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第95話

変わらない日常。 変化はもうすぐと言っていた寒の言葉に少しは期待もあったが、そのような変化と呼べるものは何もないままで一週間ほどが過ぎて行った。 夕はあの日に相当痛めつけられたらしく、車椅子にも乗れなくなったようで、 寒だけが俺の部屋を訪れていつも通りの仕事をこなしてさっさと出て行く。 そこに無駄は一切なく、俺もされている間はじっと動かず、しんとした部屋で聞こえるのはかちゃかちゃと器具を動かした時に出る微かな音だけ。 それもほんの数分。 寒が一礼して部屋から出て行くと、何の音もしない部屋の中でたった一人、ただ窓の外を眺めるだけの生活が続いていた。 会いたいな… 欲求も期待も願いも希望も夢も全て取り上げられたような生活に、自分の生きている意味すらわからず、いやもう自分がここに生存しているのかもあやふやな状態で、唯一浮かぶのは一。 会いたいと願い、抱かれたいと欲し、愛され愛したいと夢見て、それだけを生きる希望とし、扉が開くのを期待する。 そうやって太陽の出ている間は、窓から感じる明るさと暖かさが俺の心を救ってくれた。 それまでは窓を木戸なので締め切られた部屋にいたので昼夜が全くわからなかったが、今回は窓には厚手とレースのカーテンのみで、それも夕が来ていた頃は厚手の方を開けたり閉めたりしてくれていたが、厚手のカーテンを開けたままで夕が来られなくなってしまった今は、時間の間隔だけはレースのカーテン越しに窓から入って来る光によって分かった。 太陽が沈み、夜の帷の深い闇が部屋の全てを飲み込んでいく時間になると、恐ろしいほどの後悔とこの先の破滅的な未来が心から一の存在すら消し去って、俺を絶望のどん底へと突き落とす。そこにあるのは恐怖。何もないと言う恐怖が俺を震えさせ、涙でシーツを濡らし、我慢できない全てのものを垂れ流す時間。 もう全てを捨て去って、この命も…何もかも全て捨て去ってしまいたい。あまりの恐怖にこの繋がれた手首を断ち切って自由の窓から飛び立ってしまえればと、ある夜、一晩中力一杯拘束された手首を切断しようと試みたが、朝になって残ったのは痛みと血で赤く染まったシーツだけ。 そして寒はそれを見ても何も言わずに治療を施し、金輪際そう言うことがないようにと俺の体から力の抜ける薬を加えた点滴を付けて部屋から出て行った。 何もできない、死ぬことすらもできないままでただ生き続ける俺の身体にようやく変化が起きたのは、それから数日経った頃。 それは急に俺の身体を熱くし、我慢できない衝動に息が荒くなる。 いつも通りに部屋に入って来た寒の顔が一瞬で変わり、廊下に出て扉を閉めると靴音が足速に去って行った。 ヒートの熱と苦しさと辛さに、力の抜けたままの身体をよじろうとするがそれも叶わず、助けてくれと声を出したくても、拘束された口から出るのは微かな音。 「ぅっ…ぅぅ…ぅぅぅぅ…」 「辛そうだね。」 気が付くといつの間にかベッドの横に卿の姿があった。 「本当はねこの部屋に来る気はなかったんだ…でも、好奇心ってやつがどうにも私は強くてね…しかしこれは思った以上の…なるほど。これは沖も手放せなかったわけだ。ふむ、しかしマズイな… だがこれも運命というものなんだろう。全君、君を私の番にする。君から香ってくるαを魅了する芳しい香りに私の身体中が君を欲して我慢が出来ないようだ。Ωはαの庇護の下でしか生きられない。ならば私が君の番として君をこの世界に留まらせよう…こんな悲しい事をさせはしないよ…私ならね。」 そう言って包帯の巻かれている手首の拘束を外すと、唇を当てた。 「さぁ、こちらも外そう。君の可愛い声を聞きたいからね。」 卿の手が俺についている拘束具を丁寧に外していく。 「や…何で…?」 嫌がりたくても身体に力は入らず、卿の手が素肌に触れるだけで感じて反応していく自分の体が厭わしい。 「ふふ…ついに沖がΩになったんだよ。あの男、なかなかに強情で手こずったようだが…先日ようやく連絡が来てね。寒にそのことを伝えようと来てみたら、あいつ血相を変えて私にすぐお帰り下さいと…それですぐに理解できた。君が今ヒート中なんだとね。」 「沖が…Ω…」 「あぁ、一君がやられた事を沖にもしてみたんだよ。一君が初めに死にそうにされた男に頼んで。あれは色々と凶暴でね。そこにいたのが寒だ。あの家には数人の医者が常駐しているんだが、その中の一人だったんだよ、寒は。あの時に一君が寒に世話になったようでね…それで彼が欲しいと。まぁ、相手は沖を気に入ったようだったし、二つ返事だったよ。」 にこっと笑った卿の顔が、一瞬で雄のそれに変わる。 「さぁ、そろそろ限界だ。どうせ君は一君を番として愛せはしないんだろう?その心に残る恨みによって…だったら私のものになりなさい。私なら君を悲しませず、愛し幸福な毎日を与えてあげるよ。」 「でも…あなたには既に…」 俺の脳裏にあの刑事の姿が浮かぶ。 「あぁ、それなら心配はいらないよ。私には2人のΩを十分に幸せにできる富も名誉もある。そして愛も…だから君は何の心配もなく私に愛され番になればいいんだよ…そう、一君のことなんか私の愛で忘れさせてあげよう…さあ、私と番の儀式を始めよう…いいね?」 見つめられた瞳から逃げられず、俺はただ卿の顔を見つめ続けていた。

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