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第96話
俺が何も言えずにいるのを肯定の意と判断した卿の顔が近付いてくる。
逃げたくても体は薬で動かず、助けを求めたくても声が緊張と恐怖でうまく出せない。
卿の暖かい手が俺の頬を撫でて耳をくすぐる。
「んっ!」
思いがけなく優しい触れ方に身体が反応して声がもれた。
「私を見なさい。そう、いい子だ…」
言われて、顔を向けると目の前に卿の顔があり、その瞳に俺が映る。少しずつ俺の顔が近付いて来るが、俺はどうしたらいいのかわからず動けずにいた。しかし、卿の瞳の中の俺のうなじに残る歯形が見えた瞬間、俺は勢いよく顔を背けた。
「どうしたんだ?」
卿の手が俺の顔を元に戻させようとするが、俺はそれを嫌がり横を向いたままで卿に尋ねた。
「俺が、番を解除されているということは…」
俺の言葉に卿の手も止まり、少し困ったなというような顔をして俺に答えた。
「そうだ。一君も番を解除されている。」
「だったら、あいつがαに戻っている可能性が…って、やだ!!やめて下さい!!」
俺の言葉を最後まで聞かずに、卿の手が俺の体をなぞりまさぐる。
「それで、一君がαに戻ったとして君の心は何か変わるのか?彼がαになったところで、君に彼と番となる気がないのであれば、今更αになった彼に会う必要なんてないだろう?」
ぐっと声が詰まる。確かに、一が番を解除されαに戻っていたとしても、俺に番となる気持ちがなければそれはどうでもいい事だ。
どうでもいい事だけど…
「彼が君ではない誰かを番にしようとも、それも君には関係のない事。君は私の下で番となり愛されるのだからね。」
「え?!」
一が俺以外の奴と番に?
え?!
そんなの…
頭の中で顔の見えない奴と語らい愛し合う一の姿が浮かぶ。
ゾッとするような嫌悪感に身体が震えた。
「嫌…だ。そんなの…嫌だ!!」
「嫌だと言っても、君は彼を番としては愛せないのだろう?だったら、他の者と番となるしか…」
「それでも嫌です!!俺は…そんなの見たくない!!」
卿の体を力を振り絞ってどかすとそのままベッドから下りてふらふらしながら扉に向かう。
鍵のかかったノブを回して、力の入らない拳でドアを叩く。
「っすけて!助けて!!嫌だ!!俺は、俺は…嫌です!来ないで!!来ないで下さい!ヤダ!俺に触るな!!助けてよ!!助けてーーーー!」
声を限りに叫ぶも、それは分厚い扉に阻まれて廊下に届いているのかどうかもわからない。
どんどんと扉を叩いて叫び続ける俺の肩を卿の手に掴まれて、ビクッと身体が跳ねる。
「いい加減にしなさい。君はΩだ。Ωはαに庇護されなければ生きていけないってことくらい分かるだろう?君だって彼と番になれないのであれば、他の誰かとなるしかない。そうしなければ君は生きてはいけないんだ。 それとも、沖があの家でしていたことを自分でして生きていくのか?」
ぞくっと背筋に冷たいものが走る。
俺がこの身体を売る…?
