿は杖を振って出て行った。
残った部屋に流れる静かな時間。ベッドに近づこうと立ち上がった俺の膝から急に力が抜けて、再びソファに座りそうになった俺を、沢が抱き上げた。
「大丈夫だから!沢!降ろしてよ!」
ばたつかせる足を沢の手に押さえ込まれ、そのままベッド横の椅子に座らせられた。
「何も…しません。」
そう言って微笑んで一礼すると、沢も部屋を出て行った。
寝たままでいる一と二人きりの静かな部屋に流れる暖かい時間。ずっと、伸ばしさえすれば届いていたのに伸ばさなかった手。あの時、一が沖に惑わされずに俺に懺悔しなかったら、俺達は今もあの屋敷で生まれたばかりの子供達と暖かく優しい穏やかな日々を過ごしていたのだろうか?
俺がこの手を伸ばしさえしていれば…そしてあの暖かさを掴んでさえいれば…
「一…お前は何で俺だったんだ?そして俺は…本当はお前を…どう想っているんだ…ろう…なぁ…一…」
一の呼吸と俺の呼吸が重なって、二人で静かに深く落ちていく。静かにゆっくりと…落ちていく…
止まっていた空気が動き、そっと抱き上げられてソファに寝かされた俺の上に毛布が掛けられた。
「おやすみ…全…」
額に押し付けられた唇。聞こえるはずのない一の声。
「待って!行かないで!一っ!!」
呼び止める俺に、寂しそうに微笑んだ一が遠く消え去って行った。
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