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第94話
あの日から一は本当に俺の前に姿を見せず、一部始終を見せられてしまった夕が俺を慰める日々が続いていた。
「大丈夫ですよ。いつかきっと分かってくれますって!って、本当に一様は…こんなに全様が会いたいって願われているのに!」
「いいんだ…今でも名前を呼べない俺が悪いんだ。あいつは俺が名前を呼べるまで待っていてくれているんだ。だから、悪いのは俺なんだ。いつまでもあいつへの子供じみた恨みが消えない俺が悪いんだ。」
「子供じみたって…Ωとバラされ、今までの生活を全て取り上げられ、挙句に親まで…そんなの恨んで当然ですよ!むしろ、僕だったら寝首を…」
シュッと親指で自分の首を切る真似をする夕に、いつの間にか拘束具を洗浄しに外に出ていた寒が戻って、後ろからその手を掴んだ。
「全く君という子は…これでは今夜もまた仕置きをしなければならないようだね。」
ブンと振って寒の手から自分の手を離した夕が青ざめる。
「あ…ごめんなさい…僕…つい…」
「君は主人と友達という立場ではないのですよ?全様に対して、少しくだけすぎです。君は口で言ってもなかなか理解しようとしない…だから体でわからせるしかない。分かりますよね?」
離された手を寒が再び掴み、包帯の上からぎゅっと握る。
「ぅあーーーーーっ!」
「我慢くらいしなさい。まったく、全様にそのような声まで聞かせて…これでは少しキツめ…いや、少々痛い思いをしてもらわないとダメなようですね。すぐにこちらでの事を終わらせますからここで待っていなさい。」
二人のやり取りに俺は口を挟めず黙っていると、寒は車椅子を扉近くまで動かしてからベッドに戻って来て、無言で俺の口に拘束具を近付けてきた。
だがその手が不意に止まり、俺は寒の持ったままの拘束具をじっと見つめていた。
「どうした?」
あまりにも長い事そうやってじっとしている寒に、痺れを切らした俺が尋ねた。
「いえ、少々考え事を…」
あの日からずっと聞きたいことがあったが、寒はそれを知ってか知らぬか俺にさっさと拘束具を付けると、夕の乗る車椅子を押してすぐに部屋から出て行ってしまう。それが今は拘束具も付けられずにじっと空を見つめる寒を見て、これならとその顔色を伺いながら恐る恐る口を開いた。
「あのさ、あいつの顔…」
全てを言う前に、あぁと寒がこちらを向いて再び手を動かし出しながら、何事もないように答えてくれた。
「あれは私がやったのですよ。沢さんの方は完全に一様の顔にしましたが、一様の方は糸などでそのようにお顔を作ったまで。取れば元のお顔に戻るという…まぁ、そいう事です。さて、そろそろ本当にあなた方お二人にとっての変化が起きるお時間のようですね…このままその小さな恨みにどこまでも翻弄され、ご自分の欲しいものが目の前にあるにも関わらず、あなたは手を伸ばさないままでいるのでしょうか?私には子供の駄々のようにしか見えませんがね。」
「寒様っ!そんな風に言ったら全様が…おかわいそうです。」
夕がたまらずに車椅子をこちらに向けて声を上げた。
聞くに堪えないという顔で、目には涙も浮かべている。
「んんんん。」
ありがとうと言いたいが既に拘束された口では、それもままならず。
「全様…」
それでも夕には俺の言いたいことが通じたようで、ぽろっと涙が溢れた。
「君が泣いてどうするんですか?それに、私は事実を言ったまで。拗らせた心はなかなか素直にはなれないもの。すでに気持ちは許し、その名を呼びたいのにやっぱり恨みがあるから出来ないなんて思っていらっしゃると、それこそ大事なものがその手をすり抜けてしまうかもしれない。人生とは、人の命とはそういうものです。」
寒が夕の涙を指で拭い、車椅子を押しながら話す。
寒の言葉は耳を塞いでしまいたいほどに厳しいが、本当にその通りだ。沢の時に学んだはずなのに、俺はまだ恨みがあるんだと言って一と呼べない、いや…呼ばないままでいる。
でも、本当に恨んでいるのだろうか?ただ、呼ぶタイミングを逸してしまった、その言い訳にしてはいないだろうか?
心の中でモヤモヤとした灰色の雲が湧いてくる。
そう、灰色。一のことを考える時に心を占領していたどす黒く分厚いものはいつしか消え、いつの間にかそれは薄くて灰色の、息を吹きかけたら消えてしまいそうなものへと変わっていた。
それが答えだろう?
俺の中から声が聞こえてくる。
分かってる…だけど呼べない。今更呼べないよ…
気が付くと部屋には俺一人。寒と夕は俺が気が付かないうちに部屋から出て行ったようだった。すでに窓のカーテンは引かれている。その隙間から見えるのは夜の帷。
いつかこの灰色の雲を吹き飛ばせる日が来るのだろうか?
じっと見つめる宵闇の黒の世界に戻れたなら、こんなに悩まなくてもすむのに。
黒の感情のままに一を恨み、罵倒し、排除できたならどれだけ楽だったか。
灰色に変わった雲に向かって息を吹きかけるもそれはまだ動かず、俺の心を占拠したままでいた。
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