「俺は…俺にはあいつがいる。あいつが俺を助けてくれる…だから…」
卿はそう言う俺の手をぐっと掴むと、軽々とその腕に抱き上げてベッドへと歩き出した。
「彼に番ができれば、君はこの部屋で一人きりだ。彼らの幸せな声を聞きながら、一人で涙を流し続ける気か?それより、私の家で私に愛され、なんの不自由もなく暮らす方が君の為でも、そして一君のためでもあるんじゃないのか?」
とすっと身体がベッドに静かに下ろされる。
「何で…あいつの、ため?」
卿の言葉に自分の置かれている状況も忘れて尋ねていた。
「君がいれば、彼はいつまでたっても番を作れないだろう?君が私と番になり私の家で暮らせば、彼だってもう自由だ。君と言う足枷もなく、好きなΩを見つけて番となれるじゃないか?」
「でも!でも、あいつは俺としか番にならないって…」
「だが、君を裏切り、沖と番となったじゃないか?一君のように若く健康な男であれば、その性欲に逆らうことはできないよ。特にヒート中のΩと出会えば、彼だってその匂いに抗うことは到底無理というもの…さて、話はもういいだろう?そろそろ私も限界だ。紳士としての理性を保っていられる内に君の返事が聞きたい。私と番になってくれるね?」
卿の手が俺の胸に置かれ、ぐっと力がこもる。
「くぅっ!」
苦しさに頭が下がった。
「そうか!番になってくれるか!嬉しいよ…全。」
「え?そんな事…俺…」
「頷いただろう?」
卿の目がにやりと笑い、それを見て俺はハッと気がついた。
さっきの苦しみで頭を下げたのを頷いたと言っているのか!?
「あれは、苦しくて…頷いたわけじゃな…いっ!」
再び手が胸を押す。
そうしながら卿は俺に囁いた。
「Ωに拒否権はないんだよ。」
「あ…そんな…やだ!嫌だ!俺は…俺は…あんたとなんか番にはならない!俺が番になるのは…なりたいのは…一だけだ!!」
言葉に出して言った途端に涙が込み上げてきてあふれ出し、ずっと言えずに我慢し続けていた名前を呼び続けていた。
「一…一ぃ…いちぃ…いちーーーーー!」
「君がようやく自分の気持ちに気がついたところで、私の気持ちは変わらないよ。ヒートとなればΩにとっては番のαだけが唯一の存在だ。だったら、君を一生ヒートのままにしておけばいい。そう、一の存在なんて君の心から消し去ってあげるよ…君をこんなに苦しめる彼のことなんかさっさと忘れて仕舞えばいいんだ…大丈夫だ全。私が愛してあげる。君の身体も心もその全てを私が…」
自分がヒートになった時の事を思い出す。番をどれだけ憎んでようと恨んでようと、ヒートの時には番のことだけを愛し、その他のαに対しては恐怖しか感じない。
もし卿の言うようにされてしまったら、俺はもう一生、一を愛していたことも番となりたかったことも忘れ去ってしまう。
そんなの嫌だ!ようやく、一の名前を呼べたんだ!俺は心から一と番いになりたいと…いや、ならせて欲しいと思っている。
ほんの少し残っていた恨みや憎しみが一への愛で覆われていくのを感じていた。
これも俺の一への感情だ。これも含めて俺は一を愛しているんだ。
だから…
「Ωに拒否権がないなら俺は、ここで死を選ぶ。一以外の誰かと番になるくらいなら俺は今ここで舌を噛み切って…何を?やめっ!んっ!んんん!んーーーーー!!」
卿が先ほど外した口の拘束具を再び俺の口にはめると、嫌がる俺の手も拘束具に取り付けてその手首にキスをした。
「困った子だ。いいかい?私はこんな事をしたくはないんだが、君があまりにも分からないから私がこんな事をしなくてはいけなくなってしまったじゃないか…。さっきも言っただろう?αである私が番になれと言ったんだ。Ωである君がそれを拒否なんて、ましてや死を選択するなんて出来るわけがないだろう?自分の立場というものを、もう少し理解しないといけないな。」
卿の目が冷たく俺を見下ろす。そして、その手がうなじに触れて顔が近付いてくる。
歯が当たり、皮膚に圧がかかる。
俺はされるがまま、涙を流し続けていた。拘束された身では何も言えず、抵抗も出来ない。自由になる足も痛みに力が入らず、動かしてもそれはシーツにほんの少しシワを作る程度。
「さぁ、私のものになるんだ…!」
「んーーーーーーーーっ!」
卿の歯にぐっと力が入る。俺は一の名を心の中で叫びながらぎゅっと目を瞑った。
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