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第92話
次の日、状況が動いたのは夕方になってからだった。
薬も切れてようやく身体の熱は落ち着いたものの、生理現象に我慢できずにシーツを汚し、腹も減り、喉はひっつき、それでも誰も来ない部屋で俺は扉のノブを呆然と見つめ続けていた。
どれくらいの時間が経ったのか…窓から射していた赤い光がその強さを弱め始めた頃、廊下を歩く靴音が耳に届いて来た。
「んっ!んーーーー!!んんんーーーーーっ!!!」
必死で廊下に向かって声を上げる。
それ迄にも何回か扉の前を歩く靴音が聞こえ、その度に声を出していた。しかしそれが聞こえているのか聞こえていないのか、足音は扉の前を通り過ぎるだけでノブが回ることはなかった。
今回も扉の前を通り過ぎていくのだろうと半分諦めながらも声を出していると、靴音がピタッと扉の前で止まった。
「んんんん!!!んんーーーーーー!!」
我慢できずに今までよりも必死に大きな声を出す。
カチャッとようやくノブが回り、期待に声を出すことも忘れて俺はごくっと唾を飲み込んで一の顔が見えるのを待った。
「本当に入らないので?」
「俺は嫌われているからな。特にこの顔は見たくないだろうし。なので、あとは頼んだ。あ、多分シーツが汚れていると思う。ちょっと不快だろうが…」
「大丈夫ですよ。そう言うことには慣れていますので。」
「そうだったな…じゃあ、頼む。」
かつかつと靴音が消え去っていく。それと同時に見知らぬ男が部屋に入ってきた。
「んん?!んんーーーーーー!!」
誰なのか分からず、恐怖から一に助けを求めて声を上げる。しかし男は躊躇せずに俺にスタスタと近付いて、いきなり喉をぎゅっと掴んだ。一瞬で息が詰まり声が出なくなる。
「あぁ、ようやく静かになられましたね?」
にっこりと微笑む男の目に宿る冷たい光に、身体が危険信号を出す。
こいつには逆らったらダメだ。
男は喉の手を外すことなく俺の全身をじっとりとした目で眺めるとそっと足に手を伸ばした。
瞬間、ぐいっと足首を曲げられて折れた骨が軋み痛みに絶叫するが、喉をつかまれたままの手に阻まれて声にはならなかった。
「あぁ、しっかりと折れてますね。躊躇いのない、良い折れ方です。」
俺に向かってふふっと笑うとシーッと指を唇に置いて掴んでいた手を外す。
咳き込みながらも、息を吸って酸素を身体に取り込んでいると、じっとそれを見る男と目が合った。
「大声も無駄話も質問もなし。できなければ喉を潰します。」
分かったと頷く俺によく躾けられていると言って何かの準備を進めていく。俺には全く褒め言葉ではない、むしろ人としての尊厳はないと言われているようでムっとしたが、それでもこいつから感じる狂気が俺を黙らせた。
口の拘束具が解かれ、グラスに入った水が運ばれる。
優しさのかけらもない男の手でグラスの半分は口から溢れ出ていった。
「さて、流石に何度も折られているだけあって治療の方は完璧。私の出る幕はないようですね。それでは、あなたにとってはいつも通りの日常に戻られるための支度をさせていただきます。」
カチャカチャと腕に針が刺されて、点滴と繋がれる。
あぁ、また俺はこうやって過ごすのか…
じっとポタポタと落ちる液体を見ながらため息をついた。
「あなたは理想の患者だ。いや、それだけ色々と躾けられてきたと言うべきか。お話を聞いた時にはもっと面倒臭いお仕事かと思っていましたが、これならスムーズにこなせそうだ。ふむ、機嫌がいいので少しでしたらあなたからの質問を受け付けてもよろしいですよ?」
「え?!」
急に質問と言われても…
俺の困った顔を見た男がそれならと話を続けた。
「そう、まずは私が誰だと思われていますか?」
「医者…じゃないのか?」
「正解です。それでは私の性は?」
「α…だろう?」
「いいえ、βです。」
「え?!」
「その顔!皆さんこれを言うと同じ顔をする。」
ふふふと面白そうに笑うと、俺の下半身に目をやった。
「それは…」
汚れたシーツが恥ずかしくて隠そうと身を捩るが足は全く動かせず、そのちょっとした行為で反応したツンとした匂いが鼻に届いた。
「このままでは衛生上良くないので替えましょう。あぁ、ちょっとだけ体を浮かせて下さい。上手ですよ。はい、完了。後は…あぁ、質問を受け付けると言って、私が質問していましたね…あと少しならお受けしますよ?」
「…名前は?」
「寒(かん)です。」
「何故、ここに?」
「一様に頼まれたんです。どうも、私のことがお気に召したようで…まぁ、このような状況に、私ほどの最適者はいないでしょうね。」
「どう言うこと?」
寒がそうですねと話し始めようとした時、ガチャと扉が開いて再び見知らぬ男が入って来た。
「シーツの取り替えに…寒様、またされたんですか?少しは私の仕事を取っておいてくださらないと…こちらは頂いていきます。それと、あまり長話は…」
くいっと扉に向かって顎をやる男に、分かったと頷いた寒の手で再び口に拘束具が取り付けられる。
