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第73話
「それで…私に話とは?」
卿が俺の横を通り過ぎながら、沢に身の回りのものを預け、ソファにどかっと座る。
沢はそれらを廊下で待つ使用人に預けると、紅茶の乗ったワゴンを押して部屋に入り、扉を閉めた。
俺は座っていた椅子から立ち上がり、卿の座るソファとテーブルを挟んだ真向かいのソファにゆっくりと腰掛けると同時に、沢が静かに淹れたての紅茶の入ったカップを置いた。
湯気の立つそれを両手で持つと、温かさが掌から全身を巡り、少し肩の力がゆるんでいく。
「それで?」
卿が紅茶を一口啜り、俺に話すよう促した。
俺はごくっと唾を飲み込み、大きく息を吸って卿とその横に立つ沢をじっと見つめて口を開いた。
「番に…なります。そのベッドに寝ている一と、番にさせて下さい。」
俺の言葉に誰も動かず、時間だけが過ぎていく。
しばらくして、卿がまた一口紅茶を飲んでから俺に尋ねた。
「それは家族愛ではない…番として彼を愛すると言う気持ちからか?」
「俺は…正直、この気持ちが何なのか分かりません。でも、どんな形でも俺を守ろうとしてくれた…いや、してくれている。その気持ちに応えたいと思う。それに…約束したから…いつか俺のうなじに歯を立てて、番にって…それを叶えたい。色々とあっても俺にとって大事な人に変わりはないし、遅過ぎたと後悔したくない…こんな気持ちではダメですか?」
卿は俺の言葉を聞いてじっと考え込み、沢に視線を向けた。
「お前はどう思う?お前も全君と番になりたいんだろう?確か運命の番だとか何とか…」
沢が答えに一瞬詰まるが、すぐに頭を振って俺を見つめながら卿の質問に答えた。
「私は所詮は使用人…それに、運命のと言うのは私の勘違いだったようです。全…様の匂いはΩの中でも特別で、αなら誰でも抗う事のできないモノだとか…ですので、私は…もう…」
そう言って、沢がお茶を入れ替えて参りますと部屋を出て行った。
俺はそれを好機と、卿に向かって今度は少し早口で子供の話をした。
「ここに来てすぐにできた子供です…あなたの命令でヒートだった俺を抱いた…」
「そうか…産みたいか?」
卿の視線が腹に注がれ、俺はそれから守るように腹を両手で覆った。
「産みたい…この子が誰との子であっても構わない!俺はもう家族を失いたく…ない…です…」
最後の言葉は溢れる涙と共に卿の指で拭われた。
「あっ…」
ガタンとソファから立ち上がり、後ずさる俺にゆっくりと近付く卿。
「お前の匂いはさぞかし芳しいんだろうな…あの守銭奴の沖が、いくら金を積んでも差し出さなかったほどにはな。その香り…私も嗅いでみたいもの…なぁ、沢?」
壁際に追い詰められ、首筋近くに鼻を擦り付けられている俺を見た沢の顔色が一気に真っ赤に変わっていく。
「…なれろ!全から、離れろ!!」
今にも殴りかかりそうな沢に俺が青ざめ、声を上げた。
「沢!!沢、大丈夫だ…これは卿のほんの冗談なんだ。ね?そうですよね?」
俺の必死の言い訳に卿の顔から雄の匂いが消え去り、いつもの柔和な表情に戻ると沢の肩を叩いた。
「悪ふざけが過ぎたようだね…すまなかった、沢。」
俺もホッとして再びソファに戻ろうとしたその腕を卿が沢から見えないように掴むと囁いた。
「私は冗談は言わない主義でね…」
「え?!」
聞き返す間も無く卿は沢に帰るよと告げた。
「番になるには儀式が必要だ。ただ、歯を立てただけじゃ意味がない。さすがに私が手伝うわけにもいかないからね…沢、お前がそこの体を動かして全君を抱いてあげなさい。そして…番にしてあげるんだ。」
「…わかり…ました。」
「まぁ、全君には沖という番がいるのだから、ほんの真似事に過ぎないが…それでもそいつにとってはこの世界最後のいい思い出にはなるだろう…」
「…はい。」
そう、いくら俺が番となっても、未来は変えられない。それでも、今俺にしかできないことがある…そう自分に言い聞かせるように頷いた。
「あ、もうあの屋敷には帰らないということで、二人ともいいんだよね?」
「え?!」
突然の卿の話に、頭が真っ白になる。
「まさか、帰るつもりだったのかい?ようやく逃げられたのに。」
「でも、その最後の時間を過ごさせるだけだって沖は言って…」
怒りながら、俺の身支度をしていた沖を思い出す。
「それは君を外に出すための方便に決まっているじゃあないか!危険な橋を渡ってこうして沖の手から逃れたのに…いや、まさか帰るつもりだったとは…」
ふうと息を吐いた卿が沢に近付き何かを耳打ちした。
「分かって…います。」
沢が頷き答えると、卿はひらひらと手を振って部屋から出ようとしたが、思い出したように俺に向かって足早に向かってきた。先程のこともあり、身を固くする俺に顔を近付けた卿が囁いた。
「次は誰と番になりたいか考えておきなさい…全君の番関係はしばらく後、切れることになるだろう。その時、君が本当に番となりたい者は誰なのか、よくよく考えておくように。その候補に私を入れてくれても構わないんだよ?」
ふふっと笑う卿にどういうことですか?と聞くと、私も実験好きなんだと言って笑いながら沢の肩を叩いて今度こそ部屋を出て行った。
バタバタと使用人達が卿の出て行った後片付けする音を遮断するように沢が扉を閉めた。
「夕飯の後で、あなたを2人で抱きます…それで、いいですね?」
真っ赤になる顔を見られたくなくて背中を向けて頷く俺に、それでは支度をしてきますと言って沢は部屋から出て行った。
酸素を送る機械の音しかしない部屋で、俺は自分のうなじの傷に触れた。
「ようやく…ようやくお前との約束が果たせるよ…運命の番…俺の…」
流れる涙をそのままに、俺はじっとベッドの横でその顔を見下ろしていた。
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