「やはり、人は制限されている姿が一番美しい。君もそんな事よりも私を楽しませて欲しいものだが…」
男にチラッと目をやる寒に、男がゴメンですよと笑った。
「あなたは私の四肢を切断して、完全に自分だけの物としたいのでしょう?私はまだ自由に歩いて過ごしたいですからね。でも、いつかその時が来たら、あなたの言いなりになって差し上げますよ…その時には肉塊になろうと構わない。あなたが私の全てを愛してくださるのだから…でも、それまではダメです。」
ゾッとするような会話に驚き見つめている俺に向かって、寒はそっと囁いた。
「私はいつかあれを食べようと思っているんですよ…その切断した四肢を私の手で調理して…二人で食べる…なんとも素敵な話でしょ?」
ふふふと笑って俺から離れる寒の後から男が付き従っていく。その手に持ったシーツを寒の手が取り上げ、引いて来たワゴンに乗せると男の腰に手を回して2人で部屋を出て行った。
その夜はその他には誰も来ずに過ぎた。
結局一週間ほど一は全く姿も見せず、それどころか声すらも聞こえず、俺の所には寒と例の男だけが出入りしていた。
何度か質問をさせてくれた寒から、男がαの番だと聞かされた。
「α?え?でも、あなたはβなんだろ?番は成立するのか」
「私が夕の性をΩに変えたのですよ…全様もそう出来ることは知っていらっしゃるでしょう?」
ふっと一と沖のことが思い浮かぶ。
「でもそれはα同士ならって事だったんじゃ?」
訳がわからずに立て続けに質問する俺にくすくすと笑う寒と、その隣ではぁとため息をつく夕。
「結局は強い者が全てという事なんですよ。私はαと言っても一般の家から何かの間違いで生まれた最下層のα。会った時に、私よりもαらしかった寒様に完全に堕とされ、その身も心も精神も全てボロボロのゴミクズのようにされた私を番にすると宣言してうなじを噛まれた瞬間、私は自分の性を投げ出したんです。元々、α性は私には重過ぎた。それを手放し、全てから解放され、私はようやく人となれたんです。」
夕の顔がその時のことを思い出しているのか恍惚とした表情となる。
「まったく、あなたは主人に向かってなんて表情を見せるんですか?やはりまだ躾が必要なようですね…」
躾という言葉に夕の顔がまたも恍惚となる。それを見てパシンと寒の手が夕の尻を叩いた。
「あっ!」
漏れ出た甘い声。ぞくんと体が反応する。
「まったく…そんな声まで出して。これでは躾ではなく仕置きに変えなければいけませんね…」
「あ…寒様、ごめんなさい。どうか…許して下さい。」
先程とは違い青ざめた顔で寒に謝る夕に、寒は冷たく支度をしておきなさいと言って部屋から出した。
「あの…俺があんなことを聞いたから…夕をあまり叱らないであげてくれないかな?」
おずおずと話す俺に、寒はいいんですよと言ってニヤッと笑った。
「え?!」
「見えませんでしたか?下半身が反応しているのを。夕はね、そういうふうに仕置きされている時が一番好きなんですよ。まぁ、しばらくは車椅子にでも乗せてこちらに連れて来ましょう。全様の話し相手くらいにはなるでしょうから。さて、それでは…」
口に近付く拘束具から逃げるように顔を横に向ける。
「どうされたんですか?あなたらしくない。」
少しイラッとした口調に一瞬怯むが、なんとかそれを押し退けて口を開いた。
「あの…あいつは?あいつ、どうしてここに来ないのかなって…その…もう一週間以上も顔を見ていないし…その…」
「あいつ、ですか?」
「分かる…だろう?」
名前を言うことはできないもどかしさに、少しイラッとする。
「そうですね…私にとってはもう一人の主人にあたる方のことだろうというのは理解できます。ただ、主人がここに来ない理由についてはその心を想像してお話はできますが、それが主人の本心かどうかがわからない以上、そんなものを話したところであなたにはなんの意味もないでしょう?」
「だったら、元気なのか?病気とかでここに来られないってことではないのか?」
なんだと寒がにっこりと笑う。
「主人は今のところすこぶるお元気ですよ。そこに至っては私もついていますしね。」
「そうか…だったらいいんだ…俺、あいつに何かあったんじゃないかと思って心配だっただけだから。ありがとう。」
どうぞと顔をじっと動かさずにいると、寒の手が近付いて拘束具をはめた。
「さて、そろそろあなたにも主人にも変化の時が近付いているようですね。あなた方がどのような道を選ぶのか私はとても楽しみなんですよ。」
「ん?」
寒の言葉にどう言う事だと目で訴えるも寒はすでに何も話す気はないようで、俺の声も聞こえていないかのようにさっさと支度をすると部屋から出て行った。
変化の時…
静かになった部屋の中で、寒の言葉がぐるぐると頭を巡る。
俺は変化したいのか、したくないのか…
心のざわつきを落ち着かせるように、俺は静かに目を瞑った。
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